キリシタンと、支倉常長( 続き )
慶長遣欧 ( けいちょう けんおう ) 使節関係の記録を読むと、 オランダ ・ イギリスなどの キリスト教の新教 ( プロテスタント ) を信仰する国の人々と、15 世紀に始まった大航海時代の先駆けとなった ポルトガル ・ イスパニア ( スペイン ) などの 旧教 ( カトリック ) を信仰する国の人々との間で、互いに反目し対立する場面がありました。 それだけでなく カトリックの内部には上記の他にもいろいろな宗派 ・ 会派 ( たとえば ドミニコ 派 ・ アウグスティノ 派 ) などが存在し、互いに信者を獲得し勢力を拡大するために、宣教師の間においても他宗派 ・ 他会派に属する宣教師を貶 ( おとし ) め、それを後世に記録する者までいて、宗教者としての在るべき姿にはほど遠く、見苦しいことでした。フランシスコ会とはしかし残念なことに両会派は同じ カトリック教徒として互いに協力するよりも、互いに勢力争いをして仲が悪く、支倉常長の遣欧使節についても互いに足の引っ張り合いをし、悪口を記録にとどめていました。 イエズス会司祭の アンジェリス ( Angelis 、1568~1623 年 江戸で殉教 ) が 1619 年 11 月 30 日付で ローマの イエズス会総長に宛てた手紙によれば、 彼 ( か ) の使節 ( 支倉常長の遣欧使節 ) は ( フランシスコ会派の ) ルイス ・ ソテロの虚構であり、 ソテロが東日本の司教になることを死ぬほど熱望し 、( スペイン人の ソテロ は ) ポルトガル人に我慢がならないのです。と誹謗中傷していました。ちなみに 「 司教 」 の ビショップ ( Bishop ) とは ローマ ・ カトリック教会の聖職位の一つであり、 「 司祭 」 の プリースト( Priest ) よりも上の階級で司教区 ( この場合 東日本管轄教区 ) を監督する聖務職のことでした。 [ 7 : 幕府による外様 ( とざま ) 大名の 改易 ]改易 ( かいえき ) とは大名 ・ 武士からその身分を剥奪し、所領と城 ・ 屋敷を没収することをいいますが、徳川家康と二代目将軍の秀忠は 1600 年におこなわれた天下分け目の 「 関ヶ原の合戦 」 に勝利すると、 徳川氏 ( 東軍 ) に味方した 旧 ・ 豊臣秀吉の臣下だった いわゆる外様大名 28 人 を、将来裏切る可能性がある危険人物として徐々に改易することにしました 。 大名の改易は、軍事的理由 ・ 法律的理由 ・ 族姓的理由の三つに大別できますが、
武家の相続というのは 一代ごとに主君に跡目相続を願い、それを許されることで新たな主従関係が発生すると考えられましたが、世嗣 ( せいし、後継ぎ ) がいないということは、相続に対しての責任を忘れ主君に対しての奉公を怠った結果とみなされました。
[ 8 : 伊達政宗の野望 ]いわゆる 「 外様 ( とざま ) 大名 」 の多くが、幕府の意図により次々と改易 ( かいえき ) つまり お家取り潰しの憂き目に遭う中、奥州の伊達政宗は度々謀反 ( むほん ) の疑いを掛けられたものの決定的な証拠がなく、家の取り潰しを免れました。 徳川家にとっても奥州の王者 62 万石の伊達政宗は領内に黄金を産出することから軍資金が豊富でしかも勇猛な武将であり、敵に回すことは地理的にも厄介であるというのも改易を免れた理由の一つでした。 伊達政宗が自費で ガレオン船を造り、家臣の支倉常長を ヨーロッパに派遣したのには下記の目的がありました。
徳川幕府による キリシタン禁教実施以後も 政宗が領内で キリシタンの布教を認め ( フランシスコ会 宣教師 ) ソテロ らに厚遇を与えているのは、もちろん南蛮の最新技術である製鉄技術、新型鉄砲の技術を盗むためである。あの船 ( サン ・ ファン ・ バプチスタ号 ) は政宗の夢を載せているのだ。これを聞いた側近の者たちは政宗のとてつもない志の大きさに度肝を抜かれるとともに、権謀術数 ( けんぼう じゅっすう、巧みに人をあざむく策略 ) とも言えるその智将ぶりに舌を巻きました。しかし家康の三男で 二代将軍の 秀忠と六男の松平忠輝とは仲が悪く、この発言後の 1616 年に松平忠輝は改易されました。
