「…今の子よね。可愛いわねー」
ふらふらと竜太朗が立ち去った後、隣の女性がくすくす笑った。笹渕も苦笑する。
「典型的な坊ちゃんていうかね。無邪気だよ」
「あんたが知らない女といるのがショックだったみたいね。かーわいい」
「仕事だっつーの」
ふう、とため息を零して笹渕は煙草に火をつけた。彼らが店に入ってそろそろ2時間近くになっていた。事前に調べておいた限り、店にあやしい部分はないが、笹渕には確信があった。絶対なにかがある。
ややあって、明から携帯がかかってきた。取ると「あいつになんかした?」と言われる。
「はあ? 何で?」
「いや、トイレから戻って来てからなんか変だから。上の空っていうか、でもやばい、酒のピッチが上がってる」
「マジで?」
そんなにショック受けなくても、と笹渕は少々呆れた。だから仕事だっつーの。
仕方のないやつだな。心底そう思う。それでもあまり悪くも思えないあたり、自分もかなり彼に入れあげてしまっているということだろうか、そう思いながら個室のある方向を見遣って、ふと真顔になった。隣の女性も気付き、表情を変える。
「…なかちゃん。しばらくしたら、竜太朗がまた部屋から出ると思うから、そうしたら合図して、そしてこっちに来て」
「え、なんかあった?」
「これからあるよ」
そう言うと笹渕は携帯を持ったまま立ち上がった。連れの女性は素知らぬ顔で店員を呼び、会計を頼む。「彼がいないうちにやっちゃいたいの。今日はあたしが払うって言ってるのにきかないんだから」と言うと、心得た顔で店員は伝票を持って来た。
笹渕はそのまま、竜太朗たちの個室より少し離れた通路に入った。ちょうどその時、明から「いま、竜太朗が店員に呼ばれた」と連絡があった。
「オッケー。なかちゃんもすぐこっち来て」
了解、の声を聞き、笹渕は電話を切った。
個室に戻っても竜太朗の頭は混乱していた。どうしよう。こんなにショックだなんて思わなかった。自分だって可愛い女の子たちと飲んでいるのだけれど、なのにこんなにショックを受けてしまう自分に混乱した。
なんだよあんな美人とよろしくやってんじゃん。仕事中のくせに。仕事中なのは分かるよ、だけどさ!
妙に沈み込んでしまった竜太朗に、さすがに友人も怪訝な顔をして「大丈夫か?酔ったか?」と声をかける。いや大丈夫平気、そう答えて、紛らわせるようにペースを上げたら妙に場が盛り上がってしまった。本当は全然盛り上がってない気分なのに!と内心舌打ちする。
そろそろヤバいかなあ、そう思い始めた時、入ってきた店員が「お客様で有村様いらっしゃいますか」と言ってきた。
「あ、はい僕ですけど」
「お呼び出ししてすみません、ご家族の方がお見えになっておりまして、緊急の用件だと」
「え?」
家族、ということに心当たりもないし有り得ないが、となると従業員である明だろうか、と思った。運転手だとか執事だとか、そういうことを言うと面倒なため、こういった店では「家族」と名乗ることが多い。
「…もう迎えかな」
早いだろう、そう思ったが、違う事態になったのかもしれない。そう解釈して、竜太朗は席を立って店員に続いて個室を出た。あちらです、そう示された通路を進み、曲がろうとした時に急に腕を強く引かれ、バランスを崩したと同時に耳元を何かがかすめた。
「わ…っ?」
同時にガキン、という鈍い音がして、気付いたら竜太朗は廊下に転がっていた。その上で庇うように笹渕が、誰かともみ合っている。刃物を持っている腕を押さえるようにして、笹渕は相手の顔を覗き込んだ。
「──顔見せな。なかなかいい腕してんじゃないの」
舌打ちした相手は渾身の力で笹渕を振り切ったが、同時に笹渕が刃物を弾き飛ばしたため不利だと悟ったのだろう、そのまま走り去っていった。その後ろ姿を見ながら、ふう、と息を吐いた笹渕は、落とし物の武器を手に取り、開いた右手を竜太朗に差し出した。
「立てる?」
「え、あ──うん」
未だ放心していた竜太朗は、ようやく彼の手に引かれて立ち上がった。瞬く間の出来事だったのだろう、廊下には他に人はおらず、店の誰も気付いていないようだ。
「びっくりした…」
今になって怖くなって震えてくる。こうもはっきりと、誰かに襲われたのは初めてだった。力なく壁にもたれる竜太朗の頭を、幾分か小柄な笹渕がぽんぽんと撫でた。
「ごめんな。ちょっと荒っぽかった。なかちゃん呼んだから、本当に『迎えが来た』って言ってもう帰った方がいい」
「ん…」
正直、もう飲み会の場に戻れるような気分ではなかったため、素直に頷いた。しばらくしてその場に着いた明が見たのは、笹渕の胸にもたれるように踞る竜太朗と、苦笑しながら背中をあやす笹渕の姿だった。
合コン仲間に先に抜ける旨を伝え、代金だけ置いて3人で車に戻った。まだ若干落ち着かない竜太朗がぎこちなく笹渕の右肩に顔をつけてきたので、笹渕は右手で彼の頭を撫で、左手では腕をさすってやる。
