北 方 探 検 家、間 宮 林 蔵 ( 続き )
「 注 : ア ロ ー ( 号 ) 戦 争 」 イギリス が 仕 掛 けた ア ヘ ン 戦争( 1840 ~ 1842 年 ) の 14 年後の 1856 年 10 月 8 日 のこと、 広 東 ( カントン ) 港に 停泊中 の イ ギ リ ス 船 籍 を 名 乗 る 中 国 船 ア ロー( Arrow ) 号 が、 清 国 官 憲 の 臨 検 を 受けた 際 に、清国人 船 員 12 名を 拘 束 し、そのうち 3 人を 海 賊 の容 疑 で 逮 捕 する ( 残りは 抗議 で 釈放 ) 事件が 起きた。 これに対 し 当時の 広 州 駐 在 イギリス 領 事 の ハリー ・ パークス は、清 国 に対 して イギリス ( 香 港 ) 船 籍 の 船 に対する 清国官憲 の 臨 検 は 不当 であると主張 し、また 逮 捕 の 時に 清の 官 憲 が イ ギ リ ス の 国 旗 を引きずり下 ろ した事は、イギリスに対する 侮 辱 だと して 抗 議 した。 実際には、事件当時 既に ア ロー 号 の 船 籍 登 録 は 期 限 を 数 日 過 ぎてお り、ア ロ ー 号 には イギリス 国旗を掲げる 権 利 は 無 く、清国官憲 による アロー 号 船員の 逮捕 は全くの合法であった。イギリス 国 旗 が 侮 辱 されたと して 清国 に 謝罪 ・ 賠償金 と 責任者の 処罰を 要求 したが、拒否されて 戦 争 となった。ア ロ ー 戦争 を 第 2 次 ア ヘ ン 戦 争 ( Second Opium War ) とも 呼 ぶ。 天津条約 ・ 北京条約 により 講 和 が 成立 したが、これを 仲 介 した ロ シ ア が その 報 酬 と して 清国との あいだに 結 んだ条約 を 北京条約 という。この条約で 清国 と 帝政 ロ シ ア の 東部国境 は 黒竜江 ( ア ム ー ル 川 ) と ウ ス リ ー 川 を 国境 とすることとなった。 国際法からすれば、国際河川を 国境 にする場合は 、 主 要 航 路 を 国 境 線 とするのが 原則である。しか し 19 世紀に 結ばれた 不平等条約 や 満州国 崩壊時 の 「 ど さ く さ 」 で、河川 の 中 州 の 島 の多 く は ロシア 側 が支配 し、合計 2,444 の 島 のうち、1,845 ヵ所を ロ シ ア 側が 実効支配 した。 それを ソ 連 が 帝政 ロシア から継 承 したため、1962 年 には 中国 と ソ 連 の 間 で、 ウスリー 川 にある 中 州 の 島 ( 中国名 「 珍 宝 島 」、ロシア 名 「ダマンスキー 島 」) などで、国 境 をめぐり 軍事衝突 が 起 きた。 「 注 : ウ ラ ジ オ ス ト ク の 名 前 の 意 味 」 「 ヴ ラ ジ 」 とは 「 領 有 する ・ 征 服 する ・ 支 配 する 」 などを意味する動詞 から来て いる。、「 ヴ ォ ス ト ー ク 」 と は 「 東 」 を 意味 し、ウ ラ ジ オ ス ト ク の 名称 は 「 東 方 を 征 服 する 」 意味 に なる。 その名 のとおり ウラジオストク は 不 凍 港 と し て、沿海州 一帯 を清国 から 獲得 した ロ シ ア 帝 国 が、沿海州 の 南部 に 建設 した、ロシア の 極 東 政 策 の 拠 点 となる 軍 事 基 地 ・ 商 業 都 市 になった。 [ そ の 2 ] 「 ど さ く さ 」 の 最中 に 領土を 収 奪 したのは、韓 国も 同 様 で し た。 昭和 25 年 ( 1950 年 ) 6 月 25 日に 北朝鮮 が北緯 38 度の 国境を越えて突然 韓国 に 侵攻 して、朝鮮戦争が勃発 し、昭和28年(1953年)7 月27 日に 休戦 しま した。 