[ 9 : 支倉常長 ( はせくらつねなが )のこと ]支倉六右衛門常長らによる 慶長遣欧使節 の存在が 日本人に初めて知られる契機 となったのは、明治 4 年 ( 1871 年 ) 12 月 23 日から 1 年 10 ヶ月の長期間、明治新政府が欧米に派遣した岩倉具視 ( ともみ ) を特命全権大使とする視察団によってでした。 その内訳は薩摩 ・ 長州出身者を中心とする使節 46 名、随員 18 名、留学生 43 名の合計 107 名でしたが、イタリア北東部の都市 ヴェネツィア ( Venezia ) を訪れた時のことでした。 同市の古文書館に保存されていた支倉常長の書状によって、岩倉らは 258 年前の事実を初めて知りましたが、同古文書館には支倉よりも更に 30 年も前 に訪欧していた 天正遣欧少年使節 の文書も残されていて、彼らはそのことも知って更に驚きました。
慶長 18 年 ( 1613 年 10 月 28 日 ) のこと、伊達家の家臣で対外的には遣欧使節の副使を務める支倉常長を筆頭に、常長の家臣 12 人 ・ 幕府 船手奉行 向井忠勝の家臣 10 人 ・ 水夫 ・ 貿易商人からなる 140 人の日本人と、イスパニア答礼大使の ビスカイノ、正使の宣教師 ソテロ ら 40 人の外国人など総勢 180 人が乗った新造船 サン ・ ファン ・ バプチスタ号 ( San Juan Bautista 、聖 ヨハネ 洗礼号 ) が、 陸奥国 ・ 牡鹿郡 ・ 月浦 ( つきのうら、現 ・ 宮城県 ・ 石巻市 ・ 月浦 ) から船出しました。 目的地は太平洋の対岸にあり当時 ノ ビスパニア ( 新 イスパニア ) と呼ばれていた 、 スペイン ( イスパニア ) の植民地 メキシコにある港町 アカプルコでした。 そして 90 日間の航海の末に慶長 19 年 ( 1614 年 ) 1 月 25 日に、 バプチスタ号は目的地の アカプルコに無事に到着しました。支倉常長たちの旅はそこで終えたわけではなく、日本人 ・ ソテロら スペイン人 4 人 ・ イタリア人神父からなる支倉使節団 ・ 一部の交易商人は、総督府のある メキシコ ・ シティーに陸路向かいました。 同地の教会堂で支倉常長を除く日本人 78 人が洗礼を受けましたが、そのうちの大部分は常長とは同道せず メキシコの地に残り、常長らの使節は東海岸 ( メキシコ湾側 ) の ベラクルス ( Vera Cruz ) 港から スペイン船 サン ・ ホセ ( San Jos`e 、聖 ヨセフ ) 号に乗り、 キューバ を経由して ヨーロッパへ向かいました。大西洋上で大きな嵐による被害を受けながら サン ・ ホセ 号は メキシコから 4 ヶ月間の航海を終えて、 1614 年 10 月に スペインの、アンダルシア州 ・ カディス県 ・ グアダルキビール川の河口にある港町、 サンルーカル ・ デ ・ バラメダ ( Sanlucar de Barrameda ) に到着しましたが、石巻の 月浦港を出発してから 1 年後のことでした。 [ 10 : スペイン国王に謁見 ]ここから スペインの首都 マドリード ( Madrid ) へ旅を続け、ここで 1615 年 1 月 30 日に 支倉常長は念願かなって スペインの国王 フェリペ ( Felipe ) 三世に謁見しましたが、挨拶が終わってから国王と大勢の スペイン高官の前で政宗からの親書を読み上げるのではなく、彼は自分の言葉で堂々と演説をおこないました。 以下は支倉の言葉を日本から彼と共にやってきた慶長遣欧使節の正使である ソテロが イスパニア ( スペイン ) 語に通訳し、それを前述した アマティが イタリア語で記述した 「 伊達政宗遣使録 」 ( 1615 年に ローマで出版 ) にあります。
