「お迎え」 がやって来る( 続き )
[ 8 : 翁草 ( おきなぐさ ) ]翁草といっても同じ名前の草花の件ではなく、江戸時代中期に京都奉行所の与力 ( よりき ) を勤めた神沢貞幹 ( かんざわ ていかん ) [ 号を、杜口 ( とこう )、 1710〜1795 年 ] が書いた随筆集に、 「 翁草 」( おきなぐさ ) がありましたが、内容は歴史 ・ 地理 ・ 文学 ・ 美術 ・ 宗教 ・ 京都の事件 ・ 風俗など多岐にわたっています。 江戸時代の本を基に、明治 38 年 ( 1905 年 ) に翁草 ( おきなぐさ ) が再び出版されましたが、後述する森 鴎外はこの書物の 巻 6 にある 「 細川家の香木 」 から 「 興津弥五右衛門 」 ( おきつ やごうえもん ) の題材を取り、 巻 117 にある「 高瀬舟 流人の話 」 を基に、1916 年に短編小説 「 高瀬舟 」 を書きました。 安楽死 ( 自殺幇助 ? ) に関連する内容ですので、翁草 ( おきなぐさ ) にある 「 高瀬舟 流人の話 」 の 一部を引用します。[ 原文の抜粋 ] 其罪蹟は兄弟の者、同じく其日を過し兼ね、貧困に迫りて自害をしかゝり、死兼居けるを、此者見付け、とても助かるまじき体なれば、苦痛をさせんよりはと、手伝ひて殺しぬる其科により、島へ遣はさるゝなりけらし、其所行もとも悪心なく、下愚の者の弁へなき仕業なる事、吟味の上にて、明白なりしまゝ死罪一等を宥められし物なりとぞ、彼守護の同心の物語なり。 [ 現代語訳 ] その ( 流人の ) 罪科については、兄弟の者が同じくその日暮しの貧困に行き詰まって自殺をしかかり、死にかねているのを、この者が見つけ、とても助かりそうもない様子だったので、 「 苦痛を味わわせるよりも 」 というので手伝って殺した。その科 ( とが ) により島流しになったようだ。 その行為はもともと悪心なく、下々 ( しもじも ) の無知な者の無分別の仕業 ( しわざ ) であることは、お取り調べの上で明白であったので、死罪 一等を減じられた由 ( よし )。 これはその護送の町奉行同心が物語ったことである。( 8−1、 高瀬舟 と流人船 ) ちなみに高瀬舟とは 17 世紀初め京都の豪商で海外貿易にも従事した角倉了以 ( すみのくら りょうい、1554〜1614 年 ) が、国内諸河川の開発を積極的におこないましたが、京都においても市内を流れる鴨川沿いに中心部と伏見を結ぶ物資輸送用の運河を開削しました。水深の浅い運河での貨物輸送には、舟底が平らで吃水の浅い高瀬舟が往来したことから、この運河を高瀬川と呼びました。 徳川時代、京都の罪人が遠島を申し渡されると、罪人は高瀬舟に乗せられて大阪へ移動させられ、そこから流人船 ( 注 参照 ) に乗せられて流刑地に送られることになっていましたが、流刑人を大阪まで護送するのは、京都町奉行の配下にいる同心の役目でした。 注 : 流人船 ( るにん ぶね ) 江戸後期の北方探検家であった、近藤重蔵 ( こんどう じゅうぞう ) の長男であった近藤富蔵 ( とみぞう、1805〜1887 年 ) は、父のために人を斬り殺して八丈島に流刑にされ、そこで 53 年間の流人生活を送ったが、その間に八丈島の百科事典ともいうべき 「 八丈実記 」 72 巻を書き残した。上図の流人船はその中に記された絵図である。彼は明治新政府による赦免 ( しゃめん、罪を許すこと ) により一旦は本土に戻りましたが、その後 再度八丈島に戻りそこで明治 20 年 ( 1887 年 ) に 83 才で死亡しました。 ( 8−2、鴎外の小説、「 高瀬舟 」 の抜粋 ) ある日のこと、同心の羽田庄兵衞は弟殺 しの罪で遠島を申 し渡された喜助という 三十歳ぐらいの罪人を護送 しま したが、その男がこれから島流 しになるというのにその表情が嬉々として明るいのを奇妙に思い、その男にその理由を尋ねてみ ました。 喜助は、カミソリ を飲み込んで自殺を図って苦しんでいる弟を見るに見かね、その喉から カミソリを抜き、大量に出血させることで安楽死させたことを同心に淡々と語ったので した。 