聖徳太子異聞


[ 1: 修学旅行 ]

宅急便

横浜に住む中学 3 年の孫が今年の春に修学旅行で九州に行きましたが、飛行機で往復し、手荷物は往復とも宅急便で ホテルや自宅に送り、身軽な旅だったそうで時代の変化を感じさせられました。

ところで敗戦から 6 年後の昭和 26 年 ( 1951 年 ) の秋のこと、当時 関東北部の栃木県にある高校の 3 年生だった私は修学旅行専用の団体列車に乗り、生まれて初めて京都 ・ 奈良へ旅行に行きましたが、 丁度 60 年前のこと でした。当時の日本は貧しくて ( 注 参照 ) 栃木の田舎から関西旅行に行くことなど、人生で唯一の チャンス (?) になるかも知れないので、なるべく多くの生徒が参加できるように、学校では入学時から修学旅行費用の 積立制度を実施していました。

注 : ) 貧しかった日本の社会
貧しさを表す具体的数値として大学進学率を示すと、文部省 ( 現 ・ 文部科学省 ) の 文部省年報 によれば、昭和 25 年 ( 1950 年 ) における大学進学率は、僅か 6 パーセント でした 。

ちなみに平成 15 年 ( 2003 年 ) の同じく 「 学校基本調査 」 によれば、4 大への進学率は 41.3 % 、専門学校進学率 23.1 %、短大進学率 7.7 %、高専進学率 0.8 % 、以上の合計は 72.9 % でした

蒸気機関車

今では飛行機を利用すれば 東京−−大阪間が 1 時間 10 分の日帰り圏となり、新幹線の 「 のぞみ 」 に乗れば東京から京都まで 2 時間 20 分前後で行けますが、当時は東海道本線の電化区間が東京から浜松までの 257 キロしかなく、そこから西へは牽引する電気機関車を蒸気機関車に付け替えて運行していました。

修学旅行専用の夜行列車では 13 時間もかかりましたが、東海道本線が全線 ( 東京−−大阪間 )電化されたのは昭和 31 年 ( 1956 年 ) 11 月のことでした。

玉虫厨子

修学旅行で今も記憶に残るのは京都の清水寺、奈良の東大寺大仏殿と法隆寺ですが、教科書で習った国宝である法隆寺の玉虫厨子 ( たまむしの ずし ) は、千数百年の経年変化により玉虫の羽の部分がすべて黒く変色していたので、失望したのを覚えています。

[ 2 : 玉虫厨子 ]

法隆寺の伝承によれば この玉虫厨子は、 推古天皇 ( すいこ女帝、在位 592〜628 年 ) が日頃から念持仏 ( ねんじぶつ ) として身近に置き信仰していた仏像 を祀 ( まつ ) るために、飛鳥時代 ( 592〜710 年 ) の初期に作らせたとされます。

現在は寺の大宝蔵院に収蔵されて年に数回しか公開されませんが、当時は常時公開されていました。厨子は木造 ・ 漆塗り ・ 高さ約 226 センチ で、 宮殿部の金具の下に玉虫の羽が貼り付けられていたことからこの名前がありますが、本尊として中に納められていたはずの推古天皇の念持仏は既に失われていました。

復刻版玉虫厨子 飾り金具

ところで近年、岐阜県高山市在住の篤志家 ( とくしか、ある事に特別な志を持つ人 ) が 1 億円以上もの私費を投じて、平成15 年秋から 5 年をかけて、玉虫厨子 2 基を作り法隆寺に寄進しましたが、問題の玉虫については東南 アジアから入手した玉虫を使用したのだそうです。

上の左側の写真で手前にある厨子は、国宝の玉虫厨子の細部までも忠実に再現した 復刻版 [ ふっこくばん、古い書籍を出版する場合、新しく版木 ( はんぎ ) を刻んで作ったことから、忠実に模して作られたものの意味 ] ですが、玉虫厨子の名に相応しく宮殿部の透かし彫り金具の下には、玉虫の羽 6,622 枚 が貼り付けられています。

