“振り払う強さを持たない僕らはまだ、目を閉じたまま歩いている。”
抱き寄せた身体は適度な重みと温かさをもって腕に馴染んだ。
その心地良さに自ら埋没するように、ただ漠然と行為を重ねることをアイジは選んだ。彼に何かを告げるでもなく、彼から何かを強請るでもなく、待つでもなく。
潤はアイジが誘えば、ほぼ断ること無く身体を委ねた。やや渋るような素振りをみせる時も、強引に押せばたいした抵抗もせずに応じてきた。それを単純に喜ぶようにして、事実だけを見るようにして、その背後にあるであろうものに目を瞑り続けた。
「ねー潤くん、たまには潤くん家行きたい」
屈託無く言われた台詞に、潤は軽く目を見開いた。今日いい?との誘いに、どこで、という言葉は含まれていなかったけれど、頷いた潤は単純に、アイジの家に誘われたものと思っていた。
「どうしたんだよ、急に」
「別に。たまには行きたいなって思って。駄目?」
どうせ動物いるからって一旦帰るだったんだろ、だったらどうせ。
ね?と笑うアイジの顔を数秒見つめ返して、潤は小さく笑った。仕方ないな、という表情は、だけど決して不満を浮かべてはいなかった。
「まあ、いいけどね……ウチの奴ら、あんま乱暴に触んなよ」
「やったー、ってどういう意味ー?すっごい可愛がるよ俺!」
「お前加減知らなそうだからさ」
笑って返された言葉に必要以上の意味を感じてしまい、一瞬アイジは呆気に取られ――しかし言った本人には他意はなかったらしく、無邪気にスタッフと挨拶を交わしている。
時々、自覚も無くすごいこと言ってのけてくれるよな、この人は。
小さく息を吐いたアイジは、それでもいそいそと帰る準備をする。何でもないように言ってみたけれど、本当は考えてしばらく様子を見て、その上で誘った言葉だった。だからひどく、安堵して――昂揚していた。
…嫌じゃ、ないんだ。自分を家に呼ぶ、という、そのことは。
「…だ、アイジ、駄目、だ…っ」
強引な仕種で身体を開けられ、投げ出されていた潤の腕がアイジの身体を押し退けようと伸ばされた。
「痛いって…!」
「ああ…ごめん」
一瞬我に帰ったようにし、素直に謝って動きを止めたアイジを、息を乱しながら潤は軽く睨み上げた。その視線の強さを感じ、ばつが悪そうにしながら口の中でもう一度、ごめんと謝る。そうして今度はそっと、注意深く指を這わせた。
「…何、余裕のないやり方してんの」
上がった息のまま潤が聞いてきて、アイジは手を休めずに苦笑した。
「余裕ない?俺」
「ん…何か…っ」
「そんなことないと思うんだけどね……余裕ないのは潤くんじゃね?」
「バ…っ、あ、」
わざと深く押し込まれた指に、潤が背を反らせる。ほらね、と笑いを含んだ声で言いながら、でも本当は自覚していた。余裕なんてとっくになくしてる。
さっきだって本当に、彼が苦痛を訴えるまで気付かなかったのだ。何も、――――気遣いも何もかも忘れて、突き動かされるように彼を、求めていた。
そしてやがて目の当たりにする。――誤魔化しは誤魔化し以上のものにはなり得ないのだということを。
* * * * * * * * * * * * * * * * *
その日はひどく仕事が難航して、解放されたのは予定していた時間より数時間経ってからだった。
気力も体力も消耗し切った、といった面持ちで全員が潮が引くように帰宅の途につくのを、その中に加わる気力も残っていないといった風にただ座って眺めていた潤は、肩を叩かれて椅子から後方を振仰いだ。
「帰んないの?」
すっかり帰り支度を整えた風のアイジが、まっすぐ覗き込んでいた。二、三度瞬きをして、潤はゆっくりと身体を起こす。
「帰るよ、もちろん。疲れ過ぎて、ちょっと動きたくなかっただけ」
「疲れたよねえ」
「まったく」
よいしょ、と声を出して立ち上がる潤に、オッサン、と笑うとむっとした顔を向ける。内心そんな仕種を可愛いと思いながら、ふと思い付いて声をかけた。
「潤くん、車?」
「え?違うよ、今日迎えに来て貰ったもん」
「送ろうか?俺、車だし」
「…マジ?」
