装身具考
これまで パソコンの ハードディスク や C P U の冷却 ファンを交換し、メモリ の容量を 3 倍に増設しながら 7 年間 使用してきた ウインドウズ X P が、今朝から突然 スタートできなくなりました。苦労して使用できるようにしたものの 近いうちに また壊れそうな不吉な予感がしたので、隔月の 21 日前後に予定していた随筆の定期更新を 10 日も繰り上げて、本日 ( 5 月 11 日 ) 急いで更新することにしました。
[ 1: 動物と人間の違い ]類人猿を含む他の動物と人間との大きな違いは、 自分自身を 別の道具 で飾る こと、つまり 装飾文化の有無 にある といわれています。
道具を使用して木の穴にいる虫を捕食する鳥や、石を使用して堅い 木の実を割る 南米の 猿 がいても、 道具を使用して自分を飾る動物 はこれまで世界で発見されていません。 写真は フサオマキザル ( 房 尾巻猿、Cebus apella ) が堅い木の実の中味を食べるために、石で実を割る様子と、 フィンチ ( Finch bird ) が小枝を使用して穴から虫を追い出して、食べようとしているところです。
装身具 ( アクセサリー ) の定義によれば、それは 広義の 衣装 に含まれますが、一般には身体に まとう 衣服 や 履き物 以外の もの を指します。 装身具の起源については、狩猟採集をしながら自然の中で暮らしていた古代人たちが、家族や仲間に病気 ・ 災難 ・ 死をもたらす悪魔や、神の呪 ( のろ ) いに対して、あるいは落雷 ・ 暴風雨などの自然の脅威 ( きょうい ) ・ 災害に恐れを抱き、身を守るために 魔除けの 護符 ( ごふ、お守り ) として、 身体の開口部や弱い部分である 耳 ・ 頭 ・ 首 ・ 腕 ・ 指 などに装着したのが始まりといわれています。
左の写真は縄文時代 ・ 前期 ( 6 千 年前 〜 5 千 百年前 ) の耳飾りで、円形の 一部に切れ目がある 抉 ( けつ、正しい字は 左側が手へんではなく、 王へん ) 状耳飾り ( けつじょう みみかざり ) と呼ばれるものですが、耳飾りとしては最古の タイプです 。 装身具の材料には貴重な石や動物の 牙 ( きば ) などが使われましたが、それらが持つとされる 霊力 や牙に象徴される 強い力 を身に付けるためでした。 ( 1−2、古代人の移動 )
ある研究によれば 後期 ・ 旧石器時代 ( 約 3 万 年前 〜 1 万年前 ) は 「 最後の氷河期 」 の終わり頃であり、それまで大陸の地表が厚い氷 ( 氷河 ) に覆われていたために河川が海に流入せず、 氷河期 ( Ice Age ) の中でも最も寒冷な気候であった 氷期 ( Glacial ) においては、海面が現在よりも 50 〜130 メートル も低かった といわれています。
日本人の先祖に当たる人たちは ひぐま ・ えぞしか ・ 北きつね ・ えぞりす などと共に、 シベリア大陸から当時の陸でつながった部分や氷の上を歩いて サハリンとの間にある間宮海峡を渡り、北海道との間にある宗谷海峡を経由して北海道に到達しました。大陸から朝鮮半島を経由して対馬海峡を渡り、日本列島に到達した人たちもいましたが、いずれも後期 ・ 旧石器時代のことでした。 さらに別の人達も中国大陸南部や東南アジアから、沖縄や南西諸島経由で日本列島に移動し、狩猟採集生活をするようになりました。
その時代の遺跡のひとつである北海道 ・ 上磯郡 ・ 知内 ( しりうち ) 町 ・ 湯の里 ・ 第 4 遺跡からは、石に孔をあけた小玉などが出土して 国の重要文化財 に指定されていますが、先祖の人たちはその当時から装身具を作り身を飾っていました。
前述したように装身具の始まりは 魔除けの お守り のように 呪術的意味 から身に付けましたが、縄文時代の後期 ( 4,000 年前〜3,000 年前 ) から 晩期 ( 3,000 年前〜2,400 年前 ) にかけて埋葬された人骨の中には、両腕の上腕部 ( じょうわんぶ ) に 多数の 貝製の腕輪 を はめたものが出土しています。 それらは神に仕える巫女 ( みこ ) か シャーマン ( 後述 ) の部類ではないかと推測する学者もいましたが、上の写真にある手足を曲げた姿勢で 屈葬 ( くつそう ) された人骨は、両腕に多くの腕輪をはめていますが、岡山県 ・ 笠岡市の津雲 ( つくも ) 貝塚から出土した縄文時代後期のものです。
