北 方 探 検 家、間 宮 林 蔵


[ 1、は じ め に ]

 18 世紀になると 帝 政 ロ シ ア が、極東地域 において 「 東 方 進 出 」 とよばれる 政 策をとるようになりました。これは シ ベ リ ア から モ ン ゴ ル ・ 中国 東北部 の ウ ス リ ー 江 ・ 黒 竜 江 ( ア ム ー ル 川 ) に 至 るまで 領土を 拡張 し、不凍港 を 確保 するというもので した。

18 世紀 の日本 は 江戸時代 で したが、 ロ シ ア の 領土拡大 活動 が 盛 んになり、それに 刺激 されて 幕府の 要人 たちも 蝦 夷 地( えぞち 、北海道 )や その 付近の 島々 ・ 樺太 ( カラフト、現 サハリン ) にも 監視 の 目を向けるようになりま した。

シベリア 大陸を東進 した ロシア 人 が初めて 千島列島 に渡ったのは 1711 年 で したが、この 年 に ロ シ ア の 兵士達 が 占 守 島 ( シュムシュ 島、Shumshu ) に 初めて上陸 しま した。

文化 3 年 (1806 年 ) に ロ シ ア の 兵隊 たちが、 樺 太 ( カラフト、現:サハリン ) 南 岸 にある 日本人 の 番 屋 ( ばんや、漁 師 などの 宿泊小屋 )を 次々に 襲 撃 し、番 人 を 捉 えて 倉 庫 などを 焼き 払 いま した。

翌年 ( 1807 年 ) には ロ シ ア の 軍 艦 が 択 捉 島 ( エ ト ロ フ 島 ) に あ る シ ャ ナ の 番 屋 や 会 所 ( カイショ、幕府や 松前藩の 役所 ・ 事務所 ) を 襲 う 「 シャナ 事 件 」 が起き、 砲 撃 ・ 銃 撃 により、アイヌ 人 や 日本人 に 犠牲者 が 出 ま した。

この事件 をきっかけに 幕府は 蝦 夷 地 ( えぞち ) 全体 ( 現在 の 北海道と その 周辺 の 島々 ) および 樺 太 ( カラフト、現 サハリン ) の 最 南 端 を、それまでの 松前藩 の 領 地 から 江戸幕府 の 直轄地 に 切り換 えて、蝦 夷 地 の 行 政 ・ 海 防 ・ 開 拓 などを 扱う 老 中 の 支配下 に 松前奉行 を 設 け、防 備 に 努 めるようになりま した。

さらに 2 年後 には 幌 筵 島 ( パ ラ ム シ ル 島、Paramushir ) にも ロ シ ア 人が 上陸 しま したが、その後 千島列島 周辺には 高価 な 毛 皮 が 穫 れる ラ ッ コ や、ニ シ ン ・ 鮭 ・ 鱒 ・ カ ニ などの海の 生物 が 豊富 な 漁場 であることが分かりま した。


( 1-1、ラ ッ コ の 毛 皮 )

ロ シ ア 皇帝の 命令 を受けて、探検家 ヴ ィ ト ゥ ス ・ ベ ー リ ン グ ( デ ン マ ー ク 人 ) が 率 いる、帝政 ロ シ ア 海軍の艦船 「 聖 ピ ョ ー ト ル 号 」 は、ア ラ ス カ を発見 しま した。

その 帰途 である 1741 年11月 7 日 に 嵐 によって 船は 島 に 座 礁 し、破壊 されて しまいま した。ベ ー リ ン グ と 2 8 人の 乗組員 らは 壊血病 に苦 しむ 状況下 で、船を 放棄 して 島 で 越冬 することに しま した。

しかし ベ ー リ ン グ は 壊血病 で 死亡 し、島 に葬られま したが、それが 現在 の ベーリング 島です。乗組員の中にいた 博物学者 で 医 師 の シ ュ テ ラ ー( Steller、1709 ~ 1746 年 ) は、乗組員 に 島で採れた 青海苔 ( あ お の り ) を 食 べることを 指 導 し、壊血病 治療 に 効果 をあげま した。

