勝ち組、負け組

いまどき勝ち組、負け組と言えば多様化した日本の産業経済界において、成功を納めて発展する企業と、取り残され斜陽となった産業やビジネスの話の如くに思われますが、その話ではありません。

[1:ハワイの勝ち組]

こじま

昭和30年(1955年)の秋に私は海上保安大学の練習船でハワイに 遠洋航海 に行きましたが、その当時ハワイに住む日系人の間には日本の敗戦を未だに信じない 勝ち組 と、敗戦の事実を率直に認める 負け組 のグループがありました。( 写真は三代目の、練習船こじま )

戦艦ミズーリ

昭和20年 ( 1945年 )9月2日に、東京湾に浮かんだ戦艦 ミズーリ艦上でおこなわれた日本の降伏調印式の際の写真に、勝ち組が修正を施してミズーリの マストに、日の丸を掲げている写真を作りました。勝ち組はそのインチキ写真を仲間に見せては、日本が太平洋戦争に勝ち、米国が降伏したとする証拠写真にしました。写真は平成4年( 1992年 )に退役した ミズーリが、平成11年 ( 1999年 )からハワイの パールハーバーで、戦争博物館として繋留されているものです。

ちなみにハワイへの移民は明治元年 ( 1868年 )6月に日本最初の海外移民を乗せた英国の帆船 サイオト 号が、153名 ( 内訳、男 146名、女 5名、子供 2名 ) の移民を乗せて横浜を出港したのが最初でした。明治元年に日本を出たので、彼等を元年者と呼びました。明治21年(1888年)には当時独立国でしたハワイ王国との間に協定を結び、7年間で3万人の移民を送り出しました。

日清、日露戦争以来日本で高まった国粋主義と、日本の愛国心を植え付けられたその後の移民たちは、英語の読み書きは勿論できず、英会話もハワイで暮らす内に簡単な日常会話ができる程度で、ラジオ放送を聞いても意味が分からない人が大勢いました。太平洋戦争の開戦と同時に日本語新聞の発行が禁止され、日本語による情報が遮断された為に、敗戦から10年経っても日本が太平洋戦争に敗れた現実を認めない人達もかなりいましたが、それらは勝ち組と呼ばれました。

宴会

我々がホノルル港に停泊中にはいろいろな歓迎行事や県人会などがありましたが、ある時招待された日系人会の宴会では、天皇陛下万歳を三唱させられ、帰りにはお土産として慰問袋をもらいましたが、実は勝ち組が主催した宴会でした。(写真の青印は、わたくしめ)

慰問袋

慰問袋については今では知らない人が殆どでしょうが、戦時中に戦地の兵隊さんを慰める為に、銃後(内地のこと)の人々が兵隊さんが喜びそうな日用品、缶詰、キャラメル、ドロップなどの品に慰問の手紙、小学生の書いた絵などを添えて、慰問袋と印刷された布の袋に入れて戦地に送る物でした。その当時の国民学校(小学校)の児童は低学年を除き、多くの児童が慰問袋に入れる手紙や絵を書いたものです。

兵隊さんお元気ですか、僕も元気です−−−。
しかし若い兵隊達が最も喜んだのは小学生からの手紙ではなく、女学生 ( 現在の女子高生 ) の手紙とその写真だったそうです。 食糧難が深刻では無かった太平洋戦争開始当時は隣組に慰問袋の割り当てがあり、各家庭ではそれなりの品物を入れて送りました。

フラダンス

その慰問袋を敗戦から10年後に、私達はハワイで勝ち組から初めて貰いましたが、 敗戦後に慰問袋を貰ったのは、多分私達だけではなかったかと思いました 。練習船に帰って中身を見ると、ハワイ島( Big Island )産の コナ・コーヒーや、パイナップルの缶詰、キス・チョコなどのお菓子が入っていました。なお写真の慰問袋のデザインは、私達が戦時中に見た物とはデザインが異なり、日の丸などはありませんでした。