[ 2: シャーマン ( Shaman、呪術師 ) ]
洋の東西を問わず科学の未発達な時代には、人々が崇 ( あが ) める超自然的存在 ( 神霊 ・ 鬼神 ・ 悪霊 ) と交信し、種々の現象を起こすとされる呪術 ( じゅじゅつ ) が人間の生活と深く関わってきましたが、 シャーマン ( Shaman、注 : 参照 ) や部族の族長は 集団の中で みずからの地位を 誇示するために 種々の装飾物 を身に付け、あるいは祭祀 ( さいし ) に使う物具を所有しました。右の写真も両腕に腕輪 ・ 右手首にも腕輪を はめ 多数の首飾りをしていて、頭にも髪飾りをしています。
注 : ) シャーマン類似のものは インド ・ 北米先住民などにも存在し、日本では巫女 ( みこ ) ・ いたこ ( 東北地方 ) ・ 祈祷師 ( きとうし ) ・ ノ ロ ( 沖縄県 ) などと呼び、除霊 ・ 霊感 ・ 霊視 ・ 降霊による口寄 ( くちよ ) せ などをおこないます。
比叡山、高野山とともに日本 三大霊場に数えられるという青森県 ・ むつ市の恐山 ( おそれざん ) では、毎年 7 月 20 日〜24 日に例大祭がおこなわれ大勢の参拝客が訪れますが、恐山菩提寺 ( おそれざん ・ ぼだいじ ) の境内では 死亡した肉親の言葉を伝える という イタコの 「 口寄せ 」 を聞くために、早朝から希望者が列を作ります。
ご存じの中国の歴史書 魏志倭人伝 ( ぎし わじんでん ) には、 3 世紀における日本の政情 ・ 風俗などが記されていますが、それによると 邪馬台国 ( やまたいこく ) の女王卑弥呼 ( ひみこ ) について、
とありましたが、これを読むと卑弥呼は シャーマン だったのかもしれません 。 ところで天皇は 8 世紀の初頭に成立した 古事記 ( 712 年 ) ・ 日本書紀 ( 720 年 ) の神話 に基づく神の子孫として、 かつては政治的支配者であると共に、民族宗教である神道の最高継承者として平城京 ( 奈良 )・ 長岡京 ( 京都府向日市、長岡京市 ) ・ 平安京 ( 京都 ) の御所で宮中祭祀を司り現在まで 125 代 も続いています。
皇位継承に際しては 古代王権の シンボル であり、天皇としての正統性を示す しるし となる 祭具(?) の継承も同時におこなってきました。
[ 3 : 三種の神器 ]三種の神器 ( さんしゅの じんぎ ) という言葉をご存じでしょうか?。皇位継承の 「 しるし、象徴 」 として天皇家や先祖と関係の深い神宮に、代々伝えられている 三種の神宝 ( みくさの かんだから ) のことですが、それらは
神器はいろいろな経緯を経た後に、八咫 ( やた ) の鏡は伊勢の 皇大神宮 ( こうだいじんぐう、内宮 ) に御神体として祀られ、天叢雲剣 ( あめのむらくものつるぎ ) は名古屋の 熱田神宮 に祀られ、八尺瓊勾玉 ( やさかにの まがたま ) は皇居内 に安置されているそうですが、神器は最初から 三種ではありませんでした。 飛鳥時代の第 41 代 持統天皇 ( じとう、女帝、645〜702 年 ) の時に作られた神祇令 ( じんぎれい ) により、最初に 鏡と剣 の 二つが皇位の象徴である 神璽 ( しんじ、神器の総称の あまつ みしるし ) とされましたが、その後 平安時代 ( 794〜1192 年 ) になってからこれに 「 勾玉 」 ( まがたま ) が加わり、神器は 三つになりました。
ところで ある時民放の女子 アナが 放送で 「 ねったじんぐう 」 と繰り返していうのを聞きましたが、最初は意味が不明でした。そのうちに 熱田 ( あつた ) 神宮のことだと分かり、ようやく意味が通じましたが、地理上 ・ 歴史上の名称に対する 社会常識 が、大きく変化したのでしょうか ?。 私は関東地方の出身ですが、熱田神宮の正しい読み方ぐらいは小学生の頃から知っていました。( 3−2、神器の継承方法 )
前述の如く天皇家においては 千 年以上もの間、皇位の継承に際して 「 三種の神器 」 の継承がおこなわれてきましたが、 敗戦後の皇室典範では第 4 条に、
天皇が崩 ( ほう ) じたときは、皇嗣 ( こうし、天皇の後継ぎ ) が直ちに即位するとあるだけで、旧 皇室典範 10 条にあった
皇嗣即ち践祚 ( せんそ、天皇の地位を受け継ぐ ) し、祖宗 ( そそう、先祖代々の天皇 ) の神器を承 ( う ) くという神器に関する規定は削除されました。更に敗戦後の皇室経済法第 7 条によると、
