阿片(アヘン)戦争
[1:アヘン]中国の歴史に深く関わる物産には 銀、生糸 ( シルク )、蘇木 ( 注:参照 )、阿片 ( アヘン ) がありますが、19 世紀で注目された物産は アヘンでした。明 ( みん ) 代の 16 世紀後半に 李 ・ 時珍 ( り・じちん ) によって書かれた漢方の本に本草綱目 ( ほんぞうこうもく ) がありますが、その中に記された 1,871 種の薬剤の ひとつに アヘンがあります。彼は アヘンを 阿芙蓉 ( あふよう ) という名前で記載していました。それによれば
とありました。
注 : 蘇木 )
ケシ科 ( Papaver somniferum ) の植物には 200 種類以上がありますが、園芸栽培される小型の ヒナゲシ は、別名を 虞美人草 ( グビジンソウ ) ともいい、英語名では ポピー( Poppy ) として親しまれています。ポピーも 「 ケシ坊主 」 を作りますが、それには後述する毒性成分の アルカロイド は、ほとんどありません。 阿芙蓉 ( あふよう ) とは アラビア語の アフェーン を語源とする言葉ですが、アヘンを生成する ケシ の原産地は地中海の東部沿岸地方で、文明の発生とともに栽培されていたと思われます。 ギリシャ語で二つの川の間の土地を意味する メソポタミア では、チグリス川と、ユーフラテス川の流域一帯で最も古くから シュメール人による アヘン栽培がおこなわれていました。 イラクの首都 バクダッド の南部から発掘された 五千年前の粘土板には、古代 メソポタミアで使用された楔形文字 ( くさびがたもじ ) により、 ケシ の栽培、ケシ乳液の採集について記述されていますが、シュメール人は ケシを ハルジル( Hul Gil ) つまり 歓喜・至福をもたらす植物 と呼んでいました。
紀元前 2 千年頃には、ヨーロッパや、中東、中央 アフリカに ケシの栽培が伝わりましたが、紀元前 1 千 5 百年頃には エジプトで アヘン製造がされていた事が分かる パピルス ( 葦、アシを原料として作られた 1 種の紙 ) の文献が見つかっています。文献によれば、アヘンは当時の エジプトにおいて鎮痛剤などの薬剤として用いられていました。なお紙を意味する英語の Paper 、フランス語の Papier は、この パピルス に由来します。
アヘンを意味する英語は オウピアム ( Opium ) ですが、その語源は ギリシャ語の Opion 「 ケシの汁 」 に由来します。オウピアムの中国語の音訳である、アーピェン ( a pian 、阿片 ) を日本語読みにしたのが アヘンです。また ケシの乳液を集めて干し固めたものが黒色であることから、阿片 ( アヘン ) のことを、鴉片 ( アヘン、中国語では発音が異なり、鴉は カラスの意味 ) とも記しました。写真は ケシから生成された乳液を干して固めた 生アヘン ( Raw Opium gum )ですが、球状にされた形のものもあります。
[2:アヘンの使用法]アヘンは、最初 ポルトガル人によって インドから マカオを経由して中国にもたらされましたが、記録によれば明朝 ( みんちょう、1368〜1644年 ) の関税表 ( 1589年 ) には アヘンの名が記載されていたので、当時から正式な輸入が認められていました。最初は富裕層のあいだで広まった アヘン吸飲の習慣は、次第に広東 ( カントン )や福建などの沿岸地域で、社会の各層の人々に浸透するようになりました。その理由は アヘン商人が民衆の無知につけ込み、アヘンの害を隠して 長寿の薬であると宣伝したことも 大きな理由のひとつでした。なお アヘンが漢方薬として日本にもたらされたのは、室町時代 ( 1336〜1573 年 ) のことでしたが、貴重な薬であり中毒患者を生むほどの量ではありませんでした。
