レーゼンデートル03
 






 ここまで来たんだから部屋上がれよ、というキリトに、潤は素直に頷いた。無言のまま歩くキリトの後ろを、やはり無言のまま付いて来る潤はどこか殉教者じみた雰囲気で、焦りのような苛立ちのような感情が生まれるのを感じていた。
 こんな遠慮じみた態度なんて、知らない。
 潤はいつもマイペースで、裏表がなくて、豪快に笑っていて、自分を安心させてくれる存在でなくてはならない。
 自分にとっての潤は。
 部屋に入り、促されるまま椅子に座った潤にインスタントコーヒーを入れて、斜め前に座る。ここまで、会話らしい会話はなかった。お互いに相手の出方を伺うような空気がずっと続いていて、キリトは叫び出しそうになるのを抑えていた。
「この前」
 どう切り出そうか悩み抜いた結果、単刀直入に本題に入ることにし、キリトは口を開いた。
「…ん?」
「楽屋で言ったこと」
「……何だっけ」
 潤は柔らかく笑う。それに逆に気圧されるように言葉を飲み込んだキリトは、しかし思い直して続けた。ここで引き下がってはいけない、と自分を奮い立たせるようにして。
「続き、言ってくれ。解ってんだろ?」
「だから、何が」
「潤」
 咎めるような口調になってしまったキリトに、つ、と潤は俯いた。
「…キリトがちゃんと教えてよ。何が聞きたいのか、ちゃんと」
 低く呟かれたような言葉に、どれだけ潤を苦しめていたのか、今更ながら気付く。投げ出したのも苦しめているのも自分だと知っていたのに、この瞬間までちゃんと解っていなかった。自覚もせずに、今まで追い詰めてきていたのだ、と。
「…ごめん」
 思わず謝罪の言葉を口にしたキリトに、潤は頭を振った。
「謝らなくていいから、ちゃんと、言ってよ」
「ん」
 ひと呼吸、おいて。
 ――――そういえば、潤にこんな風にはっきりと何かを要求されたことは、なかった。そう思いながら。
「俺が、ちゃんと繋ぎ止めておかなかったから、悪いんだとは思うけどさ」
「…うん」
 潤は静かに微笑んで、まっすぐキリトを見ている。
「もう、他を見ないでくれって、言いたかったんだ」
 手を伸ばして、その頬を包んだ。真っ白いそれは思いのほか冷たく。
「―――俺だけにしろよ」
 告げた瞬間、ふう、と吐き出された息と共に緩んだ頬から、添えられた手がゆっくりと潤の手によって剥がされていく。見返した潤は、今まで以上に張り詰めたように笑っていた。
「ありがと」
 あくまでも笑顔で、ゆっくりとそっとキリトの手を押し返した潤は、何かを振り切るように立ち上がった。そして告げられたのは、キリトがまったく予想していなかった言葉だった。
「ありがとう、それで充分。―――でもごめん、もう、答え、忘れちゃった」
「…え」
「ごめんね。聞くだけ聞いて…でも、これでいいんだよ、きっと」
「……」
「ごめん、でも本当にありがとう。俺、帰るね」






 荷物を手に取る潤を見て、漸くキリトは、潤がどういうつもりで今日ここにきたのか、理解した。
 自分が乱暴にひきちぎって閉じ込めた気持ちを、そのせいでがんじがらめのようにしてしまったこの関係を、そっと終わらせるために。永久に閉じ込めるために。
 最初に逃げ出したくせに、結局踏み出してしまう決心をしたキリトを、止めるために。そのために、来たのだということを。
 本当はそうすべきだって、思ってるんでしょう?だったら俺が蓋をしてあげる。
 物憂気な潤の笑顔がそう告げていた。




 キリトはただ呆然として、―――だけど潤が背を向けた瞬間、立ち上がって腕を掴んでいた。
「…キリ、」
「待てよ。何だよそれ。俺はそんなの望まない。だってお前、ずっと待ってただろ?―――俺が言うの、待ってたんだろ?」
 我ながらみっともないと思うくらい、必死だった。考えるより先に言葉が溢れていた。
 そしてその言葉に、潤は泣きそうに歪んだ顔で笑う。
「うん、ずっと待ってたよ。だから、嬉しかった」
「なのに!」
「うん、だけど駄目なんだ。駄目なんだよ、キリト。だから、それ以上言わないで」
 掴まれた腕が痛むだろうに気にした風もなく、歪んだ、それでいて穏やかな笑顔で潤は続けた。
「ずっと待ってた、だけどあなた何も言ってくれないから…もう応え方、忘れちゃったよ。解らない。…ひょっとしたら、始めから知らないのかも、しれない」
「じゅ…っ」
「だから、駄目なんだ」
 もう遅いんだ、何もかも。
 キリトは信じられない、といった表情で潤を見つめた。潤はただ笑って、そんな顔で笑うなと叫びたくなるような儚い顔で笑って、そしてするりと腕から抜け出た。
「バイバイ、また明日」













