昔のハワイ

[1:船の旅]

私が初めてハワイを訪れたのは昭和30年(1955年)の秋でしたが、飛行機ではなく海上保安大学の練習船でした。

敗戦後の日本は産業が疲弊して輸出すべき産品が不足して国際貿易収支は赤字が続き、外国為替レートは一ドル360円の固定制でした。遠洋航海に行く我々学生に割り当てられたドルは一人当たり僅か30ドルでしたが、ちなみに庶民が自由に海外旅行に行けるようになったのは、経済の復興が進み日本の外貨不足が解消した昭和39年(1964年)からでした。

昭和30年当時の日本からアメリカ西海岸のサンフランシスコに行くには、就航したばかりの民間航空機では航空運賃が十五万円でしたが、大卒サラリーマンの初任給が一万円あるか無しかの時代に月給の十五ヶ月分という金額は、現在の貨幣価値に換算すれば三百万円に相当しました。

昭和23年頃から流行った、歌手の岡・晴夫の歌謡曲に、「憧れのハワイ航路」がありました。

晴れた空、そよぐ風、港出船のドラの音(ね)愉(たの)し、別れテープを笑顔で切れば、希望(のぞみ)果てない、遙かな潮路、あーあー懐かしのハワイ航路
プレジデント・ウイルソン号 海外に行くのが庶民にとっては手の届かない夢や憧れであり、それも船の利用でした。その当時ホンコン、神戸、横浜、ホノルル、サンフランシスコを結ぶ太平洋航路には、アメリカン・プレジデント・ライン( A P L )という船会社が定期客船を運航していましたが、船名にはプレジデント・ウイルソン号とかプレジデント・モンロー号のように、必ずプレジデントの名前を付けていました。写真は横浜のサウス・ピア( South Pier )で船飾をしているウイルソン号を撮したものです。
皇太子のマージャン

昭和28年4月におこなわれた英国のエリザベス女王の戴冠式の際には、当時の皇太子(現、天皇)が昭和天皇の名代として出席しましたが、横浜からハワイ経由のプレジデント・ウイルソン号に乗ってサンフランシスコに行きました。航海の途中で皇太子が一等船客達と、マージャンに興じていた珍しい写真がありますが、皇室でもマージャンをするとは知りませんでした。19才の皇太子が誰からルールを習い、どのようにして腕を磨いたのかが興味のあるところです。

[2:船酔い]

時化の海 私達九十名の学生は練習船に乗り東京港からハワイに向けて出港しましたが、東京湾を出たとたん時化(シケ)に遭い船が大きく揺れだして船に弱い連中は私を含めてたちまち船酔いになりました。お客さんではないので船酔いしたからといって仕事をさぼるわけにはいきません、吐き気を堪えながら天測、操舵、見張りなどの当直の仕事をしました。

六分儀

船の生活は昼夜とも四時間当直に立つと八時間休養のパターンの繰り返しでしたが、学生は休養の時間中にも六分儀を使い太陽や星の高度を測り、天測暦と天測計算表を使用して船の位置を求める天測の実習や教室での講義、食卓当番などがありました。船酔いで気分が悪いのは誰もが同じで誰かが嘔吐を始めると、それに連られて自分よりも船に弱い者がいたという安心感から皆も吐くようになりましたが、つまり嘔吐の連鎖反応でした。

船尾を洗う大波

時化(シケ)は更にひどくなり船首から波をかぶるだけでなく、船尾も大波が洗う状態になりました。胃の中に吐く物が無くなると次には黄色い胃液を吐くようになり、その内に胃が嘔吐運動をしても胃液も出なくなりました。これを野球のバッターに例えて空振りと称しましたが、空振りをすると胃が雑巾でも絞るように絞られて痛くなり苦しい限りでした。

それを防ぐには一度吐くとしばらくの間は気分が良くなるので 、すぐに水を飲むことにしました。そうすれば次に吐き気が襲って来た時には水だけ吐くので、胃は空振りをせずに済み従って痛くならないからです。端的に言えば胃を水で洗浄するようなものでした。

しかし船酔いで食欲は全く無くこのまま水だけ飲んで食事を食べずにいると、ハワイに着くまえに餓死してしまうのではないかと自分ながら心配になったので、三日目からは無理して梅干で「おかゆ」を少しずつ食べ始めました。人間とは不思議なもので、そのうちに船の揺れに慣れてきて食事が食べられるようになりました。食事の際にミソ汁がお椀の中で傾いたり、入浴の際に海水風呂の表面が浴槽の中で傾くのを見て船の揺れに気が付く程度で、揺れがほとんど気にならなくなりました。

