酒 に ま つ わ る こ と


[ 1 : 白 人 種 ]

人の 身体的 特徴 に 基 づ く 歴史的 人 種 分 類 にば、 白 人 種 ( コ ー カ ソ イ ド 、C a u c a s o i d ) 、 蒙 古 人 種 ( 黄 色 人 種 )  ( モ ン ゴ ロ イ ド、M o n g o l o i d ) 、 黒 人 種  ( ニ グ ロ イ ド 、N e g r o i d ) の 三大人種 がある。

この他 に オーストラリア 先住民 の オ ー ス ト ラ ロ イ ド( A u s t r a l o i d 、ア ボ リ ジ ニ ) や ポ リ ネ シ ア 人  ( P o l y n e s i a n ) を 人種分類 の 数 に入れる者もいるが、少数意見 である。

白人種

白人種を コ ー カ サ ス に ちなんだ 名前 に した結果、あたかも コ ー カ サ ス 地 方 に 住 む 白 人 種 ( コ ケ ー ジ ア ン 、C a u c a s i a n 、コ ー カ サ ス 人 ) が 白 人 種 の 先祖 とな り、そこから ヨ ー ロ ッ パ 各地に 移動 して行ったように 誤 解 され 易 い が、そうではない。

18 世紀後半に、ド イ ツ の 医学者であ り 人類学 の 父 と 呼ばれた ブ ル ー メ ン バ ッ ハ ( B l u m e n b a c h 、1752 ~ 1840 年 ) が 、人 間 を 「 コ ー カ サ ス 」、「 モ ン ゴ ル 」、「 エ チ オ ピ ア 」、「 ア メ リ カ 」、「 マ レー 」という 五つ の地名を付けて 人 種 の 分 類 を おこなった。

その後 われわれに 馴染みのある 前述 した 「 コ ー カ ソ イ ド 」、「 モ ン ゴ ロ イ ド 」 などという 名 前 に 変 わったが、彼の 最初 の 命 名 に 由 来 して いる。


[ 2 : 日 本 人 の 起 源 ]

( 2-1、北 か ら 来 た 人 々 )

マンモス・ハンター

約 3万5千 年前 には、日本列島の 一部 が、大陸と陸続きになっていたといわれている。そして 約 3 万年前に 、シ ベ リ ア の バ イ カ ル 湖 付近に 、寒冷地に適 した 北 方 モ ン ゴ ロ イ ド が 出現 した。

石刃

彼らは マ ン モ ス ・ ハ ン タ ー とも いわれて いるが、 左 写真のような 石 刃 石 器 ( せ き じ ん せっき、石 の ナ イ フ ) 文 化 を持ち 、身体の 特徴 は 扁平な 顔 で 、体毛 が 少 なかったとも いわれて いる。

約 2 万年 前 の 氷河期 には、世界中で 雪 や 氷 が 陸地 に 堆 積 ( た い せ き、積 み 重 なる ) したままにな り、 海面 が 現在 より 1 2 0 メ ー ト ル も 低下 した。その頃 、左上 の 写真の 石 刃 ( せき じ ん )を 、更に 細 か い 刃 ( 石 刃 、さ い せき じ ん ) に 加工 し、矢 の 先端に 取り付けたり、木の枝や動物の角などに 固定 して道具に 使用 する 文化を持つ 系統 の人々が 、日本列島 にやってきた。

日本で発見された 一番古 い 細 石 刃 ( さ いせき じ ん ) は、約 2万年 前のもので、北海道 ・ 千歳市 祝梅 ( しゅ くば い ) 三角山 遺跡 ( 1974 年 ) で 出土 したものである。


( 2-2、南 か ら 来 た 人 々 )

日本列島にやって来たのは 北からだけではなく、南 からもやって来た。約 3 万 5 千年 前 に 東 南 ア ジ ア から 南 方 モ ン ゴ ロ イ ド の 人 たちが 、沖 縄 や 九州 ・ 本州 にやって来て 住 みついた と されるが、いわゆる 「 縄 文 人 」 であ り 、その 特徴 は 多 毛 ・ 顔 の 彫 り が 深 く ・ 筋 肉 質 であった。

具志頭村

沖縄 本島 の 具 志 頭 村 ( ぐ し が み そん ) 港 川 ( みなとがわ ) の 採石場 から、昭和 41 年 ( 1966 年 ) に発見された 四 体分 の 人骨 は、放射性炭素法 などの 年代測定法 により、約 1 万 8 千 年 ~ 1万 6 千 年前 のものと測定され、「 港 川 人 」 ( みなとがわ じ ん ) と 命名 された。

