電気椅子
[ 1:電気椅子の実物 ]
電気椅子の実物を見た人は日本では滅多にいないと思いますが、私は 30 年近く前に外国の刑務所で本物を見る機会がありました。それについての体験を述べますが、死刑に関することは 「 サンデー毎日の記 」 の項目にある、 処刑について でも述べていますので参考にしてください。 昭和 50 年 ( 1975 年 ) 頃のこと、チャーター便の運航で名古屋から フィリピンの首都 マニラに団体客を運び、現地で 2 泊したことがありました。到着の翌日は予定が無かったので、Cockpit Crew ( 操縦室の乗員 ) 3 名で タクシーを昼間借り切って、マニラ郊外の観光をすることにしました。ホテルの接客係り女性 マネージャーで顔見知りの ヴェロニカ ( Veronica ) に相談したところ、「 タクシーは信用できないから私の車を使え、運転手込みで 1 日 30 ドルで貸すから 」 という話でした。 30 ドル ( 当時 7,800 円 ) とは フィリピンの物価からすればかなり高額でしたが、3 人で割れば大した金額ではないし、その頃から フィリピンの治安には問題があり、タクシー運転手の中には走行中に ピストル強盗に変身する者がいたので、特定の会社の タクシー以外は要注意でした。そこで ヴェロニカが奨めた方法に決めましたが、ホテルの ボーイが運転手になり彼女の車で マニラ郊外の観光をすることになりました。 勤務時間中の ボーイの内職といい、ヴェロニカの レンタカー の副業といい、何事にも ルーズな、いかにも フィリピン人らしい方法でした。 見物場所のひとつに敗戦後多くの日本人戦犯が収容され処刑された、モンテンルパ刑務所も訪れたいことを彼女に告げると、刑務所に電話をしておくから、見学は ノー ・ プロブレム ( 問題ない ) と言いました。
[ 2:ニュー ・ ビリビッド刑務所 ]マニラから南に 30 キロ、車では 40 分のところに モンテンルパ市がありますが、そこには ニュー ・ ビリビッド ( New Bilibid ) 刑務所があります。日本では モンテンルパ刑務所と呼んでいますが、正式名称は ニュー ・ ビリビッド刑務所です。刑務所の正門から中に入ると驚いたことに構内の広場は、刑務所内での生活に必要な沢山の品物を売る市場のような状態でした。ボーイの話によれば刑務所が受刑者に支給する食事の質が悪いので、 多くの囚人は所内で自炊する とのことでしたが、刑務所内での自炊とはそれまで想像もしていませんでした。刑期の比較的短い者が仲間に頼まれて監房から自由に買い物に出て来ては、米、副食の肉、野菜、調味料、燃料などを買って帰り、監房内や通路で朝、夕の 2 回炊事をするのだそうです。 昼食には朝の残り物を食べる程度で、カネが無い囚人は仲間の衣類の洗濯や炊事の仕事をして、食事を分けて貰う仕組みとのことでした。囚人は逃亡しないのかと聞くと、逃げると罪が重くなるので刑期の短い者は逃げないとのことでした。 刑務所内には江戸時代の牢名主のように、 プリズン ・ ギャング ( Prison Gang )や メイヤー( Mayor、市長 )がいて囚人達を支配し、彼等から場所代 (?) を徴収して刑務所内で贅沢な暮らしをしているのだそうです。更に刑務所の中で服役しながら何人も子供を産み、育てている女囚もいるとのことでした。フィリピンの刑務所では、カネさえ出せば何でも入手できるのだそうです。 ヴェロニカから話を聞いていたらしく、ボーイが我々に電気椅子を見たいのかと尋ねたので見たいと答えると、車で刑務所の裏門に連れて行きました。
注:)バングラデシュの刑務所これと似たようなものに バングラデシュの刑務所があります。バングラデシュの刑務所には 3 種類あって、 ファースト ・ クラスの刑務所では広い部屋にテレビも新聞もあり、秘書までもいる のだそうです。食事はなんでも望みの料理が与えられ、更に女性が必要になれば、隣の独房で「 楽しいひととき 」 が過ごせるのだそうです。なぜそんなに待遇を良くするのかといえば、ここに入所するのは主に野党の政治犯 ( 政治家 ) で、政権が交代すれば次は与党の自分たちも入所する可能性があるので (?)、反対派の政治犯を優遇して保険を掛けておくのだそうです。
