ファーラウェイ、ソークロース(前編)
4000HIT komako様へ






“僕らは、近すぎも遠すぎもしないところをただ、歩いていたはずなのに。”








 話やゲームに夢中になって、いつの間にか帰るきっかけを逸していたらしい。気付いた時には、潤がアイジの家に来てから相当な時間が経っていた。時計も天辺を超えて久しい。
「あー、こんな時間じゃん」
 今気付いた、というように声を上げる潤に、アイジが笑う。
「いいじゃん、泊ってけば。潤くん明日オフなんでしょ」
 俺は仕事だけどね。少しぼやき混じりに言いながら、吸い殻の溜まった灰皿を手に立ち上がったアイジを見上げて、潤は少し考えるような素振りをした。
「そんなつもりじゃなかったしなあ」
「俺は別にいいよ。寝巻きぐらいは貸すし」
「そうだね。…そうしよっか。悪い」
 全然いいよ、と答えて隣のキッチンに向かう。灰皿の中身をゴミ箱に空けながら、誰かを泊めるのは久しぶりだな、と思った。誰かを――――彼、を。
 部屋に戻ると、潤は終了したゲーム画面を見るとはなしに見ていた。アイジの気配に振り向いて、笑うその屈託のない表情に、微かなそれでいて言い様のない気持ちがさざ波のように揺れた。
「…とりあえず、風呂入る?」
「あ、うん、じゃあ借りるよ」
 立ち上がった潤をバスルームまで誘導する。タオルと寝巻きを置いてドアを閉める間際、Tシャツをたくし上げた彼の白い背中が見えた。
「…ごゆっくり」
 小さく言って踵を返す、部屋に戻るその足取りがひどく不安定なものなことを、アイジは自覚していた。




アイジが風呂を済ませて部屋に戻ると、すっかり寛いだ風な潤がベッドに寝そべっていた。
「アイジのベッドって一応セミダブルなの?けっこう大きい」
「一応ね。潤くんとこってシングルだっけ?」
「うん、普通よりは大きめだけどね」
 よ、と声をかけて起き上がった潤はきょろきょろと周りを見回した。
「…で、俺はどこで寝ればいいのかな」
 来客用の布団とか簡易ベッドとか?そんなのないのかな、アイジんとこは。
 だったらソファでいいよ、と言い出しかねない潤に笑って、アイジはその隣にすとん、と腰を下ろした。そして何気なく提案する。……他意は、なかった。
「別に一緒に寝ればいいじゃん」
 ごく普通に告げていたことに我ながら内心驚きつつ、あくまで表情は崩さなかった。そうだ、どうってことないことだ。何も。そう、自分に言い聞かせながら。
「げ、お前と?」
 軽く笑顔のまま言ったアイジに、答える潤も笑い飛ばす。
 大丈夫、と思う。大丈夫だ、繰り広げられているのは日常会話だ。
「いいじゃん、広いし。俺は全然構わないよ?……それとも、」
 ……それとも。
「……アイジ?」
「……あ」
 笑って続けたはずだった。しかし潤の瞳が怪訝そうに曇ったのを見て、自分が滲ませてしまったものに気付き、アイジは思わず言葉を呑み込んだ。
「…アイジ?」
 黙り込んでしまったアイジに、一層不信感を募らせただろう潤が声をかける。数秒の間、視線を空に泳がせていたアイジはやがてゆっくりと潤に向き直った。その顔は笑みを残してはいるものの、やけに強い瞳がまっすぐに向けられていて――逸らすことはできなかった。
「……ね」
 不意に手首を掴まれて、反射的にびくりとする潤に、アイジは顔を寄せる。笑顔のまま。
「潤くん、俺と寝るの、嫌?」
「え…」
「…触られるの、嫌?」
 キス、されるのは?
 返事を待たずに口付けた。……どこかで、小さな叫び声がした。嵐の中の笛のように。