日本 本土 では 1 万年 以上前 の 遺跡 から 数多 く 石器が 発掘 されているが 、酸 性 の 火山性 土 壌 が 多 いため 、遺体の 人骨 は 腐食 ・ 崩 壊 し 易 く 、縄文時代の 人 骨は 、静岡県 の 「 三ヶ日 、( みっかび ) 」 ( 現 ・ 浜松市 北区 ) で発見された 「 三ヶ日人 」 のほかは 、あまり 発見 されて いない。

平成 1 3 年 ( 2001 年 ) に おこなった 放射性炭素 年代測定法 により、三ヶ日人 の骨 は、 約 9 千年 前の 縄文時代 の 人骨 であることが明らかになった。


( 2-3、弥 生 人 の 到 来 )

およそ 4 千年前を境 に して、長年 継続 して いた 「 縄 文 文 化 」 が次第 に 衰 え は じ め、 青森県 ・ 青森市の 「 三 内 丸 山 遺 跡 」 ( さんな い まるやま いせき 、人口 200 ~ 400人 ) のような 大規模集落 の 数 も 激 減 し、人口 も 減 少 するという 事態 が 発生 した。

青森県 ・ 下北 ( しもきた ) 半島 にある 小川原湖 ( お が わ ら こ ) の 湖底泥中 の 植物 プ ラ ン ク ト ン を 分析 した結果 から、今から 4160 年 ( 紀元前 2165 年 ) を 境 に、植物 プランクトン は 環境悪化 の しる しである 休眠胞子 へと 変化 して いた。

つまり 狩猟採集 生活を 基本に 、植物の 管理栽培 を 行っていた 縄文人 の 集 団 は 、周囲を取り巻 く 環境の急激な 変化 に 対応 できずに、もろ く も 崩 れ 去 り 消 滅 の道をたどったのであった。

そこにやってきたのが、中国大陸から 稲作文化 を持つ 弥生人 たちであった。彼らは 高 い 人 口 増 加 率 で 在来の 縄文人 を 同化 ・ 吸収 しつつ 日本列島 に 拡散 して行き 、本土における 日本人 の 先 祖 集 団 となった。

墓地の人骨

山口県 ・ 下関市 豊北町 土井ヶ浜 にある 弥生時代 前期 から 中期の 墓地遺跡 からは約 300 体の 弥生時代の 人骨 が 出土 してお り、その弥生時代人骨は、現在の 日本人 の 形成 ( どこから来 たか、混 血 の度合 い、DNA の 構成 など ) を知 る上で 貴重な情報 を提供 している。

しか し 渡来 の 中心 である 西日本 からは 遠 く 隔 たった 北海道 と 、沖縄 本島 を 含 む 南西諸島 には 、弥生人の 遺伝的影響 が 強 く 及 ばなかったと考えられ、そのため それらの地域の住民には、 縄 文 人 の 体 質 が 色 濃 く 残 さ れ て い る


[ 3 : コ ー カ サ ス 住 人 と、 ワ イ ン ]

洋 の 東西 を問 わず、人 種 ・ 民 族 が異 なっても 、酒 ( ア ル コ ー ル 飲 料 ) は、農 耕 や それを 司 る 神 々 と 深 い 関係 がある。 酒 の 原料 となる 穀物 は、その 地 における 主な 食 料 であ り、農 耕 によってもたらされるからである。 

例 を 「 ブ ド ウ 」 に とれば、その 栽 培 の 歴史 は 古 く 、八 千年 前 に、現在 の ブ ド ウ の 原 種 が 、前述 した 、 コ ー カ サ ス ( C a u c a s u s ) 地方 で 発見 された。

現在 世界にある 主 な 二 千 種 の ブ ド ウ 品 種 の う ち、 五 百 種 ( 2 5 % ) が ジ ョ ー ジ ア ( 旧 グ ル ジ ア ) を 原 産 地 と し、そこから 派生 して いる。

この地域 は シ ル ク ロ ー ド の 北 の 道 が 通 り、山 と 大 国、二 つの 海 に挟 まれていて 、有史以前 から 文明 と 民族 が 交錯 し、複 雑 な 歴 史 と 文 化 を 育 んでき た。そ して 1810 年 以 降 、旧 ソ ビ エ ト 連邦 に 併合 されて いたが、1991 年 の ソ 連 崩 壊 によって 独立 を 獲 得 した。