いつも僅かの稼ぎで かつかつに 「 か ゆ 」 をすすって露命 ( ろめい、露のように はかない命 ) をつないでおりま したが、このたびの入牢の間は結構なお養い ( や しない、食事 ) をいただいてありがたく存 じま した。 このたび銭 200 文を下され、島へ遣わされますとは、なんという果報でございま しょう。もともと妻子や親類もなく、苦 しい世を渡りかねておりま したので、都には名残りはございません。この話を聞いた同心は、 喜助は弟の苦を見るに忍びなかった。弟を苦から救ってやろうと思って弟の命を絶ったが、それが罪であろうか ?。殺 したのは罪に相違ないが、それが 弟を苦から救うためであった と思うと、そこに疑念が生 じてどうしても解 ( げ ) せない。 ( 以下省略 ) と日誌に記したので した。 [ 9 : 名古屋 の 安楽死事件 ]昭和 31 年 ( 1956 年 ) 10 月 ごろ、父親の S は 脳溢血で倒れ 、以来ずっと病床にありま したが、昭和 34 年 10 月頃から 全 身 不 随 となり、食事はもとより大小便の始末に至るまですべて家人の手を煩わすこととなりま した。その後 衰弱甚 ( はなは ) だ しく、同人の診察にあたっていた医師も昭和 36 年 ( 1961 年 ) 8 月 20 日頃には、父親 S の余命も 「 おそらくあと 7 日 か、よくもって 10 日だろう 」 と家人に告げま した。 これに先立つ同年 7 月初めから容態の悪化とともに体を動かす度に激痛を訴え、 「 早 く 死にたい 」、「 殺 してくれ 」 と大声で口走るようになりま した。長男は耐えられない気持ちに駆られ、同年 8 月 27 日に 牛乳 ビン に 有機 リン 殺虫剤 を混入 し、事情を知らない母親の M 子がそれを父親の S に牛乳を飲ませた結果、有機 リン中毒により死亡させま した。 ( 9−1、判 決 ) 一審の名古屋地裁では、長男に 刑の重い尊属殺人罪 ( 親殺 し、注 : 1 参照 ) を適用 して 懲役 3 年 6 ヶ月の実刑 を宣告 しま したが、昭和 37 年 12 月 22 日の 名古屋高裁 ・ 二審 の判決ではこれを破棄 して、より軽い嘱託殺人罪 ( 注 : 2 参照 ) で懲役 1 年、執行猶予 3 年 と しま した。注 : 1、刑 法 200 条 ( 尊 属 殺 人 ) ( 9−2、安楽死 の 構成要件 ) 名古屋高等裁判所の判決で、日本で初めて安楽死の違法性 阻却要件 が 6 項目提示されました。つまり下記の 6 項目に全て該当すれば、 殺人の違法性が阻却 ( そきゃく、妨げ しりぞける ) される 、つまり結果と して安楽死が許容されるとするもので した。
[ 10 : 徒然草に見る 死生観 ]鎌倉時代末期から南北朝初期の歌人で 随筆家の吉田兼好 ( けんこう、1283 頃〜1350 年頃 ) が書いた徒然草の、第 155 段 「 世に従はん人は、先ず機嫌 ( きげん、物事の都合よくゆく時機 ) を知るべし 」 には、以下の文章があります。生 ・ 老 ・ 病 ・ 死の移り来る事、またこれに過ぎたり。四季はなほ定まれる序 ( ついで ) あり。死期は序を待たず。死は前より しも来 ( きた ) らず、かねて後 ( う しろ ) に迫れり。 ( 10−1、田舎における、昔の死に方 ) 今から 68 年前、私が小学 6 年生だった昭和 20 年 ( 1945 年 ) 当時の栃木県の田舎にある村では、80 才以上で よぼよぼな 人はいても、元気な老人など、村で数えるほど しかいませんでした。 厚労省大臣官房統計情報部人口動態 ・ 保健社会統計課の資料によれば、 昭和 22 年当時の日本の総人口は 7 千 575 万人であり、その平均寿命は、 男 50.06 才、 女 53.96 才 で したが、今より約 30 才も少ない状態で した。 村では人が病気や老衰で寝込み 「 おかゆ 」 が食べられなくなり重湯 ( おもゆ ) だけになると、昔からの経験により余命は 1 ヶ月以内 と判断され、さらに衰弱 し水 しか飲めなくなると あと 10 日以内 とされま した。 水も飲めなくなると目も開かなくなり意識が薄れ、 数日以内にお迎えが来る といわれ、草木が枯れるように自然に亡くなりま した。 