  現在ハワイのホノルル市には Hololulu Advertiser や Honolulu Star-Bulletine などの英字新聞がありますが、その当時は人口の 30パーセント 近くを占めていた日系人が読む新聞に、布哇( ハワイ )・タイムスがありました。日本語と英語の両方で印刷されていて、漢字には「ルビ」も振られ、活字の字体も記事の文体も、まさに明治、大正時代の新聞そのものでした。その時代の人達が移民してその時代の活字で新聞を発行し、戦後も同じ活字を使用して当時の紙面の様式を引き継いで来たからでした。

その当時評論家の大宅(おおや)壮一(現在の評論家、大宅映子の父親)によれば、

明治、大正時代の日本人を見たければ、ハワイに行けばよい。
でしたが、祖国を離れた頃の生活習慣や考え方を時代の変化を受けずに、そのまま持ち続けた人達の姿でした。

ハワイの勝ち組もその後日本の親類縁者からの直接の情報入手や、日本人のハワイ訪問などにより敗戦の現実を認めざるを得なくなり、やがて自然消滅しました。

[2:ブラジルの勝ち組、負け組]

ハワイは日本に近いせいか勝ち組、負け組による大規模な抗争事件は起きませんでしたが、日本から遠く離れ地球の裏側にあるブラジルの日本人社会では、太平洋戦争に敗れ無条件降伏をしたのは、 日本ではなく アメリカ でした。そしてこれを認めない者は、 非国民 とされました。

笠戸丸

ブラジルへの移民が始まったのは明治41年( 1908年 )で、移民船 笠戸丸 781名が乗り海を渡ったのが最初でした。コーヒー農場への契約移民として入植したものの、半年後の耕地残留者は 342名、( 44% )になり、一年後の耕地残留者は 191名、( 24% )でした。

その当時耕地で通訳を担当した加藤順之助によれば、移民のうち日本での 農業経験者は僅か七分の一に過ぎず 、移民たちが離農した原因は農業移民としての適性や、心構えの欠如にありました。写真は当時の笠戸丸を描いた絵です。

[3:夢の破綻]

日本人移民は誰もが、移住ではなく出稼ぎが目的でした。一攫千金を夢見て行李や トランクにいっぱい札を詰めて日本に戻り、故郷に錦を飾るという 錦衣帰国が皆の共通した夢でした 。しかし日本の社会で成功とは無縁の、 むしろ下積みの生活をしていた人達が ブラジルに行き、成功して望み通りの金持ちになれる可能性などは百に一つもありませんでした。多くの日本人は ブラジルでの厳しい現実に夢が破れ日本への帰国を望みましたが、旅費が無いのでやむなくブラジルに留まることになりました。

バウルー管内の邦人という調査報告書がありますが、サンパウロ ( S^ao Paulo ) 州の中央に位置し、交通の要衝である「バウルー」に暮らす1万2千の日本人家族について、昭和13年 ( 1938年 )に調査したものです。それによれば、

  1. 帰国希望者は 85パーセント

  2. ブラジル永住希望者が 18 パーセント

  3. 不明が 5 パーセントでした。

一方ブラジルにおけるコーヒー農園の経営者にすれば、農業奴隷を買うには高いカネが必要でしたが、日本からの農業移民であれば安い賃金で雇い、奴隷並みの労働をさせることができるという目論みがありました。

[4:落ち葉からでも芽が出る?]

芥川賞作家の石川達三は昭和5年( 1930年 )当時、神戸から出港した南米への 移民船ラプラタ( La Plata )丸 に移民監督官として乗船しましたが、彼がその経験を基に書いた 小説( 蒼氓、そうぼう )が、昭和10年( 1935年 )に創設された第一回の芥川賞を受賞しました。その作品に依れば 落ち葉

移民いうものは、落ち葉みたいなものと思うとりますわい。つまり村で生きて 居れるだけ 生きてなあ、−−−葉の青い内は−−−。

どうにも生きられん様になった者は枯れて落ちる。落ちたところでまあ、移民収容所へ集まって来るんじゃと、つまり此処は 落ち葉の吹き溜まり ですら。それが ブラジルに行ったら、また何とか 落ち葉からが出てなあ−−−。

[ 5:臣道連盟 ]