奥の厨子は 平成版の玉虫厨子 で、金具の下だけでなく四つの面に描かれた自己犠牲の教えを説く、 捨身飼虎図 ( しゃしん しこず、注 参照 ) などの仏画にも、 3 万 6 千枚以上の羽を使って豪華に仕立てられ、鮮やかな緑色の輝きを放っているとのことでした。

捨身飼虎図

注 : )
捨身飼虎図 ( しゃしん しこず ) とは飢えた母虎とその子どもたちを救うために、 釈迦の 「 前世 」 における名前 である 「 さった王子 」 が、崖から飛び降りて自分の身を投げ与えたとされる、前世 ( ぜんせ ) 物語 ( ジャータカ ) のうち一つです。

中央に倒れている白い人の形をしているのが王子で、上に乗っているのが飢えた母虎と、周囲に子供の虎たちが描かれています。

玉虫

右の昆虫は東京で生まれ育ち、戦争のために小学校 5 年生 ( 昭和 19 年、1944 年 ) から長野県や栃木県の田舎で暮らすようになった私でも、滅多に捕まえることができなかった 「 ヤマトタマムシ 」 で、体長は 3〜4 センチ です。

タマムシは鞘翅目 ( しょうしもく ) タマムシ科の甲虫の総称で、英語では ジュエル ・ ビートル ( Jewel beetle 、宝石の甲虫 ) といい、真夏の 7〜8 月に産卵し、卵は 3〜4 週間で幼虫になり、エノキ ・ サクラ ・ ケヤキなどの木の中へ食い進み、 3 年目の 6〜7 月に成虫になり 7〜8 月には死ぬのが 一生です。

[ 3: 暗殺された天皇 ]

仁徳天皇陵

日本の歴史を見れば天皇家の内紛によって殺された天皇に 第 20 代、 安康天皇 ( あんこうてんのう、生没年不明 ) がいましたが、彼は日本最大の前方後円墳 ( ぜんぽう こうえんふん、全長 486 メートル ) を築かせた、 仁徳天皇の皇子 である大草香皇子 ( おおくさかの みこ ) を殺し、未亡人となった中蒂姫皇女 ( なかしの ひめみこ ) を妃 ( きさき ) にしました。

大草香皇子 ( おおくさかの みこ ) には皇子の 眉輪王 ( まよわの おう ) がいましたが、父を殺され母を奪われた仇 ( かたき )を 取るために安康天皇 を殺害しました。

崇峻天皇

日本書紀によれば崇峻 ( すしゅん ) 5 年 ( 592 年 )11 月に、当時天皇の下で大臣 ( おおおみ ) として権力を振るっていた豪族の蘇我馬子 ( そがの うまこ ) が、腹心 ( ふくしん、深く信頼する ) の部下である東漢 直駒 ( やまとのあやの あたいこま ) に命じて 第 32 代 崇峻天皇 ( すしゅんてんのう、 生年不明 〜 592 年、右図 ) を暗殺させましたが、原因は政治権力の対立で馬子からすれば、やられる ( 殺される) 前に天皇を殺したのでした。

臣下の手によって殺された天皇で、明白な証拠のあるは崇峻天皇 ( すしゅん てんのう ) ただ 1 人ですが、しかも天皇の遺体は天皇家の葬儀儀礼に反して、 殯 ( もがり ) もせずにその日のうちに埋葬されました。

犯人の東漢 直駒 ( やまとのあやの あたいこま ) はその際に天皇の後宮にいた美女を略奪しましたが、これが崇峻天皇の妃 ( きさき ) であった蘇我馬子( そがの うまこ ) の娘の河上娘 ( かわかみの いらつめ ) でしたので、直駒 ( あたいこま ) は馬子による報復と口封じ のために殺されました。 しかし蘇我馬子は天皇暗殺の責任を問われることもなく、その後も大臣 ( おおおみ ) として次の推古天皇に仕え権勢を振るい、蘇我氏の全盛時代を築きました。