現代医療では脱水は危険なので点滴で水分を補給 しますが、それは未だ終末期に至らぬ患者の話であり、すでに 終 末 期 ( Final Stage ) の状態になりこれから死に向かう場合には、点滴による水分の補給は 「 苦 しまずに逝 く 」 までの時間を、かえって長引かせるだけだといわれています。 その当時の日本では都市でも田舎でも、ほとんどの人は 自宅で生まれ、そ して自宅で家族に見守られながら死を迎えま したが 、病院で亡くなる人は富裕層かよほどの重病人のごく少数で した。 ( 10−2、その頃の伝染病 ) 私が住んだ村には畑の真ん中に 避 病 院 ( ひびょういん ) と呼ばれた 伝染病の 隔 離 病 舎 があり、廊下沿いに 6 畳の和室 4 部屋が並び、トイレ、自炊室もありま したが 普段は無人で した。 昭和 20 年の敗戦前後は衛生状態の悪さから赤痢 ・ コレラ ・ 腸 チフス などの患者が全国的に発生 しま したが、伝染病予防法による現 ・ 第 三類感染症 の患者は避病院に収容されま した。そこでは保健所から派遣された職員の指導のもと、家族の 1 人が泊まり込みで介抱 し町から訪れる医師の手当てを受けま した。 総務省統計局政策統括官・統計研修所の データによれば、 昭和 21 年 に発生 した主な伝染病の患者数、及びその死者数は下表のとおりですが、当時の伝染病による 死亡者数の第 1 位 は感染すれば有効な治療薬がなく、戦中戦後の食料難による栄養状態の悪さも重なり、 死病といわれた結核 ( 主に肺結核 ) で、安静にすることだけが唯一の治療法で した。 ちなみに結核に対する初の特効薬である ストレプトマイシン が アメリカ で発見されたのは戦争中の昭和 19 年 ( 1944 年 ) のことであり、日本で発売されたのは昭和 25 年 ( 1950 年 ) からで、結核予防法による公費負担の対象となったのは、昭和 26 年 ( 1951 年 ) 10 月 のことで した。 なお 患者数の最多 は江戸時代から日本の社会に はびこっていた 性 病 でしたが、詳 しくは ここにあります 。 東京の小学校には見られませんで したが、村の小学校には トラホーム ( Trachom、ドイツ語、英語では トラコーマ、Trachoma 伝染性結膜炎 ) を患い 、「 目 や に 」 を出 した児童の姿は珍 しくありませんで した。
( 10−3、死者の埋葬 )
その当時、 村での死者は現在のように 寝 棺 ( ねかん ) に入れて火葬や土葬にするのではなく、膝を抱えた 「 体育館座り 」 の姿で 座棺 ( ざ か ん ) に入れて上から天蓋の カバー を被せて運び、部落の共同墓地に土葬されま した。
注:「 未必の故意 」 とは ( 10−4、リビング ・ ウィル ( living will、生前の意思 ) 日本では腎臓の 「 人工透析 」 をする人が 3 0 万人、胃に開けた孔から チューブ で栄養をとる 「 胃ろう 」 が 4 0 万人、自力呼吸ができずに人工呼吸器の使用者が 3 万人いるといわれています。 我々にとって馴染みのある言葉に 遺 言 がありますが、その効力の発生時期については民法 9 8 5 条の規定によれば、 「 遺 言は、遺 言 者 の 死亡の時 からその効力を生ずる 」 とあります。では生きている間に 「 死 に 至 る 過 程 」 について自分の意志を明確にするにはどうすればよいので しょうか?。 今回退院 した私は 脳梗塞 の再発による 「 最後の 一撃 」 で、義弟 のように 植物状態のままで むりやり五年間も延命 させられる 事態 や、 発見された時はすでに手遅れの可能性が高い膵臓 ガン で、 1 年後に亡くなった姉のような ガンに 備 えて、さっそく延命治療を拒否する旨の宣言文を書 く ことに しま した。 書斎の壁に掛けてある写真に貼った自作の戒名 「 飛 雲 院 孤 峰 義 翔 居 士 」 ( 院 ・ 居士の位 ( くらい ) ですので、我が家の宗旨である曹洞宗では 時価 百万円もする ? ) の下に、目立つように貼り、いざ入院の際にはこれを持参 し、医師に見せるように老妻に伝えま した。