コーカサス地方

 俗 に コ ー カ サ ス 三 国 と いわれるのは、 右図 で示 す 赤色 の 「1」 が ジ ョ ー ジ ア ( C o u n t r y - o f - G e o r g i a 、旧 名 グ ル ジ ア ) ・ 「2」 が ア ル メ ニ ア 共和国 ・ 「3」 が ア ゼ ル バ イ ジ ャ ン共和国 である。

ちなみに、旧 約 聖 書 の 『 創 世 記 』 第 6 章 1 4 節 に 記 された  ノ ア の 箱 舟 ( N o a h`s - A r k ) が 、大洪水 の 際 に 漂 着 した 神 話 で 知 られる ア ラ ラ ト 山 ( M o u n t - A r a r a t、 5,137 m ) は ト ル コ 領 の 東 端 にあるが、隣国の ア ル メ ニ ア は、自国領 であると 主張 して いる。


( 3-1、狩 猟 採 集 か ら 、定 住 農 耕 へ )

ブ ド ウ の 話 に 戻 ると、現 生 人 類 ( ホ モ ・ サ ピ エ ン ス ) の 大移動 の 結果 、一 部 が コ ー カ サ ス 地 域 にやって 来 た。そ して 後期 旧石器時代 ~ 新石器時代 の 狩 猟 採 集 生 活 から 定 住 型 の 農 耕 生 活 に 移行 した が、やがて ア ル コ ー ル 飲料 造 り が 始 まった 。

最初 は 食 べるため に ブ ド ウ を 採 集 したが、後 にはよ り 効率的 な 収穫 を 目指 して、 「 ブ ド ウ の 木 」 の 栽 培 が 始 まった。ある時 食用 に 貯 蔵 して いた ブ ド ウ の 一 部 が 、ブ ド ウ の 皮 に付 いていた 酵 母 の 作 用 で 自 然 発 酵 し 、ワ イ ン のようなものが 偶然 生成 された。

これが 契 機 とな り、コ ー カ サ ス 地域 にある ジ ョ ー ジ ア ( 旧 名 グ ル ジ ア ) で ワ イ ン の 醸 造 が 始 まったのは、紀元前 六 千年 頃 であり、ジョージア は 「 ワ イ ン 発 祥 の 地 」 と いわれて いる。

ギ リ シ ャ 語 で 「 複 数 の 川 の 間 」 を意味 し、チ グ リ ス 川 と ユ ー フ ラ テ ス 川 の 流域 の 平野 である メ ソ ポ タ ミ ア ( M e s o p o t a m i a 、現在の イ ラ ク の 一部 に 当 たる ) 地方 や 、古代 エ ジ プ ト に ブ ド ウ の 栽 培 および ワ イ ン の 製法 が 伝 わった。

その後、ギ リ シ ャ を 経 て ロ ー マ へ 、さらに ロ ー マ 人 によ り 、ヨ ー ロ ッ パ の 中 部 、南 部 および イ ン グ ラ ン ド で ブ ド ウ が 栽 培 されるようになった。それに 伴 い 、ブ ド ウ を 原料 とする ワ イ ン の 醸 造 も おこなわれるようになった。


( 3-2、宗 教 と ワ イ ン )

神の血

キ リ ス ト 教 では、ワ イ ン が 「 神 の 血 」 と して 尊 ば れ、洗 礼 にも 用 いられて いるが、それには 最 後 の 晩 餐 ( ば ん さ ん ) が 関係 して いる。

イ エ ス は パ ン を とって 「 これが わた しの 体 である 」 と 言 い 、杯 ( さかずき ) を とって 「 これが わた しの 血 である 」 と言って 弟子たちに与えた。

旧 約 聖 書 の 『 創 世 記 』 ・ 第 6 章 ~ 第 9 章 には 前述 した 「 ノ ア の 箱 舟 の 話 」 があるが、そ の 第 9 章 2 0 節 に 、

さ て ノ ア は 農 夫 と な り、ぶ ど う 畑 を つ く り 始 め た が、( 2 1 節 ) 彼 は ぶ ど う 酒 を 飲 ん で 酔 い 、 天 幕 の 中 で 裸 に な っ て い た。

