そばにいて。───たとえ、誓えなくても。
「お前、ぶちおを殺す気かよ?」
喫煙所でそう言った明の目はあまりに真っすぐで、竜太朗はとっさに何の反応もできなかった。
「……な、に、」
何言ってんの、なかちゃん。そう言おうとして、へらりといつものように笑って言おうとして、でも言えなかったのは、明があまりにも直球だったことと、そして紛れもなく、自覚があったからだ。
引っかかるような声を出し、ゆっくりと視線を逸らして煙草を銜え直した竜太朗に、明は息を吐く。
「分かってんだろーが。わざわざ俺が言わなくても、…だから黙ってようかと思ってたけど、いい加減、苛々するっていうか──実際、不安、もあるし」
あらぬ方向を見ている竜太朗の、前髪に隠された目を横から見ながら、思っていたことを直接的に告げる。何度も迷い、考えた末の行動だった。直接はっきりと言った方がいいだろう、彼に―――彼ら、には。
暫しの沈黙があった。銜えたままだった煙草を離し、紫煙を吐き出しながら灰皿に押し付けた竜太朗は、そのまま視線を落としたままでぼそりと言った。
「…ぶっちには、言ったの?」
お前はどういうつもりなんだ、って。
その言葉を聞き、明は少し顔を顰める。ひどい既視感だ。こいつらは、どうしてこうも────。
「言ったよ、昨日。飲みに行った時に」
分かってんのか? 少し、声を荒げてしまった自分に、啓史は少し気圧されたように、困ったように、泣き笑いのような顔で。
「…お前と同じ顔、して、同じことを言った」
───ねえ、そんなこと、竜太朗にも言ったの? 駄目だよ、言ったら。…言っても、何も変わらないとも、思うけど。
俺も…、うん、ごめんね。なかちゃんの言いたいこと、分かってるつもり。でもね、どうしようもないんだ、…ごめん、ほんとに。
「あいつ、どうしようもないからごめんって、謝って、…謝るだけだった」
そう。呟いた竜太朗の視線は落ちたままだ。それを見て、明は盛大にため息をつく。
「お前ら、ていうか、お前、いい加減にしろよ。そこまでバカでもガキでもないはずだろ」
手がかかる、子供みたいな奴だとは知っている。それでも10年以上一緒にいられただけの分別はついている、そういう男だとも知っている。だからこそ明は苛立っていた。啓史にしてもそうだ、やんちゃな弟分だと思っているが、その実ひどく真面目で、配慮ができるちゃんとした大人だ。
なのに、何故。
「──ごめんね、なかちゃん」
やっと顔を上げて明を見た、竜太朗のその表情は、やっぱり同じ泣き笑いだった。
「けど、ほんと、信じられないかもしれないけど、俺、ぶっちがほんと大事なんだよ。…ほんと、に」
「…分かってるよ、んなこと」
「大事、に、したいと、…思ってるんだよ」
「…竜太朗」
懺悔のような、彼の声が痛い。自分が始めた話題だったけれど、それ以上聞くのが怖い気がして、でも聞かなければいけない気がして、戸惑いながら意味もなく竜太朗の名を呼んだ。それに、竜太朗は更に顔を歪めて。
「なんで俺は、大事にするのとか、伝えるのとか、下手なんだろう、ね…」
上手に伝えることが、できないんだ。
たとえ、どんなに近くても。
* * * * * * * * * * * * * * * * *
最初はいつだったか、2人きりの仕事の時だった。何年も前のことでもなく、でもここ数ヶ月のことでもない。それくらいの、前の話だ。
仕事が終わり解散になり、その場所からは帰る方向が同じだった竜太朗と啓史は、そのままの流れで2人で軽く食事がてら飲みに行った。その日の竜太朗は何だかいつもより浮き足立っていて、いつもより不安定ともいえた。啓史と一緒なのが楽しくないわけではなかったし、仕事もスムーズに終わった、だけれどどこか不安定なことは自覚していて、でも原因が分からずにいた。
「竜太朗はさ」
そんな様子を気付いているのかいないのか、まったく普段通りに酒を飲んでいた啓史は普通に酔っ払いで、にこにこと他愛のない話をしていたが、ふと気付いたように竜太朗を見遣った。
「ん、なに」
「出してないつもりかもしんないけど、すぐ顔に出るよね」
自然に呼ばれたから至極自然に聞き返して、でも啓史の次の言葉に思わず固まった。不意打ちだ。言った本人はふにゃりとした笑顔で、そこに揶揄する色は見えず、竜太朗は返事に詰まってしまった。
「…なにが?」
我ながら苦しい答えだ、と思いつつぽつりと言うと、「だってさ」と啓史は口を尖らせた。