皇位とともに伝わるべき 由緒 ( ゆいしょ、いわれ来歴 )ある物は 、皇位とともに、皇嗣が、これを受けると記され、皇室関係の法規からは 神器という文言はすべて消去され 、 「 由緒ある物 」 に名称変更されました。
昭和 64 年 ( 1989 年 ) 1 月 7 日午前 6 時 33 分に昭和天皇が崩御 ( ほうぎょ、死亡 ) されると、皇太子が同日の午前 10 時から 剣璽等承継の儀 ( けんじとう しょうけいの ぎ ) をおこない正式に皇位を継ぎましたが、その様子が全国に テレビ中継され、翌 1 月 8 日には年号が昭和 64 年から平成 元年に変わりました。
写真に見える右側の職員が捧げ持つ箱入りの 剣 ( つるぎ ) と、左の職員が捧げ持つ箱に納められた 曲玉 ( まがたま、勾玉 ) を白木の机の上に安置することにより、 三種の神器のうちの 二つが 、次の皇位に就く 現天皇 に受け継がれました。 ところで熱田神宮の御神体である草薙剣 ( くさなぎの つるぎ ) と、皇居の奥深くに収蔵され皇位継承の儀式だけに使う神器の剣とは、どちらが本物でどちらが レプリカ ( Replica 、複製品 ) なのでしょうか ?。
[ 4: 盗まれ、失われた神器 ]( 4−1、見てはならない神器 )
天皇の 正統性 にとって究極の拠り所である神器を見た者など、現天皇や宮内庁職員 ・ 伊勢 ・ 熱田神宮の神職を含めていないといわれていますが、明治天皇だけは例外でした。明治元年 ( 1868 年 ) に京都から東京へ向かう遷都の旅の途中で伊勢神宮に参拝した際に、内宮正殿にある神器の入れ物である [ 御樋代 ( みひしろ ) ] を開けて、前述した 八咫 ( やた ) の鏡を見たとされます。 ある宗教学者によれば平安時代の記録を基に伊勢神宮にある 八咫 ( やた ) の鏡とは、直径 49 センチメートル以内のおそらく円鏡であると推定しました。 ついでに言えば日本の長い歴史の中で最も大切な神器が時には盗まれ、あるいは海中に沈み、火事で焼失したこともありました。 では神器が無ければ天皇に即位できないのかといえばそうではなく、 神器が 無かった にもかかわらずに 即位した天皇 ( 注 : 参照 ) が歴史上存在しました 。
注 : )極言すれば 三種の神器など 天皇家の家宝 に過ぎず、 私的 祭祀の道具にすぎない ものですが、記紀 ( 古事記 ・ 日本書紀 ) 神話に基づく由緒 ( ゆいしょ、いわれ ) 正しい 神器かどうかも分からぬ物 を、神霊 ・ 天皇の権威が宿る 形代 ( かたしろ ) などと称して 「 もったいを付け 」、真贋 ( しんがん、本物か 偽物か ) については、 議論の範疇 ( はんちゅう ) に属さない などと としています。
注 : ) 南北朝時代 ( なんぼくちょう )( 4−2、天皇制の 恥部 ) 南北 二つの朝廷のうち どちらを正統な皇統と認めるかは 何百年もの間 公家や国学者の間で論争が続き、明治時代まで持ち越され 天皇制の 恥部 でもありありましたが、後に明治天皇の裁定により 三種の神器 を持って奈良の吉野に逃れた 南朝側 が、皇統の正統性を認められました 。 ところが明治 44 年 ( 1911 年 ) に文部省編纂 ( へんさん ) の国定教科書 尋常小学日本歴史 の教師用書作成の際に、編纂官 ( へんさんかん ) の喜田貞吉 ( 歴史学者 ・ 文学博士 ) が歴史上の事実に基づき、 南北 両朝 並立 を書いたところ、政府の圧力により休職処分となり、 南朝を正統な皇統 とする教科書に改訂され、以後この問題に触れることは敗戦まで タブーとされました 。 この結果北朝の皇位を継いだ 6 代 6 人の天皇のうち北朝 6 代目の後小松 ( ごこまつ ) 天皇 ( 南朝では、第 100 代 の天皇となる ) を除く 5 人の北朝側の天皇は、昭和 20 年 ( 1945 年 ) の敗戦までその存在を 歴史教科書から抹殺されました 。 ちなみに南朝の皇統はその後 血統が途絶えたので、皮肉なことに北朝側が皇位を継ぎ、明治天皇を含め 現天皇も北朝の皇統です。 ( 4−3、宝剣の盗難事件 ) 日本で最初の勅撰 ( ちょくせん、天皇の勅命により編纂された ) 歴史書である日本書紀の 巻 27 の記述によれば、第 38 代 天智天皇 ( 626〜671 年 ) の治世 7 年 戊辰 ( つちのえ たつ、668 年 ) に、
