竜太朗は呆然とシートに埋もれたまま、銃を持つ右手をゆっくりと戻す笹渕を見上げていた。顔の横で天に向けられた銃口から、ほのかに硝煙が上がっている、……気がした。
笹渕はそのまま運転席に戻り、ドアを閉め、車をバックした。死体を乗せたクラッシュした車が、目の前から遠ざかり、消えた。笹渕がハンドルを切ったのだ。
笹渕はしばらくそのまま何も言わず、ゆっくりとしたスピードで車を走らせた。バックミラーから壊れた車が完全に消える頃、やっと竜太朗に視線を向けた笹渕は、まだ青い顔をしている彼に苦笑して「任務完了」と小さく言った。一瞬、何を言われたのか分からなくて目を瞬かせた竜太朗は、ややあってはっとして身を起こした。
「――え」
「あれで方がついたよ。だからもうあんたは安全だから。安心して」
「…え…」
「とりあえず、現場から離れるけど、この車じゃー都内に帰れないから応援頼んだから」
そう言うと、笹渕は苦笑を深めた。自分がまだ固まったままなことに対するものだろう、そう気付いて、急になんだか恥ずかしくなった竜太朗は、シートに体を沈めて「死ぬかと思った…」と息を吐いた。すると「失礼だなあ」と苦笑まじりの声が聞こえて、振り向くと笹渕が笑っていた。――ひどく、無邪気に。
「あんたは俺が守るって言ったじゃん」
車は海岸からやや離れた山道に入って、車通りもほとんどない車寄せに止まった。二人は車から降りて地面に座り、自動販売機で買ったジュースを開けて息をついた。
「あーーー…、怖かったあ…」
竜太朗は心底そう言うと、涼しい顔で煙草を吸う笹渕を見た。彼は自分と違って、当たり前だけどとても冷静だ、しかも。
「…今まで吸っていなかったくせに…」
「未成年の学生設定だったからね。完了後の一服くらいさせてよ」
「まだ仕事中でしょ」
「ほぼ完了。後はあんたを家に送り届ければいいだけだから」
あの派手なカーチェイスも大破した車たちも死体も、しかるべき処置をする手配済みなのだという。どう処理をするのか、彼らが死んだことで完了なのはなぜか、相手は誰だったのか、その辺の事情は聞く必要はない、と言われた。その口調から、なんとなく竜太朗もそれ以上聞けなくなった。
まあいい、…彼は無事に仕事を成し遂げたのだから。
そう思うと、急に怖さより好奇心が首をもたげてきて、竜太朗は笹渕を見た。とっくにどこかに仕舞われてしまっているリボルバーを目で探してみる。見つかるはずは、ないのだけど。
「…ね、さっきのって、ワルサーP?」
突然そんなことを聞いた竜太朗に笹渕は一瞬ぽかんとして、しょうがねえな、という風に笑った。
「ルパンかよ。残念ながら違うよ」
「じゃ、コンバットマグナム?」
「それもルパンじゃん。…ま、いいかこれくらいは。スミス&ウェッソンだよ」
「へー。見せて…」
「駄目」
「やっぱりか。けち」
「てかさあ」
すっかりいつもの調子を取り戻した竜太朗に、笹渕は呆れたように笑った。
「あんた、俺が怖くないの? あんなん見て」
「あ…」
淡々と言われてはっとした。そうだ、彼は目の前で冷静に人を殺したのだ。男が頭から血を噴き出した、さっきの光景を思い出して身震いをする。
…だけど。
だけど、と、竜太朗は笹渕を見やった。確かに撃ち殺したのは彼だけど、彼はあれが仕事だし守ってくれたし、―――何より今までずっと一緒にいた、心地よい相手だし。
「うん、怖くない。…ぶっちだし」
笹渕は一瞬驚いたように目を見張り、「あんた、案外大物だな」と笑った。そして新しい煙草に火をつけると、そうそう、と付け加えた。
「これで俺の仕事は終わりだからさ、家まで送ったらお別れ、な。多分もう会うこともないけど」