注:)
孝明天皇

参考までに幕末の開国政策をめぐり 外国艦隊との武力の大差を理解できずに、攘夷論を強硬に主張した第 121 代、孝明天皇 ( こうめい てんのう、1831〜1866 年 ) については、公式には 36 才の時に天然痘により死亡したとされましたが、当時から公家出身の岩倉具視 ( いわくら ともみ ) などの、開国派による 暗殺説 がささやかれたものの、確実な証拠はありませんでした。


( 3−1、天皇家の家系図

古代天皇家の家系図を見ると非常に複雑なことに気が付きますが、その理由は

  1. 近親結婚が多い ことであり、 同母の兄妹間の結婚だけは 禁止 されていたものの、 異母兄妹 ( 腹違いの兄妹 ) であれば普通のように結婚し 、叔父が姪と結婚するのもよくありました。

    厩戸 ( うまやど ) の皇子 ( 後の 聖徳太子 ) の場合は、父が第 31 代、用明 ( ようめい ) 天皇で母が間人 ( はしひと ) 皇后でしたが、二人は第 29 代、欽明 ( きんめい ) 天皇 の、異母兄妹 ( 腹違いの兄妹 ) でした。

  2. 一夫多妻の習慣 から 皇后 ・ 妃 ( きさき ) と称する女性が何人もいて、上述の聖徳太子も 妃 が少なくとも 3 人、資料によっては 4 人もいました。

    当時の貴族 ・ 豪族の結婚形態は夫婦が同居せずに、子供と共に暮らす妻の家を夫が訪れる 妻問婚 ( つまどいこん ) の形態でしたが、古代から源氏物語でお馴染みの平安時代を経て鎌倉時代初期まで続きました。

  3. 必然的に子供の数が多くなり、 物部 ( もののべ ) 氏 ・ 蘇我 ( そが ) 氏 ・ 後には藤原氏 などの有力豪族が競って天皇家に娘を差し出して外戚関係の構築をはかり、家門繁栄 ・ 官位昇進をめざし、 皇位継承争いに大きな影響を及ぼしました。同母 ・ 異母にかかわらず、兄弟である皇子同士や近親者との 皇位継承をめぐる抗争 が起きました。

    天武天皇

  4. 古代史上最大の内乱は、天智天皇 ( 第 38 代 ) の皇太子の 大友皇子 ( おおともの みこ、648〜672 年 ) と、天智天皇の実弟 大海人皇子 ( おおあまのみこ、?〜686 年 ) 、つまり 叔父 と 甥 ( おい ) が皇位の継承をめぐって争い 、 地方の豪族を巻き込む戦乱となった 壬申の乱 ( じんしんの らん )でした。

    名前の由来は 672 年の壬申 ( みずのえ さる、音読みで じんしん ) の年に起きた戦乱であり、敗れた大友皇子は自殺して収束しました。上図は勝利した大海人皇子 ( おおあまの みこ ) で、後に即位して 第 40 代 、天武 ( てんむ ) 天皇になりましたが、性質が悪そう ! 。

    参考までに敗れた大友皇子は 1,200 年後の明治 3 年 ( 1870 年 ) になって、 第 39 代 、弘文 ( こうぶん ) 天皇 と 諡号 ( しごう、おくりな ) を贈られましたが、となると壬申の乱は 二人の天皇同士の戦い  であった という奇妙なことになります。


( 3−2、姿色端麗 )

ところで暗殺された崇峻 ( すしゅん ) 天皇の後に皇位を継いだのは、 日本初の女帝 である 第 33 代、推古天皇 ( 554〜628 年 ) でしたが、勢力を持つ豪族たちの妥協の産物でした。彼女は第 29 代 欽明天皇 ( きんめいてんのう ) の皇女で、幼名を 額田部皇女 ( ぬかたべの ひめみこ ) といい、後には炊屋姫 ( かしきやひめ ) と呼ばれた 評判の美女でした 。日本書紀の巻 22、推古紀には以下の記述があります。

