もののけ
平成 9 年 ( 1997 年 )に宮崎駿 ( はやお )監督の製作による アニメーション映画、 もののけ姫 が上映され、日本だけでなく国際的にも評判になりました。その荒筋は、
古代から中世へ移行する混沌の時代に、大和朝廷との戦いに敗れ、東北の山里に潜み暮らしている 一族がありました。その王家の血を引く若者 アシタカ は、怒りと憎しみによって 祟 ( たた )り神 となった猪神に死の呪いをかけられ、その謎を解くための旅に出ました。 [ 1:もののけ ]これから述べるのは 「 もののけ姫 」ではなく、 もののけ ( 物 = 霊魂、の、け = 気 = 病気、怪 ) についてです。平安時代の特徴を一言でいえば 「 もののけ 」、怨霊などの盛んな時代であり、その 一方でそれを除き祓 ( はら ) い清める祈祷 ( きとう ) 師や、安倍晴明 ( あべのせいめい、921〜1005 年 ) などの陰陽師 ( おんみょうじ ) が活躍した時代でもありました。「 もののけ 」 は平安時代から貴族社会に登場するようになりましたが、死霊 ( しりょう )、生き霊 ( りょう )、変化 ( へんげ )、妖怪などが特定の個人や家系に取り憑 ( つ ) いて悩ましたり、病気をもたらしたり、祟 ( たた ) りをするという信仰上の考えで、その災厄をもたらす霊を総称して もののけ と称しました。その多くは 死者の霊 とされますが、後述する 生き霊 の場合もありました。
平安初期のこと当時右大臣だった 菅原道真 ( 845〜903 年 ) は、左大臣藤原時平との宮廷内の権力争いに敗れて、901 年に九州の大宰権師 ( だざいのごんのそち ) の閑職に左遷され、2 年後に配所で恨みを抱きながら死亡しました。今では学問の神様として祀られ、受験合格祈願の対象として有名な菅原道真も、かつては すさまじい祟りをした 怨霊 ( おんりょう ) として有名でした。
注:)という 事実 がありました。 このことから宇多天皇に重用され破格の速さで右大臣に昇進したのに飽きたらず、更に第 60 代 醍醐天皇 ( 在位897〜930 年 ) を廃して、 娘聟を帝位に就かせるべく画策した のが左遷の理由とする説もありましたが、正確なことは不明です。
[ 2:祟りと鎮魂 ]その後、彼の左遷に荷担した藤原一族の公卿たちが次々と亡くなりました。延喜 6 年 (906 年 ) に大納言藤原定国 ( 41 才 )、延喜 8 年 ( 908 年 ) に参議藤原菅根( 53 才 )、延喜 9 年( 909 年 )に左大臣藤原時平 ( 39 才 )、延喜 13 年( 913 年 )に右大臣源 ・ 光( 69 才 )といった状態でした。更に延喜 23 年 ( 923 年 ) に皇太子保明 ( やすあきら ) 親王が 21 才で急死したことで、 道真の 怨霊 による祟りが宮廷内で表面化し、彼を左遷した時の詔書を破棄して右大臣の地位に戻し、改めて 正 二位を追贈し、年号も「 延喜 」から 「 延長 」 に改めました。
しかし怨霊の祟りは止まず、延長 8 年( 930 年 ) には御所の清涼殿に雷が落ちて、大納言藤原清貫以下死傷者 5 名を出す大惨事が起こりました。居合わせた醍醐天皇も病床につき、3 ケ月後に皇太子に譲位した後に崩御してしまいましたが、46 才のことでした。時平が死んだ頃から、藤原 一族の死だけでなく、日食 ・ 月食 ・ 彗星の出現 ・ 落雷 ・ 地震 ・ 旱魃 ・ 洪水 ・ 火事 ・ 天然痘の流行といった天変地異が毎年のように起きるようになりましたが、これらの現象が 道真の 祟り とされたのは当然のことでした。 ( 左の絵は清涼殿に落雷した時の様子 ) ところで、平安時代は御霊会 ( ごりょうえ )の盛んな時代でもあり、863 年に平安京神泉苑で行われたのが最初でした。疫病の流行などさまざまな 「 わざわい 」、災害などの原因は、承和の変 ( 842 年 )、応天門の変 ( 866 年 )、平将門 ( まさかど ) の乱( 939 年 )や藤原純友 ( すみとも ) の乱 ( 941 年 )、南都 ( 奈良 ) 炎上で東大寺を含む主要な寺が灰燼に帰した治承の乱 (1180 年 ) などの、「 政争の犠牲者による祟りであり、これを鎮めるには彼等を祀らなければならない 」という発想のもとで民間で始められたものでした。
それは同時に政争を引き起こした、為政者への批判でもありました。多くの災厄をもたらした菅原道真の怨霊を鎮めるため、京都の北野に天満宮 ( 北野天満宮 ) を建立して祀りましたが、 猛威を振るった 怨霊 が、いつの間にか学問の神様に変身したことに、疑問を感じるのは私だけでしょうか?。
