2:学童集団疎開実施の背景
A:ハンブルグの教訓
第 2 次大戦中、ドイツ最大の貿易港で人口 80 万の工業都市 ハンブルグは、昭和 18 年 ( 1943 年 ) 7 月 24 日から 8 月 2 日までの 9 日間に連合軍による延べ 2,290 機の無差別爆撃を受けて、港湾施設、工業施設は 100 パーセント、住宅地域は 70 パーセント が破壊されて10 万人 が死傷し、港や工業都市の機能が失われました。 攻撃の目標が敵の施設だけでなく、民間の住宅建物や子供女性などの 敵の住民 を対象とするものに変わりました。つまり 住民に対する無差別攻撃 の始まりです。 著書 「 アメリカの日本空襲に モラルはあったか? 」 ( シェイファー ) によれば、 ヨーロッパで第 2 次大戦が始まった時には、米大統領 ルーズベルトは非戦闘員に対する爆撃という非人道的蛮行を控えるように、メッセージを出した。 しかしその後米国は 「 発表もされず記録もされない政策転換 」 により、敵の戦争勢力を支えるものは、何でも破壊するという方針に変わっていった。ちなみに日本に対する 原爆攻撃も当然のことながら、同じ理由から実施 されましたが、これに対する反核主義者の感想をぜひ聞きたいものです。 スペイン生まれの画家 ピカソが描いた有名な作品 ( 大壁画 ) に ゲルニカ があります。 ゲルニカとは スペイン北部 バスク地方にある小さな町の名前ですが、スペイン内乱の際に ナチス ・ ドイツが昭和 12 年 ( 1937 年 ) に この町を無差別爆撃した結果、 1,654 人の死者と約 3,000 人の負傷者 が出ました。非軍事目標、非戦闘員に対する爆撃が道徳的に 許されないことだとして、米国や欧州などでドイツを非難する世論が一斉に巻起こり上がりました。 しかし後述の東京大空襲については、 ゲルニカの 50 倍以上もの死傷者 が出たにもかかわらず、米国では道徳的な非難は起こりませんでした。被害者が ヨーロッパの白人ではなく、当時 人間以下とみなされて来た有色人種だったからです 。 米国における有色人種に対する差別、蔑視の実態を知りたい人は、 ここをクリック 。
B:東京大空襲、3 月 10 日日本においても昭和 20 年 ( 1945 年 ) 3 月 9 日の夜中 ( 正確には 10 日午前零時 8 分 ) から 10 日の未明にかけて、 38 個を 1 束にした焼夷弾の束、24 個を積んだB−29 の、 334 機 からなる大編隊が東京の台東区、墨田区、江東区、などの住民に対して大規模な焼夷弾攻撃を行い、その結果下町一帯が火の海となり、住民達は逃げ場を失いました。低高度で侵入し 3時間にわたり波状攻撃を行いましたが、焼夷弾を投下した爆撃機の パイロットは、先行機の攻撃により広範囲に発生した大火災による上昇気流と煙によって、飛行機の操縦に危険を感じるほどであったと報告しています。 被災者の話によれば、広範囲な家屋の炎上による熱があまりにも高温なため、場所によっては運河の水が熱湯となり、人や建物が自然発火したほどでした。 その空襲は一晩で 83,793 人の焼死者 と 40,918 名の負傷者の、合計 124,711 名の人的被害 をもたらし、焼け跡から遺体を収容するのに 25 日もかかりました。 さらに 26 万 8 千戸 の家屋が焼失し、罹災者 100 万 8 千名 の被害が出ましたが、これに対して米軍の損害は 14 機を失い、42 機が被弾しただけでした。 米軍の資料によれば、投下した焼夷弾の束は12,202束で、その重量は 1,665トン でした。 これが世にいう東京大空襲の大惨事でしたが、非戦闘員に対する大量、無差別攻撃による住民の被害は、広島への原爆投下に匹敵するものでした。
