監 獄 と 刑 務 所 、雑 感
[ 1: は じ め に ]監 獄 と は 人 を 拘 禁 す る と こ ろ で あ っ て 、人 を 処 罰 す る と こ ろ で は な い と いう 思想 は、ローマ 時 代 ( 紀元前 5 0 9 年 ~ 紀元前 2 7 年 ) から 行 われ、古 代 ・ 中 世 を 通 じて 近 代 初 頭 に 至 るまで 存 在 した。 それは 当時 の 主 たる 刑 罰 が 死 刑 と 身 体 刑 ( 身体に 損傷 または 苦痛 を 与える 刑罰、 肉 刑 ともいう )であって、監 獄 は 単 に 犯 罪 者 を 処 罰 するまでの 間、拘 禁 する 場 所 と して 使 用 されたことに 依 る。( 1-1、鎌 倉 時 代 の 刑 罰 ) 古代日本では 大 宝 律 令 ( 7 0 1 年 ) に 続 く 律 令 ( り つ り ょ う ) と して 養 老 律 令 ( よ う ろ う り つ り ょ う ) が 天平宝字 ( て ん ぴ ょ う ほ う じ ) 元年 ( 7 5 7 年 ) に 施 行 され、政治体制 を 規定 する 根本法令 と して 機能 した。「 律 」 とは 犯罪 やその 罰則 を 定 めた 現 代 の 刑 法 に 相 当 し 、「 令 」 ( り ょ う ) とは 行 政 の 施 行 規 則 であった。 しかし、平安時代 に 入 ると 現実 の 社 会 ・ 経 済 状 況 と 矛 盾 を 生 じるようになり、遅 くとも 平安 中 期 には ほとんど 形 骸 化 ( け い が い か ) し て、律令 制 定 の 意 義 が 失 われた。 さらに 古代 から 律 令 は 朝廷 に 仕 える 貴 族 が 主 に 用 いて いた ものの、武士 の 習 慣 や 実 態 に 合った 法 律 は 存 在 しなかった。 鎌 倉 幕 府 (1192年 ~ 1333 年 ) では 源 頼朝 の 死後 北条氏 が 台 頭 し 、北条義時 が 侍 所 ( さ む ら い ど こ ろ 、軍事 ・ 警察 を 担う 組織 ) の 別 当 ( べ っ と う 、責任者 ) と、 政 所 ( ま ん ど こ ろ 、一 般 政 務 ・ 財 政 を 司 る 部 署 ) の 両 別 当 職 を 兼 ね、幕府 の 実 権 を 握って 執 権 ( し っ け ん ) と 称 した。以後 北条氏 が 執権を 世 襲 し、鎌倉幕府 の 事 実 上 の 最 高 責 任 者 となった。 そこで 元 仁 ( げ ん に ん ) 2 年 ( 1224 年 ) に 鎌倉幕府 の 執 権 となった 北 条 泰 時 が、評 定 衆 ( ひょう じょう しゅう ) と 共 に 御 成 敗 式 目 ( ご せ い ば い し き も く ) を 編 纂 ( へ ん さ ん ) し 、貞 永 ( じ ょ う え い ) 元 年 ( 1232 年 ) に これを 制 定 した。 は じめは 3 5 箇 条 までが 制定 さ れ、その後 付 け 加 え があり、全部 で 5 1 箇 条 となった。御 成 敗 式 目 は 鎌倉時代 に 次 ぐ 室町時代 ・ 戦国時代 へと 伝承 され 、 江戸時代 の 武 家 諸 法 度 ( ぶ け し ょ は っ と ) へ と 、長 く 大 名 ・ 武 士 に 関 する 法 令 の 参 考 と さ れ た。