「アイジ、何、や…、離せよ!」
 驚きのあまりか、しばらく呆然と受け入れるだけだった潤は、組み伏せられ、アイジの手がTシャツの裾から入り込む頃になってやっと抵抗を始めた。
「嫌だ」
「アイジ!洒落になん、ねって…!」
「洒落じゃないもん」
 捲り上げられた胸をぺろりと嘗め上げ、びくりとする身体を見下ろす。笑みを残した顔はいつもの見知ったアイジの表情とまったく違うようで、それでいて見慣れた空気も纏っていて、潤の思考を混乱させる。
「洒落じゃないって、お前…」
「本気ってこと」
「…おい!」
 首筋に顔を埋められて、潤は押さえ付けられた手首を解こうともがいた。本気なら尚悪い、て言うかどういうことだそりゃ、だいたい何で、溢れる疑問を投げ付けながら。
 渾身の力でもって逃げ出せなかったのは、混乱と僅かな希望があったからかもしれない。脚を開かれ、下着に手を差し込まれて細い悲鳴を上げた時、潤はやっと手遅れなのを悟った。そうなる前に、もっと本気で抵抗しなかったことを悔やみながら―――アイジのためにもそうしてやるべきだったと思いながら、諦めの表情で身体の力を抜いた。
 堪えきれずに涙の滲んでしまった目を硬く閉じ、抵抗をやめた潤を、弄る手は休めずに見下ろして口付ける。応えてはくれないものの逃げない口内を蹂躙して、音を立てて離すと潤んだ瞳が見上げていた。
 ……どうして?
 そう語る瞳に笑って見せた。出来るだけ、いつも通りに。日常の、何でもない行為なのだと誤魔化すように。……彼も、自分すら誤魔化すことなど出来るわけはないと、解ってはいたけれど。
「潤くんが抱きたいんだ」
「…な、アイ…っ」
 事も無げに――少なくとも表面上は――そう言い放つアイジに僅かに講議しようとする素振りを見せた潤を、弄ぶ手を強めることで黙らせる。そして耳許で囁いた。

「…嫌じゃ、ないだろ?」

 あからさまにびくりと震えた肩に舌を這わせる。ちらりと見上げた潤の表情はひどく狼狽えているようで、僅かな罪悪感と共に奇妙な安堵を覚える。……予想通りの反応に。
「ねえ、嫌じゃないだろ?嫌だったら、逃げてよ。もっと、必死でさ」
 震える唇は、発する言葉を捜せないでいるようだった。そう言われて逃げられない自分に対する戸惑いと行為への恐怖と、それと―――恐らくは、突然こんな行動に及んだアイジに対する疑惑と。
 アイジはすっと目を細め、表情を改めた。好奇心や冗談でしているのではない、できることではないことだけは伝えてやりたかった。笑みを消し、真顔で潤を覗き込む。
「俺は、潤くんが抱きたいの。潤くんとセックスしたい。…いいでしょ」
 アイジの本気が伝わったのか、潤は一瞬息を呑み――やがて力なく目を閉じた。




* * * * * * * * * * * * * * * * *






 目覚めた時は既にアイジの姿はなかった。そういえば今日は仕事とか言ってたっけ。そう思いながら身体を起こし、痛みに呻く。
 ……こんなにしといて、放っとき放しかよ。
 僅かに舌打ちして、緩慢な動きで服を着る。重い身体を引きずってリビングに出ると、テーブルに書き置きと合鍵が置いてあった。書き置きには仕事に出掛けることと、鍵は次に会った時に返してくれたらいいということ、冷蔵庫の中身を適当に漁ってくれということ。それだけで、「昨夜」に対する記述はなかった。書けなかったのかもしれない。…書かれても、どう反応していいのか解らないだろうけれど。
「…何てゆーか、なあ…」
 冷蔵庫を開けて取り出した牛乳を飲み干しながら、潤は意味も無い言葉を呟いた。



「嫌じゃないだろ」
 その言葉に絡み取られたように、潤は動けなかった。…今も。






* * * * * * * * * * * * * * * * *






 仕事の関係で、次にアイジが潤と会ったのは数日が経ってからだった。その間、電話などでのやり取りはしていない。する気も、起きなかった。
 仕事場に現れた彼は一瞬言葉を詰まらせ、しかしすぐいつもの笑顔で、おはよう、と言った。だからアイジも同じように返した。
 抱きたいんだ。いいでしょ――――そう言って半ば強引に行為を進めた自分を、悲鳴を上げながらも彼は大人しく身を委ねた。それは彼特有の潔さによるものか、自分に対する好意からによるものか。両方かもしれないけれど。
 だけど、もしそれが自分に対する好意によるものからだとしても、それは、自分の彼に対する感情とは次元の異なるものなのだろう――彼を抱きながら、漠然とそう、思った。
 ……無理矢理に誤魔化して、曖昧なままにした自分の、彼に対する感情とは。





