甘い、悪い夢の途中。
───ねえ、ここは世界中で、ふたりだけなの。
真夜中に水音で目が覚める。ぺたぺたと、裸足の足音が近付いてきた。
「…起こした?」
竜太朗が目を開けたのに気付いたのだろう、そっと啓史の声が降って来た。ん、と曖昧に声を出すと、「やっぱり俺そっちで寝る」と控えめに言われた。
「太朗ん家だから、太朗がベッド使いなって」
「いや、いいって」
「寝れないんしょ」
だから。ソファで横たわる竜太朗を見下ろして、啓史が再度促す。真っすぐな目で見下ろされ、知らず苦笑しながら竜太朗は目を閉じた。
「平気。ちょっと起きちゃっただけだから。──ぶっちこそ、ちゃんとベッドで寝てよ」
言外に込めた意味を察したのか、ぼそりと「分かった」と声がした。足音が遠ざかる。ベッドでゆっくり眠るべきなのは彼だ。自分が無理をさせているのだから。
もう何度、このやり取りをしたか分からない。…何度、彼がここに泊まったのか、も。
* * * * * * * * * * * * * * * * *
嵐のように彼を組み伏せた後も、表面上の関係は変わらなかった。翌日、啓史は何事もなかったかのように接してきたし、竜太朗もいつも通りに振る舞った。そのまま話題にすることもなく別れて、しばらくは忘れたかのように、穏やかな日々が続いた。
竜太朗が平穏を破ったのは、地方ライブの夜だった。心地よい疲労感で皆で飲みに行き、ホテルに帰り、割り当てられた部屋の前に来て鍵を開けた時、「おやすみー」という啓史の声が後ろを通って、次の瞬間に振り向いて彼の腕を掴んでいた。
「…わっ?」
いきなり腕を掴まれた啓史が、驚いて振り返る。何かを続けようとしたその口は、竜太朗の顔を見て、言葉を発する前に止まった。息を呑む気配が、した。
「ぶっち、…足りないんだ、けど」
あの夜と同じ言葉で、同じ顔で、竜太朗が誘う。息を呑んだ啓史と視線が絡み、───それは一瞬だったか長い時間だったか、低い温度で絡み、逸らされて。
開いたドアの中に無言で啓史が入って、竜太朗が続いた。
───先にシャワー浴びて来てよ。
横柄なようなその言葉に、啓史は一瞬戸惑ったような素振りをして、それでも無言でバスルームに消えた。シャワーの音を聞きながら、煙草を銜えて思案した。自分は何をどうしたいのだろう、と。──彼を、どうしたいのだろう、と。
結論を出せないまま、啓史がバスルームから戻ってきた。着ていたTシャツとジーンズをそのまままた身につけている。入口で一旦立ち止まった彼を見ながら、ベッドに座って微笑んだ。
「…おいで」
啓史はゆっくりと近付いてきて、竜太朗の前で止まった。その手を引くと、抵抗なく彼の身体はベッドに沈んだ。覆いかぶさって首筋に顔を埋めて、Tシャツの裾から手を入れる。
「…たろ、シャワーは」
「俺は後でいーの。待てない」
そのままジーンズにも手をかけると、ふっと笑う気配がして、ぼそりと「最低だな、あんた」と言われた。だけど抵抗はされなかった。電気消してよ、という言葉も無視したら、さすがに身をよじって枕元のスイッチを切られた。その手を押さえて、間接照明だけをつけ直す。
「ちょっとは見せてよ。…足りないんだから、さ」
そう言うと、もう啓史は抵抗しなかった。その顔を両手で挟んで、ゆっくりと口づけを落とした。…そういえば、キスは初めてかな、そう思いながら。
口づけは優しかったけれど、続く行為はやっぱり嵐のようだった。
呼吸を整えた後、痛む身体を起こした啓史はのろのろと服を着て、立ち上がった。
「…部屋、戻る」
それをぼんやり見上げていた竜太朗は、告げられた言葉に少し目を見開き、「そっか」とだけ言った。お互い、すっかりアルコールは抜けていた。そのまま出て行った啓史を見送り、バスルームに向かった竜太朗は、シャワーを浴びながらまた少し、泣いた。
その翌日は東京に戻るだけだったが、集合時間に珍しく遅刻した啓史は明らかに体調を崩していた。明が心配そうに新幹線の奥の座席に彼を押し込んで、隣に座って何か言いながら、ちらりと前方の竜太朗を見た。何かを知っていそうな明に、でも反応できずそのまま自分の席に座る。すると隣の正も、竜太朗を見ていた。目が合う。
「…竜ちゃん」
「ん、なに」