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流 罪 は 日本では 死 罪 に 次 いで 重 い 刑 であったが、離 島 や 遠 隔 地 への 文化 伝 播 に 大きな 役割 を 果 た した。畿 内 ( き な い = 山 城 国 ・ 摂 津 国 ・ 河 内 国 ・ 大 和 国 ・ 和 泉 国 の 五 か 国 ) からの 距離 によって 遠 流 ( お ん る ) ・ 中 流 ( ち ゅ う る ) ・ 近 流 ( こ ん る ) の 三 種 類 の 刑 が 存 在 した。 延喜 5 年 ( 9 0 5 年 ) に 醍 醐 ( だ い ご ) 天 皇 の 命 により 編纂 を 始 め、 延 長 5 年 ( 9 2 7 年 ) に 成 立 した 律 令 の 施行細則 である 延 喜 式 ( え ん ぎ し き ) によれば、追 放 される 距 離 は 遠 流 1,5 0 0 里 ・ 中 流 5 6 0 里 ・ 近 流 3 0 0 里 とされて いる。 1 里 の 距離 は 時代 により 異なるが、当時 の 1 里 は 令 制 で 3 0 0 歩 ( ぶ ) を い い、6 町 すなわち 6 5 4 メートル に 当 たるため、現代 の 距 離 に 換 算 すると 遠 流 が 9 8 1 K m ・ 中 流 が 3 6 6 K m ・ 近 流 が 1 9 6 K m になる。実際 には、罪状 や 身分、流刑地 の 状況 などにより、距 離 と 配 流 先 は 変 更 された。 源 頼朝 は、父 ・ 源 義朝 が 平治 の 乱 ( 1 1 6 0 年 ) で 平 清盛 らに 敗 死 した後 に 捕 らえられ、京 から 伊 豆 へ 流 された。そこで 約 2 0 年間 生活 し、この間に 北条時政 ら 有 力 豪 族 の 知 遇 ( ち ぐ う、能 力 などを 認 められて、厚 く 待遇 されること ) を 得 た。 表 の 禁 獄 欄 の 下 部 にある 召 籠 ( め し こ め )は 、 宮中 の 侍臣、官人に 職務上 の 怠 慢 や 失 錯 があったとき、殿上口 ( て ん じ ょ う び と の 詰所 の い り ぐ ち ) や 近衛陣 ( 内裏 の 警衛 に 当 たる 近衛 の 詰所 ) に 監 禁 したことに 由来 する。 追放欄 の 下部にある 追 却 ( つ い き ゃ く ) とは、犯罪者を 一 定 の 地 域 から 放 逐 する 刑罰 を いう。 [ 2: 江 戸 時 代 の 人 足 寄 せ 場 ]江戸時代 中期 に 陸 奥 国 ・ 白 河 藩 第 三 代 藩 主 で、幕府 の 老 中 ( ろう じゅう、4 ~ 5人 いる 者 が 月 番 で 勤 務 ) の 首 座 ( し ゅ ざ、老 中 の 筆 頭 実 力 者 )を 務 めた 松 平 定 信 ( さ だ の ぶ ) は、 1 7 8 7 年 から 1 7 9 3 年 まで、 いわゆる 寛 政 の 改 革 を 行 なった。 その 施 策 の 中 で 寛 政 2 年 ( 1 7 9 0 年 ) に、江 戸 ・ 石 川 島 に 正 式 名 称 は 加 役 方 ( か や く か た ) 人 足 寄 場 ( に ん そ く よ せ ば ) を 設 けた。そ して 罪 を 犯 し 刑 を 終 えた 無 宿 人 ・ 入 墨 ( い れ ず み ) 刑 や、 敲( た た き ) の 刑 を 受 けた 者 ・ 浮 浪 人 たちを 更 生 させるために 、人 足 寄 場 に 収 容 し、寝 る 場 所 と 食 事 を 与 えた。 そして 彼 らに 大 工 ・ 建 具 ・ 米 搗 ( こ め つ ) き ・ 塗 物 などの 技 術 を 習 得 させ、その 更 生 を 図 ったが、この 制度 は、以 後 幕末 まで 存 続 した。図 は 玄米 を 臼 ( う す ) で 搗 ( つ ) いて 外 皮 や 胚 芽 ( は い が ) を ヌ カ と して 落 と し、米 を 精 白 して いるところ。 