と 記 されて いる。ユ ダ ヤ の ヘ ブ ラ イ 語 聖 書 ( キ リ ス ト 教徒 の いう 旧 約 聖 書 ) の 時代 から、ぶどう 酒 が 存 在 して いたことが 分 かる。

ちなみに、 「 旧 約 」 とは 、が モ ー セ / モ ー( M o s e s 、紀元前 1 6 世紀 または 紀元前 1 3 世紀 ごろ活躍 したとされる、古代 イ ス ラ エ ル の 民 族 指 導 者 ) の 神 話 を 通 じ て 、人 類 に 与 えた 「 契 約 」 の 意 味であ る。

本 家 の ユ ダ ヤ 教 では、 「 新 約 聖 書 」 を 聖 典 と して 認 め て い な い ので、ユ ダ ヤ 人 / イ ス ラ エ ル 人 は わざわざ 「 旧 約 聖 書 」 とは 言 わない。

ぶどう酒

絵 は 旧 約 聖 書 の 『 出 ( し ゅ つ ) エ ジ プ ト 記 』 ・ 第 1 4 章 2 1 節 の ユ ダ ヤ 人 / イ ス ラ エ ル 人 の エ ジ プ ト からの 集 団 脱 出 、( ギ リ シ ャ 語 で エ ク ソ ダ ス 、E x o d u s ) にある 光景 を 描 いたもの である。

神 が さまざまな 奇 跡 を 起 こ して 脱 出 を 援 助 したが 、脱 出 の 途中で 紅 海 ( The-Red-sea )が 二 つ に 割 れて 道 が でき 、モ ー ゼ に 率 いられた ユ ダ ヤ 人 /イ ス ラ エ ル 人 は そこを 通 って 逃 れることができた。しか し エ ジ プ ト 兵 たちが 後を 追って その 道 に 踏 み 込 むと、海 は 元通 り になって 兵士たちは 溺 死 して しまった、と 神 話 にある。

前述 した如 く、キ リ ス ト が ワ イ ン を 、 「 自 分 の 血 で あ る 」 と 例えた 逸 話 があると して、多 くの キ リ ス ト 教会 が ブ ド ウ 畑を 管理 し 、ワ イ ン の 醸 造 に 精 を 出 し、ワ イ ン を 大切 に することとなった。

たとえば、西部 フ ラ ン ス の シ ャ ン パ ー ニ ュ 地方を 原産地 とする シ ャ ン パ ン ( 発 泡 性 ワ イ ン ) の 銘 柄 に 、有名 な ド ン ・ ペ リ ニ ヨ ン ( D o m - P e r i g n o n ) がある。

これは キ リ ス ト 教 ・ ベ ネ デ ィ ク ト 派 の 修 道 院 で 、ミ サ などで 使 われる ワ イ ン を 管理 する 酒 庫 係 を して いた 修 道 士 の 、 ド ン ・ ペ リ ニ ヨ ン ( 1639 ~ 1715 年 ) が 偶然 シ ャ ン パ ン ( 発 泡 性 ワ イ ン ) を 開発 したことによる。 

キリストの血

彼が 発 酵 中 ( 炭酸 ガ ス の 出 る )の ワ イ ン を 、瓶 詰 め に して放 置 したところ、偶然 シ ャ ン パ ン ( 発 泡 性 ワ イ ン ) ができたことから ヒ ン ト を 得 て、ビ ン の 口 に コ ル ク を詰 めてそれを 固 縛 し、従来 の ビ ン の 強度を増 したものを作成 した と いわれている。

後年 になって 当該 修 道 士 の 名前 を ブ ラ ン ド 名 に した シ ャ ン パ ン が 発売 されたが、1 本 1 0 万円 以上 もする ビ ン テ ィ ジ ( V i n t a g e 、上等 な ) ものもある。

シャンドン社

写真 は、シ ャ ン パ ン の 製造会社 である 「 モ エ ・ エ ・ シャ ン ド ン ( M o e t & C h a n d o n ) 社 」 の 前 にある、 ド ン ・ ペ リ ニ オ ン 修 道 士 の 銅 像 であり、右手に シ ャ ン パ ン グ ラ ス 、左手に シャンパン容器を持っている。

この会社 は フ ラ ン ス に 本社 を 置き 、世界有数 の 規模 を 誇 る ワ イ ン 会社で 、創 業 は 1743 年。1,500 エーカー もの ブ ド ウ 畑 を 所有 し 、毎年 200 万 ケ ー ス 以上 の シ ャ ン パ ン を 出荷 している。


