レーゼンデートル01
 

手を伸ばせば届く位置に君はいた。そのことに安心し、それがいつまでも続くものだと確信していた僕は何もせずに、何も見ずにただ心地良い眠りに浸り切っていたのだろう。傲慢な眠りはいつしか僕らに距離を作り、もうお互いの存在さえ曖昧で、叫び声さえ届かないようなところに君を連れ去ろうとしている。ひとり残された僕は最早進むことも戻ることも出来ずにいて、ただ君を呼び続けるしかない。そしてそれは罰だ、と誰かが囁く。




履き違えた想いはいつかひび割れて狂い出すのだと。










 それは表面上まったく気付かれないような、ほんの小さな異常なのだろうけれど、敏感な人間は案外いるものだ、とキリトは半ば感心する。
「言っていい?」
 珍しく二人で組んだ仕事の移動中、何気ない感じでタケオが言った。
「何」
「最近のあんた、荒れてない?」
 とっさには返事が出来なかった。自覚はしていたが、隠し切れている自信もあったから。
「図星でしょ」
「…どこら辺が」
「んー、全体的になんとなく。歌も喋ることも、何となく荒い」
 自覚あるんでしょ、と促されて、苦笑しながら認めるしか無かった。こういうところを、タケオは侮れないと思う。
「んで原因は?」
「黙秘権有り?」
「言いたく無い?」
「プライベートなことなんでね」
「ふーん…ま、深くは聞かないけどさ」
 タケオは完璧なポーカーフェイスで言って、紙コップのコーヒーを飲み干した。彼なりの配慮か、本当にどうでもいいのか、見事に感情をコントロールできるタケオの真意を探るのは無意味なことだった。
「けどさ」
「解ってるって。仕事に影響するようなことはしないよ」
「まあそれはそうだけどさ。…でも俺の思い過ごしだったのかもしれないけどね、潤くんと何かあったのかなって」
「…へっ?」
 いきなり核心を突かれ、却って薄いリアクションしか出来なかったキリトに、タケオは「違ったのかな」とひとりごちた。
「何で潤が出てくんの」
「いや、潤くんもあんま本調子じゃないみたいだから。二人がそうだし、何かあったのかなーって思って。…それに最近何となく、二人が離れてるから」
 タケオの言葉に、ああ、と思う。今更ながら実感させられる。周囲も自分たちも、一緒にいることが当り前だと思っている、そんな関係を。
「…ん、でもとにかく、二人ともが荒れてたらさ、ちょっと困るからさ」
 何も言わないキリトに、それ以上言及することもなくタケオは煙草に火をつける。そして、軽く笑いながらキリトを見た。
「すっごい、抽象的な言い方かもしんないけど」
「え?」
「頑張って、ね」
 苦笑して、頷いた。






「…コータ、寝る?」
「え?」
 顔を上げると、少し困ったような顔の潤が見下ろしていた。意味が飲み込めずにきょとんとするコータに、控え室の隅にあるソファを指す。
「寝ないんだったら、俺が横になってもいい?」
「あ、うん。――――そんなの俺に断んなくてもいいのに」
 確かに時間が開けばソファで寝ている自分ではあるけど。別に俺の私物じゃ無いんだし、と笑うと、潤は「でも定位置だからさ」と言ってごろりと横になった。そして額に手をやって、眼を閉じる。
 その姿が何となく、気になった。
「潤くん、疲れてる?」
「んー…?」
「あ、ごめん邪魔して。……でもさ、何か調子悪そうだよ?」
「大丈夫…、ちょっと眠いだけ」
 眼を開けて笑顔を向ける潤は、だけどいつもより覇気がないような気がして。訝し気なコータの視線に気付いたのだろう、大丈夫だってば、と繰り返した。
「ちょっと寝たら大丈夫だって」
「…本当?無理、しないでね」
「心配し過ぎ」
 柔らかい、でもはぐらかすような潤の言葉に、でもさ、とコータは食い下がる。気になってしまったことを隠せない、子供のような強引さで。
「潤くん最近ちょっと元気ない気がするから気になって。――――そういえば、お兄ちゃんも」
 聞きながら、潤は眼を閉じた。
「お兄ちゃんもちょっとぼんやりしてるかも。皆、疲れてるのかな…」
 コータの言葉が、ぽろぽろと胸の上に転がり落ちて来る。それが床の上に零れて消えていくのを想像し、潤は息を吐いた。
「そうだね、ちょっと疲れちゃった」
 自分も、きっとキリトも。