その最中 に 連合国 と 日本との 平和条約 が、昭和 26 年 ( 1951 年 ) 9 月 8 日に サンフランシスコ で調 印 され、翌 昭和 27 年 ( 1952 年 ) 4 月 28 日に 発 効 しま した。 韓国 初代大統領 の 李 承 晩 ( り し ょ う ば ん ) は、その 平和条約 調 印 から 発 効 までの 「 どさ く さ 」 を 狙って、昭和 27 年 (1952 年 ) 1 月 18 日 に 「 大 韓 民 国 隣 接 海 洋 の 主 権 に対する 大統領 の 宣 言 」 なるものを 一 方 的 に 宣 言 することにより、いわゆる 「 李 承 晩 ラ イ ン 」 を 設 定 し、竹 島 を 含 む 広大 な 海域 の 主 権 を 宣 言 しま した。 これは第 二次大戦後 の、1945 年 9 月 27 日 に アメリカ が 日本漁業 の 操業 区 域 と して 設 定 した 「 マッカーサー ・ ライン 」 が、 サンフランシスコ 平和条約 が 1952 年 4 月 28 日 に 発 効 することによって 無 効 となるのを 見 越 して、 マッカーサー ・ ライン に代わるものと して、韓国 が、李承晩 ラ イ ン を 一方的 に 設定 し、竹島を含む海域を 囲 い込 みましたが、国際法上 無 効 であることはいうまでもありません。 李 承 晩( り しょうばん ) は、 朝鮮戦争 開戦当時 自国民 約 2 0 万 人 以 上 を 大 量 虐 殺 した 「 保 導 連 盟 事 件 」 や 不正選挙 の 責任 を問われ、 昭和 35 年 ( 1960 年 ) に ハ ワ イ へ 亡 命 し、そこで 死亡 しま した。 昭和 40 年 ( 1965 年 ) の 日韓 漁業協定 の 成 立 により、李承晩 ラ イ ン が 廃 止 されるまでの 13 年間 に、李承晩 ライン 内で 操業 したと して 、韓国に 逮 捕 抑 留 された 日 本 人 漁 船 員 は 3,929 人 、拿 捕 ( だ ほ )された 船 舶 数 は 328 隻 、銃 撃による 死傷者 は 4 4 人 を数えま した。竹 島 の 不 法 占 拠 は、現在 も 続 いて います。 [ その 3、欲 し い も の は、俺 の も の ] 戦争の 「 ど さ く さ 」 を 利用 して 領土を 拡 大 する 手口 では、 中 国 共 産 党 も 韓 国 と 一 緒 で し た。 北朝鮮が 韓国に 突然 侵 攻 した 朝 鮮 戦 争 ( 1950 年 6 月 ~ 1953 年 7 月 休 戦 ) の 最 中 に、世 界 が 朝鮮半島 に 注 目 している間 に、 「 芝 居 小 屋 の 兵 隊 」 ( 演 劇 に出 て く る ような 形 だけの 兵 士 ) と 呼ばれていた 貧 弱 な 装 備 と 少 数 の 軍 隊 し か 持 たない チ ベ ッ ト に 対 して、中国 人民解放軍 は 1950 年 10 月 に、侵攻 しま した。 翌年 には チベット 仏教の 聖 都 で ポ タ ラ 宮 ( 写 真 ) のある ラ サ にも 派兵 し、やがて 西 蔵 ( チ ベ ッ ト ) の 和 平 解 放 を ス ローガ ン に した 人 民 解 放 軍 により、チ ベ ッ ト 全 土 が 制 圧 され 中 国 領 になりま した。 その後 チ ベ ッ ト 仏教の寺院 は 破壊 され、抗議する僧侶の 焼身自殺 が多 発 し、学校教育では チ ベ ッ ト 語 の 使 用 禁 止、チ ベ ッ ト 人 に対する 人 権 弾 圧、多数の 漢 民 族 の チ ベ ッ ト へ の 入 植 などが行われています。 [ 4 : 国 禁 を 破 っ た 情 報 取 引 ]価 値 のある情 報 の 取 引 ・ 交 換 には、 現 代 においても 「 Give and Take 」 の 原 則 が 成 り立ちます。