幼曰 額田部皇女 姿色端麗 進止軌制 年 十八歳 立爲渟中倉太玉敷天皇之皇后 卅四歳、渟中倉太珠敷天皇崩

[ その意味 ]
幼名を 額田部皇女 ( ぬかたべの ひめみこ ) といい、 姿色端麗 ( みかお きらきらしく、姿や顔かたちが美しく整っている ) で、しかも 進止軌制 ( しんし きせい、立ち居振る舞い ・ 動作が礼儀作法にかなっている ) 、18 才で 渟中倉太玉敷天皇 [ ぬなくら ふとたましき てんのう 、= ( 第 30 代、)敏達天皇 、 びたつてんのう、生没年不明 ] の皇后になりましたが、 彼女が 34 才の時に敏達天皇が亡くなりました。



[ 3−3、衣通姫 ( そとおりひめ ) 伝説 ]

竜宮城

日本書紀によれば、第 19 代、允恭天皇 ( いんぎょうてんのう、生没年不明 ) の皇后である忍坂大中津姫 ( おさかの おおなかつ ひめ ) には妹の 弟姫   ( おとひめ、浦島太郎伝説にある竜宮城の 乙姫 ではない ) がいましたが、この女性の容姿が あでやかで しかも動作が優雅 、その美しさが衣を通して照り輝いたので衣通姫 ( そとおりひめ / そとおしひめ ) という名が付いたとされ、日本書紀 ・ 古事記で 1 〜 2 を争う美人でした。

皇后は多くの子を産みましたが、その中に第 1 皇子の皇太子である木梨軽皇子 ( きなし かるの みこ )と 、第 5 皇女の軽大娘皇女 ( かるの おおいらつめ ) の兄妹がいました。

透ける服

妹の軽大娘皇女 ( かるの おおいらつめ ) も叔母に似て美しい女性で、その 美しさが 叔母同様に 衣を通して あらわれる ようだという意味から 衣通姫 ( そとおりひめ ) と呼ばれていましたが、現代的表現をすれば衣服を透して肌の美しさが見える シー ・ スルー ( See through ) とでもいうのでしょうか !。

ところで兄の木梨 軽皇子 ( きなし かるの みこ ) についても日本書紀の允恭紀 ( いんぎょうき ) によれば、

容姿佳麗 ( みかお きらきらし )、見立てまつる者、自( おのずか ) ら 感 ( め ) づ、

つまり誰が見ても眉目秀麗 ( びもく しゅうれい 、ハンサム ) な美青年でした。この皇太子である木梨軽皇子 ( きなし かるの みこ )が、こともあろうに同母の妹である衣通姫 ( そとおりひめ ) 、 つまり軽大娘皇女 ( かるの おおいらつめ ) に恋をして、密通 ( 近親相姦 ) をしました。 

ここからが日本書紀と古事記の記述に違いがありますが、さすがの允恭 ( いんぎょう ) 天皇も同母兄妹の近親相姦を罪悪視して、[ 古事記 ] によれば妹を伊予 ( 愛媛県 ) の湯 ( 道後温泉 ? ) に流罪にしましたが、皇太子の軽皇子 ( かるのみこ ) は 「 品行 」 の悪さから臣下の信頼を失い、允恭天皇 ( いんぎょうてんのう ) の死後、同母の弟である穴穂皇子( あなほのみこ ) との 皇位継承争いに敗れて自殺しました

なお別の伝説によれば、木梨軽皇子は流罪になった妹を思慕して伊予 ( 愛媛県 ) に行き、最後は 共にみずから死せたまひき 、つまり 二人は 心中して 果てました−−−とさ。


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( 3−4、 容姿 端麗は死語 ? )