なお 刺 青 ( い れ ず み ) で は な く、 刑 罰 と して 強制的 に 額 や 腕 に 入 れ る 入 墨 ( い れ ず み ) の 「 し る し 」 は 各 藩 ・ 地 域 により 異 なって いたが、広 島 藩 では 三度目 の 入 れ 墨 刑 で、「 犬 」 の 文字 が 完成 する 仕 組 みであった。 これより 10 年前 の 安 永 9 年 (17 8 0 年 ) に 、時 の 江戸 ・ 南 町 奉 行 ( 在 任、1 7 6 8 年 ~ 1 7 8 4 年 ) の 牧 野 成 賢 ( し げ か た ) の 献 策 により、江戸 深川 茂森町 ( 現 ・ 江東区 木場 4 丁 目 周辺 ) に 「 無 宿 養 育 所 」 を 設 立 している。 この 養育所 は 生活 が 困 窮 ( こ ん き ゅ う ) 、逼 迫 ( ひ っ ぱ く ) した 放 浪 者 達 を 収 容 し、更 生 させ、職 業 訓 練 の 手 助 けをする 救 民 施 設 と し て の 役 割 を 持 って い た。 当時の 世相 は 享 保 ( きょうほう、17 1 6 年 ~ 1 7 3 6 年 ) の 頃 より 住居 も 確 保 で き な い 無 宿 者 たち が 増加 の 一 途 を 辿 って いて、犯 罪 の 根 源 ともなって いた。 そこで 彼 らを 救 済 し、生活 を 立 て 直 すための 援 助 をすることにより 社会 に 復 帰 させ、犯 罪 の 抑 止 を 図 るのが、養 育 所 設 置 の 趣 旨 ( し ゅ し ) であった。この 試 みは 定着 することな く 施 設 から 逃 亡 する 無 宿 者 が 多 かったため、約 6 年 ほどで 閉 鎖 となって しまった。 しか しこの 養育所 の 前 例 があったことが、後年 の 人 足 寄 場 設 置 に 役 立 った ことは 否 定 できない。 [ 3: 明 治 新 政 府 の 行 刑 政 策 ]日本では 前 述 した 人 足 寄 場 の 制度 が 江戸時代 からあったが、近代的 な 自 由 刑 制 度 ( 受刑者 の 身体 を 拘 束 することで 自 由 を 奪 う も の を いう ) と 監 獄 制 度 は、明 治 初 年 に ホ ン コ ン ・ シ ン ガ ポ ー ル などの イ ギ リ ス 植民地 の 制 度 ・ 施 設 を 学 んで 日本に 導 入 した。 明治 5 年 (1 8 7 2 年 ) の 監 獄 則 及 図 式 ( か ん ご く そ く お よ び ず し き ) の 緒 言 ( しょげん、論説 の 言 い 初 め の 言葉 ・ 序 文 ) に 依 れば、獄 ト ハ 何 ソ( な ん ぞ )、罪 人 ヲ 禁 鎖 ( き ん さ、鎖 でつなぎお く ) シ テ 懲 戒 セ シ ム ル 所 以( ゆ え ん、い わ れ、わ け ) ナ リ、獄 ハ 人 ヲ 仁 愛 ( じ ん あ い、め ぐ み い つ く し む ) ス ル 所 以 ( ゆ え ん )ニ シ テ 人 ヲ 痛 苦 ( つ う く ) ス ル 者 ニ 非 ズ 刑 ヲ 用 ル ハ 已 ( や む ) ヲ 得 サ ル ニ 出 ツ ( い ず ) 、国 ノ 爲 メ ニ 害 ヲ 除 ク 所 以 ( ゆ え ん )ナ リ 、獄 司 ( ご く し、牢 役 人 ) 欽 ( つ つ し み ) テ 此 意( こ の い ) ヲ 体 シ 罪 囚( 獄 舎 につながれた 罪 人 )ヲ 遇 ス 可 ( べ )シとある。つまり罪人を 刑務所 に 拘禁 する 目的 は、彼らに 苦痛 を 与 える 為 ではなく、国家 ・ 国民 に 対 する 害 悪 を 取 り 除 くためである。刑務所職員は この方針をよく 理解 して 、罪人 に 接 するように とのことであった。