[ 4 : 微 生 物 の 利 用 ]

微生物 とは 肉眼でその存在 が 判別 できず、顕微鏡 などによって 観察 できる程度以下の大きさの生物を 指 す。通常 は 細 菌、菌 類、ウイルス、微 細 藻 類、原 生 動 物 ( ア メ ー バ ) などが 含 まれる。

人類 は 有史以来、微生物を 経験的に 利用 して 、 ワ イ ン ・ ビ ー ル・ チ ー ズ ・ 日本酒 ・ 焼 酎 ・ ミ ソ ・ 醤 油 ・ 漬 け物 などを 作ってきたが、その 仕組 みは 何千年 にもわたって 神 秘 の ベ ー ル に 包 まれて 来 た。

それが目 に 見 えない 小さな 生き物 である 微 生 物 によって 起 きると いうことが 分 かったのは、僅 か 150 年前 のことで あった。

微生物 は 人間 よ り はるか 昔 に 地球上 に 現 れ、地球 のあ りと あらゆる 所 に 存在 している。深海 にも地中 にも、人 や動物 の 体内にも いて、一 体 何種類いるのか誰も知らない し、新 しい 微生物 が 次々と 発見 されて、現代医学 にも 貢献 して いるが、 体に 害 を 及 ぼす ものもある。

真菌類

カ ビ は、微生物の 分類学上では 酵 母 や キ ノ コ と同 じ 真菌類 に 属 する。カ ビ の 基本形態 は 胞 子 ( ほ う し、無性生殖 のための 細胞 )、 菌 糸 、及び 特 殊 器 官 の 三つから 構成 されている。

カ ビ の 繁殖 は 胞子 によって 行われ、生育 に 適 した 条件 が 整 う と 胞子 が 発芽 し、菌 糸 を 伸長 する。写真は、ク ロ カ ビ の 胞子 と 菌糸。

菌 糸 は次第 に 枝分 かれ して 菌糸体を形成 し、形成された菌糸体から出てきた 新たな菌糸の枝に 胞子を作 り、胞子 が 再び 飛散 することで 次の増殖 サイクル へ 進む。

カ ビ 繁 殖 の 至 適 温 度 ( 酵素活性 などについて 最も 効率的 に働 く 温度、O p t i m u m - t e m p e r a t u r e ) は 2 0 ~ 3 0 度 C であることから、カ ビ の増殖を 抑制するためには 、5 度 C 以下に冷蔵 して保管することが望 ましい。

但 し、冷蔵庫の過信や庫内での食物の長期保管は要注意。 なお、参考までに 細 菌 繁 殖 の 至適温度 は、種類にもよるが、 3 0 ~ 37 度 C と いわれている。


( 4-1、ペ ニ シ リ ン の 発 見 )

実験皿

イギリスの 医師 アレクサンダー ・ フレミング が、ブ ド ウ 球菌 を 培養中 に カ ビ の 胞子 が ペ ト リ 皿 ( p e t r i- d i s h ) に落 ち、カ ビ の 周囲の ブ ド ウ 球菌 が 溶 解 し て い る のに 気 づ いた。写真は ブ ド ウ の 房 ( ふ さ ) 状に 増殖 する 黄色 ブ ド ウ 球菌 。

このことに ヒ ン ト を得 た彼 は、 青 カ ビ を 培養 し その 培 養 液 を 濾 ( ろ ) 過 した液 に、この 抗菌物質 が 含 まれていることを 実験 で 確認 し、青 カ ビ の 属 名 である ペ ニ シ リ ュ ウ ム ( P e n i c i l l i u m ) にちなんで 、「 ペ ニ シ リ ン 」 と 名付 けた 。1945 年 に ノ ー ベ ル 生理学 ・ 医学賞を 受賞 した。


( 4-2、こ こ で 小 休 止 、コ ー ヒ ー ・ ブ レ イ ク )

ペ ニ シ リ ン が 効 く 病 気

ペ ニ シ リ ン が 効 く 病気 は 、主 に 下記 の とお りである。

敗血症、皮膚感染症、乳腺炎、咽頭 ・ 喉頭炎、扁桃炎、急性気管支炎、肺炎、慢性呼吸器病変の二次感染、化膿性髄膜炎、中耳炎、副鼻腔炎、猩紅熱、ジフテリア、破傷風、放線菌症、淋菌感染症 、 梅 毒  などがある。