 撮影を終えたキリトが一人で事務所に戻ると、待機していたスタッフが出て来た。
「珍しいですねえ、撮影こんなに早く終わるなんて――――ああ、でもライターさんまだなんですよ。予定から2時間も早いし」
「あ、そうか…すいませんキリトさん、控え室ででも待っててもらえます?」
 すぐ連絡してなるべく早く来てもらうようにしますので、と言うマネージャーに頷いて、キリトは控え室に戻った。
 不意に開いてしまった時間を読書にでも使おうかと鞄を探し、ふと横に見慣れない鞄があるのに気付く。メンバーもスタッフも、こんな形のものは持っていなかったし、新品という感じもしない。そう思いながら取った自分の鞄が当たってしまい、ばさり、と中から本がこぼれ落ちた。少し慌てて拾い上げ、表紙を見て、自分のところのメンバーのものではないな、と確信する。古い詩集。雑誌や漫画の類しか読まないようなあいつらが、こんなものを持ってるはずがない。――しかし、誰のだろう。
 疑問に思いながら、キリトは何気なくページを捲った。読書家ではあるが、あまりこういった詩集や古典には馴染みがなく、逆に新鮮だった。旧仮名遣いの並ぶ文章。書かれている詩はどれも寂し気で、明るい内容とは言えない。適当に読みすすめているうち、ふと手が止まった。
『愛をもとめる心は、――――――――――――。』
 眼に付いてしまった言葉を追っているとドアが開く音がし、続いて「あ」という小さな声が聴こえた。振り向くと、ドアノブに手をかけたまま、当惑したような表情で立っている男がいた。視線の先を察して、キリトは鞄を指して聞いた。
「――――これ、竜太朗の?」
「…あ、そう、です」
 おどおどとした感じで、ぎこちなく彼―――竜太朗は頷いた。自分が本を手にしていることを思い出し、キリトはふっと笑う。
「ごめんな、本が落ちたもんだから、誰のかなって思いながら読んじゃった」
「あ、いえ…そんな全然」
 竜太朗も笑い返しながら、漸く部屋に入って来る。バンドは違えど同じ事務所に所属する者同士、事務所やライブ会場で顔を会わすことはよくあった。今日はたまたま、同じ控え室に荷物を置いていたのだろう。
「一人なの?他に鞄ないみたいだけど」
「ええ、僕だけ居残り取材で。メンバーは先にスタジオに行ってます。キリトさんも一人ですか?」
「そう、だけどちょっと時間が開いちゃってさ。お互い、ボーカルは取材多いよな」
「しかもキリトさんリーダーですもんね」
「本当、給料上げろっちゅうに」
 悪態をつきながら本を返すと、竜太朗はあはは、と笑った。そして鞄の中から煙草を取り出す。
「一服してっていいですか」
「どうぞ。座ったら?」
 勧められるまま座った竜太朗の隣に、キリトも腰を降ろして煙草に火をつける。
「――――ああいうの、好きなの?」
「え?あ、ああ、本ですか?」
 唐突な質問に、一瞬首を傾げながら竜太朗は頷いた。
「そうですね、日本文学の、けっこう…暗い方ばっかり読んできてるんで」
「ちらっと見たけど、プラトゥリぽかったもんね」
「あはは、そうですか?ウチやっぱりそんなイメージなんだあ」
「プラトゥリって高尚な感じするじゃん」
「ええー?そんなことないですよう。キリトさんの方がすっごい頭良さそうですって」
「ウチは小難しいことばっか言ってるからなー」
「え、いえあの、そういう意味じゃ」
「はは、そんなビビんなって。イメージだよ、そんなの」
「…そうですかねえ」
「そうそう。竜太朗くんだって別に暗い奴じゃないし」
 そんなに親しい訳ではないが、こうやって話す竜太朗は至って普通の男だ。ほんわかした独特の雰囲気を持ってはいるが、ステージでのイメージのように危なっかしいわけでもなくむしろ明るい人好きのするタイプで、そういえばアイジと仲が良かった。あのお喋りと付き合えるんだから。
「その、今の本さ」
「はい?」
「誰の?」
 何となく、気になって聞いた。読み慣れない文体だったのに、妙に入り込んで来た言葉たち。
「萩原朔太郎、です」
「ああ……聞いたことあるかな」
「良ければ、貸しましょうか?」
 竜太朗は笑って本を差し出した。小さな新書サイズのそれは、随分くたびれていた。
「僕の愛読書なんで。気が向いた時に読み返したりしてたから……返すのとか、いつになっても構いませんから」
「いいのか?」
「全然。元々人に貸してて、返して貰ったまま出し忘れてたんで」
「そっか、サンキュ」
 礼を言って本を仕舞うキリトの手を見ながら、竜太朗は少しぼんやりしたような表情になる。キリトが視線を戻すと、竜太朗は少し当惑したように見えた。
「えっと……、あの」
 口籠りながら視線を泳がせる。訝し気に見るキリトに視線を移したり離したり、を繰り返す竜太朗に、キリトが痺れを切らして声をかけようとした時、意を決したように煙草を灰皿に押し付けた。そして顔を上げてキリトに視線を固定する。
「最近…て言っても、そんなに会ってる訳じゃないし、アレなんですけど、キリトさん、見てて思うんです」
 膝の上で手を握り、身体をやや丸めるようにする姿は、言い訳をする子供のようでもあったけど、伝えようとする真摯な姿勢が伺えて笑えなかった。
「俺が勝手に思ったことなんで、気に障ったらごめんなさい。でも、何か今のキリトさん、例えば――――ずっと水辺に置かれてた船が波に晒されて流されかけて、緩い浅瀬に辛うじて引っ掛かってるような――――そんな感じが、するんです…」
 最後は消え入るような声で、やっと言った、という風に竜太朗は項垂れた。そして「本当、すいません」とぺこりと頭を下げると、慌てたように立ち上がる。
「すいません、何か変なこと言って……すいません本当に」
「…いや、いいよ」
 竜太朗の言葉に一瞬呆けたようになっていたキリトは、何とか苦笑して竜太朗を見上げた。
 ……参ったな。さすが、と言うべきか、ぼんやりしてるようでなかなか侮れない。
「……けっこう、きいたな今のは…」
「えっ……っ!す、すいません…っ」
「いや、いいって。ちゅーか…むしろ、ありがと?」
「え……」
 かなりいっぱいいっぱいに狼狽している竜太朗に、キリトは複雑な笑いを向ける。……彼の言葉は、またしても核心を突くものだったから。
「―――出発直前に思わぬところから欠陥を指摘されて、出発は遅れるけど致命傷は免れたって感じ?」
 竜太朗は一瞬眼を見開いて、すぐに笑顔を作った。
「…そうだと、いいですけど」
 泣き笑いに近い笑顔だとは思ったけれど。







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