C:ニューヨーク、タイムズ社説 ( 同年 3 月 12 日付 )( 3 月 10 日の空襲後の ) 偵察機による写真によれば、B−29 から投下された焼夷弾の炎は東京の 15 平方 マイル ( 23 平方 キロ)を焼き尽くした。日本は機能できないほどの打撃を受けたのは疑いない。
D : 朝日新聞 の翌日の記事ウソを並べたてた大本営発表を掲載したあと軍官民は不敵な敵の盲爆に一体となって対処し、わが本土決戦への戦力の蓄積は、かかる敵の空襲によって阻止せられるものでなく、かえって敵のこの暴挙に対し、減敵の戦意はいよいよ激しく爆煙のうちから盛り上がるであろう。と戦意の高揚に滑稽なほど協力しておきながらその反面、敵の空襲を盲爆と報道しただけで、これ程の大被害を受けた事実については国民に知らせませんでした。 戦時中は軍部に、戦後は占領軍に、報道規制が無くなった後は ソ連 ( 当時 ) や左翼主義者に迎合し 、次は 地上の楽園 と北朝鮮を褒め称えた反面、今では考えられないことに、 当時の韓国を独裁、人権弾圧国家と誹謗中傷に励みました 。 中国のことを 「 犯罪が無く、蝿が 一匹もいない 」と宣伝し、日本の マスコミのうち 朝日新聞だけが北京駐在を許されて、毛沢東による権力奪回闘争の結果 1,000 万人以上 が殺害された文化大革命を、 礼賛する報道 をおこないました。 その後は反韓国の態度をなぜか変更し、将軍様に忠誠を誓う在日の忠実な代弁者の役割を果たしましたが、 これが時代の流れを読んで権力に迎合し、風見鶏の如く巧みに態度を変え、節操を欠く朝日新聞のたどった 恥知らずな戦後の軌跡 でした。 正義と文明の正体に戻るには、ここをクリック。
E:4 月 13 日の空襲東京大空襲のおよそ 1 ヶ月後の 4 月 13 日の夜にも大規模な空襲があり、豊島、淀橋、小石川、四谷、麹町、赤坂、渋谷、牛込、荒川、滝野川などの山手地区が火災に遭い、 私の家も焼失 しました。
大本営発表 ( 昭和 20 年 4 月 14 日 16 時 )
しかしこの数字はまったくのデタラメで、戦後明らかにされた米軍の資料によれば当夜の B-29 の損失 7 機、機体に損傷を受け帰途硫黄島に不時着したもの 18 機でした。戦争中日本空襲に出撃した B−29 は延べ 3 万 3 千機でしたが、戦闘で失ったの 450 機で、損失率 ( 墜落 )は僅か 1.4 パーセント でした。 非戦闘員である一般市民を殺戮の対象とすることに関して、米軍内部にも異議を唱える者もいました。 それは当時対日作戦を指揮した マッカーサー司令部で彼の軍事秘書官を勤め、心理戦の責任者を兼務し、その後占領軍の 一員として日本に駐留した ボナー、フェラーズ准将でした。 彼は昭和 20 年 ( 1945 年 ) 6 月中旬に出された秘密覚え書きの中で、米軍の日本に対する空襲を、
史上最も冷酷、野蛮な非戦闘員殺戮の 一つであると率直に述べていました。 ところが終戦の年 ( 昭和 20 年 ) の 10 月に日本を訪れた米国戦略爆撃調査団は、その報告書の中で 「 戦略的に言えば、 労働力を含む全住民は、重要な軍事的目標である 」と記しています。 米国は日本兵が行った銃剣や銃弾による敵国住民の殺害に対しては、戦争犯罪として被告を軍事法廷で厳しく裁き死刑に処しておきながら、その一方で爆弾、焼夷弾、原爆を使用して何十万人もの日本の住民を炎や熱線で無差別に焼き殺し、爆殺した行為は、人的軍事目標に対する攻撃であり、戦争犯罪 米国の恥知らずな定義に従えば、 銃器による住民殺害 だけが戦争犯罪であり、 航空機の攻撃による住民殺害 は、たとえ残虐な方法による無差別大量殺人であっても、 戦争犯罪ではない ことになります。
E : 正義とは敗戦後に 正義と人道の名 に於いて裁くと称した東京裁判では中立国の代表は参加させず、米国は勿論のこと、連合国の犯した数多くの日本人に対する残虐行為は決して裁かれませんでした。ここを読めば 東京裁判の本質 が、勝者の敗者に対する復讐であることが分かります。 今もなお東京裁判の正当性を主張する人や、裁判の正義、公平性を信じる人は、この非戦闘員大量殺害の矛盾をどのように考え、空襲による非業の死を遂げた 60 万人もの犠牲者に対して、同胞としてどのように哀悼するのでしょうか?。