[ 11 : 医療用麻薬使用の後進国 日本 ]末期 ガンの患者にとって絶え間なく襲う激 しい苦痛から逃れるために 「 殺 してくれ 」 と叫んでも、鎮痛治療の後進国である日本ではその苦しみを緩和させることができなかった し、現在も少 しは改善されたものの、諸外国に比べて 著 しく遅れた状態にあります 。 論より証拠、下表は国連の経済社会理事会に属する、国際麻薬統制委員会 ( I N C B 、International Narcotics Control Board ) の報告書に基づ く、いずれも ア ヘ ン の成分から合成した モルヒネ ・ フェンタニ ・ オキシコ ドン の消費量の合計 ( 100万人 / 日 当たりを モルヒネ 消費量に換算 したもの で、単位は グラム )。
上の表から日本における医療用麻薬の使用量が外国に比べて 最低である ことが分かりますが、その理由とは日本の医師が モルヒネ をなるべく使用 しないように、大学の医学部で 時代遅れ の教育を受けて来たからで した 。 上表の 2007 年 〜 2009 年の値を見ると日本の医療用麻薬の使用量を 1 とすれば、アメリカでは 18.3 倍 、カナダ では 16.8 倍 、ドイツ では 14.5 倍 隣国の韓国でも 1.3 倍 ですが、日本人は痛みに対 して 鈍感 なので しょうか?。 いいえそうではな く、患者はこれまで医師から痛みを我慢させられて来ましたし、今後も我慢させられようと しているのです。 なにしろ我慢や忍耐が 美徳とされるお国柄 ( く にがら、国の文化 ・ 習慣などの特色 ) ですから。 私はこれまでの人生において、若い時の 虫 垂 炎 ( 盲腸炎 ) と 10 年前の 前立腺肥大と 2 回の入院手術を受けま したが、局部麻酔が切れて痛みを感 じるようになっても、 手術 したのだから痛 いのは当たり前 と して、医師から鎮痛の錠剤すら与えられませんで した。 医師にとって麻酔薬 とは 手術の際にのみ使用するもの であり、手術後の患者の痛みを軽減することなど、もともと 眼中に無かった からで した。 ( 11−1、モルヒネ の使用に対する抵抗感 ) モルヒネ ( Morphine ) と聞くと、「 麻 薬 」 ・ 「 依 存 症 」 ・ 「 中 毒 」 ・ 「 廃 人 」 ・ 「 死 ぬ 前 に 使 う 薬 」 などと、 とても危険な薬 と日本の医師は思っていますが、世界の医療現場ではそうではありません。 ガン の痛みを緩和するために適切に使用すれば、 終末期だけ に使う危険な薬 ではなく、最初から安全かつ効果的に痛みを取り除 く ことができ、患者の Q O L( Quality Of Life、生活の質 ) を改善する素晴ら しい薬といわれています。 私は過去に 1 度だけ、 モルヒネ、Morphine の注射 を受けたことがありま したが、4 0 年近 く 昔のことで した。 急 性 膵 炎 ( きゅうせい すいえん ) になり横浜市西区の警友病院に入院 しま したが、その強烈な痛みは今までに経験 したことがなく 左上腹部を ナイフ か錐で グ リ グ リ 突き刺すような激痛で、体を エ ビ のように曲げたまま動けなくなりま した。それまで経験した 虫 垂 炎 ( 盲腸炎 ) の何十倍もの激痛で した。 モルヒネ の注射だと思いま したが、医師の皮下注射を受けるとやがて激痛が消え、薬の副作用で眠くなりま したが、治療のため 1 ヶ月入院 しま した。 [ 12 : ホスピス ]ホスピス( Hospice )についてご存 じですか ?。最初に単語について説明 しますと、これは ラテン 語 の Hospes が語源とされますが、古代 ラテン 語では ホスト ( Host、ある じ ) と ゲスト ( Guest、客 ) の両者の意味があり、客を暖かく もてなす意味なのだそうです。 ここから ラテン 語の客 ( hospes ) を迎える場所である ホスピティウム ( Hospitium 〉 が生まれ、そこから ホテル ( Hotel ) ・ ホスピタル ( Hospital、病院 ) ・ ホスピタリティ ( Hospitality 、温かいもてな し ) などの語が生まれま した。 