「…出発してもいいですかね」
微妙に気恥ずかしい光景に明が若干引きながら声をかけると、笹渕は笑って「お願いします」と言った。だけど竜太朗に「気分悪かったらすぐ止めるから言え」と言っているのが聞こえて、見かけによらない包容力だな、と妙な感心をしてしまう。まあ、竜太朗はショックを受けているうえかなり酒が入っているわけなので、当然の気遣いか、そう思いつつ駐車場を出た。
「あれ、そういえばあのバンは?」
駐車場に戻った時には、明が待機していた車は消えていた。それを問うと、ああ、と笹渕が答える。
「俺の連れが乗って行ったよ。事務所の車だし」
「ああ、あの姉ちゃん。てか、お前さんたちの会計は?」
「それも済んでる。事が起きたらそうやって別行動することになってたの」
「へー…てか、飲んでんじゃねえの?」
「そういう予定だからほとんど飲んでないよ、俺もあいつも」
酔っ払ってちゃ仕事にならないでしょ。そう笑った笹渕の横で、竜太朗がピクリと動いた。
「…お姉さん」
「ん?」
「ぶっち、きれいなお姉さんと、いた…」
相変わらず肩にもたれながらぼそぼそと言う竜太朗に、笹渕は一瞬きょとんとした顔になったが、すぐに呆れたように言った。
「同業者だよ。助っ人。ひとりで飲み屋にいるのも変でしょ」
「だって、あんなにきれいなお姉さんといちゃいちゃ…」
顔を上げないまま続ける、竜太朗の頭が更に沈んだ。完全に体重を預けられる形になったが、笹渕は動じずにむしろがっしりと支えてやっている。しばらくして交差点を曲がったはずみで、もたれかかったままの竜太朗の手が笹渕の腕を掴んだ。
彼がされるがままにしているのをいいことに、竜太朗の手はそのままずる、と下がって手首を掴む。ミラー越しに見ていた明はおいおい、と思ったが、目が合った笹渕が苦笑して首を振ったので、まあ任せておこうかと運転に集中することにした。
坊ちゃんの世話は任せておこう、──俺、運転手だし。
動かない笹渕に、しばらく竜太朗はそのまま手首を掴んだまま、じっと黙っていたが、二度ほど信号を過ぎたあたりで、もぞりと頭が動いた。
そして顔は上げず、笹渕の肩に押し付けるようにしたまま、ぽとりと言葉を落とした。
「……恋人、なの?」
掠れた声も、掴む手も、縋るような弱々しさだった。聞かれた言葉に笹渕は、ふ、と息を吐いて苦笑し、「何言ってんだか」と手首を掴んだ竜太朗の手を、逆の手でやんわりと引き離した。
「同業者だって言ってるだろ。なに心配してんの」
呆れたような、しかし優しい声音で言いながら、笹渕は自分の肩に乗せられた竜太朗の頭をぽん、と叩いた後、──一瞬の逡巡の後、ふう、と息を吐いた。そして、仕方ないな、というようにため息混じりに言葉を紡いだ。
「姉ちゃん、だよ」
「…え」
弾かれたように顔を上げた竜太朗に、笹渕は苦笑いで続ける。
「俺の実の姉ちゃん」
だから恋人なんかじゃねーよ。
笹渕は呆然とした表情の竜太朗にそう笑って、「あんま言いたくなかったんだけどねー」と続けた。
「ほんとに…?」
「嘘ついてどうすんの。あんま似てないけど、実の姉だから」
そう笑う笹渕の顔をまじまじと見つめていた竜太朗は、「ほんとに?」と何度か小さく繰り返してから、いきなり顔を歪ませてそのまままた、笹渕の肩にもたれかかった。
「ちょ、何だよおい大丈夫か?」
「…分かんない〜〜」
がっしりとしがみつかれてしまった笹渕は困ったように竜太朗を覗き込んだが、本人はふにゃふにゃとした声をあげながら拗ねた子供のようにしがみついている。
「あー…いろいろ混乱してんだろ」
不意に運転席から明が声をかけてきた。今まで傍観していたのだが、酒が入って駄々っ子スイッチが入った竜太朗を全面的に押し付けるのは申し訳ない気がしてきたのだ。
「あーもう、お前寝ろ。寝ておけ」
「ぶっち〜〜」
「はいはい、ここにいますよー。寝てきなさいなあんた」
「んーーー…」
「…なかちゃん、こいつ酒癖悪いね」
「ていうか、お子様なんだよまだ」
「そうだねえ」
呆れたような二人の会話を余所に、竜太朗は笹渕にしがみついたままうとうとし始めた。やっと平和になるか、そう思ったとき、ぼそぼそと下から声がしてきた。
「俺さあ、ぶっちがお姉さんといちゃいちゃすんの嫌だ…」
今の俺のタイプはぶっちだもん。
笹渕は答えなかった。答えられなかった、の方が正しいのかもしれない。やがて本当に寝入った竜太朗を支えたまま、家に着くまで無言だった。
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合コン編が終わらない…なぜだ…次回も続きます。
酒癖悪い竜太朗坊ちゃんが妙にリアリティ出てしまいました(苦笑)
対して、ぶっちをかっこよく書き過ぎた感もある。
2010.8.22 up