分かっていたことだった。だけど、それを聞いた瞬間、竜太朗の思考は停止して、次の瞬間に爆発した。
「――嫌だ!」
気づいたら、必死で叫んで笹渕にしがみついていた。
「嫌だ! 嫌だよ、なんでそんな寂しいこと言うの? 俺の家と繋がりあるんでしょ!?」
「いや、最初からそういう契約だし。…あんたの家はクライアントの一つだけど、基本的には長谷川さんを通すのが原則だから、今回はイレギュラーだから」
「正くんと会うなら俺もいいじゃん!」
「あのねえ、お友達じゃーないんだよ」
「友達になりゃいいじゃん!」
「…あのねえ…」
必死にすがる竜太朗を前に、笹渕は苦笑するしかなかった。正直、こんな風に言ってくれることに悪い気はしない。だけど大前提として、自分は裏家業のプロなのだ。
クライアントと個人的な付き合いをしてはいけないし、する気はない。たとえ、どんなに気に入った相手だとしても。
対して竜太朗はそんな笹渕の態度が納得できず、理不尽にすら感じていた。仕事や立場がどうであろうと、個人的な付き合いができない、ということにひどく傷ついて狼狽していた。一緒にいるのがあんなに楽しかったのに、ずっとこのままでいたかったのに、好きなのに。
そう、―――きみが好きなのに。
「…き、なのに」
「んー?」
「すき、なの、に」
「………」
急にはっきりと自分の気持ちを自覚してしまって、そうしたら涙が出てきて止まらなくなった。駄々をこねる気持ちばかりがあふれて、口をつく。
「いやだよ…」
行かないで。
胸にしがみついてぐすぐすと涙を流しながら、好き、と繰り返す竜太朗を前に、笹渕は少々困惑しながら黙り込んだ。その両肩に手をやってみるも、言うべき言葉がうまく見つからない。笹渕も、竜太朗に対して必要以上に好意を持ってしまっている、その自覚があったから、だから尚更何も言えない。
あらゆる意味で、応えてはいけない、受け入れてはいけない。好意を持っていれば、尚更。
「…ぶっちはもう俺と会いたくないの?」
潤んだ目で、赤い顔で見てくる竜太朗を、ふと、心底羨ましいと思った。こんなにまっすぐに、正直に気持ちを伝えられるこの坊ちゃんが。
「…そういうわけじゃ、ないんだけどね」
「じゃあなんでそんなこと言うの!」
会おうよ、これからも。会って、遊んで、そして。
「―――竜太朗」
一生懸命に続ける竜太朗の言葉を遮って、だけど穏やかに笹渕が名前を呼んだ。至近距離で目を見て、ゆっくりと言い聞かせるように続ける。
「あんたは大学生で、社長の坊ちゃんで、将来は会社経営をする人だろ。で、俺は、そういう人に依頼を受けて裏で動くのが仕事だけど、クライアントはひとつじゃないし、どこかに専属になったりしたらお互いにリスキーだから、極力クライアントとは直接接触はしないし連続依頼もしないの」
身内以外には存在を記憶されないように。彼はそう配慮していた。そう、まさに今、立ち去るつもりなのだ。綺麗に痕跡を消して。
「分かった?」
「嫌だ!」
竜太朗はそれでもまだ納得できないで、だったら、と続けた。だったら。
「だったらぶっちにまた仕事依頼すればいいんでしょ!? 狙われるようなことになったらまた、ボディガードするわけでしょ?」
「あんたね…」
「だったら経営に関わって、そんでヤバいとこと騒動起こしてやるから!」
「……八百屋お七かあんたは。頼むからやめて…」
ほんとにやりかねない勢いの竜太朗にげんなりした顔をして、それから表情を緩めると、笹渕は肩を包んでいた手をゆっくりと移動させて竜太朗の両頬を包んだ。身長は竜太朗の方が高いから、笹渕が見下ろす形になっているこの視界が新鮮で不思議で、そして頬を包む笹渕の冷たい手が信じられなくて、竜太朗は惚けた顔で笹渕を見上げていた。
目の前で、笹渕は薄く笑う。
