レーゼンデートル02
 






「キリトー、何、また読書?わー古そうなの読んでるねー」
 やかましい奴が来た、と顔を上げると、案の定アイジがにこにこと覗き込んでいた。手にはこれまた案の定携帯を持っていて、こいつはひとり静かに過ごすということは不可能なんだろうな、と改めて思う。
「そうだ。だから邪魔すんな」
「えーいいじゃん少しくらい。本なんていつでも読めるでしょー」
「お前とだっていつでも喋れる」
「冷たいなーもう。機嫌悪いのー?そんなことないよねえ。そーいや先週の撮影すっごい早く終わったって聞いたけど、今日もそうだといいねーねえねえ」
 この女子高生が、と口に出さずに毒づいた。アイジにしても、キリトの機嫌が悪い訳ではないと解って声をかけてきてるということは解っているのだが。それ位の配慮はできる男では、ある。
「あーもう誰か他あたれ、誰か」
「えーだって今キリトしかいないもん。タケオくんもコータも撮影中だし潤くんは何かいないし」
「潤はどこ行ったんだ?」
「知んない。あー何、俺はどっか行けって言うのに潤くんはいないの気になるんだ」
 アイジの一言に思わず身体が強ばった。慌てて、でも平静を装ってアイジを見ると、俺的にけっこうショックー、とか何とか一人で続けていて、とりあえずこのバカには気付かれなかった、とほっとすると同時に、意識しすぎな自分に憮然となった。
「でもさーキリト気付いてる?」
「…何が」
 まだ終わらないのか、といい加減うんざりしながらアイジを見ると、やや様子が変わっている。他愛のない話から、伝えるべき話をする時の表情に。
「潤くんのこと」
「潤がどうかしたか?」
「あれー、キリト何とも思ってないの?じゃあ俺の気のせいなのかなあ」
「だからどうしたって」
 尚もぶつぶつ一人で続けかねないアイジを促すと、あのねえ、とやや考えながら口を開いた。
「何か辛そうなんだよね」
「潤が?」
「うん。どこがどうって上手く言えないんだけどさ、いつもと同じっちゃー同じだし、でもどっかおかしいの」
「…今日?」
「うーん、ここ最近、かな。あっでも別に何か言われたとかされたとかじゃないけど」
「当り前だ、だったら明らかにおかしいだろが」
「うんそうなんだけどね、何て言うのかなー、うーん」
 アイジは上を向いて少し考える仕種をする。キリトは苛立ちを覚えながらその先を待ち、しかし苛立つ理由もアイジの言わんとすることも、どこかで解っていた。バカなようでいて周囲をしっかり見ている、アイジの鋭さも知っている。
「……笑い方が前と違うような感じ。元気ないっていうか何というか。潤くんて本っ当気持ちいーくらい豪快に笑う人じゃん?でも最近はそういう感じじゃないって言うか。あーそれとねえ、キリト気付いてないんならこれは俺の勘違いかなって思うんだけどね」
「なんだよ」
「この前、すっごい寂しそうな顔でキリト見てた。…気がするんだけど」
「…いつ」
 答えを知っていることを自覚しながら、聞いた。
「んーと、先月かな…収録で、俺とタケオくんが遅れて事務所に入った時」
 聞かなくても、解っていた。








* * * * * * * * * * * * * * * * *








 楽屋や控え室で二人きりになることはたまにあって、それは本当に日常の、いつもの風景だった。
 収録のために訪れた、事務所の控え室。前の撮影が押しているらしく、アイジとタケオが遅れていた。コータは寝て来る、と隣の会議室に籠ってしまい、結果、キリトと潤は二人で待機することになる。
「あーどんくらい待つのかなあ……撮影、どこでしてるんだっけ」
「何か青山の方とか言ってたけど」
「そっかあ…しっかしコータもちょっとの時間でよくあれだけ寝れるよねえ」
 のんびりと邪気無く笑う潤に、キリトはほっと肩の力が抜けるような感覚を味わう。潤と二人だけ、というこの空間は、キリトをリラックスさせていた。
 傍にいることが当たり前のような、心地良い存在。
 それは、何年もそうだったように、これからもそのままでずっと位置していくものの、はずだった。
 なのになぜその時そんなことを言ったのか、踏み出してしまったのか、キリトにも解らない。だけどそれは自然に、本当に自然に口にしていた。
「潤」
「んー?」
 顔を上げた彼の笑顔は、それは眩しいほどで。だからかもしれない。
 その笑顔を、自分のものにしたいと。
「――――前、付き合うことになったって言ってた彼女、どうなった」
 言われた潤は驚いて眼を丸くし、ふう、と苦笑した。
「あー…あれね、もう終わった」
「早いな」
「んー、て言うか…付き合いかけたけど駄目になった、て感じ」
「何だ、そうか」
「…残念そうだね、何だか」
「ああ、だって邪魔してやろうと思ってたから」
 腑に落ちない、という顔をして首を傾げる潤に、意地の悪い台詞を言って。ますます訝し気な顔になる潤に対して告げた言葉は、言うまいと、絶対言うことはないと思っていた言葉だった。
「お前が、女なんか見てるのが気に食わない」
 真直ぐに見つめて言ったキリトに、潤の表情が凍り付く。
「……それ、どういう…」
「やめちまえよ、そういうの」
「……キリト」

 強張っていた潤の表情が徐々に崩れて――――、そこで突如として、キリトは後悔した。
 自分は今、取り返しのつかないことをしようとしているのではないか?
 何も言わず、何もしないことで守って来た均衡を、崩そうとしているのではないのか?

