「顔色悪いね」
女性ヘアメイクの言葉を、そうですか、と何気なく返す。今日はソロショットの撮影だった。
「ちゃんと寝れてるの?最近ずっとこんな感じよ」
忙しいんだろうけどね、と続ける彼女の手の動きに合わせて、キリトは眼を閉じた。
「肌、荒れてます?」
「うん…あんまり良く無い状態かな。ちょっと心配かなって思ってたのよ」
肌を触るプロである彼女には、体調の悪さが言葉通り手に取るように解るのだろう。純粋に心配してくれる言葉に、すいませんちょっと寝不足で、と微笑んだ。
自覚はあった。あれ以来、夢ばかり見てしまうキリトに、安らかな眠りが訪れることはない。眠るという行為は休息ではなく、逆に疲れを助長するようなものになっていた。目覚めた時に感じるのはひどい倦怠感と、恐ろしいほどの喪失感。
夢の中で求めるのは、同じ存在で。
ため息をついてシートに深く沈んだキリトに、運転席からマネージャーの明石が声をかけた。
「ちょっとだけだけど、寝ていったら?渋滞してるし」
「…え?」
「寝れてないんでしょう?最近顔色悪いし、メイクさんからも言われたわよ」
「ああ…そう」
そんなに明らかに状態が悪いのか、と自嘲するように笑った。確かに、顔色の悪さも精神的な不安定さも、隠す余裕は今はなかった。
「ねえ、寝れないの?不眠症ぽい?」
「…そうなのかな。何か…眠りが浅い感じ」
「…あんまりお勧めできないけど、あまりにもひどいようだったらお医者さん紹介するから」
やや躊躇いがちに、それでも有無を言わせない感じで言う明石に、ええー?と冗談ぽく笑う。
「そんな大袈裟な…嫌だよ医者なんて」
「でも辛いんでしょう?身体壊したらどうしようもないし」
でもさあ、と苦笑すると、彼女はそんなに構えなくていいから、とやや軽い口調に変えた。
「竜太朗もかかってるお医者さんだし、ちゃんと効くみたいだから」
急に出された名前に驚く。
「竜太朗?」
「うん、あの子昔っからひどい不眠症で、ツアーの時とかいっつも薬処方して貰ってたし」
「へえ…」
だから本当にしんどくなる前にちゃんとかかるのよ、と言う明石をミラー越しに見て、そういえば、と思い出す。自分たちのマネージャーになる前は、彼女はプラトゥリの担当だった。
竜太朗に借りた本はまだキリトの部屋にある。あの日以来―――潤が自分から“去った”日以来、封印するように表紙を開くことはなく。
いつ返そうか。そう思った時、不意に彼の言葉が思い出された。
船は、大丈夫ですか?
「………沈没したかもしんねえよ、竜太朗…」
呟いた声は、明石にも届くことはなかったけれど。しかしその瞬間、新たな思いが沸き起こった。まだ沈没していないのかもしれないという思いが。
だって――――相変わらず、潤の笑顔は透明なままなのだ。
家の前で明石の車を降りたキリトは、部屋には戻らず自分の車に乗り込んだ。真直ぐに向かったのは、潤のマンションだった。
例えば、これが悪足掻きと呼ばれる行動だとしても、キリトは構わなかった。何もせずこのままでいるには、精神的にも肉体的にも限界を越えていた。潤の、彼の笑顔の不在は、想像以上に自分を追い詰めていた。
あの日、全てを拒絶した潤に何も言えなかった。腕をすり抜けた彼を、追えなかった。だけど、遅すぎるのは解っているけど、今なら追える気がした。夢中で、彼の笑顔を取り戻したいと思った。
躊躇いがちに鳴らしたチャイムに、少し間をおいてドアを開けた潤は、ひどく戸惑っていた。
「どしたの、こんな遅くに…急に」
「話があって。上がっていいか」
言うが早いか玄関に入って来るキリトに、潤も文句を言うわけでもなく招き入れる。何気ないこんなやり取りが、ひどく懐かしく感じられた。昔からキリトと潤はこんな関係で、それが当り前だったはずだ。
なのに、あの日以来、さり気なく隣にいることすら難しくなってしまっていて、それがキリトを追い詰めていて。
「散らかってて悪いけど…あ、リルっ」
部屋に入った途端、潤はテーブルに身を乗り出していた猫に駆け寄った。ひらりと飛び下りた彼女を抱え上げ、駄目でしょー、と覗き込む、そんな小さな仕種も、ひどく愛しい。
愛しくて、懐かしくて、限界だった。
「……!キ…っ」
いきなり後ろから抱き寄せられ、潤は引きつったような悲鳴を上げた。腕から零れ落ちた猫が、驚いたように走り去る。
「キリト、何…っ」
「も一度、ちゃんと言いに来た」
潤の身体が一瞬強張り、逃れようともがき出す。
「何で…っ!」