ホスピス の原型ともいうべきものは 4 世紀頃からありましたが、 古代 ローマ の裕福な貴族の女性の ファビオラ ( Fabiola ) が、長旅の巡礼者たちのために憩 いの家を造り、そこでは食物と宿が与えられ、病人や負傷者には手当がなされ、治らない時でも最後まで優 しく看取られたといわれています。( 12−1、ホスピス の歴史 ) 古代のみならず中世の ヨーロッパ でも、聖地 エルサレム へ向けて巡礼の旅をする者が大勢いま したが、なかには途中で疲れ、病気になる者もいま した。このとき修道院はその旅人に 一夜の宿と温かい食事を提供 しま したが、この修道院の活動が ホスピスの最初で した。 上の絵は 13 世紀における巡礼者たちを描いた フレスコ画 ( 濡れた石灰の上に粉末状の顔料を水に溶いて描く壁画 )です。その後 19 世紀に アイルランド の ダブリンに、治療不可能な 「 死 に 逝 く 病 人 」 に慰めと安らぎを与えるために、病院とは異なる静かで小さな家が建てられま した。 近代医学でいう ホスピス とは 1967 年に イギリス の ロンドン に建てられた、 セント ・ クリストファーズ ・ ホスピス ( St. Christopher's Hospice ) が 最初で、ここでは死を否定的にとらえてきたこれまでの医学の流れに対 して、死を避 けられない人生 の 自然な出来事 と してとらえ、不自然な延命 より、苦痛を緩和 して人間 ら しい生 を全うすることを援助する基本姿勢に立つもので した。 つまり 「 病 気 」 に焦点を当てるのではな く、病気を抱えている 「 人 」 に焦点を当てるものです。末期 ( Final stage ) 患者 に対 しては 積極的 に モルヒネ を使用 して痛みの緩和がおこなわれ、その家族に対 しても精神的にも支えとなる ホスポス 運動が広がり、 一種の医療革命 ・ 社会運動のかたちをとって世界 60 ヶ国以上の国々に ホスピスが建てられま した。 現在 イギリスには 200 を超える ホスピスがあり、アメリカ には 1,700 以上の ホスピス がありますが、日本では 2012 年現在 施設の累計が 257、病床の累計は 5,101 床 です。 ( 12−2、緩和 ケア ) ホスピス ・ ケア というと、「 死を迎える 末 期 」 の ケアを連想する人が多いのですが、 緩和 ケア ( Palliative care ) とは 1970 年代から カナダ で提唱 された考え方で、ホスピス ・ ケア の考え方を受け 継 ぎ、人の死に向かう過程に焦点をあて、 患者とその家族に対 して、痛みやその他の身体的問題、 心理社会的問題、スピリチュアル ( 精神的な問題 ) に積極的な ケアを提供することにより、苦痛を除去 し、和らげることで生活の質を改善する手法です。 平成元年 ( 1989 年 ) に W H O ( World Health Organization 、国連傘下の世界保健機関 ) によって、緩和医療が定義されま した。 緩和 ケアとは、治癒 ( ちゆ、治ること ) を目指 した治療が有効でなくなった患者に対する、積極的な全人的 ケアである。痛みやその他の症状の コントロール、 精神的、社会的、そして霊的問題の解決が最も重要な課題となる。 緩和 ケア目標は、患者とその家族にとって、できる限り可能な最高の Q O L ( Quality Of Life、生活の質 ) を実現することである。末期 だけでなく、もっと早い病期の患者に対しても治療と同時に適用すべき点がある。と定義されま した。 ( 12−3、ホスピス の費用 ) 厚労省から平成 11 年に出された 「 ホスピス ・ 緩和 ケア 病棟の現状と展望 」 によれば、 ガ ン 患者の 93.3 % が病院の 一般病棟で亡 く なり、 ホスピス で亡 く なる患者は僅か 1.9 % に しかすぎず、自宅で死亡する 6.5 % よりも少ない割合です。その理由の 一つは ホスピスに対する偏見 で 「 死 に 行 く 場 所 」、「 治療から見放された患者が行 く 場所 」 だからで した。 二つ目は入院費用の高さで、緩和 ケア病棟 ( 主に ガンや A I D S 患者 ) の入院料を、2012 年 4 月に改正された 「 緩和 ケア 病棟 ・ 入院料の施設基準 」より抜粋すると、下記のように入院する期間により入院料が変わります。
