レーゼンデートル04
 






 それからは、本当にあっと言う間だった。




 何年もの間求めてやまなかった存在は恐ろしい勢いで惹かれあい、こんなにも欲していたのだとお互いに驚くほどで、そして急速に馴染んでいった。それは空気だとか水だとか、生命を維持するために必要なものと違わない重要さで位置して、今まで触れずに生きてこれたのが不思議なくらいだった。
 だけど、傍から見たら多分蜜月と呼ぶような状態でいながら、この関係をどう呼べばいいのか、キリトは解りかねていた。
 抱き合って、いつも一緒にいて。だけど単純に“恋人”とは呼べなかった。性別がどうのという問題とはまた違った違和感を感じて、だけど敢えてそれに触れないように、会話も思考も閉ざしていた。
 ……否、それの正体に気付いては、いた。認めたくなかっただけなのだ。
 目の前に突き付けられるまでは。






「何か、最近よくお兄と潤くん一緒にいるね」
「は?」
 唐突に言われた言葉に、口をついたのは間抜けな声だった。言ったコ−タ本人は、無邪気に笑って差し入れのお菓子を食べている。
「そうか?別に前と変わらないぞ」
「うん、それはそうなんだけど…お兄ちゃん、前から潤くんといること多かったけどさ」
 人生で一番長く付き合って来たのは当然コータだが、バンド云々での付き合いは潤が最も古くて深い。昔から、一緒にいて一番安心できるのは潤だったし、自然と傍にいた。昔から。
 だけど、とコータは続ける。
「何かそれとは違うような感じって言うか……ほら、ちょっと前まで、お兄ちゃんピリピリしてたじゃん」
 コータの言っている時期は解る。潤も自分も飽和状態だった、あのギリギリの時期だろう。
「そん時あんまりお兄と潤くん一緒にいることがなくって、何となくさ、それも違和感があって」
「違和感?」
「うん。その時に、お兄ちゃんの隣に潤くんがいるのが当り前なのかなって思ったんだよね」
 キリトは呆気に取られてコータを見た。我が弟ながら、なんて大胆なことを言うんだろう。
 潤との関係は表面上は何も変わらず、公言できるものでもなかったから誰も知らないはずだ。それでも、この天然でいっぱいいっぱいな弟にもそう思われているのか。
「潤くんがいたら、お兄ももうちょっとピリピリしてなかったと思うし」
 更に続けるコータに、どう答えていいものか悩む。
 他意がないぶん困る。コータは純粋にそう思っているのだ。潤はキリトにとって、一番安心出来る信頼する親友だ、と。それは間違いではないのだけれど。
「最近は何かよく一緒のとこ見るし、お兄も穏やかだし」
「何だ、人を大魔人みたいに」
「似たようなもんだよー、機嫌悪い時は。だからさ、潤くんがいてくれて良かったなって」
「何だそれは」
「お兄、潤くんがいたら安心するみたいだから」
「……」
 にこにこと放たれた言葉は、胸に見えない風穴を開けた。いきなり冷水をかけられた気分、とはこのことだろう。
 当の本人はキリトの思惑にまったく気付かず、更にとどめの言葉を紡いだ。
「お兄ちゃんと潤くんは、一緒にいないと駄目なんだよ、きっと」
 一瞬、多分本当に目の前が真っ白になった。






 そのまま潤の部屋に戻ったキリトは、出迎えた潤を床に押し倒して強引に抱いた。驚いて抗議の声をあげた潤の意志など無視した。無視というより、聞こえなかった。途中、どうしたの、と問いかけられたような気もするし、苦痛を訴えられた気もするが、ほとんど耳に入らなかった。頭の中に貼り付いていたのは弟の言葉で、それによって気付かされた事実だった。
 潤くんがいたら安心するんでしょ?
 そうではないのだ。安心するのではない。潤がいないと、不安なのだ。不安で不安で、何もできないくらいなのだ。
 それに気付いて、不安にかられて、ただひたすらに潤を抱いた。だけどそれが何に対する不安なのかも―――――潤がいなくなることに対するものか、潤がいないと駄目になっている自分に対するものか、それとももっと大きな何かに対するものかも、もう解っていなかった。
 始めは戸惑って抵抗をしていた潤も、諦めたのか何かを悟ったのか、おとなしく従った。いつもと違う執拗さと乱暴さに悲鳴をあげながらも、ただキリトを受け入れて。
「潤」
 苦し気に、愛おしそうに名前を呼ばれて、潤は苦痛に堅く閉じていた眼をあけた。覗き込んでいる彼は何だか泣きそうな眼をしていて、自然に手が伸びた。その頬を包み込むと、彼は安堵のような表情を浮かべて肩に顔を埋める。
「潤」
 何故こんな苦し気に呼ぶのか解らなかったけれど、答えるように潤はキリトを抱き締めた。痛みを与えられてるのは自分なのに、じゅん、と繰り返しながら荒々しく自分を揺さぶる彼が、どうしようもなく痛々しかった。
 やがて朦朧とした意識の中で抱き締められた彼の腕も、震えていた。
「…どう、したの」
 散々抱いて、乱れた息も収まって―――――それでも抱き締めたまま離れようとしないキリトに、戸惑いながら潤が問う。
「…ごめんな。無理させた」
「そんなことは、いいから…キリト…」
 あなたが苦しいと、俺も苦しいよ。
 抱き返した背中に掌を這わせる。そしてただ名前を繰り返し呼んだ。
 その包み込むような潤の優しさに甘えて、溺れそうになりながら、やっと言えたのは泣き言に近い言葉だった。
「…ここにいろよ」
「キリト?」
「隣に、いて」
「……どうして、そんなこと言うの」
「潤」
「どうして」
 解んないよ、と呟いて、潤が抱き締める腕に力を込めた。その瞬間、キリトは自分の狡さを自覚する。
 潤がどう答えるか、解っていたのだ。解って、言わせて、それによってますます潤を捕えるために。
「どうしてそんなこと言うの。俺が、どこかに行けると思うの?」
「…潤」
 狡くて弱い自分を、君はちゃんと解っているんだろうけど―――キリトはほとんど恍惚として、眼を閉じて潤の言葉を待つ。


