処刑について

[ 1 : イギリス、キッド船長 ]

イギリスでは古くから絞首刑は主に身分の低い庶民階級の者に対しておこなわれ、断頭 ( 打ち首 ) の刑は 名誉ある死に方 として貴族階級など身分の高い者に対して、 その光輝に満ちた生涯にふさわしい 特権 として与えられました。

処刑ドック

海賊については ロンドン塔から テムズ川の下流へ約 1 マイル( 1.6 キロ ) の所にあった 処刑 ドック ( Execution Dock ) において、絞首刑になるものと長年決まっていました。かつては絞首台や遺体を吊り下げる柱が立っていたのが、左の写真のこの場所です。

キッド船長の姿

16 世紀後半に始まった イギリスと スペインとの海上覇権抗争の時代に、 私掠船 ( Privateer、注参照 ) の船長をしていた ウイリアム ・ キッド ( 1645 頃~1701 年 ) がいましたが、彼は私掠船による財宝の掠奪に味を占めた結果、後に本物の海賊に鞍替えしてしまいした。

そこで キッドに多額の賞金が掛けられた為に部下に裏切られ、ニューヨークで逮捕されて ロンドンに護送されました。キッド船長のような有名な海賊ともなると絞首刑だけでは済まされず、付加刑として死体を鉄製の カゴに入れて鎖で吊るし、何年間も テムズ川を航行する船乗りたちへの見せしめにしました。

晒し首

遺体に腐敗防止用の コールタールをたっぷり塗ると、鳥も カゴの中身を 「 ついばみ 」 に来ないのだそうです。処刑後の遺体については多くの場合は遺族に引き渡されて埋葬されましたが、重罪犯人の場合には首が ロンドン ・ ブリッジの詰所の屋上で 「 さらし首 」 にされました。

注:)
私掠船とはイギリス国王が武装した民間船にも、交戦国 ( スペイン ・ フランス )の商船を捕獲し積荷や財宝の略奪を許可したものですが、戦利品を国王と山分けすることを条件に 私掠免許 を発行しました。つまり イギリス国王が海賊行為からあがる利益の、 ピンはね をしたわけです。私掠船や海賊船にとって カリブ海が主な活躍の舞台になりましたが、海賊が財宝を隠したとされる宝島伝説が カリブ海に多いのも、その為でした。


[ 2 : ヘンリー 8 世 ]

ダイアナと離婚した チャールズ皇太子が、不倫相手の カミラ ( 57 才 ) と再婚することを英国民はあまり祝福しませんでしたが、英国の歴史を見ると国王の不行跡、王位継承にからむ血塗られた抗争があったことに気付きます。

ヘンリー八世肖像 

クイーン・エリザベス 1 世( 1533~1603 年 ) は 1588 年に、当時世界最強を誇った スペインの無敵艦隊 ( Armada Invencible ) を打ち破り大英帝国発展の基礎を築きましたが、彼女の父親であった ヘンリー 8 世 ( 1491~1547 年 ) は 無類の好色家でした

1509 年に スペインの王女 カザリンと結婚し、2 人の間に エリザベス 1 世が生まれました。ところが ヘンリー 8 世は娘の侍女であった 「 アン・ブリーン 」 が好きになり、彼女と結婚するために ローマ法王 クレメンス 7 世に カザリンとの離婚の許可を求めました。離婚を認めない カトリック教会では、法王も彼の行為を不道徳とみなして求めを拒否しました。 ヘンリー 8 世はこれを不服として イギリス教会を ローマ ・ カトリック教会から独立させ、 英国教会派 ( Anglican Church ) を設立しました。そして1533 年に カザリンを離婚し、年若い アン・ブリーンと目出度く結婚しました。

これで済めば良かったのですが、好色家の ヘンリー 8 世は 3 年後には アン・ブリーンに飽きてしまいました。今度は ジェームス ・ シームア という女性が好きになり、結婚するのに邪魔になった アン ・ ブリーンに、姦通の罪を着せて ロンドン塔内の処刑場で断頭刑にしてしまいました。結局へンリー 8 世は生涯で 6 人の女性と結婚し、離婚 2 回、2 人を処刑し、1人 は病死しました。