錦衣帰国の夢を絶たれたブラジルの日本移民を待ち受けていたのは、太平洋戦争開戦に伴う日本とブラジルとの国交断絶でした。日本人が多く住むサンパウロ州では戦時特別取締令により

  1. 日本語で書かれた文書の配布禁止。

  2. 日本の国歌の演奏禁止。

  3. 日本の要人(天皇、皇族、政治指導者)の肖像掲載禁止。

  4. 公衆の面前での日本語の使用禁止。

でした。しかも開戦当初の日本はパールハーバー以後、ホンコン占領、シンガポール占領、マニラ占領などと連戦連勝でしたが、その後に日本語による情報が途絶したために、戦争終結と聞いた時に多くの日系人が思ったことは 日本の勝利でした 。 敗戦後も日本精神に凝り固まり日本の勝利を信じた「勝ち組」は臣道連盟という結社を作り、自派の拡大を目指して 組織的な活動を展開しましたが、敗戦を認める「負け組」との対立はその後大規模な抗争テロ事件にまで発展しました。

勝ち組 は、敗戦を認める 非国民 の「 負け組 」幹部らにテロ行為を働き、 23人を暗殺し、147人の負傷者を出しました 。この事件はブラジルの日本移民社会においては現在でも タブーであり、半世紀もの間、一世の間で封印されてきました。それゆえ二世、三世の間でさえ知るものは少ない状態でした。

[ 6:日本語の情報途絶 ]

移民の家

ではなぜこの混乱が起きたのでしょうか?、その原因は前述の如く主に日本語による情報入手の困難性にありました。現在日本の人口は1億2千万に対してブラジルは1億5千万ですが、新聞の発行部数を見るとブラジルでは地方紙も入れて日刊新聞の発行部数は8百万部にしか過ぎず、人口千人当たり僅か55部に過ぎません。これに対して日本では発行部数7千2百万部で、千人当たり約6百部で、ブラジルの約11倍になります。 日本に比べ現在でも情報量は桁違いに少ない状況ですが、太平洋戦争が終わった1945年当時のブラジルは、情報、通信の分野ではひどく立ち遅れた 情報後進国でした 。( 写真は日本人移民の家 )

その国でポルトガル語が分からず日本語しか話せない日本人移民三十万人は、新聞にも雑誌にも見放されて戦時中の四年の歳月を送りました。その間たった一つの情報源は日本からのラジオ・トウキョウの短波放送でしたが、それを聴くことができたのは高価な短波受信機を購入できた、ごく少数の人達だけでした。それさえも、敗戦後には占領軍により放送が停止されました。

[ 7:情報の門戸を 自ら 閉ざした勝ち組 ]

では勝ち組の人達はなぜブラジル人からの、正しい情報が得られなかったのでしょうか?。ブラジルで日本語新聞を発行していた日系人記者の言葉によれば、勝ち組に共通していたのは
自分たちは一等国民で、ブラジル人は三等国民である
という 異常に強い日本人としての 優越感 でした。そこには相手を見下す感情しかなく、謙虚さ、観察能力も好奇心もないため相手を理解することは不可能でした。従って相手側から情報が入って来るはずがなく、自分たちの主義、主張に合わない情報は全て否定したことが原因でした。 ブラジルの日本人社会における前代未聞の「 勝ち組、負け組 」の大混乱は、その頃開かれていた ブラジルの憲法議会で、「 日本人移民の禁止 」条項を入れるか入れないかの議論まで呼び起こしました。

[8:高い文盲率と低い所得、不衛生]

国連開発計画 ( UNDP、United Nations Development Program ) の 人間開発報告書 2003 によれば、2000年8月現在、ブラジルにおける15歳以上を対象とした全国平均での文盲率は 13.6 % と報告されていますが、自分の名前すら書けない人々が多数いるそうなので、この数字は現実を正しく反映しておらず、貧困地域での文盲率はさらに数10% 高いといわれています。

更にハンセン病の新しい患者発生数は毎年 4万人 といわれていますが、W H O ( 国連の世界保健機構 )の2002年の報告書によれば、その数は 41,070人 でした。、人口が3千万人ほど少ない日本の新しい患者が毎年一桁なのに比べて、ものすごい多さです。しかし何事も上には上があるもので 新患者数の最多はインドで、その数はなんと 559,938人 ( 人口10万人当たりの新患者率、55.2人 )でした。