[ 3:アヘン中毒 ]ケシから生成した アヘンには多くの種類の アルカロイド ( Alkaloid 、植物体に含まれる塩基性物質で、一般に毒性があり 特殊な生理 ・ 薬理作用を持ち 、一例としては タバコに含まれる ニコチンや、茶の カフェインなどのように ) を含みますが、1806年に F ・ サ−タナ−( Serturner ) がこれらの物質のひとつを純粋な形で抽出することに初めて成功しました。彼はこの物質に ギリシャ神話の眠りの神の モーフィアス( Morpheus )から名前をとって、モルヒネ ( Morphine ) と名付けました。その後は 1832 年に ロビケット ( Robiquet ) が同じく鎮痛・催眠物質の コデイン ( Codeine ) を抽出し、1848 年には メルク ( Merck )が同じく アヘンから アルカロイド物質の パパベリン( papaverine ) の抽出に成功しましたが、これらは医療用の麻酔・鎮痛剤として広く使用されるようになりました。ところで アヘンは人体にとって著しい鎮痛作用、麻酔作用を持ち、特に 癌 ( がん ) などの場合には激しい痛みを除去する 最上の ペイン・キラー ( pain killer 、 鎮痛薬 ) になりますが、主に経口服用します。 使用法によっては 習慣性・耽溺性 ( たんできせい、とらわれて夢中になること ) が 非常に強く、毒薬にもなる物質で、アヘンを吸飲すると、初めは楽しく幸福な気分になりますが、使用回数を重ねるうちに体が アヘンに慣れてしまい、その効き目が薄れてしまいます。同じような幸福感を得るには、体がより多くの アヘンを要求するため次第に摂取量が増えていき、アヘンが止められなくなります。
写真は寝室で アヘンを吸飲しながら 深い悦楽にひたる 富裕層の女性ですが、アヘン中毒患者がその使用を止めた場合には、 激しい禁断症状が起こり 精神的には強い恐怖・不安・不眠・幻覚に襲われ、肉体的には手足の震え・吐き気・めまいを生じます。
つまり初めは爽快 ( そうかい ) な気分や幸福感を求めて アヘンを服用していたものが、最後には、不安感・不快感をとり除こうとして、ますます アヘンが止められなくなります。ひとたび アヘン中毒になると アヘンを購入し続けるために、やがては全財産を失い、さらには アヘンを買う カネを求めて犯罪に走る場合も多く、カネが手に入れば アヘン窟 ( くつ、 Opium Den 、アヘンの非合法吸飲所 ) に入り浸り、食欲を失い全身がやせ細り、皮膚は蒼白、眼光は鋭くなり、幻覚などの神経症状も現れてついには廃人同様になります。
フランスの作家、詩人、劇作家の ジャン・コクトオ ( Jean Cocteau 、1889〜1963年 ) によれば、 ケシ は気が長い。一度 アヘンを吸飲した者は、また飲むはずだ。アヘンは、待つことを知っている。と アヘン吸飲に対する 習慣性 ・ 依存症 ( とりこ ) になることを述べていましたが、この文章を書いていると テレビでは、女優の三田佳子 ( 66 才 ) の次男 ( 27 才 )が 、覚醒 ( かくせい ) 剤の所持で 3 度目の現行犯逮捕されたことを報じていました。アヘン だけでなく覚醒剤の使用者にも、 そこから抜け出せなくなる依存症 が起きるようです。 覚醒剤は白色の粉末又は無色透明の結晶で臭いはなく、舐めるとやや苦みがあります。最近は錠剤や水溶液の形で密売されている ケースも見られます。これらは麻黄 ( マオウ )という植物から抽出された エフェドリン 等を原料として、化学的に合成して作られていますが、日本で乱用されている覚せい剤は、そのほとんどが外国から密輸入されたものです。
現在 アヘンを生成する ケシの不法栽培地帯としては、タイ ・ ミャンマー ・ ラオスの 3 ヶ国にまたがる国境一帯の ゴールデン ・ トライアングル 、( 黄金の 三角地帯 )と呼ばれる山岳地帯と、パキスタン ・ アフガニスタン ・ イラン 3 ヶ国の国境一帯の ゴールデン ・ クレセント ( Crescent ) 、( 黄金の 三日月地帯 ) と呼ばれる地域です。 ここでは アヘンが 、テロリスト達の資金源になることが心配されています。図の緑色の部分は黄金の 三角地帯における、ケシの不法栽培地帯。