5 人目の王妃になった キャサリン ・ ハワード は 18 才で 49 才のヘンリー 8 世と結婚しましたが、彼女も後に姦通の罪で ロンドン塔へ処刑の為に送られました。

断頭台

キャサリンは処刑の前に王妃の地位を剥奪されましたが、元王妃らしく尊厳を保ちつつ死ぬために、 断頭台( ブロック、Block ) を監禁されていた クインーズ ・ ハウスの部屋に運ばせました。 たった 1 度の行為 の際には落ち着いた態度で臨みたいと、断頭台への 首の置き方 を実際に練習しましたが、処刑に臨む立派な心掛けと、元王妃としての プライドに満ちた最期でした。ちなみにヘンリー 8 世は 54 才で死亡しましたが、死因は性病の慢性梅毒でした。


[ 3 : 九日間の女王 ]

ジェーン。グレイ

右の画像は キャサリンの処刑 シーンではなく、 僅か 9 日間だけ イギリス女王の地位に付いた 悲劇の レディ- ・ ジェーン ・ グレ- です( レディーは尊称 )。彼女は王位を狙う魔女のような醜い顔を持つ、 メアリー 1 世 により女王の地位を奪われ処刑されましたが、僅か 16 才でした。カトリック教徒の メアリー 1 世は プロテスタントを弾圧し処刑したので、 血まみれ ( Bloody ) メアリー と呼ばれるようになりました。

絵では牢獄内の様子を描いていますが、実際は ロンドン塔の城郭内の処刑場である屋外の タワー ・ グリーン ( Tower Green ) で処刑されました。斧を手にして立つ死刑執行人 ( Headsman )の姿、目隠しされた ジェーン に断頭台の位置を教える聖職者、台の下に敷いてある血を吸収させる麦 ワラ と迫力に満ちた絵画です。

前述したヘンリー 8 世の娘の エリザベス 1 世 ( 後の女王 ) は、子供の頃から父親から謀反の疑いを掛けられて、何度も ロンドン塔に幽閉されましたが、父親の行状を嫌悪し生涯を独身で過ごしました。バージン ・ クイーンとも呼ばれ、当時 イギリスの植民地だった米国の バージニア州は、そこから名付けられましたが、彼女について バージンであると信じた当時の政治家は誰もいませんでした。へたな男と結婚して政治抗争を起こすよりも多数の情人を作り、外国との交渉も結婚話をちらつかせて交渉をうまく進めたとする見方もありました。

[ 4 : 首を切る方法 ]

グレイ

昔 ロンドン塔を訪れた際に ホワイト ・ タワー の地下室で、斧の刃が食い込んだ跡が残る断頭台 ( Block ) と斧を見たことがありましたが、当時の ヨ-ロッパにおける首切りの方法とは、日本のようにを使用した国は、フランス ・ イタリア ・ スペインでした。

ロシア ・ ドイツと並び イギリスでは前述の如く貴族階級に限りが用いられましたが、首を 「 切る 」 というよりも 「 ブッタ切る 」という表現がより適当な方法でした。左の絵は ジェーン ・ グレイの処刑の様子ですが、前掲の絵と比べると受ける印象には雲泥の差がありました。

ロンドン塔空中撮影

ロンドン塔の城郭内には タワー ・ グリーン ( Tower Green )と呼ばれた処刑場があり、王族や王妃などの処刑がおこなわれましたが、写真は ロンドン塔の空撮写真で、「1」は タワー ・ グリーン、「2」は ホワイト ・ タワー、「3」は観光客などの出入口、「4」は南側を流れる テムズ川、「5」は川面に映る ロンドン ・ ブリッジの影です。テムズ川の水は環境保護に熱心な国にしては、意外なことに東京の墨田川よりも汚れていました。

ついでに言うと ヨハン ・ シュトラウス作曲の有名な ワルツ 「 美しき青き ドナウ 」 は、彼の願望を曲名にしたのであり、実際には ドイツから多くの国々を通り黒海に注ぐため、 青いどころか泥色に汚れた 水の流れでした。