アザラシを食料

この島で 10 ヶ 月間 生活 し た 生存者 たちは、ア ザ ラ シ や 鳥 を 狩って 飢 えを 凌 ぎ、座 礁 した 艦船 を 基 に 船 を 製 作 し、1742 年 に カ ム チ ャ ツ カ 半島 の 首 府 、ペ ト ロ パ ブ ロ フ ス ク ・ カ ム チ ャ ツ キ ー ( 図の赤丸 ) へ と 生 還 し ま した。その 際 には、この 島で 得 た ラ ッ コ の 毛 皮 9 0 0 枚 や 肉 を 持 ち 帰りま した。

今から 5 6 年 前 のこと、私は ベ ー リ ン グ 海 で 海上保安庁 の 巡視船 に 輸 血 用 血 液 を入れた パ ラ シ ュ ー ト 5 個 を 投下 したことがありま したが、知りたい方は こ こ を ク リ ッ ク

ラッコ

江戸時代後期に ロ シ ア 人 が 蝦 夷 地 ( えぞち、北海道 ) 周辺 に 姿を現 した裏 には、領 土 取 得 の 他 に ラ ッ コ の 狩 猟 ( 毛 皮 獲 得 ) という 目的 もありま した。ラ ッ コ の 毛皮 には 1 平方 セ ン チ 当たり 約 15 万 5 千 本 の 体 毛 が生 え てお り、この 密 度 は 哺 乳 類 で ト ッ プ であり、防 寒 ・ 保 温 性 能 も 抜 群 で した。

ロ シ ア 人は ユーラ シ ア ( シ ベ リ ア ) 大陸 の 貂 ( て ん ) の 毛 皮 と 共 に、千島列島 や カ ム チ ャ ッ カ の ラ ッ コ の 毛 皮 を 狙 って 東 進 し、南 下 して 来 ま した。ラ ッ コ は 得 撫 島 ( ウ ル ッ プ 島 ) に 群 棲 し、択 捉 島( エ ト ロ フ 島 ) にも いま したが、 しか し、国後島 ( く な し り 島 ) には ほとん ど いませんで した。

1768 年 には コ サ ッ ク の 百 人 長 ( 古 代 ローマ 軍 に 起源 を 持 つとされる、約 百人 の兵士から成る 戦 闘 集 団 の 長 ) である イ ワ ン ・ チ ョ ー ル ヌ イ が、 ヤ サ ー ク ( 毛 皮 貢 税 ) 徴収 のために 択 捉 島 ( エ ト ロ フ 島 ) まで 南下 した 記録 があります。

その後 彼は 得 撫 島 ( ウルップ 島、Urup ) で ロシア 人と して 初めて翌年まで 越冬 しま した。その後 ウルップ 島 に 居住地 を作り、1795 年には ロシア 人 約 40 人 が 移 り 住 むようになりま した。

ところで 蝦夷地 ( 北海道 ) について 部分的とは いえ、正確 な 測量 ( 実 測 ) を初 めて 実施 したのは 伊 能 忠 敬 ( いのうただたか ) であり、寛 政 12 年 ( 1800 年 )のことで した。


[ 2 : 間 宮 林 蔵 ]

間宮海峡

外国人が書いた 世界地図 の上 に、今も 日 本 人 が そ の 発 見 者 と して示されている 唯 一 の 地 点 名 がありますが、それは ユーラシア ( シ ベ リ ア ) 大陸 東部 ( 北満州 ・ 沿海地方、ハバロフスク 地方 ) と、 樺太 ( カ ラ フ ト 、現 サ ハ リ ン 島 ) を 隔 てる 間 宮 海 峡 ( Mamiya no Seto / the Mamiya Strait ) 、別名 タ タ ー ル 海峡 ( the Tatar Strait ) です。

間宮林蔵 は 1780 年に 、常陸国 筑波郡 上平柳村 ( かみひらやなぎむら、現 茨城県 つくばみらい 市 ) の 農民の 子に 生まれま した。林蔵 は生来 利 発 で、とりわけ 数 理 的 才 能 に 恵 まれていま した。1793年 (14 歳 ) の時に 中平柳村 の 海老原庄右衛門 から 算術 を習 いま した。

