“ほんとの気持ちと、思い込みと。” ドアを開けて寝室に入ってきたキリトは不機嫌さを倍増させているようで、潤は戸惑った。 「あー…、もう寝る?」 一瞬間をおいた潤の問いに無言で頷くと、キリトはベッドに滑り込んだ。 さっきまで不機嫌も露にパソコンに向かっていたから、きっと暫くはその調子で仕事をしているのだろうと思い、潤は一人で雑誌を読んでいた。そのまま寝るつもりで。しかしキリトが寝る姿勢ならば電気を消して自分は他の部屋に──そう思ってベッドを抜けかけた、その腕を強く引っ張られる。 「うわ、…何?」 答えはなく、ベッドに引きずり込まれて首筋に唇を感じて、びくりと肩が跳ねた。背後から抱き込まれて、パジャマの下から入り込んだ手が胸を伝い、嫌でも何をする気か解って体が震える。 「キリト…っ」 抗うつもりはなかったけれど、少々強引なやり方に抗議をしようと口を開いてすぐ、下肢に伸びた手に熱を握り込まれて息を飲む。反応もしていなかったそこを愛撫する、あまりに性急なやり方に言葉が続かない。行為は続けたまま身に付けていたものを脱がして、息の上がった潤の顔を覗き込んだキリトは不機嫌なまま、しかしどこか苦しそうに「たまにはキツくてもいいだろ」と言い、潤が答える前に一方的に身体を繋げた。 ────ねえ、いっそ。 スタジオではレコーディングという名の地下作業が行われていた。各パートに分かれての作業、所々で入る取材にスケジュールを調整して対応する。キリトは今日は別場所の予定で、スタジオには現れないとのことだった。 それを確認して、潤はソファに身体を擡げて煙草に火をつける。ほんの少し、身体の奥に痛みを感じた。 思えば最近二人でいる時のキリトは、不機嫌なことが多かった。仕事での苛立ちを八つ当たりされたりするようなことは、長い付き合いの中で日常的にあったからそれほど気にはしていなかったが、例えばそれに気付いてさり気なく一人にしてやったりすると、それに対しても不機嫌になったりするようだった。今までそうやってきて治めていたものがむしろ逆効果になったかのような態度に、潤は正直なところ戸惑っている。 10年付き合ってきて、仕事も一緒で、あの人のことはたいてい解っていたつもりだったんだけどなあ。 常識が覆されたような気分で、頭を抱えたくなった。だけどだからと言って関係に溝が生まれたかというとそうでもなく、少なくとも自分はキリトから離れたいとは思わない。キリトにもそういう素振りは見えない。 ────どうしたものだか。そう思うけれど、だけど打開しなくてはいけないほど深刻な問題でもないような気もして、それにも逆に滅入る。 ねえいっそ、必死になるくらいの何かを与えて。 「…それから4小節目でブレイク、で」 「ちょっと待って、そこまでアルペジオで続けんの? 途中でリフに変えた方が良くない?」 「いや、俺のフレーズがこうだからさ、──」 そう言ってギターを鳴らせてみると、暫し考えたアイジは、うん、と頷いた。 「オッケー。とりあえずそれでやってみよう」 こういった、ギター同士でのフレーズの詰め合いといった作業は潤も嫌いではなかった。煮詰まることも多いが、ぶつかり合いながらも完成型に近付く、その手応えは楽しい。 少し休憩、そう合図が出てブースから出てきた潤は、ギターを下ろしてアイジの隣に座った、ん、と伸びをして息をつく。 「どうにか見えたな」 「そうだね。あと2、3回で完了すんじゃねえ?」 「やれやれだよねー。そういやキリトは?」 「え、今日は来ないんじゃないの?」 潤がそう答えると、そっか、と煙草を揉み消したアイジは何でもないことのように聞いた。 「ねー潤くんとキリトってさ、倦怠期?」 なんかさ、お互いのスケジュールとか全然どうでもいいって感じになってるし。少なくとも潤くんは前はそうじゃなかったよね? とっさに反応が出来ない潤の前で、薄く笑ったアイジが続ける。内容より、潤の反応を面白がっている感じの態度は、それほど深刻だと思ってはいないことが見て取れたが、それでも潤は笑うことも怒ることもできないでアイジの言葉を受ける。 「さすがに10年とか付き合ったらそうなるのは当たり前だろうけどさ、この前リーダーに、何だっけ、用意してって言われたものをさ、とっくに潤さんが置いてますよって聞いたらさ、何かリーダー不機嫌になってたし。熟年夫婦みたいなのが嫌なのかなーって思った」 「…別に、そういうわけじゃないと思うけど」 「んーだけどさあ、前だったら流すか、ちょっと嬉しそうにしてたと思うんだよね。