昔は城郭外の西に タワー ・ ヒル ( Tower Hill )の処刑場があって、ここでの処刑は一般に公開されていました。高貴な方の場合は処刑に際して短い演説を観衆にしたうえで、死刑執行人に チップ ( 17世紀当時の相場で、7~10 ポンド ) を与え 「 汝の罪を許す 」 と言うのが、処刑に際しての マナー でした。なお日本の しきたり同様に受刑者の衣服は、絞首執行人( Hangman )や斬首執行人( Headsman )の役得でした。

そういえば日本の正式な切腹の作法にも、 「 介錯人の姓名をお尋ね申す 」 と介錯する相手に名前を尋ねる作法がありました。この期 ( ご ) に及んで介錯人の名前など聞いても無意味なはずですが、 切腹という行為が一種の儀式 である以上は形式を重んじたのでしょう。

[ 5 : 綱引き ]

ところで日本の刑務所では今でも死刑執行のことを、 死刑式 と言うそうですが、であるならば式の主役である死刑囚に、 事前に式の日取りや開始時間 を教えるのが当然だと思います。

昭和20年代に大阪刑務所長を務めた玉井所長の著書によれば、その当時は処刑の 3 日前に本人や家族に知らせて最後の面会の機会を与え、死刑囚同士とのお別れの茶会や句会を開いていました。しかし現在では執行当日の午前 10 時にいきなり死刑囚に お迎え を告げて、その場から直ぐに絞首刑場に連れ出す方法を採っています。

死刑の執行は午前中で終わりますが、執行に従事した人には執行手当として 5 千円前後と、「 お清め 」 の酒として 2 合瓶が配られるのだそうです。執行前に死刑囚が皮肉たっぷりに詠んだ 辞世の句 があります。

綱引きや、今日は嬉しい祝い酒
絞首刑

綱とは首に絞首索を掛けられた死刑囚が立つ踏み板を外すレバーに結ばれた綱のことですが、当日の勤務はそれで終了するものの通常より早く帰宅すると家族に怪しまれるので、5 千円で映画を見たり パチンコなどをして、時間をつぶしてから帰り、夜は 支給された清めの酒 を飲んで処刑の ストレスを解消させるのだそうです。

写真は中東の産油国 クウェートにおける絞首刑の様子ですが、死刑囚の逃走を防ぐために両足に付けられていた足の鎖が見えます。絞首索の支点 ( 結び目 ) を首の真後ろではなく左耳付近にすることにより、落下後は上手にいけば頸椎骨折で即死するか、または頸動脈狭窄による脳への血流遮断により20 秒以内に意識を失います。

たみ は之 これ に由 らしむべし、知らしむべからず ( 論語 泰伯
という方針から法務省はつい最近まで、死刑の執行があったことさえも国民には内緒にしてきましたが、 シンガポールでは新聞の朝刊に、当日処刑される者の氏名が顔写真入りで掲載されます。

前述の如く断頭にはを使う国がありましたが、日本とは異なり受刑者は首を立てた状態にして処刑されました。つまり執行人は刀を振り下ろすのではなく、 水平に払う 方法により断首しました。

刀での首切り

「 もう時間です。首斬り役人が待っております、目を天にお向けなさいませ 」。「 これはまた、ご立派で有益な忠告、感謝するぞ。おまえの言う通り目を天に向けていると、首斬り役人が後ろからこの首をかすめ取るというわけだな。うまい手だ 」 ( シリル ・ ターナー、復讐者の悲劇 )

タワー・グリーン


前述の ジェーン・グレイ、キャサリン、ヘンリー 6 世、エドワード 5 世、トーマス ・ モアなど 7 名が断頭の刑に処せられた ロンドン塔内の処刑場 ( タワー グリーン ) は、芝生の中に 2 メートル 四方を鎖に囲まれて標識がありました。断頭台をここに置き受刑者はひざまずいて台の上に首を乗せ、死刑執行人による斧の一撃を受けました。首が打ち落とされると執行人はそれを拾い上げて高々と示し、

Behold the head of a Traitor !、( 見よ、反逆者の首を )
と大声で叫ぶのが慣例だったそうです。背後の建物は セント ・ ピーター ・ アド ・ ビンキュラ教会 ( 獄につながれた、聖 ペテロに捧げられた教会、Saint Peter ad Vincula Church ) で、ここで処刑された者が埋葬されています。ところで日本でも公式な切腹の際には、打ち落とした首を介錯人が拾い上げて 「 立ち合い人 」 に向けて示し、彼の 「 見届けた 」 という言葉を得ていました。