常陸国 を流れる 小貝川 に 架 かる岡 堰 ( おかせき、現 茨城県 取手市 岡 地区 ) の工事で江戸から出張 して来た、幕府 普請役の 下条吉之助 に才能を認められ、間宮林蔵は 16 歳 の 頃 に 江戸に出て、その後 地理学者 村上 島之允 ( しまの じょう ) の弟子となり、測量術や 地図作成法 を学びま した。

林蔵 の生まれた頃 から ロシア 勢力 の ユーラシア 大陸 東進 ・ 千島列島への南下により、日本の北方領土 ・ 蝦夷地 の情勢は 前述 したように 緊迫 していま した。そのため 防備 と 開発 の必要を痛感 した 幕府は、その準備 のため、天明 5 年 ( 1785 年 ) 以来 数回にわたり、千島 ・ 樺太 ( カラフト、現 サハリン )を含む 蝦夷地 全域の 調査をおこないま した。

寛政 11 年 ( 1799 年 ) の 蝦夷地 調査 の際には、間宮林蔵 は 村上島之允 ( しまの じょう ) の 従 者 と して初めて 蝦夷地 に渡り、翌年 (1800年 ) には 蝦夷地 御用掛 雇 ( ごようがかり やとい ) に 取り立てられ ま した( 当時 20 歳 ) 。同年 9 月 には 蝦夷地の 沿岸測量( 実測 ) のために 函 館 にやってきた 伊 能 忠 敬 ( いのうただたか ) と偶然 会うことができ、その際に 測量 について彼から指導を受けて 師弟 の 契 ( ちぎ ) りを結んだとされます。


( 2-1、第 1 回 、樺 太 ( 現 サ ハ リ ン ) 探 検 )

墓碑

北海道 の 最北端 にある 宗 谷 岬 から 西 へ 3 キロメートル 離れた 第 2 清浜地区に、林 蔵 が 樺 太 ( 現 サ ハ リ ン ) へ 向けて 出港 した 「 間 宮 林 蔵 渡 樺 ( と か ) 出 港 の 地 」 の 石 碑 があります。 彼の著書 東 韃 ( とうだつ、東 の 韃 靼 だったん ) 紀行 でも、出発地点 については ただ 「 宗 谷 」 と記されているだけで 漠 然 と していま した。 

しか し、林 蔵 が探検 に際 して 郷里 から わざわざ 墓石 を持参 し 宗谷 の海岸に建て、探検 への 覚悟 のほどを示 したといわれていま したが、その 墓石 が見つかったことや、アイヌ の 「 林 蔵 祭 」 の 伝承 などから、出発地点は 現在の 第 2 清浜地区と考えられています。

寛政年間 ( 1789 ~ 1801 年 ) ・ 文化年間 ( 1804 ~ 1818 年 ) に 蝦 夷 地 ( えぞち、北海道とその周辺の島々 ) の 警 備 に当たった 津 軽 ( 青 森 県 弘 前 ) 藩 士、山 崎 半 蔵 が 残 した 日記形式 の 記 録 がありますが、彼は 宗 谷 にも 滞在 し、当時の状況を詳 しく 記 録 しま した。それによれば 林蔵は 山崎半蔵 に、

成功 の 形 たたぬうちは 死 を 誓って 帰 るま じ。若 し 難行 の 節 は 我 一人 たりとも 蝦 夷 地 に 残 り、夷 地 ( いち、え び す の ち ) の 土 となるか、夷 人 ( い じん ) となるであろう。再会 を 期 しがた し。然 ( し か ) し 始 め あ り 終 わ り な き は 凡 ( およそ ) 人 の 習 いである。

と語っていま した。( 山崎半蔵 日 記 より )