およそ 光 ( キリスト 教 ) を求むるもの、これを得たるときは多くの苦難を忘れて喜ぶべし。自分もまた光を求めんがため、天の光なき国 ( 日本 ) よりこの キリスト教国に来たれり。 世界を照らす太陽のごとき ( フェリペ 三世 ) 陛下の前に出て、光栄と喜びに満ち海陸の長き ( 旅の ) 労苦を忘れ、我が国民中もっとも名誉を得たるものなり ( 中間省略 )。このように演説をした後に伊達政宗の親書と協定書を国王に手渡しました。今から四百年近く前に仙台藩の高い身分ではない知行 600 石の侍が、大航海時代の頂点に立つ世界最強の海洋国家である イスパニア ( スペイン ) の国王の前で堂々と演説をしたこと自体、空前の出来事でした。 ここで支倉は伊達政宗の遣欧使節を送る目的である国交樹立および、それに伴う通商条約締結の意思を明確に国王に伝えましたが、しかし何のために奥州の王 ( 伊達政宗 ) の地位と領土を イスパニア( スペイン ) 国王に献上する (?) のかといえば、それを 「 エサ 」 にして イスパニア艦隊を味方に付け徳川幕府を倒すことでした。
1615 年 10 月に ローマ市への 入市式をおこない 、ローマ 中心部で外国使節として華やかな パレードに臨みました。 そして 1615 年 11 月 3 日、支倉常長はついに ヴァチカン宮殿 ( Palazzi Vaticani ) で ローマ教皇パウルス ( Paulus ) 五世に拝謁し、日本への宣教師派遣とイスパニア領国との通商を要請しました。 ローマ市は支倉に ローマ公民権を贈り、支倉を貴族に列しましたが 、伊達家に伝えられた支倉常長の 二枚の肖像画 ( うち一枚の全身像は前掲 ) は、 ローマ教皇庁が フランス人画家 クラウジオに画かせたものです。 左の絵図は、常長の帰国後に支倉家に伝えられましたが、同家が後述する理由により改易となった際に、他の資料とともに仙台藩に没収されました。画面中央、縦に入れられた折り跡が痛々しく無数の横皺も認められ、ある時期に折りたたまれ、巻かれて収納されていたと考えられます。[ 11 : ハポン ( 日本 ) 姓の人々 ]ハポン ( Jap`on もしくは Xap`on ) とは、スペイン語で、 日本 を意味しますが、スペイン人の中に 「 日本 」 という姓を持つ人が実は千人近くもいるのです。この姓の由来はどこから来ているのでしょうか ? 。 今まであまり世間に知られていませんでしたが、慶長遣欧使節の一員として支倉常長と一緒に ヨーロッパに行った者の中には、役目を終えてから常長と共に日本に帰国せずに、現地 スペインの アンダルシア地方を流れる グァダルキビル( Guadalquivir ) 川の河口の町 コリア ・ デル ・ リオ ( Coria del Rio ) に残留した者が、 7~9 名いました。 社会制度や掟 ( おきて ) の厳しい カトリックの国の首都 マドリード ( Madrid ) とは異なり、歌劇 カルメンに出てくる 情熱の女 カルメン ( Carmen ) の町 セリビアや アンダルシアの町には、 日本の若者を惹きつける華やかさがあったに違いありません。 下記は ビゼー作曲の有名な 歌劇 カルメンの中の アリア ( Aria 、詠唱 ) ハバネラ 「 Habanera 、恋は野の鳥です 」。去年の朝日新聞 Digital ( 2013 年 6 月 15 日付け ) の報道によれば、