東京裁判は、裁く者自身の手も、 日本人犠牲者の血 で汚 ( ケガ )れていたのです。
F:東京都の人口疎開計画当時の戦況から、やがて日本本土にも米軍機の空襲が必至と予想されたため、ハンブルグの被害を教訓として大都市人口を地方へ分散させる 分散疎開 ( 人口疎開 ) の方針 が政府により打ち出されました。 それにより東京都では戦争遂行の為の業務や産業に不要の人員を地方に移転させることになり、昭和 18 年 12 月に 都市疎開実施要項 を定めて都民や建物を地方に分散させる計画を立てました。特に老人、幼児、学童の地方への縁故疎開を奨励するものでしたが、その当時 70 万人 いた東京都区部の学童のうち翌 19 年 ( 1944 年 ) 4 月までに縁故を頼り地方に疎開した者は、僅か 1 割強の 7 万 5 千人 にすぎませんでした。 そのため東京都では翌 5 月になって学童疎開促進のため、地方にある都立の養護施設、中学校などの夏季施設を利用して 1 千人 の学童の集団疎開を実施し、更に昭和 19 年 7 月には 学童疎開、 実施要領 を定めて学校単位での疎開を促す計画を軌道に乗せました。 その後昭和 19 年 6 月 16 日に北九州地方が中国の成都から飛来した B−29 長距離爆撃機の空襲を受けると、空襲に対する危機感が次第に高まり学童集団疎開の希望者が 26 万人 にも及びました。これは東京都の当初の計画人数を大きく上回ったため、集団疎開先を追加することになり、富山県が追加指定されました。 注 : )26 万人の希望者のうち実際に学童集団疎開をした人数は 22 万 3 千人で、縁故疎開、残留疎開に変更した者もかなりいました。
G : 疎開と空襲による都市人口の変化
大阪についても同様に昭和 15 年から昭和 20 年にかけて 199 万人の人口減少 を示していますが、これらは主に本土空襲による地方への人口の疎開によるものでした。 日本の敗色が濃厚となった昭和 19 年 ( 1944 年 ) 1 月 8 日に、これまであった防空法に替わる新防空法が公布されました。 それによって防空総本部 ( 内務省に設置 ) が指定した人口密度の高い大都市、工業都市の住民に対して不要の人口を地方に分散、疎開させ、また 「 防空あき地 」 を設けるための、家屋の取り壊し、撤去の命令が可能となりました。すなわち「 人口疎開の実施 」です。建物密集地や幹線道路周辺の「 建物疎開 」も実施されました。 昭和 19 年 ( 1944 年 )1 月 26 日には渋谷駅前の密集家屋が除去され、蒲田区 ( 現大田区 ) 蒲田では 50〜70 メートル 幅の、上野や浅草などでは100 メートル 幅の防火空き地帯が作られました。
当初は以下の 13 の大都市、工業都市が指定されましたが、翌年には京都、呉市などの 4 都市が更に加えられました。
( 詳細については末尾の関連資料を参照して下さい。) それにより全国 13 の 人口疎開対象地域 に住む国民学校 ( 小学校のこと )の 3 年生 から 6 年生 までの児童のうち、 地方に親戚、縁故の無い児童 は、親元を離れて学校ごとに、あるいは学年ごとに集団で地方の旅館、寺院に疎開してそこで生活することになりました。 注)その当時の 6 年生とは昭和 7 年の遅生まれ及び 8 年の早生まれの者で、一番小さい 3 年生は昭和 10 年の遅生まれ及び 11 年の早生まれの児童でした。