話を現代に戻しますと以前の スチュワーデスの募集要項には、必ず 容姿端麗 ( ようしたんれい ) という文言がありましたが、航空大量輸送時代となり プロペラ機から ジェット機へ時代が変わり、飛行機の便数が増え しかも大型機の使用により、航空会社では何千人もの スチュワーデスが新たに必要になりました。

しかし 20 代前半の女性に占める 容姿端麗な人の 割合は 、突然変異でも起きない限り、 オーストリアの植物学者で修道士の メンデル ( Mendel、1822〜1884 年 ) が修道院の庭で、 エンドウ の人工交配による遺伝実験を繰り返した結果から発見した 遺伝の法則に従い、 昔から ほぼ 一定 のはずでした

つまり前述した衣通姫 ( そとおりひめ ) 伝説にあるように、美人は美人の血筋から生まれる可能性が高く、 DNA に刻まれた 遺伝的形質 ( いでんてき けいしつ、美人になる要素 ) が重要な割合を占めていて、美人に対する需要が高まれば容姿端麗の女性が増えるわけでは決してありません。

航空業界では美人女性の量的不足から、やむなく容姿端麗の イメージにそぐわない応募者 、つまり  十人並み ( 普通 ) に 近い こ ( 娘 )も、採用せざるを得なくなりました。 

( 3−5、ホステス に変更 )

40 年近く前のこと、鶴丸航空では スチュワーデスの呼び名を英国系航空会社の 猿 マネ をして、 エアー ・ ホステス ( Air hostess ) に変更しましたが、ホステス ( 女主人 ) の イメージが日本の社会ではもっぱら 、「 バーや キャバレーの ホステス 」 に代表される 水商売の女性 を連想させるのは、ご存じのとおりです。

そこで 機内の乗客からは 「 ホステス さーん 」 とか、中には 「 おい 姐 ( ねえ ) ちゃん 」 などと呼ばれるようになったため、スチュワーデス諸嬢の プライドが著しく傷つけられ、彼女たちから会社に苦情 ・ 抗議が殺到しました。「 ホステス 」 の 語感の悪さ にようやく気付いた会社が、 1 年足らずで元の スチュワーデスに呼び名を戻しました。

KLM−航空機

参考までに 欧米先進国 では客室乗務員に対する 社会的評価が 低く 一般に高卒女性が就く職業とみなされていますが 、短大卒以上の高学歴を採用条件にする航空会社は、私が知る限り K L M オランダ航空しかありません。つまり オランダの首都 アムステルダムにある スキポール空港がいくら立派でも、 オランダ人は もともと ヨーロッパ の田舎者であり、先進国ではないということです。

機内における客室乗務員たちの仕事を見れば短大卒以上の大学教育など必要とせず、 8 割 が飲み物や食事の サービス、 つまり お運び であり 、2 割が座席 ベルトの確認などの保安要員としての仕事に過ぎず、彼女たちが鼻を高くし胸を張って歩けるのは、日本国内の空港だけです。

日本では現在 札幌と、大阪や東京 ( 上野 ) とを結ぶ トワイライト エクスプレス ・ カシオペア ・ 北斗星 の 3 本の特急寝台列車 に限り食堂車が連結されていますが、そこで働く ウエイトレスの、懐石御膳 ( かいせき おぜん ) や フランス料理 コースを 「 お運び 」 する仕事と内容的にはほとんど変わりません。

今では スチュワーデスの呼び名は少数派となり、 C A ( キャビン ・ アテンダント )、あるいは F A ( フライト ・ アテンダント ) が主流ですが、その数は日本で 約 7 千人もいるといわれ 、航空業界では最早や容姿端麗の文言は死語となり、C A や F A の募集要項から消滅したのは当然のことでした。

[ 3−6、職業病、腰痛 ・ 膀胱炎(?) ]

トイレの順番

スチュワーデスの職業病の一つは腰痛ですが、 あるとき鶴丸航空の F A が膀胱炎 ( ぼうこうえん ) になり、公務傷病として認定するよう会社を訴えたことがありました。

