“月の満ち欠け。太陽は登り沈んでゆく。その繰り返しのように。”
「来るんだったら連絡しろって言ってるのに」
予告無しに現れたアイジに、潤が呆れ顔を向ける。いいじゃん、と屈託なく笑って、アイジは身体を玄関に滑り込ませた。
「おっ邪魔しまーす。ねー猫は?いる?」
「いるよそりゃ」
「あーいた、にゃーだ。にゃー」
「あー煩い」
猫に向かってアプローチをしながら部屋へ入ると、アイジは勝手にソファに座り込んで、持っていたビニール袋を机に置いた。
「ちゃんと差し入れ持ってきたんだよー」
「へえ、気が利くじゃん」
「まあねーA型だし」
「おい嫌味かそりゃ」
笑う潤の態度には拒絶は見えない。それを都合良く解釈することにして、アイジはソファに腰を下ろして煙草を取り出した。
アイジがいきなり潤のところを訪れるのも、逆に自分の家に誘うのも珍しいことではなかった。
むしろ連絡をしている方が少ないくらいで、気紛れのように、思いつきのように現れては強引に入り込む。
それは密やかに意図的にそうされていて――恐らく潤は気付いていないけれど――、そして、次、を決めることもなかった。じゃあまたね、ただそう言って。
「……アイジ?」
ふとできた沈黙の中、ソファの隣に移動して首に手を回したアイジに、潤の目が丸くなる。
「何だよせっかちだな」
ふ、とだけ笑って口づけると、苦笑じみた表情で見上げられた。
「いいじゃん別に」
「何?したいの?」
「うん」
ちょっとは躊躇しろよ、そう言いながらも引き寄せる彼は結局、受け入れることは知っていた。視界が反転して、のしかかってくる潤の背中に手を回しながら、アイジはそっと口の端を歪める。
甘やかされてるという自覚もある――――でも、これは付け入れてることになるんだろうか?
* * * * * * * * * * * * * * * * *
その肩に手を伸ばしたのが何故だったのかは、もう覚えていないしおそらくどうでもいいことなのだろう。
「アイジ?」
怪訝そうな彼に薄い微笑みで答えて、そのまま肩を引き寄せて自ら床に沈み込んだ。見下ろす形になった潤はまだ戸惑いを残したまま、だけど視線は逸らすことなくアイジに絡ませている。
「…やんない?」
薄い笑みを張り付かせたまま、発せられた言葉に潤は驚いた顔をして、しばらく無言でアイジを見下ろした。――その間、アイジも表情を変えることもなく。
「…ね」
再度の誘いに、潤の身体が動いた。屈み込むようにアイジを覗き込む。
「アイジは、それでいいの?」
「いいよ、潤くんさえよければ」
間近に寄せられた潤の表情は読めなかったけれど、笑みは崩さずに答える。誘ったのは自分だ、――そう思い知らせるように。
「俺さえ、ね…」
どこか苦笑じみて発せられた言葉とともに、潤の手が肩から胸へと滑らされた。一瞬、息を呑んだアイジはその肩を抱き寄せる。
「ねえ、…キスしてよ」
戸惑うことなく下りてきた口づけと、その時の彼の瞳がひどく優しかったことは、覚えている。
約束を、したことはない。
次いつ会うの。明日は会えるの。そんな何気ない言葉も交わすことなく、じゃあまたね、と、曖昧に。
きっとそれが守られないことも、約束自体を拒否されることも、恐れて。
シャワーを浴びて戻った時には、潤は既に寝息をたてていた。その横に滑り込み、そっと髪に指を絡ませてみる。意識的に空けられたベッドの一人分の隙間が、何だかひどく切なく感じられた。
例えばこんなとき、明日が来なければいい、と思う。
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「だから連絡くらい寄越せって言ってるだろーが」
懲りずに玄関口に現れたアイジに、潤はいつもの通り呆れた顔をしてみせる。
「俺には俺のペースがあんの。だいたい、いなかったらどうすんのお前」
「いやいなかったら諦めつくじゃん。あ、にゃー」
いい加減にアイジの顔を覚えたのか、猫も愛想良くすり寄ってくる。嬉しそうに抱き上げて、釈然としない風に奥へ進む潤の後を追った。断ったことなんかないくせに、――そんな言葉を呑み込みながら。
だけど。
「アイジ?」
少しぼんやりとしてしまったようだ。怪訝そうな潤に、何でもないよ、と首を振る。
だけどもう少し、このまま甘やかされてるだけでいいのかもしれない。………受け止めては、くれるわけだし。
「…アイジ」
気付くと、いつの間に近付いたのだろう、至近距離に潤の顔があった。真直ぐな視線は強くて、やっぱりどこか人形じみているな、と的外れなことを一瞬思う。その顔が、つ、と更に近付いた。
口づけられていたことを、その間自覚ができなかった。結構な長さだったような気がするのに、目を閉じることもしないまま、離れた彼が複雑な笑みを浮かべて初めて、ゆっくりと唇に手をあてた。純粋に、驚いていた。
動くのは自分であって、彼ではなかったのに。
「なあ、アイジ」
潤の笑みは苦笑に近かった。そういえば、最近そんな表情ばかりさせている気がする。
その腕が伸ばされて頬を包む。それだけのことなのに泣きそうなほどの感情がこみ上げて、視線を逸らしたかったけれどそれもできずに、ただされるまま見つめ返した。潤は、苦笑のまま。
「解ってないみたいだけどさ、もっと普通に、ウチ来ていいんだよ?」
「え」
思いもかけない言葉に反応ができないアイジに、潤は笑みを優しく崩した。
「いつもお前、様子がおかしいんだよ。言わないようにしてたけど、今日は特に、ひどいみたいだからさ」
「おかしい、って」
「…ん?」
アイジの頬を包んだまま、潤は少し考えるように首を傾げる。そのまままた、触れるだけの口づけが掠めた。
「……思いつめた感じ、かな」
そんなこと。瞬間的に出掛かった言葉はだけど喉元で消えて、顔を歪めて泣かないように耐えた。
そのまま潤の肩口に顔を埋めて抱き締めながら、抱き返してくれるその身体に、思いきり身を委ねた。
“満ちる潮。満ちる月。繰り返した果て、君へと募るいとしさを抱いて。”