欲 しい情報を 相手から 得 るためには、それに見合った、または それ以上に 価 値 のある情 報を相手に 与えることです。 樺 太 ( カ ラ フ ト、現 サ ハ リ ン ) 東岸 の 測 量 図 が 記 された、 ク ル ー ゼ ン シ ュ テ ル ン の 航 海 記 入 手 の 誘 惑 に 耐 えきれ な く なった 高 橋 景 保 ( かげやす ) は、幕府 の定め に 違反 することを 知 りながら、シーボルト から 請 ( こ )われるままに、伊 能 忠 敬 ( いのう ただたか ) が作成 した 日本の地 図 と 交 換 することに しま した。 「 大 日 本 沿 海 輿 地 ( よ ち ) 全 図 」 や、同 じく 忠 敬 の 「 蝦 夷 地 方 図 」 ( え ぞ ち ほ う ず ) に 南千島 と カ ラ フ ト を 書き 加 えた 蝦 夷 図 の 写 しを 送る約束 で、シ ー ボ ル ト から 前述 した クルーゼンシュテルン の 航 海 記 4 冊 のほか、 蘭 領 東 イン ド ( らんりょう 東 インド、= オランダ 領 東 インド、現 イ ン ド ネ シ ア ) の 地 図 9 枚 ・ 同 じく 図 説 2 枚と、某氏 の 地理書 4 冊などを 譲 り 受 けま した。 高橋景保 ( かげやす ) は クルーゼンシュテルン の 航海記 を入手すると、仲間 と共 にその 翻 訳 を 急 ぎ、文政 11 年 ( 1828 年 ) の 秋 には、早くも 訳 稿 「 奉 使 日 本 紀 行 」 ( ほう し にほんきこう ) が 完成間近 になって いま した。[ 5 : 間 宮 林 蔵 の 密 告 ]この 年、シ ー ボ ル ト もまた、日本で 収集 した 莫大 な 量 の 貴重 な 資 料 を 携 えて、長 崎 から ジ ャ ワ 島 ( インドネシア の 現 ジャカルタ )経由で 帰 国 の 途 に 就 こう と して いま した。まさにこの時に、間 宮 林 蔵 の 密 告 によって、高橋景保 ( かげやす、1785 ~ 1829 年 ) による 地 図 流 出 の 秘 密 が 発覚 したので した。( 5-1、事 件 発 覚 の き っ か け ) 事件 発 覚 の 端 緒 ( たんちょ、糸 ぐ ち ) は、文政 11 年 ( 1828 年 ) 3 月 28 日 に、浅草 の 天文台 脇 に住んでいた 高 橋 景 保 ( かげやす ) のもとへ、正月 11 日 長崎 発 で シ ー ボ ル ト が 送った 1 個の 荷 物 が 到 着 したことで した。その中に 間宮林蔵 に 宛 てた 小 包 もありま したが、林蔵は 高橋景保 から 自分 宛 の 小包 を受け取ると 、外国人 にかかわる 事 柄 のため、中身 も 改 めずに 所属 する 勘 定 奉 行 に 届け 出 ま した。 中には 進 物 ( しんもつ、贈与品 ) の 更 紗 ( さらさ )、つまり インド 原産 の 木綿地 の 文 様 ( もんよう ) 染め 1 反 と、 オランダ 語で書かれた 手紙 1 通 が入って いま した。手紙の内容は 林蔵 の 樺 太 ( カラフト、現 サハリン ) 探検を 大いに 称 賛 し、以後 お付き合 いを 願 いたいというもので、別 に 疑 うべき 理由 はありませんで した。 ところがこの事 があってから、高橋景保 がひそかに 外国人 と 通 信 ・ 連絡 していることに 嫌 疑( けんぎ ) が 掛 けられ、お 庭 番 ( 隠 密 ) ・ 御 目 付 ( おめつけ ) ・ 御 小 人 目 付 ( おこびと めつけ ) など、 政務全般 を 監 察 する 「 そ の 筋 の 者 」 たちが 内 々に 景 保 ( かげやす ) に対 して 探 索 を 始 めま した。 ( 5-2、子 年 「 ね ど し 」 の、 大 風 「 お お か ぜ 」 ) その最中 に 事件は 意外 な 方向 から 暴 露 する 事 態 になりま した。文政 11 年 ( 1828 年 ) 8 月 9 日から 10 日に かけて 大きな 台風 が 九州 を 襲 いましたが、その年が 子 年 ( ね の と し ) に 当 たることから、 子 年 の 大 風 ( ね ど し の お お か ぜ )とも 呼 ばれ ま した。 有明海 ・ 博多湾などで 高潮 が発生 し、佐 賀 藩 だけでも 死者が 約 1 万人、九州北部全体 で、死者 約 1 万 9 千人 に 達する被害が出ま した。この時に 長崎 に 入 港 して い た 1 隻 の オランダ 船 コ ル ネ リ ウ ス ・ ハ ウ ト マ ン 号 が 長崎港の西側にある 稲 佐 山 ( いなさやま、標高 333 メートル ) の 麓 にある 稲 佐 海 岸 に 座 礁 しま した。 シ ー ボ ル ト は この 船 に乗り ジ ャ ワ 島 の バ タ ビ ア ( Batavia 、現 イ ン ド ネ シ ア の 首都 ジ ャ カ ル タ の オ ラ ン ダ 植民地時代の 名称 ) へ 帰る予定のため、日本で 収集 した 資 料 ・ 研 究 資 料 を 81 個 の 箱 に 荷 造 り して、すでに 船に 積 み込 んで いま した。 ところが 長崎奉行 が オランダ の 難破船 を 「 入 港 船 」 と して 取り扱 うことに したため、一 々 その 積荷を 検 査 させま した。するとその中に 海外持ち出 し 禁 止 品 が 多数 あったことから、高橋景清 に対する 嫌 疑 が高 まり、彼の 逮 捕 にまで 事件 は 発 展 しま した。 ( 5-3、関 係 者 の 逮 捕 処 罰 ) 文政 11 年 ( 1828 年 ) の 10 月 10 日 の 夜、江戸浅草 の 天文台 付近に御用提灯 の 光 が 溢 れま したが、捕 吏 たちの 群 れで、高張提灯 も 混 じった 提灯の群 れは、 天文方 兼 書 物 奉 行 の 高橋景清 ( かげきよ ) の屋敷を取り 囲 み、目付 の 合 図 で 一団 が 門 内 になだれ込 みま した。 しばらくすると 提灯 に 囲まれて 青い網 を掛 けられた 一丁 の 駕 籠 ( か ご ) が屋敷から引き出され、捕吏 に 前後 左右 を 守られて 町奉行所 へ の 道 を進 んで行 きま したが、中には 逮 捕 された 高橋 景保 が 乗っていま した。それと入れ 替 わりに 新 たな 一隊 が 到着 して 邸 内 に入り、徹底 した 家宅捜索 がおこなわれま した。 高橋景保 ( かげやす ) の 逮 捕 に続き、 関係者 数十人 が 逮 捕 投 獄 されま した。シ ー ボ ル ト 自身も 長崎で厳重な 審問 を受 け、地図 その他 の 貴重 な 資料 を 没収 される 憂 き 目 に 遭 いま した。 景保 ( かげやす ) は 厳 しい取り調べを受け、牢内 の 寒 さ と 拷 問 倉 ( ごうもん ぐ ら ) での 拷 問 で 衰 弱 し、翌年 ( 1829 年 ) 3 月 20 日、江戸 伝 馬 町 の 牢 屋 敷 内 で 死 亡 しま したが 45 歳 で した。 存 命 に 候 得 ば 死 罪 被 仰 付 候 者 也 [ そ の 意 味 ] 生きていたならば、 死 罪 を 仰せ付けられるべき 者であるという 判決 が 申 し 渡され、 塩 漬 けの 死 体 は 「 か め 」 から引き 出されて、 斬 首 されま した。 江戸 ・ 長崎の 事件 関係者 50 人も、遠 島 ・ 禁 固 ・ 追 放 ・ 改 易 ( か い え き、武士 の 所 領 や 家 禄 ・ 屋 敷 を 没 収 し、士 籍 から 除 く こと ) などの 処 分 を受けま した。