[ 6 : フランス ]

フランスといえば言わずと知れた ギロチン ( Guillotine ) の国ですが、斧や刀で首を切り落とす従来の方法は死刑執行人の技量や死刑囚の恐怖心の為に失敗が付き物でした。吉良邸に討ち入った赤穂浪士の四十七士が切腹した際も、関ヶ原の合戦以降百年続いた天下太平の世の為に、介錯人の技量低下と経験不足から手元が狂って切腹人の頭や肩に刀が食い込み、2 度、3 度刀を振るいようやく首を切り落とした記録がありました。

ギロチン

フランスでは医師の ギヨタン ( Guillotin、1738~1814 年 )の提案により、

  1. 受刑者の苦痛を減らすという 人間性の観点から。

  2. 身分制度に基づく処刑方法の違いを改める 平等の原則 により。

ギロチンを処刑道具として 1792 年に採用しました。右の絵は フランス革命当時の様子で、ギロチンの前 カゴから切り落とされた直後の、血の滴たる首を拾い挙げて観客に示していました。

ブレスト像

フランス革命の際には 失敗が無くしかも効率的なこの装置 が大活躍して、毎日数百人が処刑されました。パリの コンコルド広場の片隅には プレスト ( Brest ) の石像がありますが、フランス革命当時はここに ギロチンが設置されていて、バスティーユや サンテ監獄から荷馬車に乗せられて運ばれてきた死刑囚、 約 1,200 人がここで処刑されました。なお フランスでは昭和 56 年 ( 1981 年 )に死刑が廃止されるまで、ギロチンの使用が継続されました。

ギロチン-1

その昔見た フランス映画の ラストシーンでは殺人犯人が ギロチンで処刑される場面がありましたが、それを今でも覚えています。いよいよ死刑執行の直前になると 慈悲の杯 ( A cup of charity ) として、1 杯の ワインか、タバコが与えられることになりました。彼は タバコを希望して 1 本目を吸い終わり、2 本目を要求すると刑務官に拒否されました。

刑務官の 1 人が大きい 「 ハサミ 」 を持って男に近づき、ワイシャツの襟の部分を大きく切り取り、丁度丸首 シャツのような形になりました。ちなみに日本で切腹の際に着る着物も、 後ろ襟を縫い込んで低くして 、首を打ち易い様にしてあったそうです。

隣室との境の カーテンが開けられると ギロチンが見えました。すると台車が死刑囚の前に立てられて、立つたままの彼を台車に ベルトで固定しました。台車を前に倒すと彼の身体はうつ伏せ状態になり、台車を押して ギロチンの位置に運びました。「 死ぬのは嫌だよ-、止めてくれ- 」 と泣き叫ぶ死刑囚の身体を定位置に セットし首を ギロチン基部の丸い穴 ( 首かせ ) に入れて固定すると、やがて落下音がして泣き声が ピタリと止みました。

[ 7 : サウジ アラビア ]

サウジ ・ アラビアの ジッダ ( Jiddah )、ダーラン ( Daharan )、首都の リヤド ( Riyadh )では、斬首の公開処刑が現在も広場でおこなわれているのをご存じですか?。かつて アメリカの雑誌に 「 ライフ 」 がありましたが、写真が大部分で記事が少ない フォト ・ ジャーナリズム ( Photo Journalism ) の草分け的雑誌でした。

ある時その雑誌に ジッダでの斬首の写真が掲載されましたが、処刑されたのは姦通罪を犯した女性で、後ろ手に縛られ目隠しをされて地面に膝を着いて座らされていました。この写真は男性のものですが、強姦 ・ 強盗 ・ 殺人を犯した死刑囚を、首都の リヤド ( Riyadh ) の広場で公開斬首した瞬間のものです。