正の目はいつも通り穏やかだったけれど、だけどどこか逸らせない力があった。その目のまま、ゆっくりと問われる。
「昨日、ぶっちと一緒だったよね」
とっさに言われた意味が分からず反応できなかった竜太朗は、一瞬の沈黙の後、ぱちぱちと瞬きをしながら正を見返した。意図を計りかねて、じっと探るように見ていると、眼鏡の奥の目がふっと細められた。
「明が、ぶっちが竜ちゃんの部屋に行くの、見たって」
「…うん」
「最終的には、自分の部屋に戻って寝てたみたいだけど」
「……うん」
正の声はあくまで穏やかだったけれど、まるで尋問されているかのように感じて小さく答える。そんな竜太朗を見ながら、そっと正は息を吐いた。
「…あんまり、無茶させちゃ駄目だよ」
少なくとも、身体を壊すまでのことは駄目だって、…考えてね。
それきり、正は黙って、竜太朗も何も答えられなかった。
後ろの座席を見遣ると、ぐったりと席に崩れるようにしている啓史と、毛布代わりに上着をかけてやる明が見えた。ひどい顔色だ、と思う。明が何かを告げ、それに啓史が首を振った。不服そうに前を向いた明と目が合って、そのとたん明は立ち上がり、真っすぐ竜太朗に向かって来て通路から見下ろす位置で止まった。
「…お前、」
いったん口を開いてから、そのままひと呼吸置いた明は、黙ったまま見上げる竜太朗を苛々とした調子で睨んでいた。その苛立の原因が分かるようで、でも計りかねて、そのまま見ていると、明は自分たちの席の方──つまり啓史の方を見遣り、あからさまに顔を顰めた。 そしてちらり、と正を見て、竜太朗に視線を戻す。
「とりあえず、何にしたって、……限度ってもんは見極めろ」
いつになく、低い声で明が言った。その強い視線をぼんやりと見上げ、正の視線も横に感じながら、竜太朗はシートに身体を沈めた。
「──正くんと、同じこと、言う」
ぼつり、答えると、隣で正が動くのを感じた。明はそっちにまた目線を移してから、竜太朗に向き直る。さっきよりも苛立っているようにも、ひどく冷静なようにも見えた。
「…お前とぶちおも、同じ顔してるよ」
そう言い残して、明は席に戻って行った。
隣の正を見る事もできず、竜太朗はそのまま目を閉じた。東京に着くまで、お互い無言だった。
* * * * * * * * * * * * * * * * *
啓史が立ち去ってから、暫く竜太朗は眠れないでいた。夜明けが近いらしく、カーテン越しの空はうっすらと色づいていた。
このまま泊まっていきなよ。そう言ったのは、三度目の夜だった。罪悪感からのものだった気がするが、極力考えないようにしながら行為の後、啓史が何か言う前に言った。彼はしばらく躊躇する素振りを見せたが、竜太朗がそのままソファベッドに向かうと、大人しくベッドに潜り込んだ。
それから、啓史が何か言う前に泊まるように促す、それが恒例になった。そう言うと、いつも彼はこくりと頷いてベッドに潜った。今日のようにベッドを譲ろうとすることもあったが、いつも竜太朗は拒否した。それも、罪悪感からだった気がする。
無茶はするな、させるな。正と明に、他のメンバー2人に言われたことが響いたことは、確かだ。そもそもこの行為自体が無茶だということも分かっている。それでもどうしてだか、止めようという気持ちは起きず、啓史も最初以来、一度も拒否しなかった。
至極、自然な流れのように、あるいは至極唐突に、彼を求めた。
その度に彼はただ少し笑って、あるいは呆れたような顔で、素直に抵抗なく身を任せる。…何も言わずに。
何度も過ごしたあのベッドで、いつも彼は何を思って眠りに就いているのだろう。今日は、…今は、眠れているのだろうか。今日も決して、自分は優しくなかったはずだ。覚えている大半は、彼の苦しそうな悲鳴と歪んだ泣き顔だ。
…それでも、啓史は拒否はしなかった。今までも、今日も。怒りもせずただ、疲れた、とだけ言った。
ひとつ、ため息をついて目を閉じた。あと数時間で仕事に行かなくてはならない。自分も、彼も。
…ねえ、きみは、大事なものを大事にする、その術を、知ってる?
To Be Continude...
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