聞き返す表情が、一瞬強張ったのが解る。送る、というその行為の延長戦上にあるものを予測して、単純に今日の疲労度から望ましく無いと思っているということなのだろう。そうアイジは察し、それでも引き下がることはしなかった。
「マジマジ。俺ん家でもいいけど」
「……疲れてんのはお前も一緒じゃん」
遠慮せず心底嫌そうな顔を向けてくるのは、気心の知れた仲故か。そんな的外れなことを考えながら、アイジは強引な仕種で潤の手を引いた。こうすればきっと潤は断らない、そう確信しつつ、しかしそれが裏切られることを僅かに望みもしつつ。
そして案の定、少しよろめいた潤は、仕方ないな、という風に息を吐いた。
「…来るだけなら、いいけど」
強引に誘ったはずのアイジが、その時顔を歪めたのも、その理由も、潤は気付かなかった。
行くだけだよ、そう言って頷いたはずのアイジの手が肩を包んで、潤は眉を顰める。
「…アイジ?」
「んー?」
「結局すんのかよ」
「……うん、ごめんね。したい」
「疲れてねえの、お前」
「それとこれとは別」
「…俺は疲れてるんだけど」
溜息と共に向き直った潤に睨まれた。かつてない位の強い瞳に、えー?と誤魔化すように笑いながら、いいじゃんしようよと続けながら、内心アイジは潤からの拒絶を期待していた。
完全に矛盾した期待。そんなことは百も承知だ。
解っていて、それでも抱かずにいられず抱き続けた期待を込めた、言葉だった。
纏わりつくアイジに眉を顰めていた潤は、しかしやがてふっと苦笑を漏らす。
「しょーがねえな。…いいよ、別に」
次の瞬間、潤は思いっきりベッドに叩き付けられていた。
* * * * * * * * * * * * * * * * *
「……アイジっ?」
いきなりの乱暴な行為に戸惑った悲鳴を上げるだけで、とっさに反応できない潤に覆い被さったアイジの顔は怒っているようでも哀しそうでもあった。ますます戸惑いを深めた潤はただ、されるままに――あのときのように動けずに、――横たわっていたものの、両手首を頭上で押さえ付けられて驚愕で身体を強張らせた。
「アイジ!」
逃れる間も無く手近なコードで戒められ、痛みに顔を顰めながら上ずった声で呼ぶ潤を無視して、シャツをたくし上げて胸に舌を寄せた。嫌だ、止めろ、という声が届く。聞こえない振りをして吸い付くと、僅かに震えた身体が精一杯の抵抗とばかりに捩られた。
「アイジ!」
戒められた両手がアイジの頭を掴み、必死で引き剥がそうとする。片手でそれを制したアイジは、胸に這わせた舌はそのままにもう片方の手をズボンの中に捩じ込んだ。瞬間、跳ねる身体。強張る手、上がる悲鳴。
「……アイジ…っ!」
足りない、と思った。そんな悲鳴じゃ届かない。聞いてやらない。
乱暴に潤のベルトを外し、ジッパーを下ろして下着ごと引き下ろした。中途半端に曝け出した下肢に触れた瞬間、潤の喉が引きつったような声を出した。構わず内股に吸い付いて、きつく、吸い上げた時、絶叫ともとれる悲鳴が発せられた。
「嫌だ!嫌だ、こんなのは…っ!」
潤が叫んだと同時に、アイジの動きが止まる。ゆっくりと顔を上げて覗き込むと、潤は涙で濡れた瞳を戒められた両手で覆うようにし、肩で荒い息をついていた。覆い被さるように見下ろすアイジに身体を強張らせ、怯えたような戸惑った目を向ける。
当然だろう。漠然とそう思いながら、アイジは無表情だった。ただ真直ぐに潤を見下ろしながら、無表情なまま告げられた言葉にも抑揚がなかった。
「…嫌、なんだ。これは」
「…アイ、ジ…?」
淡々と、事実を確認するためのように言うアイジを、潤がまだ怯えの残る目で見上げる。その視線を見下ろしながら、だけど潤が見えているのか解らないような平坦な調子で、独白のようにアイジは言葉を続けた。
「だって最初から全然、抵抗しなかったじゃん。今日だけじゃないか、こんなに…泣いて嫌がったの。いつも、…嫌そうにしてても結局はいいよって言うからさ」
今日、確実に疲れているであろう彼を誘ったのも、拒絶の言葉が聞きたかったからだった。