ブラジルには世界最大といわれるものがありますが、それは貧富の格差です。僅か 1 パーセントの大金持ちが全国民所得の 5割を握っている反面、国際的な貧困層の定義である 国民平均所得の半分以下の人が、国民の 60 % もいます。更に 月収 70ドル(7,700円)以下 極貧層 は、国民の 32.1 %に相当する 5千4百万人 にのぼります。

この所得格差の原因の一つには、ブラジル国内の地域格差があげられます。南東部などの豊かな地域が先進国並に発展している一方で、未開発の北部や中西部、しばしば「 干ばつ 」 に襲われる北東部などの生活水準は、それこそ最貧国並にとどまっているのです。

参考までに国別 貧困層の割合 では、 日本は14.3 %、英国は15.%、イタリア16.6 %、 米国 21.9 %、メキシコ 27.7 %で、報告書によれば 貧困層の割合は、政治に占める社会保障の充実度に反比例する とありました。

[ 9:立場の逆転 ]

ブラジルへの移民は前述のように出稼ぎが目的でしたが、 錦衣帰国の夢が破れた 多くの一世移民たちは、心ならずもブラジルに永住を余儀なくされました。ところが日本経済の発展に伴いブラジルとの経済格差が広がると、昭和63年 ( 1988年 )からは ブラジル日系人による日本への「 本格的な出稼ぎ 」が始まり、平成2年 ( 1990年 )6月の日本における「 出入国管理及び難民認定法 」( 入管法 )の改正により、日系人の就労が合法化されると、日系の子孫たちによる出稼ぎが加速されました

その後の日本経済の低迷にもかかわらず、日系人の 「 出稼ぎ 」 はかなりの規模で続き、現在日本に在留する日系 ブラジル人の数は 30万人 になりましたが、日本の自動車産業、製造業などにとって無視できない労働力となっています。彼等が祖国に仕送りする外貨は年間20億ドル ( 2200億円 )になり、ブラジルにとっても貴重な外貨収入となっています。

サンパウロ市内 敗戦後にブラジルに移民した一世は経済的理由や老齢から帰国を断念しましたが、その二世、三世は母国での収入( 都市部で月額2〜4万円 )よりも 5倍〜10倍 も高収入が得られる日本に出稼ぎに来るようになりました。その結果 ブラジルに 錦衣帰国 して家を建てたり、また子供の教育や将来の為に逆に日本に定住し、働ける間は働き畜財に励むという、皮肉な 逆転現象 が起きています。( 写真はブラジル・サンパウロ市内の東洋人街にある三越まえ )

[ 10:出稼ぎ帰りを狙う強盗 ]

貧困がもたらすものは必然的に治安の悪化と、犯罪の増加です。平成17年9月10日、リオ・デ・ジャネイロ [ Rio ( 川 ) De Janeiro( 1月 )、1月の川の意味 ] 発の外電によれば、サンパウロ州東部で 2人組の武装強盗が戦後に長野県から移民した米倉貞 ( ただし ) さんの家に押し入り、金品の保管場所を聞き出そうと12時間にわたって暴行を加え、貞さん(68)、妻(64)、長女(31)、二男(26)、長男の妻(28)を銃で殺害しました。現金5,000ドル(55万円)を奪い、家に放火して逃走しました。

米倉さんの息子夫婦が初孫を見せに、出稼ぎ先の日本から 休暇で帰国した当日のことでした が、逮捕された犯人の一人は殺害された二男とは幼なじみで、米倉さん宅に事前に電話して、長男の帰国予定を聞き出していました。ブラジルでは出稼ぎ帰りの日系人を狙った強盗、殺人事件が多発していて、生活苦にあえぐ ブラジル人にとって 日系人の出稼ぎは羨望の的 でした。

なお犯人の一人 リカルド・サントス ( 26才 )は、平成18年1月17日に サンパウロ裁判所で 懲役165年 を宣告されましたが、共犯の男は昨年10月に逮捕に向かった警察隊と銃撃戦をおこない射殺されました。


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