[ 3:もののけ退治 ]平安時代末期のこと第 76 代 近衛天皇 ( 在位 1141〜1155 年 ) は、ある時 「 もののけ 」によって毎晩うなされるようになりました。その原因は毎夜丑 ( うし )の刻 ( 午前 2 時 ) になると、御所の寝殿の上に黒雲がたちこめ、それと同時に天皇は苦しみだすのです。
公家たちが協議した結果、御所に仕える武士の 源( みなもと )頼政 に 「 もののけ 」 を退治するように命じました。彼が寝殿の警護に当たりましたが丑の刻になるとやはり東方から黒雲が立ち込めてきて、その中に不審な動く物を発見したので彼は弓で矢を射ました。矢は見事 「 もののけ 」 に命中し地上に落ちたのでよく見ると、頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎の 鵺 ( ぬえ ) という妖怪でした。 それから 7 年後の第 78 代 二条天皇 ( 在位1158〜1165 年 ) の時にも、御所に妖怪の鵺 ( ぬえ ) が再び現れ天皇を悩ましましたが、同じく源頼政によって退治されました。この他にも大江山酒呑童子の鬼退治で有名な、源頼光 ( 948〜1021 年 ) もいました。 ちなみに 武 をもって主君に仕える武士を もののふ と呼ぶようになったのは、古代から大和政権で軍事と警察を司った 物部 ( もののべ ) 氏に由来する というのが通説でしたが、御所に現れた もののけを退治する ( 人 = 夫、ふ ) から、もののふと呼ぶようになったとする説もありました。更に ものしり についても、「 もののけ 」 について詳しく 知る ことから、祈祷師や修験者を意味する説もありました。 紫式部が平安中期 ( 1001 年〜1005 年 頃 ) に書き、皆さんもご存じの 源氏物語 にも、「 もののけ 」 が登場します。その 葵の巻 には光源氏の妻である 葵の上 が 「 もののけ 」に苦しめられている場面には、次のような記述がありました。( 右の絵は土佐光起の筆による紫式部像、)
物の怪 ( け )、生き霊などいうもの、多く出で来て、さまざまの名乗りする中に、人に更に移らずただ ( 唯 ) みずからの御身に、つと添ひたるさまにて、ことにおどろおどろしう、わずらはしきこゆることもなけれど−−−、
「 葵の上 」 に取り憑 ( つ ) く 「 もののけ 」( 生き霊、悪霊 ) を退散させるべく加持祈祷をしているが、「 もののけ 」 が 「 葵の上 」 から よりまし ( 注 1参照 )にもいつこうに移らず、ただご本人の体にぴったりと取り 憑いているという様子で、とくにひどく苦しめ申すこともないが−−−−。 実はこの 「 もののけ 」 は 六条の御息所 ( みやすんどころ、注 2 参照 ) の生き霊でした。( 左の絵は、六条の御息所の生き霊 )
注 :1 )よりまし ( 寄りまし ) 16 才で前東宮 ( 皇太子 ) の妃となり、20 才で不幸にも夫と死別した 六条の御息所 は、女たらしの光源氏と関係を持つようになりましたが、やがて彼が冷たくなったのを恨み、彼女の 生き霊 が光源氏の妻である 「 葵の上 」や、「 想い者 」で、 女御 ( にょうご、三位相当 )や、更衣 ( こうい、五位相当 ) などよりも位が低く、身分の低い女にもこんなすばらしい女性がいようとはと、光源氏が感じ入った 夕顔も 、 六条の御息所の怨霊に呪い殺されました。( 右の絵は夕顔を抱く光源氏 )
[ 5:もののけ、の調伏法 ]平安時代の 「 もののけ 」とは、前述の様に病者の近くにいて患者を悩ませたり、或いはその 身体に密着して苦しめる と信じられていました。ところで人が「 もののけ 」に取り憑かれると、祈祷により「 もののけ 」を調伏退散させるのが一般的でした。それにはまず「 もののけ 」を祈祷により前述の よりまし に移動させて、とにかく病者を平常の心身状態に戻すことにありました。
紫式部とほぼ同時代の女流作家に 清少納言 がいましたが、彼女も有名な 枕の草子 を書きました。唐の詩人白居易 ( 772〜849年 )が 「 香炉峰の雪は簾( すだれ ) をかかげてみる 」と詠んだ詩について、中宮・定子と有名な問答がありましたが、左図はすだれを巻き上げる清少納言です。 「 枕の草紙 」 の 25 段に、 にくきもの がありますが、それに依れば当時の修験者は 救急医 の役目をしていました。