ところで、文化 5 年 ( 1808 年 ) に 樺 太 ( カ ラ フ ト、現 サ ハ リ ン ) 調査班 が 編制 されま したが、班 員 は 「 樺太 調役 下役 ( しらべや く、 したや く ) 元締め 」 の 松 田 伝 十 郎 ( 40 歳 ) と、「 雇 い 身分 」 である 間 宮 林 蔵 ( 29 歳 ) の 2 名 だけで した。

彼等 は 蝦 夷 地 ( えぞち、北海道 ) 最北端 の 宗 谷 から 4 月 13 日に ア イ ヌ の 丸 木 舟 ( チ ッ プ ) に乗 り、 宗谷海峡 を 横断 して 幕府の 番 屋 がある 樺 太 ( カ ラ フ ト、現 サ ハ リ ン ) 南 端 の 白 主 ( しらぬ し 、現 ロ シ ア 連邦 サ ハ リ ン 州 シ ェ ブ ニ ノ ) に 渡 りま した。

カラフト探検図

二人 はそこから 別 れて 行動 し、間宮林蔵 は 樺 太( カラフト、現 サハリン ) の 東側沿岸 を 途中 まで 北上 した後に 、来た道を 戻 って カ ラ フ ト の 狭 隘 部 ( きょうあいぶ、狭 い 地 域 ) を 東側 から西側 に 横断 して、松田伝十郎の 後を 追 いま した。

一方 伝十郎 は 白 主 ( しらぬ し ) から 樺 太 ( カラフト、現 サハリン ) の西岸 に沿 って 北上 し( 赤実線は、二人の 軌跡 )、6 月 下旬 に 海 峡 の入り口 にある 北緯 51 度 5 5 分 の ラ ッ カ に 到 達 しま した。

そこで 伝十郎 は 大陸の 山 靼 ( さんたん、山丹 とも書 く ) 黒 竜 江 ( こ く りゅうこう、ロ シ ア 名 ア ム ー ル 川 ) の 下流地域 を近 くに 望むことができ、大陸 との 海 峡 幅 が 二 里 ( 8 キロ メートル ) ほどで、それより 奥 は 海峡 の幅も広 くなり、黒竜江 の 河口 も見ることができま した。

松田伝十郎 は

樺 太 ( カ ラ フ ト、 現 サ ハ リ ン ) は 離 島 に 相 違 無 し、是 れ よ り 大 日 本 国 と 地 境 ( じ ざ か い ) を 見 定 ( み さ だ ) め た り

と判断 し、 そこに 「 大 日 本 国 国 境 」 の 標 柱 を 建 てま した。しかし ラッカ から先は海が 浅 瀬 で、アイヌ 舟 でも通行が困難 であり、しかも 海岸 も 泥 地 で 歩行が 困 難 なために ここで探検を 中止 し、蝦夷地 ( エ ゾ チ、北海道 ) 北端 の 宗 谷 に 帰ることに しま した。

その時の様子を 「 間宮 林蔵 の報告書 第 3 6 」 には、以下のように記 して います。

カ ラ フ ト 島 地 方、此 辺 一 躰 平 地 海 岸 通 東 北 追 周 候 間 離 島 相 違 無 之 様 子 凡 相 分 候

[ 読 み 方 ]

カ ラ フ ト 島 の地 方、この辺 一 帯は平地 に して 海岸通りは 東 北 に 追 周( お し め ぐ り ) 候間 ( そうろう あいだ )、離 島 には 相 違 ( そう い ) これなき 様子 に およそ あい分( わ )かり 候

松田伝十郎と 林蔵 は連れだって 帰 路 につき、カ ラ フ ト 南 端の 幕府番屋 のある 白 主 ( しらぬ し ) に 着 いたのは、翌年 ( 1808 年 ) 閏 ( うるう )年 の 6 月 18 日で した。林蔵はここに留まること僅か 1 日半で、6 月 20 日にはこの地を出発 して、その日のうちに北海道 北端 の 宗谷 に到着 し、約 100 日におよぶ 長 い 探 検 の 旅 を 終 えま した。


( 2-2、第 2 回、樺 太 ( 現 サ ハ リ ン ) 探 検 )