「今日、なんか飛んでるよ。頭が」
「なにそれ」
「なんか…魂が完全じゃない」
今度こそ竜太朗は固まった。なんて的確に言いやがるんだ、この男は。自覚したくないことをさせやがって。
黙ってしまった竜太朗をちらりと見遣り、ビールを一口飲んだ啓史は「当たりっしょ」と無邪気に笑った。それがあまりに屈託がなかったものだから、一気に毒気を抜かれてしまう。照れくささもすべて通り越して、竜太朗は笑った。
「そうかも。なんか、…すごいねぶっち」
「へえ? あなたにすごいと言われることはないと思うけど?」
「いや、だって直球だったもん」
「そう? 思った通り言っただけだよお」
へらりと笑う、啓史の言葉に裏がないのは充分見てとれた。それに笑い返しながら、また浮き足立っている自分を自覚する。まったく、言い得て妙だ。
こころが、少し、足りない。
……だから、とも、だからというわけでもないけれど、とも、────今でも、よく分からない。
だけど、ただ一つ確かな事は、それがきっかけだったということだけ。
そして。
「ねえ、……足りないんだ、きっと」
酔い覚ましに、と、飲み屋から近かった自分の家に啓史を誘った。何の迷いもなく家に上がり、ソファに座った啓史がミネラルを飲むのに、ゆっくり、近付いて。
「…たろ?」
酔いの残った目がきょとんと見上げる、その顔に近付いて言って、そのまま押し倒した。驚いて抗議の声を上げる彼を渾身の力で押さえ付けて、そう、実は彼に比べて、全然飲んでいなかったのかもしれない。…だから逆に、酒のせいではなくて。
足りないこころを、埋めるかのように、…誤摩化すかのように、ただ一方的にその細い身体を押さえ付けて蹂躙した。
辞めろ離せ、何考えてんだ、狂ってる、そう彼は叫んで泣いた。泣き叫んで、暴れて、そのうち諦めたのか抵抗を弱めて、それでもぼろぼろと泣いていた。無理矢理に酷い事をされたのが悔しいのか、それとも別の感情か、顔を背けたままで泣いていた。
あまりに泣くから、吸い寄せられるようにその目元に口づけて、涙を舐めた。彼はびくりとして、でも最早それ以上の抵抗はしなかった。最初は押し返そうともがいていた手は、ただ、竜太朗の肩や腕を掴むだけで。
…どうして。
嵐のような行為を終える頃、呟くような彼の問いに、答えず、答えられず、竜太朗もまた泣いていた。泣きながら、逃げるように浴室に行って激しくシャワーを浴びた。泣きながら、───それこそ、排水溝に総てを流すように。
短い時間ではなかったと思う。だけど、部屋に戻ると、啓史は変わらない格好で踞っていた。そして、入口で立ち尽くす竜太朗をちらりと見遣り、「俺もシャワー貸して」と言った。
啓史が傷めた身体で這うように浴室に向かうのを、手を貸すこともできずに見送り、シャワーの音が聞こえてから適当な着替えとタオルを脱衣場に置いて、自分が散らかした部屋を片付けた。くしゃくしゃになったパーカーが、やけにリアルだった。そしてベッドに腰掛けて、彼が出て来るのをじっと待った。どう声をかけるべきか、考えようとしても考えられず、ただ、待った。
20分ほどか、洗っただけ、のような風で出て来た啓史は、竜太朗の用意した部屋着を着ていた。ゆっくりと、覚束ない足取りで部屋に入り、ベッドに───竜太朗に近付き、見下ろす姿勢で止まった。視線が絡む。
「……とりあえず、寝かせて」
…もうしんどい。眠い。
その言葉に何も言えず、ただ身体をどかすと、啓史はもぞもぞとベッドに入り、そのまま向こうを向いてしまった。その姿が、───謝罪も弁解も他のどんな言葉も、拒絶しているように感じた。
竜太朗は何も言えず、しばらくその後ろ姿を見て、自分も寝るべく毛布を出した。自分の家であっても、さすがに、この状況で一緒のベッドに入ることはできなかった。客用の簡易ベッドであるソファで寝ることにした。
移動する前に、もう一度振り向いてみた。啓史の姿勢は変わっていない。寝てしまったのだろうか、動けないのだろうか。その姿を見て、小さく、蚊の鳴くような声で小さく、「ぶっち」と呟いた。
「…どうしてだろう、ね」
きみが、たいせつ、なんだよ。
自分がちゃんと口に出して言ったのか、彼が起きていたのか、聞こえたのか、もう分からない。
それが、最初だった。
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