東京都 台東区 東上野にある 浄土宗 の 仏教寺院 で、 五台山 文殊院 と称する 源空寺 にある 高橋景保 の 墓 で、墓標 に 玉岡 とあるのは 彼の「 号 」 です。 ( 5-4、シ ー ボ ル ト の そ の 後 ) シ ー ボ ル ト も 文政 12 年 ( 1829 年 ) 9 月に 国外退去 ・ 再渡来禁止 を 申 し渡されて、同年 12 月 5 日 に 33 歳で日本を去 りま したが、これが世にいう シーボルト 事件で した。 彼は バ タ ビ ア ( Batavia ) を経て オ ラ ン ダ に行き、ラ イ デ ン 市 に居を定め、6 年間 にわたって 日本 で 収集 した 美 術 工 芸 品 その他 を 展示 しま した。それと同時に 「 ニ ッ ポ ン 」 と 題 する 20 冊 におよぶ 大 著 述 を 開 始 しま した。 1832 年 ( 天保 3 年 ) シ ー ボ ル ト は 第 1 巻 を出版 しま したが、その中 には 間宮林蔵 が 樺 太 ( 現 サハリン ) や 東 韃 靼 ( ダ ッ タ ン ) へ 旅を したことも 紹介 していま した。 後 に シ ー ボ ル ト が ク ル ー ゼ ン シ ュ テ ル ン に 樺 太 ( 現 サ ハ リ ン ) と 東 韃 靼 ( ひ が し だ っ た ん ) との間に 海 峡 があることを示 した 間 宮 林 蔵 の 地 図 を 見 せ る と、 こ れ は 日 本 人 の 勝 ち だと、叫 ん だとの ことで したが、この 挿 話 も シー ボ ル ト の 「 ニ ッ ポ ン 」 に記されて いま した。 林蔵の 密告 に 始 まった シ ー ボ ル ト 事件 は、 当時 の 日本 における 新 しい 学問 を 目指す 人々を 震 撼 ( しんかん、震え上がらせる )させ、学問の 発 展 および 日本と オランダ との 交 易 ・ 情 報 の 交 換 に 大きな 打撃 を与えま した。それと共に 林蔵 による 幕府 への 密告 も 人々 の 噂 ( うわさ ) になりま した。更 に シ ー ボ ル ト 自身も 林蔵 のことを、 日本政府 が 我 に 対 す る 取 り 調 べ を、 誘 致 し た る 人と 述 べて いま した。安政 5 年 ( 1858 年 ) に オランダ との 日蘭修好通商条約 締結 によって 再渡来禁止 処分が取り消され、 30 年後 の 安政 6 年 ( 1859 年 ) に再来日 した シーボルトは、30 年前に日本人女性 「 楠本 滝 」 との間に生まれ 2 歳で別れた 娘 の「 楠 本 イ ネ 」 と長崎で 再 会 しま した。 シ ー ボ ル ト は、長崎の 鳴滝 に 住居 を構えて 昔 の 門人 や 日本初の 女性で西洋医学を学んだ 娘の 産科医 イ ネ と交流 し、文久元年 (1861 年 ) には 幕府 に招 かれ 外交顧問 に就き、江戸で ヨーロッパ の 学問 なども講義 し、1866 年に、70 歳で死亡 しま した。 [ 6 : 間 宮 林 蔵 の 明 暗 ]事件が 発覚 する以前 のこと、高 橋 景 保 ( かげやす ) がまとめ上げ 、密 かに シ ーボ ル ト に コ ピ ー を渡 した 「 日 本 辺 海 略 図 」 の中 に、シ ー ボ ル ト は MAMIYA NO SETO 1808 ( 間 宮 の 瀬 戸 1808 年 ) と 記 入 しま した。 シーボルト は、前述した 著 書 「 ニッポン 」 の中で、 ユーラシア ( シベリア ) 大陸 と 島 である樺太 ( からふと、現 サ ハ リ ン ) を 隔 てる 海 峡 の発見 は、地理学上 の 大発見 である と 間宮林蔵 を讃 えま したが、この 地図 により 探検家 ・ 学者 と しての 間 宮 林 蔵 の名 は、シ ー ボ ル ト によって 不 朽 のものになりま した。 