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コ ロ ン ブ ス が 1492 年 8 月 に 、香 辛 料 を求めるために イ ン ド への 航路 を探すのが目的で、サ ン タ ・ マ リ ア 号 を含む 3 隻の 船団、乗組員 120 名 でおこなった 第 1 回 の 探検航海では、70 日後に 西 イ ン ド 諸島の イ ス パ ニ オ ラ 島 ( 現 ・ バ ハ マ 諸島 サ ン ・ サ ル バ ド ル 島 ) に 到達 した 。

そこで 乗組員 が 原住民の 女性 から 感 染 した 梅 毒 を、 「 お 土 産 」 と して ヨ ー ロ ッ パ に 初 めて 持 ち帰 った。

1493 年 に 帰港 した ス ペ イ ン の 港 で 流行 したのが 最初 であったが、そこから 、またた く 間 に 梅毒 が ヨーロッパ 中 に、その後 世界中 に 感染 拡 大 し た。

中国の 明 ( み ん、1368 ~ 1644 年 ) と 交易 して いた 当時の日本 にも 梅 毒 が 伝播 したが、関西 では 1512 年 ( 永正 9 年 ) に 、翌年 には 関東 にも 感染が 及 んだ。

日本本土 では 琉 球 瘡 ( り ゆ う き ゆ う そ う ) あるいは 琉 球 瘡 ( り ゅ う き ゅ う か さ ) と呼 び 、琉 球 ( 沖 縄 ) では、 南 蛮 瘡 ( な ん ば ん そ う ) 唐 瘡 ( と う か さ ) と呼 んだ 。

瘡 ( か さ ) とは 皮膚 にできる 「 で き も の 」 ・ 「 は れ も の 」 などのことで、後 には 梅 毒 の 俗称 となった。ちなみに 梅 毒 が 日本 にもたらされたのは、 種子島 の 鉄砲伝来 ( 1543 年 ) より 31 年 も 前 のことであった。

この 病気 は、ト レ ポ ネ ー マ ・ パ リ ダ ム ( T r e p o n e m a - p a l l i d u m )、通 称 T P という 病原体 によって起 こ り、皮膚や 性交の 際に 粘 膜 の小さい 傷 から 感 染 し、やがて 皮 膚 ・ 内 臓 ・ 心血管系 ・ 骨 ・ 脳 ・ 中枢神経 など、全身 の器 官 が 侵 される 恐 ろ し い 病 気 である。

梅毒感染

国立感染症 研究所 の 発 表 によれば 、 平 成 2 9 年 ( 2017 年 ) の 梅毒 の 感染者 が 11 月19 日 までの 報告 で 、 5 , 0 5 3 人 ( 速 報 値 ) になったと発表 した。

5 千人を 超 えたのは 昭和 48 年 ( 1973 年 ) 以来、44 年 ぶ りで、性行為 などで 感染 する 梅毒 の増加 が続 いて いる。地方都市 や 若 い 女 性 にも 広 がっているが、感染 初期 には 患部 に 「 し こ り 」 や 、体 に 「 赤 い 発 疹 」 ができても 痛 みが無 く 、気付 きに く いため 他人 に 感染 させ 易 い。

梅 毒 患 者 の 急 増


梅 毒 の 症 状 ( 不 快 な 画 像 あ り、閲 覧 注 意 )

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( 4-3、ス ト レ プ ト マ イ シ ン の 発 見 )

ウクライナ 出身 の ユ ダ ヤ 人 で、ア メ リ カ 在住 の 科学者 ワ ッ ク ス マ ン ( W a k s m a n 、1888~1973 年 ) が、 土 壌 中 の 放 線 菌 ( ほうせんきん、細胞が菌糸を形成 して、細長 く増殖する形態的特徴を示すもの ) から 結核菌 ( ペ ニ シ リ ン の 効 かない 病原体 ) に 対する 抗生物質 を 発見 した。

彼は 土壌生物 由来の 有機化合物 とその分解を 研究 し、ス ト レ プ ト マ イ シ ン ( S t r e p t o m y c i n ) などの 抗生物質 を 発見 した。ラ ト ガ ー ス 大学 の 生化学、微生物学の 教授 と して 40 年 勤 め、その間に 2 0 を 超 える 抗 生 物 質 を 発見 した。1952 年 に ノ ー ベ ル 生理学 医学賞 受賞。