サメ

ホノルルの200マイル手前で入港の時間調整をすることになり、無人島である「ニホア、( Nihoa )」の付近で約一日船を停めて漂流しました。航海中に船体の一部が波浪で叩かれペンキが剥げたので、その際に部分的にペンキを塗る化粧直しの作業( Touch up )をしましたが、船体の外側に足場を垂らしてその上に乗って白いペンキを部分的に塗りました。水線近くを塗っていると何か動く気配を感じたので、下を見ると足場のすぐ下で海面に突き出た黒い物が動いていました。それは三メートルもある大きなサメで、背ビレを海面上に出して泳いでいました。船から捨てた残飯を目当てに魚が集まり、それを餌にしようとサメが船の周囲を泳ぎ回っていたのでした。恐ろしくなって慌てて命綱を締めました。

[3:日本の水]

私

プレジデント・ラインの客船ならば一週間でハワイに行くところ、我々は二週間近く掛かってハワイのオアフ島にあるホノルル港のアロハ・タワー近くの岸壁に着きました。いろいろな歓迎行事がありましたが、ホノルルに住む日系人達が水筒を持って船を訪れては、船の水道の蛇口から「日本の水」を詰めて帰りました。それだけ日本が懐かしかったのしょう。右は繋留した船上の写真ですが、首に掛けているのはハワイの歓迎のレイ( Lei、花輪 )で、前述した岡晴夫の「憧れのハワイ航路」、「はーれた空」でも歌いたくなりました。

社交ダンス

船の食事時間になると決まって来船する日系人もいましたが、ハワイに出稼ぎ移民に来て成功し、やがては故郷に錦を飾ることを夢に見たものの、運に恵まれずに三度の食事にも困り、練習船の食事にありつこうとする気の毒な人達でした。学生達は県人会や知人宅への招待、日系人女子の Y W B A ( Young Women's Buddist Association )主催のダンス・パーディーなどに出席のため遊びに出てしまい食事が常に余るので、残飯として捨てる食事を必要な人に食べてもらいました。

[4:アメリカ文化]

敗戦後の貧しかった日本からハワイを訪れて、初めて接したアメリカ文化とは、
ボタンを押せば、冷たい水が出る水飲装置( Water Fountain )

ハンバーガー、

紙パック入りの牛乳

紙の手拭きタオル

などでした。それまで船内では東京港で給水した、生ぬるい真水タンクの水を水道の蛇口から常に飲んでいたので、冷水が出る水飲み機は便利な物と感心しました。ハワイでは朝食の際に紙パック入りの牛乳を毎日飲みましたが、紙パック入りの牛乳は当時の日本にはありませんでした。日本で牛乳の容器といえば、大、小の牛乳瓶でしたが、日本で最初に紙パック入りの牛乳が生産されたのは昭和31年(1956年)の7月で、「テトラ牛乳」が三角形の紙パック入りを製造販売しました。

しかし瓶に比べて中身の牛乳が見えない、三角形の容器では冷蔵庫に入れにくいなどの理由からあまり流行りませんでした。日本では当時洗面所やトイレで手を洗った後には、携帯したハンカチで手を拭くため、小学生が学校に行く際には、ハンカチ、鼻紙忘れずにと親から躾けられたものでした。ハワイのトイレでは手を洗った後に、紙で拭いて捨てるのも初めての経験でした。車を持つ庶民の生活など当時の日本とは比べものにならない生活の豊かさ、物資の豊かさに驚きました。

日系人の年寄り達が使う言葉には、日本語と英語が入り混じり奇妙な状態でした。「自分」のことをミー( Me )、「娘」のことをギョ−ル( Girl )、子供のことをツーリン( Children )、砂糖キビを刈り取るのをカチケン( Cutting sugar Cane )などと言っていました。

[4:林立するホテル街も、昔は]

昔のワイキキの様子

五十年前のワイキキにあったホテルといえば、桃色のロイヤル・ハワイアン・ホテルを初め、モアナ、シェラトン・ハワイアン・ヴィレッジなど四つ程度しかなく、海岸まで椰子などの林が続いていました。現在のようにワイキキの「カラカウア通り」や「クヒオ通り」に面して林立するホテルやコンドミニアムの高層建築を見ると、文字通り隔世の感がします。