「…あーたが言うなら、やめた、よ?」
 そう言った潤の顔は泣きそうなくらい歪んでいて。
「俺―――、」
「冗談だよ」
 ほとんど反射的に、潤の言葉を遮った。息を呑む潤から眼を逸らし、歪んだ笑みを必死で浮かべて立ち上がる。誤魔化すように、肩にかかる黒髪を乱暴にいじった。
「邪魔する気なんかなかったから、安心しろ。どうなったのかなって思ってさ―――ただの好奇心。悪いな」
「……」
 何か言おうとして飲み込んだ、潤の吐息に泣きたくなった。飲み込んだ言葉は、多分自分が抱いているのと同じ言葉だったはずで。
 最低かもな、と思う。自分から踏み出して潤の気持ちを引きずり出して、それを宙に浮かせたまま、解っていながら逃げ出してしまった。
 潤は呆然とキリトを見つめ、キリトは眼を逸らしたまま、――――気まずい沈黙が漂う中、ドアが開いた。
「あーキリト潤くんごめんー、待たせたー」
 騒々しく入って来たのはアイジだった。少し遅れてタケオも姿を見せる。
「…遅い」
「ごめんってー、撮影押してさー、おまけにタケオくんがさー」
「俺のせいじゃないって」
 二人に怒ったポーズを取りながら、キリトは潤の視線を痛いほど感じて、だけどそれを黙殺した。
 潤は何も言わなかった。


 結局は、二人とも逃げたのだ。“なかったこと”にして。
 ―――――そして逃げ切れていなかったのだ。








* * * * * * * * * * * * * * * * *








 缶ジュースを片手に潤が戻って来たと同時に、アイジの携帯が鳴る。喜び勇んで出るアイジとぶつかりそうになった潤は、危ないなあ、と口を尖らせた。
「あーごめん潤くん。あー大丈夫ちょっとぶつかりかけただけ。うん、待ちだから大丈夫だよ、わざわざかけ直してくれてありがとねー」
「…うるさい奴」
 捲し立てるアイジに苦笑して、つかまってたの?と潤が笑う。いつものような、振りをした笑顔で。
「読書の邪魔された」
「しょーがないなあ、もう」
「お前がいないからだ。どこ行ってた」
「…ちょっと、飲み物買いに」
「それにしちゃ遅くねえ?」
「そう?のんびり行ってたから」
 そう言う笑顔も透けるようだ。アイジに言われるまでもなく、キリトも知っていた。潤の異変。違和感。そして、多分原因も知っている。
 しかし、とりあえず今何も言える訳がなく、そっか、とだけ呟いて視線を本に戻す。視界の端に見えた潤の笑顔は、何かを堪えているような気がしてならなかったけど。
「そーなんだよ、うちのリーダーってば冷たくて!読書の邪魔!とか言ってさー。えらい年代物の本読んでて、え、何、竜ちゃんが貸した本なの、あれ」
 アイジが喋りながら振り向いた。竜太朗の名前に反応して顔を上げたキリトと、眼が合う。
「そうなの、キリト」
 頷くと、眼を丸くして「えーいつの間にそんな仲になったのー」と、キリトと電話の向こうの竜太朗と両方に聞くように言った。
「あーでも何かすっごいハイソな付き合いって感じ。俺竜ちゃんから本借りることなんかないもんねえ。あー絶対無理、読み切れないよー。いいよなー何かかっこいいし、え、何、伝言?いいけど…え、何それ。それで解るの?」
 まるで一人で喋っているかのようなアイジが、一旦電話を離してキリトを呼ぶ。
「キリトー、竜ちゃんが聞いてくれって言ってるんだけど」
「何」
「何か…『船は大丈夫ですか』って」
 よく解らない、という顔で伝えるアイジと、同じくぽかんとしている潤の視線の先で、キリトはふう、と息を吐いた。
「もうすぐ漕ぎ出す予定、て伝えて」
 解らないままその通り伝えたアイジは「竜ちゃんが『頑張ってください』って言ってる」と再び伝言を返し、キリトの礼を伝えて「何なの二人共もー、なぞなぞみたいなこと言い合って!」と竜太朗に噛み付いた。
「…俺にもさっぱり解らないんですけど」
 ぽかんとしたままやり取りを聞いていた潤も、眼をぱちぱちさせながら聞いて来た。
「さあ。何だと思う?」
「解る訳ないでしょ。あんな禅問答みたいな」
 キリトはただ笑った。お前についてのやり取りだと言ったら、どういう顔をするのだろう。全て把握してるのは――――そう思っているのは、俺だけだけど。
「だいたいいつ竜太朗くんとそんな親密になったの?全然知らない」
「偶然事務所で会ったの。んでコレ、借りた」
「その本?へえ。随分年期入ってるねえ。何か、竜太朗くんぽい」
 覗き込む潤の髪が目の前に来て、無意識に――――正確には確信を持って、手を伸ばした。くしゃり、と髪を撫でる。柔らかい猫っ毛の感触がした。
「潤」
「え」
「今日、車か」
「え、うん」
「俺を送れ」
 一瞬見開かれた眼は、宙を漂い、下に落ちる。暫くの沈黙があった。
「――――うん、いいよ」
「よし」
 もう一度くしゃりと髪を撫でて、手を離す。潤は顔を上げて、ゆっくり立ち去った。その時の笑顔が思い詰めたような感じだったけど、――――思わず伸ばしかけた手を、潤は眼だけで制した。


 賽は投げられた。深く息を吸い込んで、キリトは開かれたままの本に眼を落とす。



 『愛をもとめる心は、かなしい孤獨の長い長いつかれの後にきたる、
  それはなつかしい、おほきな海のやうな感情である。』



 いつの間にか胸の奥底に刻み付いてしまっている言葉を眼で追って、けたたましく喋り続けるアイジの相手をしている、本の持ち主の言葉を思い出していた。







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