「ここ以外、もうどこにも行けない」


 待ちわびた言葉を。













きっと僕らは最初からあるはずのないドアから入ってしまった迷子で、そのことにも永遠に気付かずにいるのだろう。迷ったことを知らない子供の無邪気さで、僕らはただ日溜まりに溺れ続ける。ドアを叩く音にも呼び声にも気付かず、たとえ外の世界が滅びてしまっても、何も知らずに君と漂うだろう。僕らは決して離れない。僕らは決して外を見ない。共にいることだけが存在理由な僕らは、生温い澱みにいつまでも漂って、だけど怯えながらひたすらに待ち焦がれる。




君が、僕が、いつかすべてを忘れる、その時を。










 その手を繋いだら、墜ちていくしかないと。沈んでいくだけだということは、知っていた。解り切っていたのにそれでも伸ばした手は、やはり全てを知りながら差し出された、もう一方の手首を掴んで沈みはじめた。はじめから解っていた、何も見えない未来。
 いくつもの夜を重ねて、抱き合って、そして相変わらず当たり前のように隣にいて。
 二人ならばどうなろうと平気だとか、お互いさえいればいいとか、そんな風に思ったことはない。そんな単純で綺麗で子供じみたことを言えるほど、二人とも未熟でも純粋でもない。
 


 自分たちは、ただ、沈むしかなかったのだ。
 


 真直ぐに向き合う覚悟もなく、離れる覚悟もなかった二人は、ただ戸惑いながら手を繋ぐしかなかったから。そして今キリトは潤を抱き、潤はキリトに抱かれている。その度に、確かに悲鳴を聞きながら。
 異変を気にしていたアイジは、それ以来何も言わない。タケオは時々穏やかな視線を自分たちに注いで、キリトが気付くとただ黙って微笑む。何だか以前より一層潤になつくようになったコータは、キリトが来るとどこか嬉しそうに潤の隣を空け、やっぱり何も言わない。
 外側にコーティングされた蜜の味に惑わされるように、誰も、何も、気付かないまま。ただ穏やかに時は過ぎて。
 

「キリト」

 潤に呼ばれるたびキリトの胸は高鳴り、同時に言い様のない疼きも感じる。
「ごめん、遅くなって。撮影、押して……っ、て、ちょっと」
 地下駐車場に現れた潤を、階段を降り切らないうちに引き寄せ、抱き締めた。急な行動に振り落とされた潤の鞄が、バサバサと音をたてる。
「キリト、ちょっとこんなとこで」
 いつ人が来るか解らないような場所での行為に、驚きもがく身体をきつく抱き締める。一瞬潤は息を止め、ゆっくり力を抜きながら長く吐き出した。潤はいつも、柔らかく笑って。
「……早く帰ろう」
 そして待っていた言葉をキリトにくれるのだ。
 潤を抱きながらキリトは思う。
 あんなに渇望した潤の笑顔は、取り戻せたのだろうか。隣で笑っている潤のその笑顔が、何年も前から知っているものと同じかどうかも、もう解らない。―――――ただそれは甘く甘く心地良く、すべてを連れ去っていく。
 幾度となく思い出すのはいつかの詩だった。“懐かしい大きな海のような”、と何度も反芻しながら、だけどキリトには解らない。求めたものは、手にしたものは愛なのかどうか解らない。それを解ろうとすることも、そう思うことも止めてしまった。
 そして、それは潤も同じで。
 ただ隣にいること。それだけの関係は、それ以上何も生み出さず。仕事をし、笑い、怒り、食事をし、眠るその隣にいるだけで、呆れるほど、変化のない日常。――――――だけど知ってる。それはもうお互い無しでは存続し得ない。
 足掻いて、苦しんで、やっとの思いで辿り着いたのは、限りなく幸せで息苦しくて穏やかな、閉塞した場所だった。だけど、だからどうなのか――――善悪とか幸せとか不幸せとか、もう、そんな判断ができることではないのだ。
 竜太朗に借りた本は、返せないままキリトの机の隅に置かれている。それを見るたび、書かれている詩を思い出すたび、彼の言葉が蘇る。そうしてそのたびにまた、返せなくなっていく。


 キリトは思い描く。舵も持たず、羅針盤も持たず、何も見えない海を漂う自分たちを。
 潤を抱きながら、溺れながら。






 ――――――その船は、港へ辿り着けるだろうか。



end 2002.04.29
→いいわけ。