だからさ、長過ぎて当たり前になっちゃって、それに気付いて不機嫌になったのかなーって」 それはかなり核心を突いた言葉だと思い、潤は押し黙る。確かに最近、そういうことが多いと思っていた矢先だ。他人にも指摘されるような程度なのだろうか、そう思うとさすがに気にしないわけにはいかない。 黙ってしまった潤を見て、アイジは自分なりに納得したのか「そうなんでしょ? そうなんだ。だったら潤くんもっと積極的にしてみたら」と少し見当違いのことを言ってきた。苦笑しながら、それがアイジの優しさだとも解っているから、潤は曖昧に頷いておいた。 …だからといって、打開策が明確な問題でも、ないと解っている。 だけど事態は思ったより急速な展開を見せた。 その日潤の家を訪れたキリトは「昨日は悪かった」と謝った後、「暫く距離を置いて考えたい」と言ってきた。布石のようなものはあったものの潤は本当に驚いて、ほとんど呆然としたまま頷いた。キリトの表情は読めなかった。 驚きすぎて、必死になんて、なれなかった。 ぽっかりと穴が空く、ということはこういうことなのだと思い知った気がする。 距離を置く、そう言われてから一月以上が過ぎて、仕事以外でキリトとは会っていない。仕事場で会えば普通に話をするのだが、日常的にお互いの家に行き来をしていた期間が長過ぎて、どうにもこの不在に慣れられずにいる。 それに慣れてしまっても、困るのだけれど。 「…おおーい、潤くん、大丈夫?」 「うえ?」 何時の間にか机に突っ伏していたらしい。情けないな、と思いつつ、覗き込んできたタケオに、へら、と笑ってみせる。 「いや大丈夫。あ、ごめん、待たせた?」 「いやそうじゃないけど。…単純に大丈夫かなって思って」 「へ?」 きょとんとする潤に、タケオが苦笑する。そしてちらりと離れたところでコータと何か話しているキリトを見た。 「潤くんとキリト。何かあったでしょ」 「え…」 一瞬誤魔化そうとして諦める。キリトじゃあるまいし、自分が隠せるわけがない、しかもタケオ相手に。 「…解っちゃう、かあ…」 諦めて笑った潤に、タケオはもう一度苦笑した。 「喧嘩ってわけじゃなさそうだけど」 「んー…それより生温い感じ」 「…どういうことよ」 「んー…」 暫しの逡巡。あまり言うべきことでもない気がしたが、特に隠すことでもない気もして、タケオに対する信頼感もあって潤は口を開いた。 「暫く距離を置こうってさ、言われちゃって」 タケオは一瞬目を見開いたが、予想した範囲内だったのだろう、そうか、と呟いた。それを見て、たった一言だが告げただけで、少し気持ちが軽くなった気がして、逆に自分が思ったより堪えていることを自覚する。 「潤くんは、それでいいの」 「いいも何も…言われた時は情けないけど、びっくりしちゃって何も言えなかったっていう感じでさ。それから特には変化ないんだけど…」 最後の方はもごもごと言い淀む感じになった潤を、タケオはそのまま見ていた。責めるでもない、あくまで受け身の視線に、自然に言葉が続いた。 「ずっとすっきりしない感じはする。…けど、どうしたらいいかも、正直解んない」 どうしたらいいのか、どうしたいのか。自分は、キリトは。 キリトが、何を求めているのか、…解らないことが苦しくて。 「…潤くんはさ」 黙り込んでしまった潤を前に、ゆっくりタケオが口を開く。俯いていた顔を上げると、タケオはさっきまでと変わらない、穏やかな視線を寄越していた。その目でやんわり、だけどしっかりと告げるように言葉が続けられる。 「このままキリトとの関係が終わっちゃったら、普通の友達に戻ると思う?」 それは考えてもみなかったことで、とっさに何の反応もできなかった。 この前から応えられない出来事ばかりが起こる。それは自分が鈍いということなのか、何か想像もしなかったものが崩壊に向かっているということなのか、そう考えて唇を噛んだ。──それでも、タケオの言葉は確かに核心に触れることで、数呼吸置いて絞り出す。 「…戻らないだろうね」 そんなことは無理だ。だいたい、その前の普通の友達だった頃なんてものは存在していたのだろうか。他のメンバーとの関係と似て非なるものだったのだ、その頃既に──そしてそれから10年だ。 10年も、同じように傍にいたのに。 気付いてしまったら無理で、めまいのようなものを感じて潤は天井を仰いだ。察したのだろう、タケオは何も言わずに暫くその姿を見ていた。 「…ねえ、潤くん」 暫くの間を置いて、タケオがぽつりと声をかける。ん、とだけ反応した潤が顔を手で覆った。懺悔のように──祈りの姿勢にも似ている、そんなことを思いながら、タケオの言葉を待つ。 