2013 年 6 月14 日 スペインを公式訪問中の日本の皇太子様が、セビーリャ ( Sevilla ) で 400 年前の 「 慶長遣欧使節団 」 の子孫とされる Jap`on ( ハポン ) 姓を持つ人達と懇談した。 皇太子様は、セビーリャから グアダルキビル川 ( Guadalquivir )を約16 km 南西に下った所にある彼らの住む コリア ・ デル ・ リオ ( Coria del Rio ) を訪れ、1992 年に宮城県が寄贈した支倉常長像の近くに桜を植樹した。 人口 3 万人の コリア ・ デル ・ リオ には、スペイン語で日本を意味する 「 ハポン 」 姓の人々が今でも 600 名近く住んでおり、皇太子様が現地に到着した時には 「 ハポン 」 姓の人々を中心に 1 万人近くが出迎えた。とありました。 遣欧使節団は1616 年、セビリア近郊の市 コリア ・ デル ・ リオとそこから北へ 12 キロ離れた ロレト 修道院に分散して宿泊し、国王から政宗宛の返書を待つ間 滞在しましたが、 その後日本人 7~9 人前後が帰国しなかったことが分かっていて 、現地の郷土史家らは 「 子孫らが 祖国の ハポン( Jap`on、日本 ) を名乗るようになった 」 という説を唱えています。 コリア ・ デル ・ リオ 町役場の広報室長によれば、 通常 スペイン人は誰でも、姓を 二つ持っています。第一姓は父親、第二姓は 母方の父親の姓 が付きます。名前も カトリック教徒なら 二つあるから、全部で 四つです。 私 ( 広報室長 ) の フル ・ ネーム は マヌエル ・ へスース ・ ルイス ・ ハポン ですが、日本人の末裔説を決定的にしたのは、1996 年の美人 コンテストで ミス ・ スペインに輝いた美人、 「 マリア ・ ホセ ・ スアレス 」 ( Maria Jose Suarez ) さんが、スペインの有名週刊誌の インタビューで、 私は、セビジャーナ ( セビリアの女性 ) と、ハポネース ( 日本人男性 ) との混血です。と発言したことで、彼女の祖父も ハポン姓 でした。さらに別の証拠もあります。某 テレビ番組で、ハポン姓についての特集をしていましたが、現地のある母親の インダビュ-で、自分の子供についてこう言っていました。 この子は小さい頃、 モウコ 斑 ( Mongolian Spot ) があったのよ。蒙古 ( モウコ ) 斑とは、黄色人種の乳幼児の尻などに見られる「 青い アザ 」 で、皮下に メラニン 色素が沈着するために起こり、幼年期の終わりまでに自然消失します。 スペイン人は、混血の人種ですが、もともとの原住民に ケルト( Celt )、フェニキア (Phoenicia )、ロ-マ( Roman )、 西 ゴ-ト( Visigoth )、モ-ロ ( ムーア 人、 Moor、711 年に スペインに侵入し、 800 年間支配した イスラム教徒 ) など、さまざまな人種と混じあって来ましたが、しかしこれまで 蒙古系人種 ( モンゴロイド、Mongoloid ) と混血した事はありませんでした。 1236 年に始まった蒙古軍による ヨーロッパ侵攻においても、ヨーロッパ大陸と イベリア半島を分ける ピレネー山脈 ( スペイン語、Los Pirineos 、最高峰 アネト山 3404 m ) を越えることはなく、イベリア半島は侵略されずにいました。 [ 12 : 態度の急変 ]ノ ビスパニア ( メキシコ ) との直接通商交渉をするという表面上の理由の裏に、伊達政宗から スペインとの国交を樹立し、あわよくば軍事同盟締結という困難な任務を命じられた支倉六右衛門常長 ( はせくら ろくえもん つねなが ) は、遣欧大使となった フランシスコ派宣教師 ソテロ と日本から同じ船で帰国する スペイン ( イスパニア ) 答礼大使の ビスカイノ との主導権争い、さらに同じ カトリック教徒でありながら、フランシスコ会と イエズス ( Iesus ) 会との勢力争いによっても妨害されました。