[ 3:電気椅子の見物 ]裏門の所で駐車しましたが ボーイはそのまま車に残り、銃で武装した 2 人の警備員に ボーイから教えられた通りに、各人が入場料 (?)として 5 ドル ( 当時 1,300 円 ) ずつ渡すと、門の内側に入れてくれました。警備員の 1 人が私達を案内して死刑囚の独房が並ぶ前の通路を通り、電気椅子のある部屋に行きましたが、そこにも更に 1 人の男 ( 看守 ) がいました。彼にも教えられていた通りに各人が 5 ドルづつ説明料を渡すと、処刑担当者の彼が電気椅子やそれによる処刑方法について、タガログ語 ( フィリピノ語 ) なまりの強い英語で説明してくれました。つまり警備員達は外国から訪れた少人数の観光客に対して、内緒で電気椅子を見せることに依り臨時の収入を得ていたのでした。ホテルで ヴェロニカが刑務所に電話をしておくといったのは、その連絡だったのかも知れません。その当時フィリピン航空の女性従業員( 地上職 ) の日給が 300 円といわれていたので、1 人当たり 15 ドル ( 当時 3,900 円 ) の金額は、刑務所の警備員や看守にとっては、かなりの高収入でした。
注:)給与水準
両側に死刑囚の独房が並ぶ通路を通る際に中に人の気配を感じたので、刑の執行を待つ囚人がいたのかも知れません。なお敗戦後に山下奉文 ( ともゆき ) 大将、本間雅晴 ( まさはる ) 中将を初め、戦犯裁判で絞首刑や銃殺刑の宣告を受けた人達も、暫くはここの独房に収容されていたことと想像しましたが、勝者が敗者を裁く復讐裁判の犠牲になった方々は、まことにお気の毒なことでした。 兵士が犯した残虐行為について、司令官に責任を課した戦犯裁判の 法理が正しいのであれば 、ベトナム戦争における ソンミ村の大虐殺 の責任を、同じ法理から当時の ベトナム援助軍司令官の ウエストモーランド将軍も当然負わなければなりません。 法の客観性と公平性そして正義の 観点から、彼は米国の軍事裁判所で当然裁かれるべきでした。 しかし米国は自分達に都合が悪くなると、司令官の責任を不問にしました。米国が得意とする他人 ( 他国 ) には厳しく、自国民 ( 自国 ) には優しい 法解釈、道徳、倫理の ダブル・スタンダード ( 二重基準 ) からでした。
[ 4:電気椅子に必要な装置、道具 ]マニラ郊外の観光では モンテンルパ刑務所の他にも、パグサンハンの川下りなども予定していたため、水に濡れるので カメラは持参しませんでした。電気椅子の写真については、米国南部の フロリダ州の州都 タラハシーにある矯正局 ( Department of Corrections ) が注文して作らせた椅子の完成を、1999 年 6 月に メディアに紹介した Press Release があったのでそれを コピーしたものですが、意図的に椅子の電気関係の装置を取り除いた状態で写していました。
ニュー ・ ビリビッドの椅子はこれと似たような作りでしたが、脚は 3 本足ではなく 4 本足で頑丈な樫 ( かし ) の材質で作られていました。実物を見ながら看守の説明を聞いた私の知識を基にすれば、国により多少の違いはあるものの、電気椅子で処刑するには写真にある椅子だけでなく、以下の装置、道具が必要になります。
フィリピンでは昭和 52 年 ( 1977 年 ) 以後死刑の執行が中止され、しばらくの間死刑廃止のような状態が続きましたが、平成 6 年 ( 1994 年 ) になると治安回復を重視する ラモス大統領が死刑を復活させ、それ以来 7 人が処刑されました。しかし平成 18 年 6 月 24 日に敬虔な カトリック教徒の アロヨ大統領( 女性 ) が、死刑廃止法案に署名したため、フィリピでは死刑が廃止されました。これにより長い間死刑執行待ちをしていた、死刑囚 1,200 人が執行を免れました。
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