僕らは息が詰まるくらいぴんと張った平行線の想いを抱き続けていた。些細なきっかけで容易に崩れるであろうと予測されたそれはしかし揺るぎなく何年もの間確実に存在していて、僕らの生活に少しずつ少しずつ姿を現してぼんやりとした影を落とす。気付かない振りでやり過ごして来た臆病な僕らを嘲笑うように。黙殺し続けた日々はただ積み上げられていっただけで、消えた訳ではないのだと。そして僕らは思い知るのだ。




僕らの前に広がるのは、
始めから無かったような空疎な景色でしかないことを。










「顔色悪いね」
 女性ヘアメイクの言葉を、そうですか、と何気なく返す。今日はソロショットの撮影だった。
「ちゃんと寝れてるの?最近ずっとこんな感じよ」
 忙しいんだろうけどね、と続ける彼女の手の動きに合わせて、キリトは眼を閉じた。
「肌、荒れてます?」
「うん…あんまり良く無い状態かな。ちょっと心配かなって思ってたのよ」
 肌を触るプロである彼女には、体調の悪さが言葉通り手に取るように解るのだろう。純粋に心配してくれる言葉に、すいませんちょっと寝不足で、と微笑んだ。
 自覚はあった。あれ以来、夢ばかり見てしまうキリトに、安らかな眠りが訪れることはない。眠るという行為は休息ではなく、逆に疲れを助長するようなものになっていた。目覚めた時に感じるのはひどい倦怠感と、恐ろしいほどの喪失感。
 夢の中で求めるのは、同じ存在で。
 
 
 ため息をついてシートに深く沈んだキリトに、運転席からマネージャーの明石が声をかけた。
「ちょっとだけだけど、寝ていったら?渋滞してるし」
「…え?」
「寝れてないんでしょう?最近顔色悪いし、メイクさんからも言われたわよ」
「ああ…そう」
 そんなに明らかに状態が悪いのか、と自嘲するように笑った。確かに、顔色の悪さも精神的な不安定さも、隠す余裕は今はなかった。
「ねえ、寝れないの?不眠症ぽい?」
「…そうなのかな。何か…眠りが浅い感じ」
「…あんまりお勧めできないけど、あまりにもひどいようだったらお医者さん紹介するから」
 やや躊躇いがちに、それでも有無を言わせない感じで言う明石に、ええー?と冗談ぽく笑う。
「そんな大袈裟な…嫌だよ医者なんて」
「でも辛いんでしょう?身体壊したらどうしようもないし」
 でもさあ、と苦笑すると、彼女はそんなに構えなくていいから、とやや軽い口調に変えた。
「竜太朗もかかってるお医者さんだし、ちゃんと効くみたいだから」
 急に出された名前に驚く。
「竜太朗?」
「うん、あの子昔っからひどい不眠症で、ツアーの時とかいっつも薬処方して貰ってたし」
「へえ…」
 だから本当にしんどくなる前にちゃんとかかるのよ、と言う明石をミラー越しに見て、そういえば、と思い出す。自分たちのマネージャーになる前は、彼女はプラトゥリの担当だった。
 竜太朗に借りた本はまだキリトの部屋にある。あの日以来―――潤が自分から“去った”日以来、封印するように表紙を開くことはなく。
 いつ返そうか。そう思った時、不意に彼の言葉が思い出された。
 船は、大丈夫ですか?
「………沈没したかもしんねえよ、竜太朗…」
 呟いた声は、明石にも届くことはなかったけれど。しかしその瞬間、新たな思いが沸き起こった。まだ沈没していないのかもしれないという思いが。
 だって――――相変わらず、潤の笑顔は透明なままなのだ。