[ 4:茶( 紅茶 )の貿易 ]中国の茶 ( 紅茶 ) は 16 世紀のはじめに、船員や伝道士によって ヨーロッパに紹介され、はじめは薬屋で貴重な薬として売られていましたが、しだいに喫茶の風習が一般に広がり、特に イギリスでは 18 世紀にはいってから 上流階級の間で 「 ティー・タイム 」 の習慣が生まれ、下層階級の者もそれを真似て茶を飲むようになったため、茶の需要が急増しました。茶の供給地はその当時中国だけしかなく、インドの アッサムや セイロンで茶の栽培が始められたのは、後年のことでした。そのために イギリスは莫大な量の茶を中国から輸入しなければなりませんでした。
その年に採れた茶を ロンドンに競って運ぶ為に、ティー ・ クリッパー( Tea Clipper、茶の快速輸送帆船 )が活躍しましたが、その中でも カティー・サーク号 ( 963 トン ) が有名です。写真はかつての カティー・サークの姿ですが、ロンドン郊外の グリニッジ ( Greenwich ) の テムズ河畔に係留保存されていましたが、今年 ( 平成 19 年 )5 月に火災により全焼しました。
余談ですが カーター 政権による米国航空界の規制緩和 ( De-regulation ) 政策がとられましたが、その環境変化に対応できずに、 かつての空の王者でした パン・ アメリカン航空 ( P A A ) という名門の航空会社が平成 3 年に破産し消滅しました。その会社の飛行機が航空管制通信に使用していた無線の コール ・ サイン ( Call Sign 、呼び出し符号 )は、クリッパー ( 快速船 ) の後に便名の数字を付けたものでした。 ところで当時の英国は労働 コストが 中国の 6 倍も高いため 、英国から中国に輸出できるものは何もありませんでした。得意の毛織物の輸出については木綿や絹製品に慣れた中国人の好みに合わずに輸出量が伸びず、英国の陶磁器も、牛骨の灰を使用し透き通った独特の白色で、滑らかな光沢を持つ、中国製の陶磁器 ( ボーン・チャイナ、 bone China ) には劣り、時計や望遠鏡などの精密機械製品は贅沢品であり、中国人の生活にとっては無くても済ませられる商品でした。つまり中国と イギリスの貿易収支を見れば、イギリス側にとって圧倒的な輸入超過の状態となりました。 巨額な茶の購入代金は銀貨による現金決済を必要としたために、イギリス船は当時の国際通貨として使われた メキシコ ・ ドル、スペイン ・ ドルなどの銀貨を積んで広州へ行き、そこで茶を購入して イギリスへ帰りました。
[ 5:英、東インド会社と、三角貿易 ]東インド会社とは 17 世紀初めから東 インド ( 東洋 ) 貿易と、その植民活動を目的として設立された西欧諸国の独占的特許会社 ( 国策会社 ) のことですが、早い順に イギリスが1600 年、オランダが 1602 年、フランスが 1604 年に設立しました。
毎年繰り返される莫大な茶の輸入代金支払いは、イギリスにとって対中国貿易で大幅な輸入超過となりましたが、この事態を憂慮した英国は、何とか対中国貿易で バランスを取ろうとして、ある計画を考え付きました。それは イギリスから植民地 インドへ輸出した、繊維製品をはじめとする産業製品の代金を、当時の国際通貨の銀貨ではなく インド産の アヘン で受け取り、それを中国に輸出する方法でした。
そこで イギリスが設立した東インド会社は 1767 年には 1 箱 百斤 ( キン ) の アヘンを 2 千箱 ( 120トン ) 以上を売りさばき、 インドで大規模な ケシ の栽培を始め、1773 年には ガンジス 河の下流域で生産された ベンガル産 アヘン を専売制のもとに置き、さらに 1799 年には ベンガル に限らずそれ以外で生産された アヘン も全て会社が直接買い上げて、それを中国に輸出しました。この計画は成功を収め、 毎年金額にして 200 万 ポンド もの アヘン を中国に輸出しましたが、19 世紀半ばになると、インドで生産された アヘンは年間 4 千 トン以上になり、そのうちの 85 パーセントが中国に輸出されました。 その結果中国人の間に アヘン吸飲者がまん延し、19 世紀には 人口の 10 パーセントが アヘン吸飲者になりました。