日本では江戸時代から明治 8 年 ( 1875 年 ) まで続いた江戸小伝馬町 ( 現中央区 ) の牢屋敷には、先祖代々淺右衛門を名乗り首切り役人 ( 同心 ) を務める 山田淺右衛門 がいましたが、切り場 ( 処刑場 ) で泣き叫び暴れる往生際の悪い罪人や、亀の様に首を縮める死刑囚の斬首には、それ相当の経験と技術が必要だったからでした。サウジでも死刑執行人は世襲の職業であり、処刑に際しては長い刀で首の座にいる死刑囚の足や尻を軽く突いて痛みに注意を向けさせておき、隙をみて刀を振り下ろし首を切り落としたのでした。

記録によれば 2005 年に サウジ ・ アラビアでは 男 88 名、女 2 名が斬首刑 に処されていますが、最近では処刑前に精神安定剤の注射を打つなどして 半眠りの状態 にして打ち首の恐怖をやわらげ、処刑後には切断された首を再び縫い合わせて埋葬するなど死刑囚の人権 ( ? ) に配慮しているのだそうです。厳格な イスラム法に則り日本では戦後廃止された姦通罪の他にも、麻薬密輸、殺人、武装強盗などが斬首の罪に該当します。

[ 8 : 死刑大国の中国 ]

以下には残酷な画像があり、嫌悪感を与える恐れがあるので、それを承知の上で、見たい人だけがここをクリックすること。

中国では今も公開処刑がおこなわれていて、西安を旅行した日本の ビジネス ・ マンによれば、トラックに乗せられた 4 ~5 人の死刑囚が 「 市中引き回し 」 をされるのを見たとのことでした。死刑囚はその後見物客が待つ競技場に運ばれ、銃殺されたのだそうです。リンクの写真では単発の ピストルによる執行ではなく自動小銃の連射のため、頭の半分が吹き飛んでいました。中国の法律によれば死刑の執行場所については 何の規定もなく 、罪状や状況に応じて 2 審の死刑判決直後に法廷から囚人を連れ出して、競技場、河原、空き地、野原などで適当に処刑するのだそうです。

銃殺される囚人

この写真の死刑囚達は後ろ手錠をはめられ地面に両膝を着き既に処刑される姿勢にありますが、他の役人連中が談笑しているのに対して、カーキ色の半袖 シャツを着た右側 2 人は緊張した顔をしています。彼らは処刑担当者で間もなく中国伝統の方法に従い、後方の至近距離から ピストルで後頭部を撃つ ことにより死刑を執行します。

この銃殺方法によっては恐らく即死には至りませんが、ケネディー大統領の時と同様に意識が無くても、10数分程度は生きているはずで、それには後述する新鮮な臓器売買の 「 メリット 」 がありました。検死官が処刑に立ち会い遺体の頭部に生じた弾丸の射入口や前方の射出口に指を入れて、傷の深さを測るのだそうですが、写真の処刑も現場付近や遠くに一般人の姿が見えるので、死刑が公開されていました。

悪名高い死刑大国の中国は国際的批判を意識してか、最高人民法院は 2004 年 3 月の全国人民代表大会で、初めて年次 ペ-スでの死刑判決確定数を公表しました。それによれば、2003 年には 182 件 (?)の死刑判決が確定したとのことですが、刑の執行状況などは不明のままでした。

国際人権組織 アムネスティー ・ インターナショナルが毎年発表する死刑に関する報告を引用しますと、中国では 2001 年には少なくとも 4,015 人が死刑判決を受け、2,468 人が処刑されました が、公式発表とは大きな違いがあります。

中国における死刑判決数は毎年 3千~4 千人とする資料がありますが、人口が約 10 分の 1 の日本に当てはめるとすると、毎年3百~4百人が死刑判決を受けることになります。

昔から治安維持の安定した社会を経験したことがない 犯罪大国の中国 では、他国民と比べて死刑に対する考え方にも大きな差があります。中国科学院が 95 年に実施した死刑に関する聞き取り調査 ( 5,006 人を対象 )では、現行の死刑執行件数を 「 多い 」と感じた回答は僅か 3 パーセントで、逆に死刑の適用拡大を求める回答が 23 パーセントに達するなど、圧倒的多数が死刑の現状を肯定していました。

[ 9 : 死刑囚からの臓器移植 ]