この 考えは 現代 の 行 刑 思 想 にも 一部 通 じるものである。 [ 4: 行 刑 政 策 の 変 更 ]幕藩体制 の 崩壊 後 、明治 新政府 により それまで 武 士 の 特 権 であった 名 字 帯 刀 ( みょう じた いとう )・ 俸 禄 ( ほうろ く ) = 給 与 と 知 行 ( ちぎょう ) ・ 扶 持 ( ふ ち、コ メ 受給 ) の 権利 を 奪 われた 武 士 たちが 、明治政府 に 不満 を持 ち 下記 のような 反 乱 が 起 きた。
( 4-1、伊 藤 内 務 卿 の 建 議 書 ) 明治 12 年 ( 1878 年 ) に 元 老 院 ( 当 時 の 立 法 機 関 )などの 議 論 をふまえ、内 務 卿 ( 内閣制度 が 成立 するまでは、内務卿 が 実質的 な 首相 であった、後 の 内務大臣 のこと ) 伊 藤 博 文 が 一 つ の 建 議 書 を 提 出 し た。それによれば、 社会 を 乱 した 凶 悪 犯 や 政 治 犯 たちは、監獄で ただ 徒 食 ( と し ょ く、働 かずに 食 べること ) させることは 許 されない。ロ シ ア へ の 備 え の 意 味 からも、 囚 徒 の 労 働 力 を 活 用 して 北 海 道 開 拓 に 当 たらせ 、出獄後 は 北海道 に 安 住 させ、自 立 更 生 せしめるとするものであった。 それにより 北海道 に 重罪犯 を 収 容 する 集 治 監 ( し ゅ う ち か ん 、 監 獄 のこと、後に 刑務所と 改 名 )を 設 けることが 決 まったが、場所 の 選定調査 から 立ち上 げに 至 る 責任者 だった 福 岡 藩 出身 の 内務官僚 月形 潔 ( つ き が た き よ し ) が、初代 典獄 ( て ん ご く 、刑 務 所 長 ) に 内 定 した それまでの 応急措置 と して 東 京 と 宮 城 ( 仙 台 ) に 、1 ・ 2 号 の 集治監 ( し ゅ う ち か ん 、 監獄 )を 新設 した。北海道 初 の 樺 戸 ( か ば と ) 集 治 監 が、樺 戸 郡 ( 現 ・ 月 形 町 ) に 開 設 されたのは、明治 1 4 年 ( 1881 年 )9 月 のことであった。 その後 明治 15 年 に 空 知 集 治 監 ( そ ら ち、当時 市来知 = い ち き し り、現 ・ 三 笠 市 ) 、明治 18 年 (1885 年 ) に 川 上 郡 ・ 熊 牛 ( く ま う し ) 村 ( 現 ・ 標 茶 町 = し べ ち ゃ ち ょ う ) に 釧 路 ( く しろ ) 集 治 監 が 設置 された。 この 北海道の 集 治 監 には、徒 刑 ・ 流 刑 囚 に 加 えて 重 懲 役 10 年 以上の者を 拘 禁 する 方針 がとられた。その結果 、明治 15 年 (1 8 8 2 年 ) の 福島事件、さらに 明治 17 年 (1 8 8 4 年 )加波山 事件 ( かばさん じけん ) や 、同年 秩父事件 が 起 こり、逮捕 された 自由民権運動 の 活動家 たちは次々と 北海道 へ 送 られた。 明治 24 年 (1891 年 ) になって 樺 戸 が 北海道 集 治 監 本 監 ( ほ ん か ん )、他の 二 監 が 分 監 ( ぶ ん か ん ) とされ、さらに 同 年 8 月 、網 走 ( あ ば し り ) にも 分 監 が 設置 され、明治 28 年 ( 1895 年 ) 、十 勝 ( と か ち 、現 ・ 帯 広 ) にも 分 監 が 設 置 された。 