 家の前で明石の車を降りたキリトは、部屋には戻らず自分の車に乗り込んだ。真直ぐに向かったのは、潤のマンションだった。
 例えば、これが悪足掻きと呼ばれる行動だとしても、キリトは構わなかった。何もせずこのままでいるには、精神的にも肉体的にも限界を越えていた。潤の、彼の笑顔の不在は、想像以上に自分を追い詰めていた。
 あの日、全てを拒絶した潤に何も言えなかった。腕をすり抜けた彼を、追えなかった。だけど、遅すぎるのは解っているけど、今なら追える気がした。夢中で、彼の笑顔を取り戻したいと思った。
 躊躇いがちに鳴らしたチャイムに、少し間をおいてドアを開けた潤は、ひどく戸惑っていた。
「どしたの、こんな遅くに…急に」
「話があって。上がっていいか」
 言うが早いか玄関に入って来るキリトに、潤も文句を言うわけでもなく招き入れる。何気ないこんなやり取りが、ひどく懐かしく感じられた。昔からキリトと潤はこんな関係で、それが当り前だったはずだ。
 なのに、あの日以来、さり気なく隣にいることすら難しくなってしまっていて、それがキリトを追い詰めていて。
「散らかってて悪いけど…あ、リルっ」
 部屋に入った途端、潤はテーブルに身を乗り出していた猫に駆け寄った。ひらりと飛び下りた彼女を抱え上げ、駄目でしょー、と覗き込む、そんな小さな仕種も、ひどく愛しい。
 愛しくて、懐かしくて、限界だった。
「……!キ…っ」
 いきなり後ろから抱き寄せられ、潤は引きつったような悲鳴を上げた。腕から零れ落ちた猫が、驚いたように走り去る。
「キリト、何…っ」
「も一度、ちゃんと言いに来た」
 潤の身体が一瞬強張り、逃れようともがき出す。
「何で…っ!」
「ちゃんと言ってないだろ、俺。最後まで」
「最後…って……!駄目だってば!」
 必死な感じで暴れる身体を抱きすくめ、キリトは耳許で低く言った。
「どうしても駄目なら、俺を殺して止めろよ」
 潤が驚いて息を呑む。その隙をついて、引きずるように床に押し倒した。両手首を押さえ付けて覗き込むと、混乱と恐怖に震えた瞳が、キリトを見返した。
「何で、やめろよ、もう…っ!」
「やめない。今度こそ、きっちり伝える」
「!駄目だってば…!」
 押さえ付けるキリトも必死だったが、潤も必死だった。キリトが何を言おうとしているのか知って、必死で逃れようとしていた。それは、おそらく最後の言葉。
「駄目だって言っただろ!?答えることもできないって…もう俺は」
「忘れたって言うのか?もう、遅いって?」
 一際強い力で手首を掴まれて眉を顰めた直後。ずい、とキリトの顔が間近に迫って、潤はその漆黒の瞳から眼が離せなくなる。強い光に射られたような気がした。
 ――――その瞬間、既に自分は墜ちていたのかもしれないと、後で潤は思った。
「だったら、潤」
 あ、と思った瞬間には、唇が重なっていた。重ね合わせられただけのそれが離され、じっと見下ろされて、潤はがくがくと震え出した。
「もっと早く、こうしたら良かった?だったらこんなことにはならなかった?」
 対照的に、キリトの声はひどく落ち着いていた。沁み入るような言葉に、得体の知れない恐怖を感じる。
「駄目…、だってば、やめ…っ」
「こうやって、無理矢理にでもお前を」
「キリト!」
「そうしたら、お前は俺を置いて行こうとはしなかったのか?」
 苦しそうに吐き出された言葉に、潤は打ちのめされたようにもがくのを止めた。見開いた眼でキリトを見上げ――――やがて震える唇が言葉を紡ぐ。
「何…言って…」
 瞬きすることも忘れた瞳はキリトを凝視しながら、急速に潤んで。
「……置いて行ったのは、あなたでしょう…」
 次々と溢れ出した涙は髪にしみ込み、床を濡らす程になっても止まりそうに無い。キリトは黙って顔を落とし、目元を舐めた。溢れ続ける涙を、全て飲み込んでしまうことを願い。
「俺はずっと必死で…あなたに追い付こうと必死で………だけど追い付けなかったから、追い付けないって解ったから…!だからもう止めたのに……」
 そして震える肩を引き寄せ、一瞬強ばる身体をかき抱いた。
「やっと、置いて行かれることにも慣れたのに!どうして……っ」
 ぶつけられた潤の言葉は、胸を、心臓を切り刻むようだった。潤がどんな思いでそうしたのか、そこに辿り着くまで何を思ったのか、すべてが伝わってくる。そのすべてが痛く、愛しいと思った。
「置いて行ってなんかやらない」
 抱き締める腕に力を込め、低く、噛み締めるようにキリトは言った。
「無理矢理にでも連れて行くから。離れるのも、止まるのも許さない。置いて行こうとしてるのはお前だよ。何も始まる前に勝手に終わらせて――――そんなの、俺は許さない。縄つけてでも引きずってでも連れて行く」
「……っ」
 腕の中から嗚咽が洩れる。冷静に考えたら随分と勝手な物言いだけど、間違った言葉では、ない。
 潤は完全に混乱して当惑して、しかしキリトの言葉を正しく理解し――――だから一層、涙が止まらない。
「終わらせた、のに。俺が、どんだけ必死で終わらせた、か」
「知ってる」
「なのにあなたは、そんな――――簡単に」
「簡単なわけあるか。ギリギリだよ。解って無い。……お前、解って無いよ全然」
 自分がどれだけ必死か。どれだけ必死で、繋ぎ止めようとしているか。伝えたいと思った。ほんの少しでもいいから伝えて、それが潤を少しでも癒すのならば、と。
「なあ、頼むよ潤。俺は、お前じゃないと――――」
 潤の身体が強張る。最終通告のベルが聴こえた。止めなきゃ、と思った。これが最後だ。彼に、最後の扉を開かせてはいけない。止めなきゃ、そう決めたんだから――――――――。
「お前じゃなきゃ、駄目だから、だから」
 だけど震える唇は言葉を発することはできずに。腕は彼をはね除ける力を持たずに。ベルは頭が割れそうなくらい響いてるのに、どうしても止めることができない。そのことに眩暈のようなものを感じながら、いやが上に沸き起こる絶望と歓喜に、潤は眼を閉じる。
「傍にいてくれ。今更だけど――――、好きだ」


 ――――――潤の腕がゆっくりと、キリトの背中を抱き返した。








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