中国では死刑囚から執行直後に臓器が摘出され、移植に使われるのをご存じですか?。国外から疑惑が浮上していた 死刑囚から摘出した臓器の 「 利用、つまり売買 」 についても、中国政府はその具体的な状況を秘密扱いにしています。

香港の雑誌 「 九十年代 」 1993 年 2 月号によれば、医療制度改革によって独立採算制となった広東省の病院が、最も高い効率を求めて死刑囚の臓器移植を手がける実態を暴露し、公安部門から通報があれば救急車で医師が処刑場に急行し、腎臓、肝臓、角膜を取り出す様子を伝えていました。その後も米側で移植にかかわった中国人医師らの証言が伝えられていましたが、中国当局は少なくとも本人、家族の承諾のない臓器利用については全面的に否定していました。しかし例によって、中国政府の説明を信じる人はごく少数です。

平成 17 年12 月 31 日付の読売新聞によれば、

2004 年、2005 年の 2 年間で 108 名の日本人 が中国で腎臓や肝臓の移植手術をうけていたが、その背景には日本国内の深刻なドナー( 提供者 ) 不足がある。

中国では最近の 1 年間に 腎臓移植約 6,500 件、肝臓移植約 3,000 件が実施されたが、ドナー( 提供者 ) の約 9 割を死刑囚が占める ほか、公平な臓器配分制度が確立されておらず、人権、法整備面の不透明さも大きい。費用は腎臓移植が約 600 万円、肝臓移植が 1,300 万円であり、米国に比べ大幅に安い ( 約 10 分の 1 以下 )といわれている。

とありました。米国に移住した中国人医師の話によれば、砂 ホコリの舞う処刑現場で銃殺直後の死刑囚から臓器を取り出し、移植のために病院に運んだことがあったそうです。若くて新鮮な臓器が死刑囚から毎年何千人分も提供されますが、そこには例によって巨額の カネが裏で流れ、 司法当局、公安、共産党幹部、地方政府の役人などの 「 ふところ 」 が潤う仕組みなのだそうです。

[ 10 : タイ ]

機関銃殺

処刑に銃殺の方法を採用する国は現在世界で 69 箇国ありますが、タイもその内のひとつです。タイの処刑方法が他の国と異なるのは、射手 1名が 自動小銃 で射撃することです。死刑囚の後方 4 メートルのところから死刑囚の心臓に向けて、背後から連続して15 発の弾丸を自動発射します。この方法により銃殺された者は 2002 年には 6 名、2003 年は 4 名でしたが、その殆どが麻薬密輸犯でした。

[ 11 : イラクの誘拐と、身代金 ]

2003 年の イラク占領開始以来、これまで 4 百名以上の外国人 が誘拐の被害に遭遇していますが、メディアの注目がもっぱら外国人被害者に注がれることから、外国人が特に ターゲットとなる傾向にあります。イラクにおける外国人誘拐には主に 3 つに分類できますが、 1 つは 身代金目的 のもの、2つ目は 政治目的 ( 占領政策の中止、復興事業の妨害 ) によるもの、3つ目はその 複合型 です。2006 年 1 月現在で、依然として 40 名の外国人誘拐被害者の所在が不明のままです。

日本人の中にも日本政府の渡航中止勧告を無視して イラクに行った無分別な者がいて、イスラム反政府武装組織に誘拐されました。ビデオカメラの前で 「 自衛隊の イラクからの撤退 」 を求める宣伝に利用され、 日本の留守家族の中には共産党、社民党の組織と共同して、派手な 反政府、反自衛隊宣伝活動に従事した バカ者 もいました

後に日本政府が仲介者を通じて 高額の身代金 を支払い無事に解放されましたが、自己責任も負えずに政府に「 尻ぬぐい 」 させておきながら、 政府、国民への謝罪は全くありませんでした

政府は身代金の支払いを否定していますが、現地の事情に詳しい人によれば、イラクでは誘拐は ありふれた ビジネス であり、他の外国人の人質が解放された例を見るまでもなく、 身代金の支払い無しに人質の解放などあり得ない 。日本人ならば 1 人につき、少なくても 100万 ドル ( 1億円 ) 以上支払ったはずだと述べました。

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以下には残酷な画像があり、嫌悪感を与える恐れがあるので、 それを承知の上で、見たい人だけが ここをクリックすること。

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