折から宗谷 には 松前奉行 の 川尻肥後守春之 ( かわ じり ひごのかみ はるゆき ) と、同 吟味役 ( ぎんみや く ) の 高橋三平 が出張 して いま した。

調査の報告書を提出 した 林蔵 は、 樺太 が ユ ー ラ シ ア ( Eurasia 、シ ベ リ ア ) 大陸 の 半 島 ではなく、 島 である 確 証 を 得 るために、宗谷に到着 すると 再度 樺 太 ( 現 サ ハ リ ン ) 北部 へ の 探 検 を願 い 出 ま した。 これが 許 可 されると 宗 谷 に 留 まること 20 日 ほどで、 文化 5 年 ( 1808 年 ) 7 月 13 日 に、 今度は 単 独 で 樺 太 へ 出発 しま した。

アムール川

2 回目の 探 検 では 林蔵 は 現地 で アイヌ の 従者 を雇 い 旅を続 けま したが、 すでに 時 期 が 遅 く 冬 将 軍 ( General Winter ) が やって来たので、途中で 北上 を 断念 して 11 月 26 日に ト ン ナ イ に戻 り、 そこで 越 年 しま した。

翌 文化 6 年 (1809 年 ) 樺 太 ( カ ラ フ ト、現 サ ハ リ ン ) の 西海岸を 北上 して、第 1 回の探検で 到達 した ラ ッ カ よりも更に 北 に進 み、 樺太側 ボ コ ビ と、ユーラシア 大陸側 の ラ ザ レ フ 間 の 海 峡 最 狭 部 である、 幅 7.3 キロ メートル の地点を突破 して 、1809 年 5 月 12 日 に 黒 竜 江 ( ア ムー ル 川 ) 河口 の 対岸に位置する 樺太 西岸 の ナ ニ オ ー ( 現、 ル ポ ロ ボ ) に 到達 しま した。

それにより樺太 ( カ ラ フ ト、現 サ ハ リ ン ) が 当時 の ヨーロッパ 人 や、 一 部 の 日本人 に 信 じられていたような ユーラ シ ア ( シ ベ リ ア ) 大 陸 東端 の 半 島 で は な く、 島 で あ る 事 実 を 確 認 しま した。

それだけに 留 まらず 6 月 26 日 に 間宮林蔵 は 大 陸 との交易 に行 く ギ リ ヤ ー ク 人の 酋 長 ( しゅうちょう ) コ ー ニ に 同行 して、山 靼 船 ( さんたんせん ) に 便乗 して 、海 峡 対 岸 の ユーラシア ( シベリア ) 大 陸 に 渡 りま し た。

そこから 黒 竜 江 ( ア ム ー ル 川 ) を 遡 航 ( そこう ) して 「 満 州 仮 府 」 ( ま ん し ゅ う か り ふ ) の 所在地 がある デ レ ン を訪れ、 韃 靼 ( だ っ た ん ) と 呼 ばれる 地 域 の 東 部 を 調 査 しま した。

[ 注 : 満 州 仮 府 と は ]

モ ン ゴ ル 高原 に 源を発 し、当時 帝 政 ロ シ ア と 清 国 との 国境を 形成 して流 れ下り 間 宮 海 峡 に 注 ぐ 大河については、清国では 黒 竜 江 ( こく りゅうこう ) と呼び、 ロ シ ア では ア ム ー ル 川 ( reka Amur ) と呼ぶ。長さは 4,418 キロ メートル あり、 世界第 8 位である。

その 清国側 の 沿 岸 デ レ ン にある 満 州 仮 府 とは、毎年夏季 の 二ヶ月間 ほど 清国 の 官 人( 役 人 ) が 満州 の 三 姓( サンシン ) から 出張 して来 て 仮 府 ( 仮の 役 所 ) を設 ける が、それを いう。