すると今度は清 ( しん ) 国が イギリスに輸出する茶よりも、高額な代金を支払い アヘンを輸入する事態になっために国の貿易収支を圧迫し、1827 年からは貿易赤字国に転落しました。1850 年前後の貿易額によれば、中国はおよそ 1 千万両の アヘンを輸入していましたが、頼みの茶の輸出は輸入額の 5 分の 1 の 200 万両ほどでした。 アヘンの密貿易に従事したのは イギリスだけでなく、オランダやスペインも莫大な利益を求めて参入し、後述する アヘン戦争の間には イギリスに代わり アメリカも アヘン貿易に参入し汚い利益を挙げました。
[ 6: 林 則徐 ( りん・そくじょ ) ]清朝、第 8 代の道光帝 ( 1782〜1850 年 ) は銀の国外流出にともなう経済的混乱や、清帝国の兵士の間に アヘンがまん延し、地方で発生した反乱や、庶民の間に労働意欲を失った廃人同様の アヘン中毒患者が多発した社会不安に対処するために、1796 年には アヘンを輸入禁止をしましたが効果がなく、 大量に輸入された アヘンを当時の中国人は タバコのように喫煙し、その魔性に溺れた庶民の間で アヘン中毒患者が続出しました。道光帝は アヘン対策を今後どうすべきかを臣下に下問しましたが、これに対して アヘン喫煙者には死刑で臨むべしと奏上文を書いた、現在の湖北省、湖南省を合わせた地方の長官である湖広 ( ここう ) 総督の林 則徐の方針を採用することにしました。
林 則徐 ( 1785〜1850 年 ) は福建省出身の政治家でしたが以前から アヘン厳禁を主張し、湖広 ( ここう )管内での アヘン根絶に厳罰を以て臨み実績を挙げました。1838 年に彼は道光帝により アヘン禁輸の欽差 ( きんさ ) 大臣に任命されましたが、欽差とは皇帝により特命全権を受けたという意味です。翌年広東に到着した林 則徐は アヘン厳禁を断行し 、外国商人が持っていた アヘン 2 箱 ( 1,200 トン ) 以上を全て没収し、 焼却処分 にしました。これに怒った イギリス商人たちは林 則徐に抗議し、その後も アヘン貿易に関して清朝と イギリス商人との間で紛争が続きましたが、最終的に アヘン戦争 ( 1840〜1842 年 ) を引き起こすことになりました。
以前に中国で アヘンを没収され、中国から追い払われた イギリスの アヘン商人たちが、ロンドンで清国に出兵せよと運動していましたが、清朝の強硬策に対して イギリスの メルボーン内閣は、没収された アヘンの 「 損害の補償 」 を要求し、実力で中国市場を開放させる好機としました。 政府が正式に清国への派兵を決めたのは 1840 年 2 月のことでしたが、同年 4 月の議会における戦費の支出は、賛成 271 票、反対 262 票の僅か 9 票 差で承認されました。その際に保守党の政治家 グラッドストンは
−−−その原因がかくも 不正な戦争 、かくも永続的に 不名誉となる戦 争 を、私はかつて知らないし、( 本で ) 読んだこともない。−−−中略−−−英国旗こそは、 悪名高い禁制品 ( アヘン )の密輸 を保護する為にひるがえったのである。と議会で演説しました。しかし アヘンこそは当時植民地 インドにおける疲弊した ベンガル政庁の財政にとって、命の綱ともいうべき収入であり、清国が アヘンを買わなくなれば イギリスの インド支配は揺らぎ、それと共に中国からの茶の輸入代金に相当する輸出品を失うことになるため、アヘンの輸出先の確保は イギリス経済にとって必要不可欠でした。 開戦決定により インド総督 オークランドは 4,000 名の陸兵 を動員し、砲 74 門を装備した ウエルズリーを旗艦とする、軍艦 1 隻、輸送艦、武装商船など合計 32 隻からなる東洋艦隊遠征軍 ( 合計砲数、470 門以上 )を派遣しました。