訪問先で受けた対応については、当初は イスパニア ( スペイン ) 国王 フェリペ 三世や ローマ教皇との拝謁を許され、ローマの公民権を与えられ、 ローマの貴族に列せられるという厚遇を受けました。ローマ教皇から宣教師派遣について前向きな返答を得た支倉使節は、ふたたび スペインと貿易の交渉をするために首都 マドリードに戻りました。 ところがこの時すでに日本国内では徳川幕府による キリスト教への弾圧が始まっていて 、宣教師 ・ 信徒の国外追放 ( キリシタン大名 高山右近を マニラへ追放、少年使節の一員だった 原 マルチノを マカオへ追放など ) の情報が イエズス会宣教師から手紙を通じて スペイン政府に伝えられました。 その結果彼らの態度が急に冷淡になり、支倉常長 一行への扱い方も キリスト教に対する弾圧国からやって来た 厄介者 へと様変わりしました。
[ 13 : むなしい結末、計画も人も ]彼らは首都 マドリードに留まることも許されず、帰国のために港に近い セビリア ( Sevilla ) へと移されました。常長と ソテロは国王 フェリペ 三世の返書を得るために セビリアに留まり、交渉を続けましたが、期待した内容の返書を得ることもできず、1617 年 7 月 4 日に ヨーロッパを離れ、メキシコに向かいました。 そして アカプルコに迎えにきた日本船の サン ・ フアン ・ バウティスタ号に乗り、フィリピンの マニラに到着しました。ところが マニラ駐在の スペイン総督は オランダ軍による マニラ来襲が予想されたため、防衛艦隊を編成すると共に 日本船 バウチスタ号の性能のよさに着目し、支倉常長らの強い反対にもかかわらず バウチスタ号を強制的に買い上げ、1619 年 9 月の オランダ軍との戦争に投入しました。 この戦争で敗北を喫した スペイン側は 一時的に制海権を オランダに奪われ、日本への安全な航海が難しくなりました。常長は マニラに 2 年間滞在した後、1620 年にようやく便船で マニラを出発し、長崎経由で石巻の 「 月の浦 」 港に帰りました。 伊達政宗の記録 ( 貞山公治家 巻二十八 ) によれば、元和六年 ( 1620 年 ) 庚甲 ( かのえ ・ きのえ ) 八 月乙酉 ( きのと ・ とり )二十六日 辛未 ( かのと ・ ひつじ )、今日 支倉六右衛門常長等 南蛮国ヨリ帰朝ス。是去ル慶長18 年 ( 1613 年 ) ニ 向井将監殿忠勝 ( 幕府の御船手奉行 ) ト御談合有テ渡海セシメラル ( 以下省略 ) 。とありました。 支倉常長は メキシコ ( スペイン領 ) との直接貿易開始という当初の目的を 7 年の努力にもかかわらず果たすことができず、失意のうちに帰国しましたが、日本では 1616 年に徳川家康が死ぬと キリシタンに対する弾圧が強まりました。 二代将軍秀忠は常長の帰国前年の 元和 5 年 ( 1619 年) 10 月に京都の六条河原で、子供 11 人と妊婦 1 人を含む 52 名の キリシタン に火刑 ( かけい、火あぶり ) を命じたので 、いわゆる 「 元和 ( 別名 京都 ) の大殉教 」 が起きました。 上図は十字柱に縛り付けられて火刑に処せられる、 テクラ ( 洗礼名 ) 橋本とその子供たちです。 伊達藩においても幕府の キリシタン禁教令に従わざるを得ず、支倉常長の帰国直後から禁教令が施行され、常長は失意のうちに 2 年後 ( 1622 年 ) に死亡しました。さらに嫡子 支倉常頼の代に家臣および常頼の弟が キリシタンであることが発覚し、1640 年 に常頼が処刑され、支倉家は 「 改易 」 という悲劇に見舞われました。 しかし 28 年後 ( 1668 年 ) に常頼の子の常信の代になると、支倉家は許されて家名を再興しました。 その一方で 支倉常長と マニラで別れた宣教師の ソテロ ( 1574~1624 年 ) は、 2 年後に商人に変装して中国船で日本に密入国しました。 