クヒオ・ビーチの景色

右側の写真はワイキキ・ビーチの東側(ダイアモンド・ヘッド寄り)にあるクヒオ・ビーチ( Prince Kuhio Beach )から、ワイキキ方面を撮った10年前の写真ですが、昔のワイキキ・ビーチと比べて見れば、その変わり様に驚かされます。

[5:コダック・フラ・ショウ]

海岸でのフラダンス 私が昭和30年に初めてハワイを訪れた当時は、写真のコダック社がスポンサーになっていたフラダンス・ショウが、カピオラニ公園の海岸を背景にして毎週火、水、木曜日に催されていて、大勢の観光客が見物に訪れていました。もちろん我々も団体バスに乗り見物に行きました。

移動後のフラ・ショウ しかし昭和60年に訪れた時には海岸からホノルル動物園の近くに会場が移転していました。1937年から続いていたこのフラダンス・ショウも、2001年9月に起きた W.T.C.に対するテロ攻撃の結果、ハワイへの観光客の減少や航空会社などの観光関連産業の不振により、コダック社が65年間続いたスポンサーを降りてしまい、2002年9月で打ち切られましたが残念なことでした。

[6:枕探しに遭う]

昭和33年(1958年)に二年間の米国留学を終えて帰国する際に、ハワイで一週間過ごしましたが、その際にハワイ諸島で最大のハワイ島( Big Island )に遊びに行きました。オアフ島のホノルルからハワイ島のヒロ( Hilo )まで飛行機で行きましたが、三十人乗りのプロペラ機( D C-3 )でした。ヒロ空港から当時運行していた個人経営の乗り合いバスに乗り、キラウエア火山の噴火口を見渡せる位置にあり、歴史のあるボルケイノ・ハウス( 火山ホテル、Volcano House )に行く途中でバスのタイヤがパンクしました。

周囲には家が無く日系人の家が一軒だけあり小さな雑貨屋をしていたので飲み物を買いに入ったところ、その家の主人から「ホテルに泊まらずに家に泊まりなさい」、それに日本のことも聞きたいからということで、ホテルの予約をキャンセルしてその家に泊まりました。

アカカの滝 翌日は主人の車に乗り噴火口や溶岩地帯、ヒロの「アカカ( Akaka )の滝」や海岸にあった日本庭園などを案内してもらいました。日本庭園はその後1960年(昭和35年)にヒロを襲ったチリ地震津波により、破壊されてしまいました。朝、目覚めた時には既に出勤していた長男にお礼を言う為にヒロ市内を案内してもらう際に、長男が働く小さな自動車修理工場の前を通りました。昨夜のお礼を言おうと三十才前後の長男に会いましたが、その際に彼から出た最初の言葉が「何かありましたか?」でした。

変なことをいうなと思いましたが、空港までそのまま主人に送ってもらい別れました。ハワイ島の隣にあるマウイ島に行くために航空券を取り出す時になって、長男の言葉の意味が分かりました。昨日その店で飲み物を買う際に二十ドル紙幣が六枚財布の中にあったのに、それが僅か一枚しかなかったからでした。

夕食の際に酒を飲ませてもらい熟睡した最中に、例の長男が財布から100ドル(3万6千円、当時の大卒サラリーマン初任給の3ヶ月分)を抜き取ったのに間違いありません。昔は宿屋に泊まる旅人が枕の下に財布を入れて寝たので、睡眠中の旅人から財布を盗むのを「枕探し」と呼びましたが、私にしてみればまさか日系人の家で「枕探し」の被害に遭うとは予想もせずに、財布をズボンのポケットに入れたままソファの上に置いて寝たのでした。飛行場でマウイ島行きの計画をキャンセルしてホノルルに戻りましたが、遠洋航海の時に知り合った友人が自宅に泊まるように奨めてくれたので、その家に三日間厄介になり楽しく過ごしました。

キラウエア火口 27年後に女房を連れてハワイ島に遊びに行き、ヒロ空港でレンタカーを借りてキラウエア火山の見物に行く途中で、「枕探しの日系人の雑貨屋」を探しましたが、見覚えのある大木はあったものの雑貨屋は土台だけが残っていました。海外旅行の際には見ず知らずの人の親切や、カモを待ち受ける現地の日本人には用心しろという言葉がありますが、この家で私以外の日本人旅行者が、「枕探し」の被害に遭わなかった(?)ことを祈りました。

なお日系人はバナナであるという言葉もありますが、外皮は黄色でも中味は白い(白人並にドライ)というのです。

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