監 獄 と 刑 務 所 、雑 感 ( 続 き )[ 5 : 鎖 塚 ( く さ り づ か ) の こ と ]明治時代の 北海道 では 南下政策 をとる ロ シ ア との 対抗上、軍用 ・ 開拓用 の 道路 が 早急 に 必要 となり、急 ピ ッ チ で 建設 された。札幌 から 大雪 山系 を 越 え、オ ホ ー ツ ク 海 沿岸 の 網走市 に 達 する 中央横断道路 ( 北見道路、端野 = た ん の までは、後 に 開通 した 鉄道 の 石 北 ( せ き ほ く )本線 に、概 略 沿 って い る ) も その 一つ である。 この 道路 は 釧 路 集 治 監 の 網 走 ( あ ば し り ) 分 監( 現 ・ 網 走 刑 務 所 ) と 、空 知 ( そ ら ち ) 集 治 監 の 囚 人 1,115 人 と 職員 200 名を 使 役 ( し え き ) し て 建 設 さ れ 、 囚 人 道 路 と 呼 ば れ た。 北 見 峠 ~ 網 走 間 が 明治 24 年 (1891年 ) 4 月 に 着 工 し たが、明治政府 は雪 で 工事 が で き な く な る 前 の 、年 内 に 1 6 0 キ ロ メ ー ト ル の 道 路 を 完 成 さ せ よと 典 獄 ( て ん ご く、刑務所長 ) に 厳 命 し、同年 12 月 に は 完成 した。 厳 し く 危険 な 労働 ゆえ、 力 つきて 命 を 落 とす人 や、逃 走 を 試 みて 射 殺 される 囚 人 も 多 く い た。 鎖 塚 ( く さ り づ か ) は、この 地 の 道路建設 で 命 を 失った 人々 の 墳 墓 ( ふ ん ぼ、土 を 盛って 作 られた 墓 ) であった。 誰 かが 詠 んだ 句 に 、 墓 標 な く 土 盛 り あ が る 鎖 塚 苦 役 の は て に こ こ に 息 絶 ゆがあったのを 思 い 出 した。 囚人道路 の 道端 にある 土 饅 頭 ( ど ま ん じ ゅ う ) の 下 には、彼 らの 遺 骨 が、赤 さびた 鉄 球 や 鎖 ( 逃 走 防 止 の た め の 足 か せ ) と 共 に 埋 まって い て、苛 酷 な 囚 人 労 働 を 物 語 る 資料 となっていた。 写真の 鎖 塚 供 養 碑 の 右後方 に 盛 り 上 がった 部分 が 見 えるが、作 業 中 に 死 んだ 囚 人 の 鎖 塚 である。 碑 文 明治 廿 四 年 北海道長官 永山武四郎 氏 は 網走 と 旭川 を結ぶ 国道開設 の 急 を 感 じ 網 走 ・ 空 知 両 監 獄 の 囚人 凡 そ 千 人 を 動 員 し、五 月 上 北 ( か み か わ ・ き た み ) 両 端 より 着工 十 二 月 完 成 の 突 貫 工 事 を した。 此 の 道路 が 北見 の 開発 に 貢 献 したことは 言 うまでもないが、工事の 際 死 亡 し 路 傍 ( ろ ぼ う 、道 の ほ と り ) に 埋 められた 墓 標 な き 囚 人 は 三 百 に 余 る とも 云 う。 此 の 三 基 も 亦 彼等 を 縛 った 鎖 だけがその 上 に 残 されてあり 是 を 鎖 塚 と 呼 ぶようになった。此 処 に 供 養 碑 を 建 て 尊 くも 哀 れ な 御 霊 を 永 く 弔 う昭和 51 年(1976 年 ) 、端野町 開基 80 周年 の 折に、町民によって創 設された 鎖 塚 慰 霊 事 業 協 賛 会 が 囚人 を 開拓 の 功労者 と して 鎖塚 供養碑 と 六 地 蔵 が 建 立 され、鎖塚保存会 も 結成 された。 [ 6 : 栃 木 ( 女 子 ) 刑 務 所 ]私の 父親 の 実家 は 、栃木県 栃木市 から バ ス に 乗 って 行 く 辺 鄙 ( へ ん ぴ ) な 所 にあったが、私 は 五 ~ 六 歳 の 頃 から 毎 年 「 お 盆 の 時期 」 になると 父親 に 連 れられて 里 帰 り した。 昭 和 1 5 年 (1 9 4 0 年 ) 小学校 1 年生 になった 夏 休 み の こ と、東武鉄道 の 浅草駅 から 東武日光線 の電車に乗り、 栃木駅 で 降りて 改札口 に 向 かうと、国 鉄 ( 現 ・ J R ) の 両 毛 線 ( りょうもうせん ) から 降 りた 人 たちと 丁度 一 緒 になった。 その 最後尾 には 「 深 編 笠 」 ( ふ か あ み が さ ) を 被 り 片手 に 荷物 を 持ち 、もう 一方 の 手 は ロープ に 固 定 された 手 錠 で 繋 がれた 四 ~ 五 人 の 移動 する 女性 たちと 、その周 囲 を 囲 んで 歩 く 制 服 の 女 性 ・ 男 性 たちの 一 団 を 初 めて見 た。父親 に 聞 くと 悪 いことを した 女性 たち を、当時 駅 の すぐ 近 く にあった ( 女 子 ) 刑 務 所 に 送 る ところ 、とのことであった。敗戦間近 の 空襲 で 東京 の 家 が 焼 け、敗戦後 私 が 栃木市内 の 高校 に 在学中 も 刑務所 は 栃木駅 の 近 く に 存在 し た。 右上 の 写真 は 、当時 の 「 囚 人 護 送 の 姿 」 を 知 ってもらうためのもので 、女 子 囚 人 の 話 とは 無関係 である。 しか し 昭 和 5 4 年 ( 1 9 7 9 年 ) 頃 に 栃木駅 から 東武 宇都宮線 で 三 つ 目 の 野 州 大 塚 駅 ( や し ゅ う お お つ か ) を 最 寄 り 駅 とする 同 じ 栃 木 市 内 の 惣 社 町 ( そ う じ ゃ ま ち ) に、 国 が 栃 木 刑 務 所 を 新 設 し 移 転 し た。 現在 栃木刑務所 は 国 内 最大級 の ( 女 子 用 ) 刑務所 であり、 収 容 定 員 は 6 4 8 名 、外国人 の 女 子 受 刑 者 や 2 0 歳 未 満 の 女 子 受 刑 者 なども 収 容 されている。 収容者の 割合 と しては 3 0 代 ~ 4 0 代 の 女 子 受 刑 者 が 最 も 多 く、全体 の 5 0 % 以 上 を 占 めて いる とのことであった。 ( 6-1 、処 遇 指 標 の 詳 細 ) 法務省 では、受刑者 に 対 する 矯 正 処 遇 が 適 切 に 実施 できるよう、受刑者 の 特 性 ・ 適 性 ・ 犯罪歴 に 応 じて 収監 す べ き 刑 務 所 を 選 定 して、収監後 の 処遇方針 を 定 めるために 「 収 容 分 類 指 標 」 が 使用 されている。
それにより 例えば A W F といえば、犯 罪 傾 向 が 進 んで い な い ・ 女 子 ・ 外 国 人 受 刑 者 であり、指 標 に 対 応 した 刑 務 所 に 送 られて 服 役 することにな る。