にわかにわずらふ人のあるに、験者( げんざ )もとむるに、例ある所にはあらで−−−−−。急病人があるので修験者を探し求めると、いつもの所にはいないで別の所にいるのを探しまわっているうちに、待ち遠しくて長い時間が経ったが、やっと待ち迎えて喜びながら加持をさせるのに、このごろ「 ものの怪( け )」 調伏に疲れ切ってしまったせいか、座るやいなや読経が眠り声になっているのは、ひどくにくたらしい。とありました。 319 段 前の木立高う、庭ひろき家の には、次のような 憑(つ)き物降ろしの祈祷 のことが書いてありましたが、その概略は。 主人に 憑( つ )き物降ろし の祈祷をしたところ「物の怪( け )」 が主人から大柄な女童の身体に乗り移り、それほど長い時間も経たぬうちに、女童の身体が震えだし正気を失いました。周囲の人々も祈祷が終われば童はその間のことを全く覚えていないし、苦しんでいたのは童自身ではなく、主人の身体から童に移された 「 もののけ 」 の仕業であると承知していました。
注:)几帳 ( きちょう )
[ 6:ハワイの、憑きもの降ろし ]戦中戦後の ハワイに 平井辰昇( しんしょう )という尼僧 がいましたが、熊本の女学校 ( 女子高 )を卒業後 ハワイで日系 二世と結婚し、11 年後に離婚して日本に戻り奈良の東大寺本山で修行しました。日米開戦の年の昭和 16 年 ( 1941 年 )に、同寺初の海外派遣開教 ( 伝導 )師となって ハワイに戻り、布教を始めたという経歴の持ち主でした。彼女は東大寺 ハワイ別格本山と称する寺を建立し布教に当たりましたが、布教開始から僅か二ヶ月で二百人の信者を集めるほどの、強い カリスマ性を持ち 「 ハワイ産の新興宗教 」 的性格を持っていました。その活動のひとつに 憑 ( つ )きもの降ろし がありましたが、毎週月曜日の晩に病気や心の病などに悩む者から、取り憑(つ)いた死霊、生霊、動物霊を降ろしていました。まず悪霊に憑かれた人をうつ伏せに寝かせ、背中に バスタオルを当て、補助役の信者が布の袋にくるんだ百万遍( ひゃくまんべん ) 法要の数珠をもち、それで身体を叩きました。そのとき平井尼は頭や肩を押さえつけながら、その人に憑いた霊を口汚く罵 ( ののし )りました。
さあさあ戻れ 戻れ 戻れ、こん畜生、しゃんしゃ ( サッサト ) 戻れしゃんしゃ ( サッサト ) 戻れ、こん畜生、根性ばかりまわしやがって。 そこに死霊や生霊の実名がはいることもありましたが、補佐役もそれに和し 「 戻れ戻れしゃんしゃ ( サッサト ) 戻れ 」 と唱えました。 悪態をつく事により悪霊が、その人から落ちると信じられていたからでした 。生霊には夫や妻、あるいは信者仲間もいました。動物霊の場合、狐が憑くとその人が キャンキャン鳴き、犬神に憑かれた人は舌を出して四つん這いになり、蛇に憑かれた人は跳んだり身をくねったりして ドアから出ていったのだそうです。彼女の 「 憑きもの降ろし 」 は日系人の間で非常に評判になり、亡くなるまで繁盛しました。
30 年近く前のこと当時熊本空港に隣接して某航空会社の乗員訓練所がありましたが、ある時 訓練所所属の セスナ機 ( 小型 プロペラ機 ) が訓練飛行中に墜落事故を起こし、操縦教官を含めて搭乗者 4 名が全員死亡しました。ところがその事故からしばらくすると乗員訓練所の寮に、事故死したある人物の亡霊が出るようになりました。 寮の室内や廊下に現れた亡霊 ( 事故死した人の姿 ) を多くの訓練生が目撃しましたが、ある訓練生は睡眠中に息苦しいので目を覚ますと、隣に亡霊が寝ていたなどの事件が実際に何度も起きました。そこで乗員訓練所としても捨てては置けずに県内に住む祈祷師 ( きとうし ) に依頼して、亡霊の鎮魂 ・ 除霊を図りましたが成功せずに、その後も亡霊が現れ続けました。
祈祷師、修験者をいろいろ探したところ、非常に評判の高い修験者が遠方にいることが分かったので、その人に来て貰い乗員訓練所内で除霊をしてもらいました。しばらく祈祷をしていると、修験者が突然大声で 馬鹿もの! さっさと行け と怒鳴ったので、皆は驚きました。( 写真の修験者は、無関係な人 ) 後で聞くと同席していた人達には見えませんでしたが、成仏できずに この世とあの世の境を さまよっていた その人の霊が姿を現して、この世に未練がある と語ったのだそうです。
しかし修験者に 一喝され その験力 ( げんりき ) や 、唱えた 呪文の法力 ( ほうりき ) が亡霊を抑え込んだのか、それ以来乗員訓練所に亡霊が出ることは 二度とありませんでした。現代科学では解明できない霊能者 / 修験者と称する人が持つ 不思議な力 を、まざまざと見せつけられた次第です。 その後熊本にあった乗員訓練所は会社の合理化の一環として閉鎖され、訓練費が安く 一年中雨が降らない米国の アリゾナ州 フェニックス ( Phoenix ) に移転し、後には カリフォルニア州 ・ ロサンゼルスの 北北西にある ベーカーズフィールド ( Bakersfield ) に移転して、自社養成 パイロットの飛行訓練を現在も続けています。
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