機内における トイレの使用について飛行中は乗客を優先させたために、自分が行きたい時に トイレに行けず、排尿を 我慢させられたのが病気の原因 (?) とするものでしたが、男性に比べて尿道が短い女性の病気に関する訴訟の結果については、残念ながら分かりませんでした。

重労働

イラストは航空会社が経営合理化の一環として機内 サービスを有料にしたので、スチュワーデスが自動販売機を押しながら乗客に飲み物 ・ スナックなど購入させる(?) 迷案です。

膀胱炎の件はさておき、美人の形容詞である なよなよした細腰 ( さいよう ) の女性は、客室通路に敷かれた安物の 「 じゅうたん 」 の上で重い ミール ・ カート ( Meal cart 、食事を搭載した カート ) や、リカー ・ カート ( Liquor cart、アルコール飲料を搭載した カート ) を押したり、中腰になっての飲食物 サービスは腰痛になり易いのだそうです。

そのために航空会社では 1975 年頃から応募者に体力 テストを実施したり、客室労働に適した腰痛とは無縁らしい、 腰回りの太い 体形の女性を採用することにした (?) とか、しないとか ウワサ がありました。

肥えたCA

その後、昭和 61 年 ( 1986 年 ) 4 月に男女雇用機会均等法が施行され C A の定年も 60 才 になりましたが、今では子持ちの C A や F A は当たり前となり、中には母と娘の同業者がいたり、 孫までいるお婆ちゃん C A や F A もいるそうで、体形に関する問題も 自然に解消されたらしい と聞いておりますが、ハイ 。

ちなみに昭和 40 年代 ( 1965 〜 1974 年 ) の スチュワーデスの定年は 30 才 でしたが、その年齢に決めた理由は江戸城 ・ 大奥や大名の側室が 30 才で 、「 おしとね辞退、夜伽 ( よとぎ ) 免除 」 になったからともいわれていますが、真偽のほどは不明です。

シンガポールCA

C A の若さが売り物 の シンガポール航空では現在も 37 才 が定年ですが、日本では妊娠した C A は乗務不可となるものの、アメリカでは妊娠 6 ヶ月まで C A の乗務が可能です。会社により異なるものの、大手航空会社では定年が 70 才ともいわれていて、補聴器を付けた C A がいた (?) という ウワサもありました。

一般に 早熟な人種 ・ 民族ほど、逆に老化も早い のが自然の摂理 ( せつり、支配している法則 )であり、小柄な日本女性は外国では普通 10 才程度若く見られますが、逆をいえば 70 才に近い 白人系の C A は日本人の目からは、 80 才程度 (?) に見えるかもしれません。


[ 4 : 女帝の誕生 ]

推古女帝

息抜きのために脇道に逸れた話を 本題に戻しますと 、前述のごとく、592 年に第 32 代、崇峻 ( すしゅん ) 天皇が蘇我馬子 ( そがのうまこ ) の腹心により暗殺され皇位が空になると、群臣はこぞって美人で 34 才と若く、しかも聡明な未亡人の 額田部皇女 ( ぬかたべの ひめみこ ) 改め 炊屋皇女 ( かしきやの ひめみこ )、 ( 第 30 代、敏達天皇の皇后であった ) の即位を望みました。

しかし彼女は異母兄の崇峻 ( すしゅん ) 天皇が馬子の手下に暗殺されたこともあり、何度も辞退したものの 三度目にようやく承諾しました。

そこで天皇の璽印 ( みしるし、 三種の神器のうちの 鏡と剣 ) を皇后に奉り、崇峻 5 年 ( 592 年 ) 12 月に豊浦宮 ( とゆらのみや、奈良県 ・ 明日香村 ) で、日本初の女帝として第 33 代、推古天皇に即位しました。