ところで 日本国内 では シーボルト 事件 の 摘 発 者 ・ 密 告 者 と して、林蔵は 一部の 人たち から 強 い 反 感 を 買 いま した。 それまでは、「 非常 の 功 を 成 し た、非常 の 人 」 ・ 「 日本 に 稀 なる 大 剛 の 者 」 ・ 「 大 旅 行 家 ・ 学者 と して 有 名 なばかりでな く、卓 越 した 武 人 と し て 名 誉 の 者 」 などともてはやされた 北方探検 の 第 一人者 と しての 林蔵 の 声望 は、密告により 一 瞬 に して 地 に墜 ちて しま いま した。 進歩派 の 人々 は、おそらく すべてが 林蔵 を 白 眼 視 したであろう し、これまで 親 しく していた 知 名 人、畏 敬 の 念 を 抱 い て 仰 ぎ 近 づ い て い た 若 い 人 たちも、あるいは 去 り、あるいは 敬 遠 し、林蔵 の 周 囲 は 急 に 寂 寞 ( せきばく ) となって しまいま した。 シーボルト 事件の 後、林蔵は 幕府の 将 軍 ・ 老 中 ・ 目 付 ・ 若年寄 などの 命 を受け、諸大名 や 市中の 動静 を探る 隠 密 ( お ん み つ ) の仕事 に 従 事 し、山陰道 を 巡視 した際に 石 見 国 ( 島 根 県 )浜 田 付近で、 支那 ( 中 国 ) と インド の間に産する珍 しい木があるのが目に止まりま した。 林蔵は薩摩への 探索 の帰 りに 大阪町奉行 の 矢部駿河守 定 謙 ( さだのり ) にこのことを告げ、大阪町奉行が 探 索 した結果、浜田藩 公認の 密貿易 の事実が 判明 しま した。 廻船問屋の 会津屋八右衛門 は 死罪、浜田藩 の 重 臣 2 名 が 切 腹、第 3 代 浜田藩主の 松平 周防守 康任 ( すおうのかみ やすとう ) は 名 乗 り を 「 下 野 守 」 ( しもつけのかみ ) と 改めさせられたうえ、永 蟄 居 ( えいちっきょ、閉 門の 上、城 内 の 一室 に 終 身 謹 慎 させる 罰 ) となりま した。 その一方で林蔵の 北方に関する知識を、重要視 する人物も現 れま した。幕府の 勘定奉行 であった 川 路 聖 謨 ( かわ じ と しあきら ) も、その内の 一人で した。聖 謨 ( と しあきら ) は ペ リ ー 来 航 の 嘉永 6 年 ( 1853 年 ) に、 老中 首座の 阿部豊後守 正弘 によって 海岸防禦 御用掛 に任 じられ、黒船来航 に 際 しては 開国を唱 えま した。 また同年、長崎に 来航 した ロ シ ア 使節 プ チ ャ ー チ ン ( Putjatin ) との交渉 にも、 川 路 聖 謨 ( かわ じ と しあきら ) は 臨 みま した。そ して 1855 年 の 日 露 和 親 条 約 締 結 の 際 には、林蔵 の 北方 に 関 する 知識 に 助けられ、日本側 が 交渉を 有利 に進めたといわれています。外交交渉の 成否 は、情報の有無が 鍵 を 握 るという実例で した。 その後幕府は林蔵に 樺太 ( 現 サハリン )から 東韃靼 ( ひが し だったん ) にわたる 地域 の 地図 を 複製 して提出するように命 じま した。しか し 林蔵は 既 に 病気 がちになっていて、作業は 遅々 と して 進 ます、天保 15 年 ( 1844 年 ) を迎 え、2 月 19 日 に 林蔵は 床に就 いたまま 動 けな く な り ま し た。そ して 2 月 26 日 に 本所 外手町 の 自宅 で 息を 引き取 りま したが、65 歳 で し た。
|