物品税

黒竜江 下流域 はもとより 樺 太 ( カラフト、現 サ ハ リ ン ) や 沿海方面 の 部 族 から 貢 物( みつぎもの ) の 貂 皮 ( て ん の 毛 皮、左 写 真 ) などを 受け 取 り、部 族 の 酋 長 ( しゅうちょう ) に対 しては 衣 帛 ( いは く、絹 製 の 衣 ) を 償 賜 ( しょう し、賞 め て 物 を 賜 る ) する 場所 のことをいう。

満州仮府

ここでは 同時 に 彼 らと 中 級 ・ 下 級 の 清国の 官人との 間 で、交 易 もおこなわれた。貢物を納 めに来た連中 は 5~6 日 滞在 して帰って 行 く が、林蔵 が 訪れた時には5~600 人 ほどが 樺 ( か ば ) の 木皮 で 覆 った 仮小屋 に 滞 在 して いて、 大聚落 ができていた。

デレン に留 まること7 日、その間 林蔵は 廬 船 ( や か た ぶ ね ) に 満州 の 官 人 ( 役 人 ) を訪れて 歓 待 された。言葉は通 じなかったが、漢文 の 筆 問 筆 答 で、相互に意思を通 じあ い 情報交換 をおこなった。コーニ は 進 貢 も 交 易 も 終 えたので、17 日に 一行 8 人はこの地を後に 帰途 につき、黒竜江を下航 し、ラッカ 岬に着 いた。

その後 間宮林蔵 は 南方 へ 猟 に行く アイヌ の 舟 に便乗 して 帰国の途につき、文化 6 年 ( 1809 年 ) 9 月15 日 に 樺 太 ( カラフト,現 サハリン ) 南端 の 白 主 ( しらぬ し ) にある 日本側の 番 所 へ到着 しま した。


( 2-3、山 靼 貿 易 と は )

山 靼 交 易 ( さんたんこうえき ) とは、江戸時代に 山靼人( さんたん じん、山旦 とも書 く。主に オロチョン 族 など 沿 海 州 の 住民 ) と、ア イ ヌ との 間 で、主と して 樺 太 ( カラフト、現 サハリン ) を 中 継 地 と して 行われた 交 易 のことをいいます。

広 義 に は 清 朝 が 黒 竜 江 ( アムール 川 )下流域に 設けた 役 所 ( 満 州 仮 府 ) における 朝 貢 交 易 から、山靼 ( 丹 )人、さらに ア イ ヌ を 介 して 樺 太 ( カラフ ト ) 南 端 にある 幕府 番所のある 白 主 ( シラヌシ ) 交易所 に 交易品 が持ち込まれて、北海道 の ア イ ヌ との 間 で 交 易 され、蝦夷地 の 松前藩 にもたらされた 交 易 をさ します。 交易品は主に 松前藩 を通 じて 内地人 の 手に渡 りま した。

間宮林蔵

間宮林蔵 は その後 9 月 28 日に 蝦夷地 ( 北海道 ) 北端 の 宗谷 へ 戻 り、11 月に無事 松前藩の 城下町 松前 に 帰着 して 1 年半 以上 (1808年4月13日~1809年11月 )にわたる、長 い 苦難 にみちた 探検 ・ 測量の 旅 を終えま した。絵図 は 測量用の 道具 ( く さ り ) を持つ 間宮林蔵。


( 2-4、凍 傷 に か か る )

林蔵は 慣 れない 極 寒 の地 で 苦難の 生活を したので、その 指 はことごとく 凍 傷 にかかって 形を変 えていま した。久 坂 玄 瑞 ( く さかげんずい、幕末の長州藩で、尊王攘夷の中心的な役割を果たした男 ) の書いた書物 に、林蔵 を見た人の話と して、

手 指 こ と ご と く 腐 壊 痂 結 ( ふ か い か け つ ) 、つまり 凍傷 で 指 が 腐 り 形 を 変 え、傷 口 には 「 か さ ぶ た 」 ができていた。そ の 苦 楚 ( く そ、く る しみ ) 想 う べ き 也