「俺もさ、楽しかったよ。仕事ってこと抜きで、楽しかったよ。―――俺も、」
俺も、あんた好きだよ。
「だけどそれでも、…お別れなの。俺は、あんたの隣には並べないんだよ」
告げられた言葉の意味を竜太朗が理解するのに、やや時間がかかった。言葉が、ひどくゆっくりと鼓膜を震わせて、脳まで辿り着いて、さらにゆっくりと意味を染み渡らせた、そんな気がした。
その間、二人とも至近距離で視線を合わせたまま、動かなかった。
「…ねえ、」
長い時間をかけて、ゆっくりと笹渕の言葉を理解し、動かせない現実を理解した竜太朗は、震える声で言った。ほとんど衝動的に。
「…キスして」
笹渕は一瞬だけ目を見張って、少し笑って、そっと屈み込んだ。ゆっくりと目を閉じると、優しく唇が重なって、数秒後に離れた。
目を開けると、目の前の笹渕は「なに、ぼーっとしてんの」と言って綺麗に笑った。その余裕が悔しくて、キスをしてくれたことが嬉しくて、ぐちゃぐちゃの感情を持て余すように思い切り抱きついた。思ったよりも細い身体は、でもびくともしなくて、その身体を確かめるようにしばらくがっしりとしがみついていた。
きっと、もう二度と、触れることはない。
迎えの車が来たのは、それから程なくだった。大型トラックが来て、その荷台から明が運転する車が出て来て、笹渕たちが乗っていた車がを回収した。竜太朗は見なかったけれど、トラックを運転していたのはあの笹渕の姉だったと後から聞いた。「さすがっていうかね。びびった」と明は笑っていた。
明は泣きはらした竜太朗の顔を見て笹渕に視線を移したが、笹渕の苦笑で察して何も言わなかった。後部座席に自分だけ乗せて乗り込まなかった笹渕を見て、竜太朗は今ここでお別れなんだと気付いて、慌てて窓を開けた。
どうしても、聞きたいことが一つだけあった。
「…ぶっち!」
叫ぶように呼ばれて笹渕が振り返ると、開けた窓から必死な顔の竜太朗が覗いていた。
「いっこだけ!……名前、教えて!」
笹渕は驚いたように目を丸くして、ふ、と笑った。
そして車まで戻ってくると、上体を屈めて竜太朗の耳元に口を寄せて、小さく「啓史」と告げた。
それから竜太朗の頭をぽん、と撫でて、ミラー越しに明に目で合図をした。車はそのまま発車した。振り向いて見ると、遠ざかっていく笹渕の姿は動かず、ずっと車を見ているようだった。
* * * * * * * *
明が久しぶりに正の部屋に行ったのは、もう夏を過ぎ、肌寒くなっていた頃だった。
笹渕が物理的に綺麗に始末してくれた相手についてのゴタゴタは、その後、正およびその指示を受けた面々により、対外的にも始末された。竜太朗は至って平和な夏休みを過ごし、試験を受け、そんな大学生活に戻っていた。
「ところでその後、笹渕くんには会ったの?」
酒が進んだ頃、明はタイミングを見て聞いてみた。当然、明はあれから彼には会っていない。竜太朗との間で、彼の話題が出たこともなかった。
「例の件以降は知らないよ。仕事を依頼してもいないし」
「そっかー…なーんか嘘みたいだったなーあれ…」
明は天を仰いで上に煙を吐き出した。今となっては現実味のない、夢だったかとも思える出来事だった、あれは。
「俺にすらそう感じるのだから、竜太朗もそうなかあ…いや、あいつは強烈すぎて忘れられないか」
「そうだねえ。カーチェイスまで体験したそうだからねえ」
迎えに行った時、二人が乗っていた特殊仕様の車は見るからにボロボロになっていた。それだけの衝撃を受けるほどの事態をくぐり抜けたということか、と、正直絶句した明だが、竜太朗はそのことよりも、笹渕との別れの方がよほど印象深かったようだった。
「なーんかさ、ちょっとだけあいつ、成長した感じはするよ。さすがに」