例えば L A V 1 と いえば、刑期が 1 0 年 以上 だが 犯罪傾向 が 進 んで い な い 受刑者 で、職業訓練 を 強 く 必要 とする者 の 意味 である。 [ 7: 巣 鴨 刑 務 所 の こ と ]小学生の頃に 私が住んでいた 東京市 ( 当時 )豊島区 ・ 巣 鴨 の 家 の近 くに 「 早 稲 田 - 三 ノ 輪 橋 ( み の わ ば し ) 」 間 を 走 る 王 子 電 車 ( お う じ で ん し ゃ 、現 ・ 都 電 の 荒 川 線 ) が 通 って い た。 当時は 新宿区 ・ 早稲田 ・ 鶴巻町 に 親類 が 住 んでいたので、父親 に 連 れられて 我が家 の 近 くにある 「 巣 鴨 新 田 」 ( す が も し ん で ん ) 駅 から 王子電車 に乗り 終点 の 「 早 稲 田 駅 」 まで 何度 も 乗 ったことがある。 写真 は 現在 の 都電 荒川線 の 終点 早稲田駅 。早 稲 田 行 きの 王 子 電 車 に 乗 ると、 大 塚 駅 前 経由 で 二 駅 目 に 向 原 ( む こ う は ら ) 駅 かあるが、そこから 西 向 き に 1 5 分 歩 くと、 巣 鴨 刑 務 所 ( 東 京 拘 置 所 ) が かつて 存 在 した。 しか し 現 ・ 宮仲 公園前 ( 豊島区 北大塚 3丁目 ) から 当時 は 西 巣 鴨 橋 が架 橋 されてな く、その 西側 に 小 さな 陸 橋 があり、そこを 通 る 近 道 を 徒 歩 で 行 けば 、家 から 3 0 分 程 度 で 巣鴨刑務所 を 取 り 巻 く 高 い 塀 の 所 に 到 達 できた。 夏 になると 年長 の 子供 や 兄 たちと 虫 取り 網 や 虫 カ ゴ を 持 って 刑務所 の 塀 の 外側 にある 雑草 の 生 えた 広 い 空 き 地 に 、ト ン ボ や バ ッ タ を 捕 りに 行 ったが、写真 は 明治 末期 の 巣 鴨 監 獄 ( 後 の 東 京 拘 置 所 ) の 様 子である。 そんな 旧 「 東 京 拘 置 所 」 は、第二次大戦後 に G H Q ( G e n e r a l - H e a d q u a r t e r s、連 合 国 軍 最 高 司 令 部 ) によって 接収 され、 名 称 が「 ス ガ モ ・ プ リ ズ ン 」 ( S u g a m o - P r i z o n ) になった。 写真 は 敗 戦 直 後 ( 1 9 4 5 年 ) の もの。 ( 7-1 、戦 争 犯 罪 人 の 処 刑 ) ス ガ モ ・ プ リ ズ ン では 「 B 級 」 戦 犯 ( 戦 争 犯 罪 人 ) 、「 C 級 」 戦 犯 の 5 2 名 の 死 刑 が この 絞 首 台 ( 五 基 のうち 、写真 に 映 る の は 左側 に あ る 三 基 ) で 執 行 された。( 合 掌 ) また、極 東 国 際 軍 事 裁 判 所 で 死 刑 判 決 を 受 けた 東 條 英 機 ら 「 A 級 」 戦 犯 者 7 名 の 死 刑 も 同様に この 絞首台 で 執行 された。 ( 合 掌 ) 戦 犯 ( 戦 争 犯 罪 人 ) の 分 類
( 7-2 、平 和 条 約 締 結 後 ) 第 二 次 大 戦 を 終 結 させるため、昭和 2 6 年 ( 1 9 5 1 年 ) 年 9 月 8 日、米国 など 4 8 カ 国 と 日本 が 米 サンフランシスコ で 平 和 条 約 に 署名 した。 当時は 朝 鮮 戦 争 (1 9 5 0 年 6 月 ~ 1 9 5 3 年 7 月 から、 現在も 休 戦 中 ) の 最 中 だったことを 背 景 に 、共産圏 の 旧 ソ 連 ・ 旧 チ ェ コ ス ロ バ キ ア ・ ポーランド は 署名 を 拒 否 した。 昭和 2 7 年 ( 1 9 5 2 年 ) 4 月 2 8 日に 平和条約 が 発 効 し、 連合国 による 日本占領 が 終 了 した。