と記 されていま した。

第 1 回 カ ラ フ ト 探検 に 林蔵 の 上司と して参加 した 松田伝十郎 が、カ ラ フ ト 探検前 に 千 島 列 島 について 記 した 「 北 夷 談 」 によれば、文化 元年 ( 1804 年 ) に 択 捉 島 ( エトロフ 島 ) に 在勤中、得 撫 島 ( ウルップ 島 ) へ の ア ト イ ヤ ( 渡 り 口 の 意味 ) まで 出張 した時のことを述 べた 記事 があります。

この時 雪中 といい、殊に 極 寒 の 砌 ( みぎり ) ゆ へ 雪 焼 け ( 霜 焼 け より 重 症 ) と 云う事 有 り。耳 ならびに 陰 嚢 ( い ん の う ) を よ く 手当 して、 焼 けざる 様 いたすな り。

たとへ 手足 は 焼 けても 苦 しからず、陰 嚢 ・ 耳 を 焼 けば 命 に 拘 ( かかわ ) る と、乙 名 夷 ( おとな い、おとな( 大人 )と 同源で、 一族の長である 夷 人 ) 教えて 云 う。

是れに 依 りて 真 綿 或 いは 狐 の 尾 を 以 て 「 陰 嚢 」を よく 包 み、頭 は 頭 巾 ( ずき ん ) 二重 に して 眼 斗 ( め ばかり、眼 だ け ) 出 して旅行 す。

つまり 「 陰 嚢 と 耳 の 凍 傷 には気 を付 けよ 」 、とありま した。


( 2-5、樺 太 ( カ ラ フ ト ) 探 検 の 成 果 )

林蔵は 松前 に 戻ってから 旅行中 の 日記 や 測量野帳 をもとに 紀行文 「 東 韃 地 方 紀 行 」 ( とうだつ ちほうきこう )、および 樺太の 地 誌 「 北 夷 分 界 余 話 」 をまとめ、さらに 樺 太と 東 韃 靼 ( ひが し だ っ た ん ) の 地図 「 北 蝦 夷 島 図 」 ( きたえぞ しまず、カラフト島 の 地 図 ) を作成 しま した。

地図は 詳細 をきわめ、つなぎ合わせると縦 6 尺 ( 1.8 メートル )、横 2.7 尺 ( 0.8 メートル ) に 及 びま した。それによると 間宮海峡 については 南北の長さ約 650 キロ メートル、海峡の 幅 は 南部 で 約 340 キロ メートル、北部 で約 40 キロ メートル、最 狭 部 では 前 述 した如 く 7.3 キロ メートル で した。

全体に 水深 が浅 く また 浅 瀬 が 多 いため、ごく 小型 の 船 しか 航行 できませんが、冬 は 結氷 し て 両 岸 へ の 氷上の 往来 が 可能 で した。 翌 文化 7 年 (1810 年 )年 11月、幕府 へ の報告のため、林蔵は 江戸 に 上りま した。

[ 注 : カ ラ フ ト の 名 前 の 由 来 ] 

樺 太 ( カ ラ フ ト、現 サ ハ リ ン ) の 名 は、ア イ ヌ 語でこの 島 を 「 カ ム イ ・  カ ラ ・ プ ト  ・ ヤ ・ モ シ リ 」 と 呼 んだことに ちなんで いる。その意味 は 「 神 が 河 口 に 造った 島 」 であ り、黒 龍 江 ( こく りゅうこう、 ア ム ー ル 川 ) の 河 口 から見て、その先に 「 カ ラ フ ト 島 」 が 位置 することに 由来 した。


[ 3 : 高 橋 景 保 ( か げ や す ) の こ と ]

幕府 の 天文方 兼、御 書 物 奉 行 を 兼 務 し すでに 42 歳 になっていた 高 橋 景 保 ( かげやす ) は、 「 日 本 辺 界 略 図 」 を公 刊 してからやがて 16~17 年が過ぎた 文政 9 年 ( 1826 年 ) の 頃、 天文台内 の 訳局 を主宰 して、当時日本 における 科学界 の最高峰 と して 仰 がれていま した。


( 3-1、カ ラ フ ト 東 海 岸 の 懸 案 )