肺結核

結 核 は 産業革命 ( 18 世紀半ばから19世紀 初め ) のすすむ 世界の都市 において 、労働環境 の 悪化 、生活条件の 悪 さから 労働者や 市民の間に流行 した。日本でも かつては 「 亡 国 病 」 といわれるほど 広範囲 に まん 延 し、多 くの 死者 を 出 して きた。

昭和 18 年 ( 1943 年 ) 当時 の 日本 では 、結 核 は  効 く 薬 が 無 い 死 の 病 ( や ま い ) と 恐 れられて いて、結 核 による 年間の 死亡数 は 1 7 1 , 4 7 4 人 であった。

しか し、7 0 年後の 平成 25 年 ( 2013 年 ) の 死亡数 は 2 , 0 8 4 人 で 、死亡数 は 8 8 % も 減 少 した。

ところが 昭和 から 平成 の 時代 に 入 ると 、結核患者 の 発生件数、その人口 対率 ( 罹 患 率 ) が増加 に 転 じ、国 も 「 結 核 緊 急 事 態 宣 言 」 を出 して 注意 を 呼 びかけた。

現在の日本の 結核罹患率 は 平成27年 ( 2015年 ) では人口 10 万 あたり 14 ( 即ち 約 7,000 人 に 1 人 ) の 割 合 とな り、他の 先進諸国 よりも 数 倍 の 多 さで、日本は現在 「 結 核 中 進 国 」 と 位置 づけられて いる。


[ 5 : 酒 ( ア ル コ ー ル 飲 料 ) の 歴 史 ]

中国は世界で、最も早 く酒造りが始まった国のひとつであ り、5 ~ 6 千年以上も前に 酒造 りが 始 まった といわれている。紀元前 91 年に司馬遷 ( しば せん、BC 135 ? ~ BC 86 年 ? ) によって編纂された中国の歴史書である 「 史 記 」 によれば、中国最古の 王朝 夏 ( か ) の 初代国王 の 禹 ( う ) の 頃に、儀 狄( ぎ て き ) が 酒 を初めて 造ったと 記 されて いる。

中国の 揚子江 ( 長 江、ちょうこう ) 流域で 紀元前 4,800 年ごろに稲作が始まり、その後ここで造られた 米酒 が 日本に もたらされたのが、日本酒 の起源 とする説もあるが、日本への 渡来時期 は不明である。

日本に酒が存在することを示す最古の記録は、西暦 1 世紀頃に成立した中国の思想書、『 論 衡 』 ( ろんこう ) の記述に見られる。

成 王 時 越 裳 獻 雉 倭 人 貢 鬯  、( 恢国篇第五八 )

[ そ の 意 味 ]

周朝の第 2 代の王 である成王( せいおう、BC 1055 ~ BC 1021 年 ) の 時、越裳( え つ し ょ う、ベトナム地方の 国 ) が 雉( き じ )を 献 じ、倭人は 暢 草( ちょうそう、酒に浸 して 作る 薬 草 )を貢( こ う ) ず。

と 記 されているが、縄文時代の 後期 から 晩期 にかけて、日本のどこかの 豪族 ( 国 ) に、何 らかの 酒 類 が 存 在 し た 可 能 性 を 示 唆 して いる。


最近 日本各地における 遺跡の 発掘調査 が 進 むにつれて、また 放射性炭素 による 年代測定 などにより、縄文時代 や 弥生時代の 時代区分 が変化 しているが、ここでは 「 日本考古学 ・ 小辞典 」 による 時代区分 を使用する。

縄 文 時 代 区 分

草創期早期前期中期後期晩期
B C 10,000 ~B C 7,000B C 7,000 ~B C 4,000B C 4,000 ~B C 3,000 B C 3,000~B C 2,000B C 2,000 ~B C 1,000B C 1,000 ~A D 200

注 : B C とは 、B e f o r e C h r i s t 、紀元前 のこと。A D とは ラ テ ン 語 の ア ン ノ ・ ド ミ ニ ( A n n o - D o m i n i ) の 略で、主 ( イ エ ス ・ キ リ ス ト ) の 年 に 、という 意味。


( 5-1、縄 文 時 代 )