最初は違ったはずだった。受け入れてくれたという事実だけを見て、それだけで満足しようとしていたはずだった。だけどできなかった。
自分は潤に「仕方なく」受け入れて欲しくなどないのだと、気付いてしまった。
「…潤くんはいつでも…何でも受け入れるから」
それが哀しくて。
そこまで言ってアイジは俯いた。暫くして、呼吸を何とか落ち着かせながらアイジの顔を見上げていた潤が、やや掠れる声で告げる。
「…でも、こんなのは嫌だ」
アイジの独白を無視したような言葉は、だけど充分理解しているのだろう。はぐらかすようなそれを、掴み寄せなければ、と思った。
「じゃあ、どんなのならいいの。いつもみたいなのは、嫌じゃないんだ」
「アイ…っ」
再び見下ろされたアイジの瞳は、打って変わったように強い光を宿していて、潤は思わず息を呑む。
「俺は、したいからしてきたんだ。潤くんは、そうじゃないの?」
「…嫌じゃ、ないから」
言ってしまってから、はっとした。逸らさせない強さでもって射抜いたまま、見下ろすアイジの言葉に――「嫌じゃないだろ」という、最初の言葉に絡み取られたままの自分を自覚してしまった。
確かに、嫌ではなかったのだ。それは確かに嘘では無く――――ただ、他の言葉に置き換えようとしてなかっただけ。置き換えることができなかっただけ。
戸惑う潤に、畳み掛けるようにアイジの言葉は続く。逃さない、逸らさせない、そのために。
「でも、こんなのは嫌なんだろ?どんなのならいいの」
そう言って、優しく内股を撫で上げる。びくりとする身体をやんわりと押さえて、「こんなのも嫌?」と聞いた。
「…や、アイジ、」
「言って。どんなのならいいの」
「…アイジ、どうして」
「はっきり聞きたい」
「どうしてだよ」
「聞きたいから」
「…アイジ!」
叫び声は悲鳴に近くて、見上げる潤の瞳は再び潤んでいた。どうして今更、と言いた気な視線に気付いて、アイジはその表情を緩めて一瞬苦笑し――泣きそうに、顔を歪める。
「…アイジ?」
その腕が潤を引き上げ、抱き寄せて、首筋に顔を埋めた。限界だと、呟いて。
* * * * * * * * * * * * * * * * *
潤を抱き締めた、アイジの腕は震えていた。ただ抱き締められたままの潤は、耳許にかかる吐息をただ、受け止めるばかりだった。
「俺もう、限界なんだ。もう駄目。潤が…遠くて」
こんなに近いのに、とても遠くて。
空気を抱くだけのような、想いを抱くだけでこの腕の中には何も残らないような、それがどうしようもなく哀しくて。
「遠いよ、お前は……すごく、遠い」
アイジは腕をずらし、潤の身体を包み直した。されるままの潤は、おとなしく身を任せる。胸に触れる潤の瞼が少し震えているのを感じて、身体を預けてくれるのを感じて、どうしてこれで充分だと思えないのだろうと、泣きそうになった。足りなくて渇望したその眼差しを、欲したりしなければ――だけどもう、誤魔化しは効かないところまで来てしまった。
目を瞑ることが出来ないように、してしまった。
「ねえ、こうされるの、嫌じゃない?」
暫くただ抱き締めて、ぽつりとアイジが聞いた。
「…うん」
さっきまでの弱々しい声では無く、至って普通の――無邪気とさえ言える声で、逆に潤は切なかった。だから、精一杯答えた潤に、アイジの問いは続く。
「キス、されるのは、…嫌じゃない?」
「うん」
「………俺に抱かれるのは?」
「……うん。嫌じゃ、ない。……だからアイジ、」
ゆっくりと潤はアイジの腕から身体を起こした。未だ戒められたままの両手をアイジの首に掛ける。そしてゆっくりと唇を合わせた。……初めて潤から、口付けた。
「…じゅっ……」
その身体を力一杯抱き締めて――――そのままベッドに沈め、沈められながら、やっと真直ぐに向き合ったお互いを知る。絡み合った眼差しが、何を生み出すのか、または失くすのかは予感すらまだ出来ないけれど、逸らすことだけは二度としないだろう。
誓いのようなものを抱いて落とした口付けの下、潤も目を逸らしはしなかった。
“歩みの果てにやがて伸ばす手の先。触れるのはどうぞ君であるように。”