A :東京都の場合昭和 19 年 ( 1944 年 )8 月 4 日に群馬県妙義町へ集団疎開をした 172 名の第 1 陣から、同年 9 月 11 日に群馬県草津町に疎開をした 300 名の最終組まで、都内からは合計 22 万 3 千名 の児童が学童集団疎開をしました。( 東京都調査 )なお別の資料として 「 学童疎開の研究 」( 近代文芸社 )によれば、昭和 19 年 9 月の文部省調査資料として、東京から学童集団疎開をした人数について合計 23 万 4 千 805 名 、疎開先と人数については下表の数字があることを付記します。 私達が集団疎開をした長野県は海岸から遠く離れていてしかも軍需工場が少なく、したがって空襲や艦砲射撃からは比較的安全と思われていました。しかも東京からは距離的にも遠くないので、私達を含めて最も多くの児童が集団疎開をしました。
折角疎開したものの昭和 20 年には戦況がさらに悪化したため、米軍機による空襲が激しくなった地域と、海岸地帯に米軍が上陸する可能性が生じた静岡、千葉、茨城などに疎開した児童は、岩手、秋田、富山、青森方面に再度疎開することになりました。
B : 全国では
でした。縁故疎開の分を併せると疎開した児童の数は 百万人 にのぼりました。なお集団疎開中に現地で地震、火事、病気、事故などで命を失った児童は、全国で 150 人以上 と記録されています。 学童疎開の種類については ここ にあります。この頁に戻るには該当ページ下部の「元へ戻る」ボタンではなく、ブラウザの「戻る」をクリックして下さい。
C:国の予算措置学童集団疎開の目的としては次代の国民としての学童を守り、足手まといの子供を疎開させて大人が国土防衛と生産に十分働くためのものであり、予期せらるる空襲への防御態勢を完成するために、さらなる皇国を継ぐ若木の生命をいささかなりとも傷付け失うことなきを願う、国家の大愛のしるしとして実施する。とされました。これは単なる教育行政ではなく国家的大事業であったため、その費用の 70 パーセント 以上は国や都道府県が負担し、児童の保護者が負担するのは後述のように 月額 10 円 だけでした。 従って昭和 19 年度の文部省関係の追加予算 1 億 1 千 4 百万円の実に 89 パーセント である、1 億 124 万円が学童集団疎開のために支出されました。昭和 20 年度 ( 1945 年 )も文部省本予算・追加予算 6 億 3 千 8 百万円の 22 パーセント 、1 億 4 千 88 万 6 千円が学童集団疎開の補助金として予算に計上されました。( 昭和財政史第 3 巻 ) 被害のデータは、帝都防空本部資料、警視庁発表、東京都援護課、都政紀要のものなど、必ずしも一致するものではありません。しかしおよそ
死者 11 万 5 千人以上、負傷者 15 万人以上、家屋の被害 85 万戸、罹災者 310 万人、空襲回数 120 回以上、延べ 1 万機による攻撃によって都内市街地面積の半分以上が消滅するという被害を記録しています。
その中には昭和 20 年 3 月初めに当時の中学校、女学校 ( 義務教育終了後の上級学校 ) を受験するため、及び母校での卒業式に出席するため、学童集団疎開先から半年ぶりに集団で東京に帰った台東区、墨田区、江東区などの国民学校 ( 小学校 )6 年生達がいました。
彼等/彼女たちは両親の元に帰ったのも束の間、不運にも数日後の東京大空襲 ( 3 月 10 日未明 ) に遭遇し、数千人の焼死者、負傷者を出しました。
疎開地に残っていた学校関係者は、 まるで児童達を、死ぬために東京に帰したようなものだと嘆き悲しみました。
もし学童集団疎開が実施されなかったとしたならば、より多くの児童が空襲による死傷者の仲間入りをしたことは疑う余地がありません。
私が空襲の被害にも遭わずに生き残り、平成 14 年に数え年の古希、 70才 を迎えることができたのは、 58 年前 ( 昭和 19 年、1944 年 ) に学童集団疎開を計画し、実施してくれた人達のお陰であると深く感謝しています。
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