林 則徐によって警備を固めた アヘン輸入港の広東 ( カントン ) での交戦は不利と遠征艦隊は判断して北上し、舟山列島の定海を占領しました。多くの大砲を備え訓練された将兵を持つ イギリス艦隊のまえに、清国海軍の ジャンク ( 中国で発達した木造帆船 ) の艦隊などは まるで赤子のようなものでしたが、絵図は撃破され炎上 する清国艦隊です。その後 イギリス艦隊は寧波 ( ニンポー ) や長江 ( 揚子江 ) の河口を封鎖して、8月から9月にかけて北京の目と鼻先の天津に近い白河の河口に達しました。 清朝の皇帝をはじめ政府高官たちは アヘン戦争などそれまで、辺境の地である広東 ( カントン )で起きた局地戦だと思っていました。ところが中華思想に凝り固まり、長年 夷荻 ( いてき、野蛮人 ) 扱いしてきた イギリスの艦隊が身近に迫ると、たちまち恐慌状態に陥り戦意を失い、大沽 ( タークー) での停戦交渉に応じることになりました。 交渉の結果1840年9月17日に イギリス艦隊は広東に向けて立ち去ることになりましたが、それまで アヘン禁輸で主戦論に立っていた林 則徐は欽差大臣を罷免されました。その後、川鼻 ( せんび ) で行われた和平交渉で折り合いがつかずに戦闘が再開されましたが、結局 イギリスの軍事力に屈服させられて 13 条からなる南京条約を受け入れました。その要点は、
しかしこの条約には戦争の原因となった、 アヘンの輸入禁止の件がまったく記載されておらず 、戦後になるとこれまで以上の大量の アヘンが、強欲な イギリス商人によって中国に輸入されるようになりました。1850 年には戦前の水準を超えて 48,000 箱となり、その後も1888 年に ピークを迎えるまで増加し続けました。写真の箱には Opium ( アヘン ) の文字が書かれていますし、中に見えるのは球状になった アヘンです。
[8:アヘン輸入量の推移]
[ 9:林 則徐 ( りん・そくじょ ) のその後 ]イギリス艦隊の侵攻に驚き弱腰になった清朝により林 則徐は欽差大臣を罷免され、1841 年には責任を問われて新彊 ( しんきょう ) の イリ ( 現在の伊寧 ) に左遷されましたが、3 年ほど過ごした新彊では伊犁 ( いり )将軍の信任を得て水利、開墾などの計画を立てました。1845 年に許されて陜西 ( せんせい省、省都は西安 ) の総督代理となり、1850 年には太平天国の乱 ( 1851〜1864 年頃 、キリスト教の影響を受けた、政治・経済上の平等主義を掲げる農民・大衆による反清朝活動 ) の鎮圧のために彼の実行力を買われ、再度欽差大臣 ( 勅命全権大臣 ) に任命されましたが、広西へ赴く途中に 66 才で没しました。
彼の故郷である福建省 ( ふっけんしょう ) の省都である福州市には、林 則徐の業績を記念した歴史博物館がありますが、福州市北郊の馬鞍村 金獅山の麓には彼の墓があります。平成 12 年には アメリカにある 「 林 則徐基金会 」 の企画により、 麻薬取締りの先駆者 であった林 則徐の銅像が、 ニューヨーク市内に新しく建てられました。
「 植民地を設けるという意味での帝国主義は、何世紀にもわたって ヨーロッパの国々がよくやってきていたことであった。大砲と軍艦を持ち、 規律と組織性に優れた ヨーロッパ人は、つねに 非 ヨーロッパ人種を屈服させる ことが出来たのである。」、 ( 歴史はどう教えられているか 、NHK BOOKs から )。と書かれていましたが、そこには日本のように過去の植民地支配に対する、 自虐史観や贖罪意識 などは全く存在せず、ヨーロッパの白人種が強く、優れていたからこそ 有色人種 を植民地支配できたのだとしていました。 さらに言えば第 2 次大戦終了までの国際法では、植民地支配が 違法ではなかったからであり 、 合法的行為について謝罪や贖罪などする必要がなかったからでした。反日左翼主義史観がはびこる日本も、この点を見習うべきだと思いました。 いずれの国の歴史にも 光と影の部分 がありますが、国の将来を背負う子供には、イギリスに限らず、中国・韓国も自国の歴史について 光の部分だけを、しかも 誇張 して 教えていました。 大ウソが書かれている韓国の歴史教科書について詳しく知りたい人は、ここをクリック、戻るには ブラウザの戻り ボタンを使用。
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