「竜ちゃん?」
「そう。ま、強烈な体験したし、失恋もしたし?」
「…違いないね」
正も同意して、缶ビールを煽った。失恋、だったのだろうか、とも思ったが、もう二度と会う事のない相手なのだ。失った、ことには変わりない。
だけど。あの日帰って来た時の竜太朗の姿をふと思い出す。明に支えられるように、引きずられるように家に入った竜太朗はありありと泣いた跡があり、心ここにあらずといった感じで、正直どうしたものか少々迷った。身体は守られたけど心はこうか、まるでルパンだ、などと思いながら竜太朗を座らせて、──だけど、その横顔を見て、ふと気付いた。
放心している竜太朗は、それでもどこか、満ち足りているような、幸せそうな顔をしていることを。
「…まあ、怖かっただけじゃなかった、てことだろうね」
「そうだな。いい経験したんだろ、ある意味」
「何があったかは推して知るべき、だけど、──メンタル面でも笹渕くんはちゃんと仕事を完了させたって、言えるのかもなあ…」
「…かもな」
自分たちはまたいずれ、彼に会うかもしれない。その時はこのことも、昔話になっているのだろうか。主人の若き日のロマンスを懐かしく語れる頃か、もっと早くか、それは分からないけれど。
この先長い間、下手すれば一生仕えることになる幼い主人を肴に、これまたこの先長い付合いになるだろう相手として、彼らはもう一度乾杯した。
竜太朗は帰宅途中にふと夜空を見上げた。少しだけ、星が見える。コートを着る季節になっていて、風が頬に冷たかった。
あれから。あの嘘みたいな騒々しい日々が終わって、当たり前に隣にいた彼が消えて、その不在にも慣れた。表面上、ひどく穏やかに緩やかに、日々は流れていっている。
だけどまだ、ふとした瞬間に思い出す。楽しかったこと、怖かったこと、一度だけくれたキス、それから。
耳元で告げられた、彼の、名前。
「どうしてくれるんだよ……忘れらんないよ」
虚空に呟いて、自嘲した。こんなに強烈な傷を残されて、忘れられるわけがない。なんてひどい、甘い、幸せな傷なんだ。
もう会うことはない、そう彼は言ったし、そうなのだろう、と頭では分かっている。だけど、────分かんないじゃん、ねえ? そんなこと。
きみも、俺も、生きてるんだから。…きみが、守ってくれたんだから。
あの時のこと、を思い出すと、いつだって切なく幸せな気持ちになる。そして、自分は生きているのだ、ということを思い出す。
そんなことは知らないだろうに、何一つ聞かずに優しく見守ってくれている執事たちが待つ家に、竜太朗は足を早めた。
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やっと完結しました。読んでいただいてありがとうございました。
最初からストーリーは決まってて、テーマは「坊ちゃんと裏稼業の人の束の間の出会いと別れ」でした。
いろいろとかなり趣味に走った箇所がありますが(一番書きたかった台詞が「八百屋お七」だったという)、
楽しんで書きましたし、楽しんでいただけましたら幸いです。
タイトルの「天使も踏むを恐れるところ」は、フォースターの小説のタイトルですが、
更に元ネタがありまして、イギリスの詩人アレキサンダー・ポープの一節だそうで、
各ページに載せてる英文はそっちです。
「Fools rush in where angels fear to tread.
天使も踏むを恐れるところ愚か者は勇んで踏み込む」
坊ちゃんと裏稼業の、踏み込んでいけない関係、てことにかけてこのタイトルを持ってきました。
短期連載のはずが長引いてすいません。読んで下さった皆さんに、再度の感謝を込めて。
2011.9.24 up