「……アイジ、おいってば」
 不意に響いてきた声にはっとなり、慌てて沈み込んでいたソファから身体を起こす。目の前には潤が、苦笑して立っていた。何だかばつが悪くなって、苦笑で返す。
「ごめん、ぼーっとしてた。何?」
「ああ、これ」
 差し出された潤の右手には、アイジの家の合鍵が握られていた。とっさに手を出して受け取り、ちらりと潤の顔を伺うが彼の表情は至って普通で、逆に不安になる。
「ありがと。…ごめんね、先出ちゃって」
「仕事だったから仕方ないじゃん」
「うん。…でも、」
 言いかけて口籠る。言い易いことではなかったし、彼も聞きたいことではないだろう。誤魔化すように笑ったアイジに、潤は一瞬顔を顰めて、すぐ、苦笑いに戻った。その顔に少し安堵して、――だけど遣り過ごすこともできず、したくもなくて、アイジは立ち上がる。
「…ねえ、潤くん」
 帰り支度をしながら振り向いた潤に、精一杯のさり気なさで、渡されたばかりの合鍵を差し出した。戸惑って揺れる瞳を覗きこむ。
「俺ん家に来てくんない?俺、あと一本取材あるからさ、先に入ってていいから」
「…え」
 当然だろう戸惑いを気付かない振りで、来てよ、とアイジは繰り返す。ためらいがちに出された手に合鍵を渡すと、そのまま部屋を出た。





 仕事を終え、なるべく急いで家に着いたアイジは、下から見上げた自分の部屋の灯りがついていないことを確認して、肩を落とした。
 自分に対する一種の、賭だった。態度を変えなかった彼が、しかし本当のところどう感じているのか、――来てくれるのであればそれは少なくとも拒絶ではないわけで、せめてそうであって欲しかった。
 溜息と共にエレベーターに乗り、自分の部屋の階に降り立ったアイジは、だけど予想していなかった影に驚いて一瞬足を止める。
「…潤くん?」
 自分の部屋のドアの前、壁に凭れるようにして、潤が踞っていた。アイジを見つけ、片手を上げる――やや混乱したような、笑顔で。
「何、やってんの。何で中、入んないの」
 ほぼ駆け寄るようにして近付いたアイジに手を引かれて立ち上がり、潤は俯き加減に、だってさ、と口の中で言った。部屋の鍵を開け、中に促しながらアイジは次の言葉を待つ。
「何か、先入ってんのもなあって思って」

 お前いないのに。

 あくまでさり気なく告げられたそれは、充分すぎるほどの引力でもって与えられて、突き動かされたようにアイジは手を伸ばしていた。
「……ア、」
 バタン、と派手な音をたてて閉まったドアに、引き寄せた潤ごと凭れかかる。反動で腕の中に倒れ込んだ彼が、体制を立て直す前に頬を包んだ。優しく、だけど離れさせない、強さで。
「…アイジ」
 揺れている瞳を覗き込む。戸惑いは溢れんばかりだったけれど、彼だって予想しないはずはなかっただろう。強張った身体は逃げようとはせず、ただ、されるままに委ねられた。
「…ね、触って、いい?」

 吐息がかかるほどの距離で囁かれて、目を閉じた潤の唇に、そっと啄むように口付けた。
 瞳の戸惑いは消えることなく、開いた唇の震えも止まることはなく、強張る身体も安らぐことはなく、そのままの現実をアイジは受け止め、だけどそのままで遣り過ごした。
 そこにいる存在の、手に触れる範囲の確かさだけに縋るように、その裏に気付かないように。
 …………何もかもが、欺瞞だということを自覚しながら。






2003.2.13


4000HIT、komako様へ捧げます。けれど、申し訳ないですけれど続きます(本当すいません!!)
どうしても収まり切れる長さにならなくて、…すいませんです。……それ以前にリク内容に沿えてるのか不安…
なるべく早く終わらせますよう努力しますので、何卒暫しお待ち願います。