その後 薩摩藩内で捕らえられて長崎へ送られましたが、伊達政宗の助命嘆願も虚しく 1624 年 ( 寛永元年 ) 8 月に他の宣教師 3 名と 共に大村の刑場で火刑に処せられ殉教しました。( 50 歳 ) ソテロは 1867 年に、ローマ教皇 ピウス ( Pius ) 9 世により、聖人 ( Saint ) に次ぐ福者 ( ふくしゃ、ラテン語で ベアト、Beato ) の地位に列せられました。 ( 13-1 : 人類の祖 アダム の 原罪 が、拒否反応の原因 ) 1871 年 ( 明治 4 年 ) に明治新政府が 前述した岩倉使節団を欧米諸国に派遣した際に、日本政府の キリスト教に対する 「 禁教令 」 について諸外国から激しい抗議を受けたため、新政府は江戸幕府による最初の公式なキリスト教禁止令 ( 1612 年 ) 以来 261 年続いた キリスト教禁止令を、明治 6 年 ( 1873 年 ) に廃止しました。 それ以来今日まで 141 年が経過しましたが、 キリスト教関係者の布教努力や、太平洋戦争の敗戦後は アメリカ占領軍が多くの宣教師を日本に招くなど、占領軍による支援にもかかわらず、 キリスト教の信者は増えませんでした 。これについて占領中に日本に駐在した アメリカ人記者によれば、日本人の知能程度が低いからだとする記事を書いていました。 彼によればある民族の知能程度は、キリスト教信者の占める割合により示されるとする実に愚かな考え方でした。 平成 23 年版 宗教年鑑 の データ ( 下表 ) によれば、キリスト教信者の数は国民の 僅か 1.4 パーセント に過ぎないという、布教面での 不毛の状態 が明治初期以来 現在まで続いています。 平成 2 3 年版 宗教年鑑、( 文化庁編 ) から引用
注 : 韓国の キリスト教信者の割合 参考までに 1593 年の豊臣秀吉による朝鮮征伐 ( 文禄 ・ 慶長の役 ) の際に、 キリシタン大名の 小西行長の求めに応じて、日本から イエズス会宣教師 セスペデス( Sespedes ) が朝鮮に渡ったのが キリスト教 布教の最初であった。 平成 17 年 ( 2005 年 ) の データ によれば、韓国における国民に占める キリスト教徒の割合は、 29.2 パーセント 。日本における キリスト教の布教面での不毛や信仰拒否の原因として最初に挙げられるのは、 人は生まれながらにして罪人 ( つみびと )であるとする教理の 原罪 、つまり 「 人類の祖先の アダムが犯した罪で、人は生まれながらにその罪を負う 」 ことにある といわれています。 この教理が日本人の 肌に合わず 、 拒否反応を起こしている のだそうです。 生まれたばかりの 赤ん坊 が 「 罪びと 」 だと ?。---そんな アホ ( 阿呆 ) らしい宗教など、誰が信じるものか!---。 ( 13-2 : 私の場合 ) 私は 新潟県にある寺の娘 を母として東京で生まれ育ちましたが、親とは異なり宗教心など全くありませんし、 昭和 20 年 ( 1945 年 ) の日本の敗戦以降 神仏に願い事をするのを止めました。 81 歳の今日まで 先祖の墓の 「 有料清掃および 供花 」 の確認を兼ねての墓参を除き、宗教とは無縁の生活をして来ました。
いざという場合に頼れるものは 宗教 を含めた他人ではなく、機長である 自分の腕 ( 操縦技量 ) と頭 ( 判断力 ) だけ 。自分で決断し、 自分が全責任を負うということでした。そこには宗教が入り込む余地など、全くありませんが、これまで宗教に 「 助け、救いを求めた 」 ことなど 一度もありませんし 、今後も無いと確信しています。 もちろん 有りもしない天国 ( 地獄 ) に行くことなど、考えたこともありません ( 終わり )
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