樺 戸 集 治 監 の 本 庁 舎 は、明治 1 9 年 に 一旦 焼 失 したが、すぐに 建 て 替 えられ、現存 する 建物 は 大正 8 年 ( 1919 年 ) に 樺 戸 監 獄 が 廃 止 されるまで、監 獄 の 事 務 所 と して 使用 された。 ( 4-2、明 治 新 政 府 の 憲 法 草 案 作 成 ) 明治 4 年 (1871 年 ) に 藩主 黒田長知に随行 して渡米 した 金 子 堅 太 郎 は、ハ ー バ ー ド 大学 で 法 律 学 を 学び、その後 首相 秘書官等を務めた。 明治 20 年 (1887 年 ) に、総理大臣 伊 藤 博 文 ( 3 8 年後 = 1 9 0 9 年 に ハ ル ビ ン 駅 で 暗殺、公 爵 ) を 中心 に、井上 毅 ( い の う え こわ し、後に 子 爵 )、伊東 巳代治 ( い と う み よ じ、後 に 伯 爵 )、金子 堅太郎 ( 後に 伯 爵 )の 4 名 が、明 治 憲 法 の 草 案 作 りに 着 手 し、明治 2 2 年 ( 1889 年 )2 月 1 1 日 に 明治憲法 が 公布 された。 ( 4-3、強 制 労 働 ) 当初、北海道 の 集治監 ( 監 獄 ) における 受刑者 は 自 給 自 足 のための 労働 や 開 墾 作 業 が 中心 であった。受刑者を 外部の 労働 で 残 酷 に 扱 う よ に な る き っ か け は、太政官大書記官の 金子堅太郎 が 道内巡視 の 結果 をまとめた 復命書 に 添 えられた 北 海 道 巡 視 意 見 書 ( 明治18年 = 1885年 )が 提 出 されたからであった。以下 にその 部分 を 示 す。 彼等 ハ 固 ( も と よ り ) ヨリ 暴 戻 ( ぼ う れ い )ノ 悪 徒 ( あ く と )ナ レ ハ、其 苦 役 ( そ の く え き ) ニ 堪 ヘ ス ( ず ) 斃 死 ( へ い し ) ス ル モ、尋 常 ノ 工 夫 ( こ う ふ )カ ( が ) 妻 子 ヲ 遣 ( の こ )シ テ 骨 ヲ 山 野 ニ 埋 ム ル ノ 惨 情 ( さん じょう )ト 異 ナ リ 又 今日 ノ 如 ク 重罪犯人 多 ク シ テ 徒 ( い た ず )ラ ニ 国庫支出 ノ 監獄費 ヲ 増加 ス ル ノ 際 ( さ い ) ナ レ ハ、囚 徒 ( し ゅ う と ) ヲ シ テ 是等 ( こ れ ら ) 必 要 ノ 工事 ニ 服 従 セ シ メ、若 (も) シ 之 ( こ れ ) ニ 堪 ヘ ス ( ず ) 斃 ( た お ) レ 死 シ テ 、其人員 ( そ の じ ん い ん ) ヲ 減少 ス ル ハ 監獄費 支 出 ノ 困 難 ヲ 告 ク (ぐ) ル 今日 ニ 於 テ 万 已( ば ん や )ム 得 サ ル 政 略 ナ リ要 約 すれば 囚 人 は 悪 党 であるから、苦 役 させれば 工事費 が 安 く 上 がり、たとえ 死 んでも 監獄費 の 節 約 に な る という 乱暴 な 内容 であった。こんな 考 えを 持 った 男 が 明治憲法 の 草案作成 に 参加 したのかと思うと、呆 れて 物 が 言 えな い。 この 復命書 が 内 務 省 の 方 針 と な り 、受刑者 たちは 上 川 道 路 ( 国 道 12 号 ) 建設 や 幌 内 ( ほ ろ な い ) 炭 鉱 ( 開山 当時 は 幌 内 村 、現 ・ 三笠市 ) で は、明 治 1 6 年 ( 1 8 8 3 年 ) から 明 治 2 7 年 ( 1 8 9 4 年 ) まで、空 知 集 治 監 の 囚 人 の 使 役 による 採 炭 がおこなわれ、多くの 犠牲者 を出 すことになった。炭鉱自体は 平成元年 に 閉山 した。
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