( 12−3、寝たきり老人が少ない アメリカの病院 ) ところで アメリカ の病院では寝たきりの老人患者は少ないといわれていますが、その理由は医療費が非常に高い ( 注参照 ) ためで、高齢あるいは、ガ ン などの病気で動けなくなったら貧乏人は 在 宅 で 看護婦、ヘルパー、ボランティアなどが チーム を組む ホスピス ・ ケア を受け、カ ネ のある人は ホスピス で最後を迎えますが、平均入所期間は 1 ヶ月といわれていてます。
私も若い時に日本で盲腸の手術を受けま したが、7 日間入院 しま した。アメリカ の大都市の場合は入院費を含む医療費が極めて高額なので、手術後はなるべ く早 く退院 し、自宅も しくは病院の近 くの安い ホテル に泊まり、そこから腰を曲げ 手術で生 じた傷口を手で抑えながら 予約外来患者と して通院 し、傷の手当てをしてもらうのが普通で した。 なお医者にかかると受け付け窓口で最初に聞かれることは、 「 どのように して費用を払うのか ? 」 であり、「 任意医療保険 」 や 「 会社加入の医療保険 」、「 クレジット ・ カード 」 かです。支払い能力が無ければ 診察 ( どこが悪いか ) だけは教えるが、治療を拒否する権利 が 医師にあります。 [ 13 : 今日は死ぬのに もってこいの日 ]アメリカ 南西部の ニュー メキシコ 州 サンタフェ ( Santa Fe ) に住む作家で写真家の ナンシー ・ ウッド ( Nancy Wood ) が書いた 「 Many Winters 」 ( 数多くの冬 ) の日本語訳の本が出版されていますが、その タイトル は原作とは異なり詩の一部にある 「 Today is a very Good day to Die 」 から、 「 今日は死ぬのに もってこいの日 」 と付けられま した。白人女性である彼女は、 農耕民族である プエブロ ( Pueblo ) インディアン の長老たちと交流を持ち、古老から聞いた言葉 ・ 口承詩を集めて本に しま したが、大自然の中で暮らし自分の置かれた立場を知り、死を少 しも恐れずに堂々と人生を過ご し、やがて訪れる死を観察 しながら迎かい入れるという、 ネイティブ ・ アメリカン の死生観をよく知ることができます。 今日は死ぬのにもってこいの日だ。 この口承詩から彼等の死に方を 「 理想的な死 」 と考える人も少なくありません。つまり病院の ベッド の上で多くの 管 ( くだ ) や ケーブルを体に付けられ、心電図や脈拍を示す モニター画面や人工呼吸器の発する音を聞きながら旅立つのではなく、住み慣れた土地や自宅で、医師や看護師ではなく家族に囲まれて最後を迎えるという死に方に対 して−−−です。 それは野生動物が自分の力で 「 エサ 」 を取れなくなり、水を飲めなくなったら静かに死を待つように、病人が口から食べられなくなったり水が飲めなくなった時点で自分の運命を悟り、思い出に浸りながら 死の訪れを受け入れる姿勢です 。 誰かの言葉に、 死は人生の終わりではなく、人生の完結であるとありました。 私の人生も もうすぐ脳梗塞の発症により 完 結 する予定ですが、あと数ヶ月で ゴールの 80 才に到達すると思うと、不思議なもので死に対する恐れなど無くなるものです。 生まれ付きの 野 次 馬 根 性 ( や じうま こん じょう ) というべきか 、見てみよう行ってみようの好奇心 が今も旺盛なので、いまわの きわ ( 息を引き取る際 ) に 三途の川 ( さんずの かわ ) の対岸 ( 彼岸、ひがん ) のお花畑から、 「 お迎え 」 が本当にやって来るのかどうかを、この目で確かめたいと思っています。 さらに 「 あ の 世 」 とやらには亡くなった両親 ・ 兄姉たち ( 私は 6 人兄姉の末っ子で、私以外は全て死亡 ) がいるらしいので、再会できる (?) のが楽 しみです。
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