日本は 独立を 回復 し、ス ガ モ ・ プ リ ズ ン も 日本 に 移 管 されたが、ス ガ モ 刑 務 所 は 昭和 3 3 年 ( 1 9 5 8 年 ) に 閉 鎖 された。 跡 地 利 用 には 紆 余 曲 折 ( う よ き ょ く せ つ、込 み 入 った 事情 が 重 なって 複雑 な 経路 になること ) ありながらも、昭和 5 3 年 (1 9 7 8 年 ) に サ ン シ ャ イ ン 6 0 が 完成 し、今でも サ ン シ ャ イ ン シ テ ィ の 中心 と し て 役目 を 果 た している。 ( 7-3 、平 和 の 碑 ) サ ン シ ャ イ ン 6 0 の 敷地 とは別に その 北西 側 には、 東 池 袋 中 央 公 園 があるが、 そこには かつて 五 基 の 絞 首 台 があった 処刑場 の 跡 地 があり、 平和 の 願 いが 込 められた 石 碑 永 久 平 和 を 願 っ て が 立って いる。 石 碑 の 裏 には 下記の 碑 文 がある。( )内は管理人による 追加。 第二次世界大戦後、東京 市 谷 ( 市 ヶ 谷 にあった 旧 陸 軍 士 官 学 校 の 講 堂 ) にお いて 極 東 国 際 軍 事 裁 判 所 が 課 した 刑 、及び 他 の 連 合 国 戦 争 犯 罪 法 廷 が 課 した 一 部 の 刑 が、この 地 で 執 行 された。 戦争 による 悲劇 を 再 び く り か え さ な い た め、この 地 を 前述 の 遺 跡 と し、この 碑 を 建立 する。昭和 五十五 年 六月あれから 7 0 年 以上の 歳 月 が 流 れ たが、今 では 国 内、海 外 の 国 際 法 学 者 、 研 究 者 の 中 で、 東 京 裁 判 が 国 際 法 に 基 づ き 公 正 に お こ な わ れ た と 認 め る 者 は、 極 め て 少 数 し か 存 在 し な い 。 詳 し く 知 りたい 方 は、下記 を 読 まれた し。 [ 8: 入 学 ・ 入 所 の 儀 式 ]これまで お 堅 い 話題 ばかり 続 いたので、最後は別 の 分野 の 話をする。私は 昭 和 2 7 年 ( 1 9 5 2 年 ) に 高校 を 卒業 し 海上保安大学校 の 二 期 生 と して 入 学 した。 入学時 の 身体検査 では パ ン ツ を下 げて、大学 の 医 師 に 男 性 器 を 握 られ、しごかれる 「 エ ム ケ ン 、 ( M 検 )」 と 呼 ばれる 検査 を 受けた。 当 時 「 M 検 」 は 一 般 大 学 の 入 学 時 でも 男子学生 に 対 しておこなわれて いて、男 女 同 権 の 建 前 から 噂 ( ウ ワ サ ) によれば 女 子 に 対 しては 「 ブ イ ケ ン、 ( V 検 ) 」 、と呼ばれる 女 性 器 の 検 査 ( 妊 娠 の 有 無 を 含 む ) がおこなわれたら し い (?)。 ちなみに 「 V 」 とは 女 性 器 の 膣 ( ち つ )を 表 す 、「 V a g i n a 」 アメリカ 式 の 発 音 では ヴ ァ ジ ャ イ ナ である。 私 は 日 本 だけでな く 、アメリカ の 海 軍 飛 行 学 校 でも、 入 学 時 に 「 M 検 」 を 受 けたが、その 経 緯 は 下記 に あ る。今年 、昭 和 3 3 年 ( 1 9 5 8 年 ) 4 月 から 「 M 検 」 が 廃 止 されたと書 いてあった。 しか し 「 V 検 」 のことには 何 も 触 れられてな いことから、 「 V 検 実 施 」 は デ マ であったことが 判 明 した。 