女性として初めて帝位に就いた推古天皇は権勢を振るう豪族の蘇我氏との対応で難しい立場にあったため、翌年 4 月に 甥 ( おい ) に当たる 廏戸皇子 ( うまやどのみこ、= 聖徳太子 ) を摂政に任命しました。これについて日本書紀によれば、

推古元年夏四月庚午朔己卯、立廏戸豊聡耳 皇子 為 皇太子 仍録 攝政 以萬機悉委焉

[ その意味 ]
推古元年夏 四 月庚午 ( かのえ うま ) 朔 ( さく ) 己卯 ( つちのとの う、十日 ) に廏戸豊聡耳皇子 ( うまやどの とよとみみの みこ ) を皇太子 ( ひつぎのみこ、日嗣の御子 ) に立てて政務全般に当たらせ、国政執行の権限をことごとく任せる、つまり 摂政 ( せっしょう、天皇に代わって政務をおこなうこと ) の始まりでした。

推古女帝の摂政となった廏戸皇子 ( 聖徳太子 ) は、法隆寺を建てるなど仏教政策を推進し、603 年には中国の官僚制を手本にした冠位 ( かんい ) 12 階を制定して、役人の登用には豪族の身分秩序による世襲制から、個人の能力による 1 代限りの官吏の序列とし、604 年には日本初の成文法である 17 条の憲法を制定しました。

[ 5 : 諡号 ( しごう、おくりな ) ]

ここで注意すべき点は、 聖徳太子 という名前は生前の徳行を称え、 死後に贈られた 諡号 ( しごう )、つまり 「 おくりな 」 であり、 生前に使われたものではありませんでした 。では生前の名前は何かといえば、幼名を 廏戸皇子 ( うまやどの みこ )、 豊聡耳皇子 ( とよとみみの みこ ) 、あるいは 廏戸豊聡耳皇子 ( うまやどの とよとみみの みこ ) といい、後には 上宮聖王 ( うえのみやの せいおう ) 、 法大王 ( のりの おおきみ )などと呼ばれていました。

ちなみに和歌山県 ・ 伊都郡 ・ 高野町 ・ 高野山にある金剛峯寺 ( こんごうぶじ ) を開山し、真言宗の開祖 ( かいそ、宗派のもとを開いた人 ) となった、空海 ( 774〜835 年 ) の 弘法大師 も彼に対する諡号 ( しごう、おくりな )です。

空海と同じ遣唐使船に乗り 804 年に入唐し、後に滋賀県 ・ 大津市 ・ 坂本本町にある比叡山延暦寺で天台宗の開祖となった 最澄 ( さいちょう、767〜822 年 ) は、死後44 年目 に日本初の大師号である 伝教大師 ( でんぎょうだいし ) の諡号 ( しごう、おくりな ) を朝廷から授かりました。

しかし空海の場合は僧職者として問題がある政治権力への接近や、 旺盛な権勢欲 が災いして 、空海の死後 86 年目 の延喜 21 年 ( 921 年 ) になって、 最澄に遅れること実に 42 年 後に 、ようやく天皇から弘法大師号を授かりましたが、優れた才能を持ちながらその一方で 他人に嫌われる性格 の持ち主でもありました。

[ 6 : 名前の由来 ]

前述したように廏戸皇子 ( うまやどのみこ、聖徳太子 ) はいろいろな名前で呼ばれましたが、

( 6−1、豊聡耳皇子、とよとみみの みこ )

豊聡耳皇子 ( とよとみみの みこ )の名前の由来については、720 年に成立した日本書紀の巻22、推古紀によれば、

生而能言有聖智及壮一聞十人訴以勿失能辨

[ 読み方 ]
生 ( あ ) れながら能 ( よ ) く言 ( ものい ) ふ。聖 ( ひじり ) の智 ( さとり ) 有り。壮 ( おとこさかり ) に及びて 一 ( ひとたび ) に 十人 ( とたり ) の訴 ( うたえ ) を聞き、失 ( あやま ) ちせずに能 ( よ ) く弁 ( わきま ) へる。