当時の 世界 では、 樺 太 ( カ ラ フ ト、現 サ ハ リ ン ) が ユーラシア ( シベリア ) 大陸に 属する 「 半島 で あ る 」  とする 説 と、 「 独 立 した 島 」 であるとする説、あるいは カラフ ト は 「 二 つ の 島 」 から 成 り 立っている などの 説 がありま したが、間宮林蔵 による カ ラ フ ト 西側 沿海部 の 探検 ・ 測量 により、間 宮 海 峡 の存 在 が 世界で初 めて 確 認 されま し た。

カラフトアイヌの国

しか し 高 橋 景 保 ( か げ や す ) の 心 中 には いつも、 カ ラ フ ト の 東 海 岸 から 北 東 海 岸 に至る 測 量 上 の 問 題 、すなわち 第 1 回 カ ラ フ ト 探検 の 際 に、 間宮林蔵 が 東海岸 測量 の途中 で 引き 返 し 測量 を 中 断 し たこと による 測 量 上 の 空 白 地 域 の 存 在 ( 左 図 の カ ラ フ ト 東 側 赤 線 部 分 ) が 心 残 り で し た。


( 3-2、シ ー ボ ル ト と の 出 会 い )

このとき 景保 ( か げ や す ) の 前に 突然 現 れたのが、長崎 出 島 の オ ラ ン ダ 商 館 に 勤 務 していた ド イ ツ 人 医 師 ・ 博 物 学 者 の シ ー ボ ル ト ( 1796~1866 年、当時 30 歳 ) で し た。

医師

彼は 文政 9 年 ( 1826 年 ) 4 月に、第 162 回目に当たる オ ラ ン ダ 商館長 ( カ ピ タ ン ) の 江戸参府 に 随 行 し て 江戸 を訪 れま したが、その際に 一方は 「 西 洋 学 の 研 究 」 、他方 は 「 日 本 の 研 究 」 ということで、二人 の 学者は 互 いに 会って 知 識 や 情 報 の 交 換 を おこなうようになりま した。

高橋景保 ( かげやす ) は シー ボ ル ト の 所持品 の中に、十数年間 常に 彼の 頭 を 離 れなかった、カ ラ フ ト 東海岸 に関する 「 測 量 の 問 題 」 を 解決 するのに必要 と思われる 1 冊 の 本 を 垣 間 ( か い ま ) 見 たことで した。

それは 間宮林蔵 の カ ラ フ ト 探検 に 先立 つ 三 年 前 に、「 ナ デ ジ ュ ダ 号 」 ( N A D E Z H D A ) に 乗 って カ ラ フ ト の 東海岸 および 西海岸 を測量 した ク ル ー ゼ ン シ ュ テ ル ン の 記 した 書 物 である 、 「 世 界 周 航 記 」 ( Atlas of the Voyage Round the World ) の ことで した。

ドイツ探検家

左図 は エストニア 出身 の ロシア 海 軍 提 督 であり、 探 検 家 クルーゼン シュテルン ( 1770 ~ 1846 年 ) の 肖像画 です。彼は ロ シ ア で最初に 世 界 周 航 ( 1803 年 ~ 1806 年 ) を 行 い、その航海 では 「 日本海 」 を通過 しま した。

行き止まり

後に 彼が 作成 した 地図 には 「 日本海 」 を Mer du JAPON ( メール ・ ドゥ ・ ジャポン、日 本 の 海 ) と記 したとされ、「 日本海 」 を 最初 に 命名 した人物 とされます。しか し彼の地図では 樺 太 ( カラフト、現 サハリン ) は ユ ー ラ シ ア 大 陸 東 端 の 半 島 と して 描 かれ、 間 宮 海 峡 は 行 き 止 ま り で し た。

世界周航

写真は クルーゼン シュテルン の 業績を称えて 「 彼 の 乗 艦 」 の 名を 命名 した、 ロシア 極 東 ウ ラ ジ オ ス ト ク 海 洋 大 学 の 練 習 帆 船 「 ナ デ ジ ュ ダ 号 」 で す。


since H 30、Jan. 20

 

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