「ちゃんと言ってないだろ、俺。最後まで」
「最後…って……!駄目だってば!」
必死な感じで暴れる身体を抱きすくめ、キリトは耳許で低く言った。
「どうしても駄目なら、俺を殺して止めろよ」
潤が驚いて息を呑む。その隙をついて、引きずるように床に押し倒した。両手首を押さえ付けて覗き込むと、混乱と恐怖に震えた瞳が、キリトを見返した。
「何で、やめろよ、もう…っ!」
「やめない。今度こそ、きっちり伝える」
「!駄目だってば…!」
押さえ付けるキリトも必死だったが、潤も必死だった。キリトが何を言おうとしているのか知って、必死で逃れようとしていた。それは、おそらく最後の言葉。
「駄目だって言っただろ!?答えることもできないって…もう俺は」
「忘れたって言うのか?もう、遅いって?」
一際強い力で手首を掴まれて眉を顰めた直後。ずい、とキリトの顔が間近に迫って、潤はその漆黒の瞳から眼が離せなくなる。強い光に射られたような気がした。
――――その瞬間、既に自分は墜ちていたのかもしれないと、後で潤は思った。
「だったら、潤」
あ、と思った瞬間には、唇が重なっていた。重ね合わせられただけのそれが離され、じっと見下ろされて、潤はがくがくと震え出した。
「もっと早く、こうしたら良かった?だったらこんなことにはならなかった?」
対照的に、キリトの声はひどく落ち着いていた。沁み入るような言葉に、得体の知れない恐怖を感じる。
「駄目…、だってば、やめ…っ」
「こうやって、無理矢理にでもお前を」
「キリト!」
「そうしたら、お前は俺を置いて行こうとはしなかったのか?」
苦しそうに吐き出された言葉に、潤は打ちのめされたようにもがくのを止めた。見開いた眼でキリトを見上げ――――やがて震える唇が言葉を紡ぐ。
「何…言って…」
瞬きすることも忘れた瞳はキリトを凝視しながら、急速に潤んで。
「……置いて行ったのは、あなたでしょう…」
次々と溢れ出した涙は髪にしみ込み、床を濡らす程になっても止まりそうに無い。キリトは黙って顔を落とし、目元を舐めた。溢れ続ける涙を、全て飲み込んでしまうことを願い。
「俺はずっと必死で…あなたに追い付こうと必死で………だけど追い付けなかったから、追い付けないって解ったから…!だからもう止めたのに……」
そして震える肩を引き寄せ、一瞬強ばる身体をかき抱いた。
「やっと、置いて行かれることにも慣れたのに!どうして……っ」
ぶつけられた潤の言葉は、胸を、心臓を切り刻むようだった。潤がどんな思いでそうしたのか、そこに辿り着くまで何を思ったのか、すべてが伝わってくる。そのすべてが痛く、愛しいと思った。
「置いて行ってなんかやらない」
抱き締める腕に力を込め、低く、噛み締めるようにキリトは言った。
「無理矢理にでも連れて行くから。離れるのも、止まるのも許さない。置いて行こうとしてるのはお前だよ。何も始まる前に勝手に終わらせて――――そんなの、俺は許さない。縄つけてでも引きずってでも連れて行く」
「……っ」
腕の中から嗚咽が洩れる。冷静に考えたら随分と勝手な物言いだけど、間違った言葉では、ない。
潤は完全に混乱して当惑して、しかしキリトの言葉を正しく理解し――――だから一層、涙が止まらない。
「終わらせた、のに。俺が、どんだけ必死で終わらせた、か」
「知ってる」
「なのにあなたは、そんな――――簡単に」
「簡単なわけあるか。ギリギリだよ。解って無い。……お前、解って無いよ全然」
自分がどれだけ必死か。どれだけ必死で、繋ぎ止めようとしているか。伝えたいと思った。ほんの少しでもいいから伝えて、それが潤を少しでも癒すのならば、と。
「なあ、頼むよ潤。俺は、お前じゃないと――――」
潤の身体が強張る。最終通告のベルが聴こえた。止めなきゃ、と思った。これが最後だ。彼に、最後の扉を開かせてはいけない。止めなきゃ、そう決めたんだから――――――――。
「お前じゃなきゃ、駄目だから、だから」
だけど震える唇は言葉を発することはできずに。腕は彼をはね除ける力を持たずに。ベルは頭が割れそうなくらい響いてるのに、どうしても止めることができない。そのことに眩暈のようなものを感じながら、いやが上に沸き起こる絶望と歓喜に、潤は眼を閉じる。
「傍にいてくれ。今更だけど――――、好きだ」
――――――潤の腕がゆっくりと、キリトの背中を抱き返した。
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