1 度に 10 人 の訴えを聞くというのは もちろん太子信仰により作り出された伝説ですが、12 世紀以前に書かれた上宮聖徳法王帝説 ( じょうぐう しょうとく ほうおう ていせつ ) によれば 1 度に 8 人 の訴えを聞き、間違いなくそれを判別したとされます。


( 6−2、厩戸皇子 ( うまやどのみこ )

廏戸皇子 ( うまやどのみこ = 聖徳太子 ) と名付けられた 「 いわれ 」 は、第 31 代 用明天皇 ( ?〜587 年 ) の皇后であった生母の穴穂部間人皇后 ( あなほべの はしひとの ひめみこ、?〜622 年 ) が

  1. 日本書紀の 推古紀によれば、
    皇后懐妊開胎之日巡行禁中監察諸司于馬官乃厩戸而不労忽産之

    皇后が出産 ( 予定 ) の日に、宮中をめぐって各役所を視察していたとき、 馬官 ( うまの つかさ ) のところで急に産気づき、苦労することなく 厩戸 ( うまやど ) で赤子を産んだ 。   

  2. 上宮聖徳法王帝説 ( じょうぐう しょうとく ほうおう ていせつ ) によれば、
    池邊天皇 ( いけのべ てんのう、= 第 31 代 用明天皇 ) の 后、穴穂部間人王( あなほべの はしひとのおう )、厩戸 ( うまやど ) に 出 ( いで )ましし時に 、忽 ( たちま )ち 上宮王 ( うえのみやの おおきみ、厩戸皇子 )を産 ( う ) みたまいき。

    と記されていましたが、ここでは  厩戸 ( うまやど ) という地名 の土地に行った時に産気づき、そこで出産したために厩戸皇子 ( うまやどのみこ ) と名付けられたことになっていました。


( 6−3、歴史資料評価の原則 )

歴史上の人物について正確に知るには、なるべく その時代 に書かれた資料 ・ 文献を参考にするのが歴史の常道ですが、その人が生きた時代から時が経てば経つほど、後で書かれた歴史資料の 信頼性は低下する のが評価の原則といわれています

その意味からすれば廏戸皇子 ( 聖徳太子 ) の場合は、同時代に書かれた資料が極めて少ないので、 聖徳太子は実在しなかった と主張する歴史家もいるほどです。


[ 7 : 聖書物語との類似点 ]

馬小屋

聖徳太子が廏戸 ( うまやど ) で生まれた話を聞くと、それよりも 574 年前 の 西暦元年頃に、 ベツレヘム ( Bethlehem 、現 ・ パレスチナ自治区 ・ ヨルダン川西岸にある ベツレヘム県の都市 ) にある 馬小屋 で、 聖母 マリアが イエス ・ キリストを産んだ話 ( 注 、参照 ) を連想しますが、一説によれば中国に伝来した キリスト教の 一派である景教 ( けいきょう ) の教えが 7 世紀には、すでに唐の都 長安で流行していました。

注 : ) 馬小屋での出産
新約聖書 ・ ルカ による福音書 ・ 第 2 章 ・ 6〜7 節 によれば、

ところが彼ら ( 夫の ヨセフと妻の マリア ) が ベツレヘム に滞在している間に、マリアは月が満ちて 初子を産み 布にくるんで 、( 馬小屋の ) 飼葉桶 ( かいばおけ、馬の飼料を入れる おけ ) の中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。

と記されていました。

第 38 代 天智天皇 ( 在位 668〜671 年 ) 〜 第 40 代 天武天皇 ( 在位 673〜686 年 ) の頃に、日本から唐に留学した留学僧が、中国の最新情報として新しい宗教である景教の情報を日本にもたらした結果、720 年に成立した日本書紀の編者などが キリスト誕生物語 を知り、 聖徳太子誕生の説話に付会 ( ふかい、こじつけて関係を付けること ) した ともいわれています。

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