なお 今年 8 2 歳 未 満 の 、大 学 卒 の 男 性 は、入 学 時 におこなわれる 筈 だった 「 M 検 」 が 廃 止 となり、 受 けずに 済 んだ 幸 運 な 人 たちであった。 ところで、昭和 2 0 年 ( 1 9 4 5 年 ) 8 月 に 連合国 に 降 伏 するまで の 日本 に は 「 徴 兵 制 度 」 があ り 、男子 は 満 2 0 歳 になると 徴 兵 検 査 を 強 制 的 に 受 けさせられた。 その 際 に 適用 されたのが 陸 軍 身 体 検 査 規 則 ( 昭和 3 年 = 1928年 陸軍省令第 9 号 )であった。興味 のある 方 は 下記 を ク リ ッ ク して 読 まれた し。 ( 8-1 、刑 務 所 の 入 所 儀 式 ) 裁判所 により、犯罪容疑者 に 対 する 刑 が 宣告され 収監先 の 刑務所 が 決 まると、受刑者 の 社 会 的 地位 ・ 身 分 とは 無 関 係 に 「 検 身 」 と 呼 ばれる 入 所 儀 式 が 待 って いる。 「 検 身 」 とは、刑務所内 に 危険物 を 持 ち 込 んで いな いか 「 ボ デ ィ チ ェ ッ ク 、b o d y - c h e c k 」 で 確 認 することだが 、その際 には 全 裸 にされて 複 数 の 刑務官 に 囲 まれて、ガ ラ ス 棒 を 尻 の 穴 に 押 し 込 まれる。 入所 の 際 に これをやられると、 人 間 の 尊 厳 が 失 わ れ 、 プ ラ イ ド が ズ タ ズ タ に 打 ち 壊 さ れ る 人 が 多 い と 言 われて いるが、その 機 能 ・ 効 果 も 予 め 計算 ず く な の かも 知 れな い。 なぜなら 尻 の 穴 をかき 回 された 刑務官 に 対 して、威 張 る 受刑者 などは いな く な る か ら で あ る。こ の 「 検 身 」 は 入所時 だけでなく、日 々 の 刑務作業 で 危険物 など 違法 な 物 の 工場 へ の 持 ち 込 み や、工場 か ら の 工具 の 持 ち 出 しを 防止 するため、工場 への 出入 りの 際 に 受刑者 は 程度 の 差 があるものの、必ず チ ェ ッ ク を 受 けなければならない。 女性 受刑者 の 身体検査 をする 際 は、当然 女性の 刑務官 が 担当 するが、 検査 の 際 は 全 裸 とな り、全身を 調 べられる。肛 門 の 中 も 男性 同様 ガラス 棒 を 使用 し、膣 ( ち つ ) は 女性特有 の 物 を 隠 せる 場所 のため、念 入 りに 検査 される。また 刺青 が 入 っている者は、全身の刺青も 一つ ひとつ チ ェ ッ ク される。 シ ャ バ ( 一 般 社 会 ) では、捜査 の 一 環 と して 行 われる 身 体 検 査 には 、刑事訴訟法 ( 218 条 ) に 基 づ く 身 体 検 査 令 状 が 必 要 だが、刑務所 で 行 われる 場合 は 必要 な く、刑務官 の 判 断 で 行 うことができる。 刑務所内での 検 身 を 廃 止 すべきと いう 声 もあるが、工 具 ・ 金 属 片 などを 身体 に 隠 し持ち、舎 房 ( し ゃ ぼ う、宿 舎 ) に 持 ち 込 む 実 例 があとを 絶 たな い 現 状 では、当分 廃 止 されないと 思 われる。 ( 終 わ り )
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