 日本で最初に 酒 ( ア ル コ ー ル 飲 料 ) がつ くられたのは、いつ 頃 なのかは 不明 である。2000 年 に 国 の 特別史跡 に 指定 された 、青森県 ・ 青森市 にある 三 内 丸 山 遺 跡 ( さ ん な い ま る や ま い せ き ) があるが、そこでは 縄 文 時 代 の 前 期 中 頃 ( B C 3500 年 )から 中期 末 ( B C 2000 年 ) の 大規模集落跡 が 発掘 された。

その 発掘資料 を 見 ると、建築材 と して 栗 ( ク リ ) 材が 多数用 いられると 共 に 、ク リ 花 粉 が 大量に 検 出 されたことから、当時は ク リ の 栽培 ・ 食糧化 が行 われたとされ、縄文人の 狩猟 の他に 植物性 食糧 となった ク ル ミ ・ ド ン グ リ ・ ト チ などの 木 の 実 の殻や、さらには一年草の エ ゴ マ ・ ヒ ョ ウ タ ン ・ ゴ ボ ウ ・ マ メ などといった 栽培植物 も出土 した。

そのため 縄文 晩 期 から 弥生時代初期 にかけて、弥生人 が 稲作文化 を 伴って 中国 の 長江 ( 揚子江 ) 下流域 や、朝鮮半島 経由で 日本列島に渡来 し、速い速度で各地 に 伝播 ・ 拡散 した。

そ して 米 などの 穀物 や イ モ 類、木の実 などを 原料 と した 「 口 噛 み 酒 」 ( く ち か み ざ け、後述 する ) が 作 られて 行ったと 推定 される。


( 5-2、弥 生 時 代 )

稲 作 農 耕 文 化 を 持つ 弥生人 たちが 日本に 到来 し 、定住 するようになったが、 水 稲 ( 注 参照 ) を 原料 に した 酒 が 造 られるようになった。その 特徴 は 米 の デ ン プ ン 質を 糖 化 するのに、 米 麹 ( こ め こ う じ ) を 利 用 して いたことであった。

注 : 水 稲 と は

水田で 栽培する イ ネ を 水 稲 ( す い と う 、l o w l a n d - r i c e ) と い い、畑 で 栽培 し、水不足 へ の 耐 性 ( 耐旱性 、 た い か ん せ い ) が 強 い イ ネ を 陸 稲 ( り く と う 、お か ぼ 、u p l a n d - r i c e ) と いう。 しか し 陸 稲 は 、水 稲 に 比 べ て 収穫量 が 少 な く、味も 落 ちるものが 多 い。

カ ビ を利用 して穀物 のデ ン プ ン を 糖 化 する方式 は、北は 中国 ・ 南 は タ イ ・ フ ィ リ ピ ン ・ イ ン ド ネ シ ア に及ぶ 広 い地域に見られるが、カ ビ の種類 や 麹 ( こ う じ ) の 原料 ・ 形態 ・ 処理方法 などは、同 じ麹 ( こ う じ ) 文化圏 においても、地域 により 異なっている。

餅こうじ

酒 ( ア ル コ ー ル 飲 料 ) についても、日本を含む 東 ア ジ ア 一帯 は 「 麹 ( こ う じ ) の 酒 」 圏 と 位置 付 けられて いる。同 じ 「 麹 の 酒 」 の 圏内 でも、中国 ・ タ イ ・ フィリピンでは 、「 く も の す カ ビ 」 や 「 毛 カ ビ 」 をは じめ 様々な 種類 の 微生物 が混在 して 繁殖 した 「 餅 麹 」 ( も ち こ う じ ) が用 いられる。

  麹の形状は食文化と関係 している。中国では 麦 や 雑穀類 を 粉 に して 常食 するようにな り、それが 「 餅 麹 」 を 東南 ア ジ ア 各地 に伝わらせた理由である。 一方、日本では 加 熱 した 米 を そのまま 常食 することが 早 くから 定着 したため、酒造 りに 必要 な 撒 麹 ( バ ラ こ う じ )  の入手が容易であった。

バラ麹

撒 麹 ( バ ラ こ う じ ) とは、米粒または粗く挽(ひ)き割った 米粒 の表面 に 糸状菌 を生や したものをいう。散 麹 ( バ ラ こ う じ ) の特徴は、甑 ( こ し き ) で蒸 した 米 粒を 原料 とするため、前述 した 餅 麹 ( も ち こ う じ ) とは 異な り、糸状菌 と して 麹 菌 ( こ う じ き ん ) が優先的 に生える。


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