是歳沙門道行 盗草薙剣 逃向新羅而中路風雨荒迷而帰とありますが、その意味は この歳 新羅 ( しらぎ ) の沙門 ( 僧侶 ) 道行 ( どうぎょう ) が熱田神宮の 神体である草薙剣 ( くさなぎのつるぎ ) を盗み、新羅に逃げようとしたが、暴風雨に遭い途 ( みち ) に迷って帰るとありました。さらに熱田大神 ( あつたの おおかみ ) 縁起によれば 、
新羅の僧 道行がひそかに神祠 ( しんし、神の ほこら ) に侵入して草薙剣を盗み出し、難波 ( なにわ、大阪の 旧淀川 ・ 河口付近 )より本国へ逃れようとしたが、風雨でまた難波に漂着した。その後 詮議 ( せんぎ、捜査 ) がきびしくなったので、道行は宝剣を棄てようとした。しかし剣が身体から離れず、ついに自首し斬 ( ざん ) に処せられた ( 首を斬られた )とありました。 豪族、権力者を埋葬した古墳から剣、鏡、曲玉 ( 勾玉 ) などが発掘されたのを見れば、神器に類するものは天皇家に限らず当時の豪族たちもそれを持ち、権力者を埋葬する際に副葬したことがわかります。 [ 4−4、神璽( しんじ )、宝剣の海没 ] 前述した源氏と平家が 1185 年に長門 ( 山口県 ) の壇ノ浦 ( だんのうら、関門海峡付近の海上 ) で戦った結果、平家が敗れて滅亡しましたが、その際に 平清盛の妻でした 二位の尼 ( にいのあま、平の時子、清盛の死後 剃髪し 二位に叙せられる ) が数え年 8 才の第 81 代 安徳天皇 ( あんとく てんのう、1178〜1185 年 ) を抱いて 神器もろとも入水しました。 平家物語の 巻 11、先帝御入水 ( せんてい ごじゅすい ) の記述によれば、
( 二位殿は ) 神璽 [ しんじ、八尺瓊 ( やさかに ) の 曲玉 ( まがたま ) ] を脇に挟み、 宝剣 ( ほうけん ) を腰にさし、主上 ( しゅじょう、安徳天皇 ) を抱き参らせ、 ( 中略 ) 浪の底にも都の侍 ( さぶろ ) うぞ と慰め参らせて千尋 ( ちひろ ) の底へぞ入り給うとありましたが、 宝剣は沈んだ ものの 神璽 ( しんじ、曲玉 ) が納めてある木箱が海上に浮かんだのを、源氏の兵士が拾い上げて奉ったとされます。 ( 4−5、御所の火災と神鏡の焼失 ) 794 年に第 50 代 桓武 ( かんむ ) 天皇が長岡京から平安京 ( 京都 ) に遷都 ( せんと、都を移す )して以来、記録によれば平安京の大内裏 ( だいだいり、御所 ) は天徳 4 年 ( 960 年 ) に全焼して以来、 応仁の乱 ( 1467〜1478 年 ) を含め 1603 年の江戸幕府の開府までに 40 回以上も火災に遭い 、さらに江戸時代には 1708 年の 宝永の大火、1788 年の天明の大火を含めて 268 年間に、 6 回も焼失 しています。 その原因いついては失火 ・ 放火 ・ 落雷 ・ 兵火などによるものの、朝廷における神道の儀式がそれまでの早朝の時間帯から平安遷都以後に神道における本来の姿である深夜に変更され、内裏 ( だいり、天皇の住居としての宮殿 ) での火気の使用機会が増えた結果、火災増加の原因となったとする説があります。 ちなみに御所に奉納されていた八咫 ( やた ) の鏡は前述した天徳 4 年、( 960 年 ) および、天元 3 年 ( 980 年 )、寛弘 2 年 ( 1005 年 ) に起こった内裏の火災により、 焼失 ・ 損壊した とされます。つまりその後は模造品の鏡を神器として保存していたのでした。 現在 75 才以上の人は 国民学校 ( 小学校のこと ) で国史の時間に 三種の神器について習ったはずですが、敗戦後は 代表的な必需品 ・ 憧れの品物 の意味にも使われるようになりました。
昭和 30 年代 ( 1955〜1964 年 ) における サラリーマン世帯での 三種の神器といえば、白黒 テレビ ・ ゴム製 ローラー の間に洗濯物を挟み、 手回しで脱水する洗濯機 ・ 冷蔵庫のことでしたが、その当時 海上自衛隊の しがない 1 等海尉 ( 大尉 ) の パイロット でした我が家に 三種の神器 ( さんしゅの じんぎ ) がそろったのは、結婚 3 年後の昭和 38 年 ( 1963 年 ) のことでした。
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