「そんなことはさ、キリトだって解ってると思うよ。このままなかったことになんて出来るわけないんだし、他の誰かに気持ちが移ったわけでもないし、…それに」 穏やかな声が、沁みるように耳を震わせる。内容のせいか、それはタケオの声なのにもっと別のところからの啓示のように聞こえて、潤を震わせた。 「キリトは潤くんを離すわけないと思うしね」 告げられたと同時に、頭に暖かい手が添えられた。それを感じながら潤はただ、頷くことしか出来なかった。顔を覆う手を離したら、タケオを見たら泣いてしまいそうな気がした。そうだ、そんなことは自分も解っているんだ。それなのに。──なのに。 「どうして俺はそれを、キリトに言えないんだろう…」 絞り出されたようなその声に、タケオは黙ったまま潤の頭を撫でた。しばらくの間優しく繰り返されて、やがて離されたそれを追うように手を離し、顔を覗かせると、タケオの向こうにこっちを見ているコータの顔が見えた。 キリトは背を向けたままで、表情は解らない。 気付いたら、タケオもそっちを向いていて、コータと目が合ったらしく何か頷いたりしていて、潤は反射的に目を逸らした。 背を向けあう自分たちと、間の二人と、──ひどく滑稽な風景のような気がする。そう思いながらも動けないでいた潤の肩に誰かが触れ、見上げた先にはひどく不機嫌な表情のアイジがいた。 「お前らさ、いい加減にしろよな」 直球で避けられない言葉が、刺さった。 それから何を言われたのか、正直なところ、詳しくは覚えていない。 ただ肩を掴むアイジの手がひどく熱く感じられたこととか、タケオが諌める声だとか、コータがすっ飛んで来たことだとか、そういうことばかりが鮮明で、言われた言葉は切れ切れにしか残っていない。キリトが、潤が、お前ら、悪いのは、嫌だこんなの、俺は、そういった単語が何度も登場したこととか、泣きそうだったアイジの目とか、それと。 ────それと。 「……………アイジ」 何時の間にかアイジの背後に移動していたキリトが小さく呼んだ声がひどく掠れていたこととか、その瞬間にそれまであれほど饒舌に声を荒げていたアイジが押し黙ったこととか。 「……解ったから、もういい。…悪かった、皆に」 そう言って自分を見たキリトの表情が読めないのが酷く恐くて、「後で」と言ったその言葉に無言のまま反射的に頷いてしまったこととか。 そういうことだけ、覚えている。 二人きりの帰りの車中は、当然ながら無言だった。 どちらかが機嫌が悪いわけでもなく、むしろお互いに気を遣いすぎるくらいに遣っていて、逆に痛いくらいの緊張感を孕んだままだった。二人で部屋を後にした時、見送ったアイジらが心配そうに見ていたのも知っている。だけど、どうしようもなかった。 向かった先はキリトのマンションで、一ヶ月ぶりに来たそこに戸惑いつつも、それまでの定位置だったソファに何となく座った。──思うところがなかったわけではないが、そこ以外に思い付かなくて。キリトが自分のコーヒーを入れて戻ってくる間、スタジオから持って来たペットボトルを開けて待つ──それも、それまで通りで。 やがてマグカップを手にやって来たキリトが座ったのも、いつもの位置で、何も言えないまま受け入れた。キリトも何を言えばいいのか考えあぐねているのだろう、沈黙が続く。何を言えばいいのか、何を言われるのか、まるで睨み合いだ。 「……昼間の」 先に口を開いたのは潤だった。耐えられなくなったというべきか。 「アイジ、さ、アイジだけじゃないけど、…やっぱ、皆にばれてたんだなーって」 「そうだな」 キリトがぼそりと繋いで、それだけで少しほっとした。 「コータも聞いて来たしな。タケオにも言われただろ」 「うん」 また少しの沈黙があった。コーヒーに口をつけたキリトが、ふ、と息を吐いて潤に視線を寄越し、部屋に入って初めて視線が絡む。そしてそれはそのまま、逸らせない。 「………お前はさ、」 ゆっくりとキリトが言葉を紡ぐのを、見入られたように潤は見ていた。 「離れてみて、どうだった? どう、思ってた?」 その唇を、渇望していることに気付いた。 自覚して、深く息を吸い、告げる。 「どうしていいか、解んなかった。…キリトがいない、てだけで」 それが素直な気持ちだった。それを告げ、あなたはどうなの、そう聞くと、ゆらりと立ち上がった彼が目の前に来て顔を覗き込みながら、両手で頬を包んだ。 「これから言うこと、本気だから、本気でとれよ」 「…え?」 「……お前と、結婚したい」 それは素直に受け止めるには余りにも突拍子もないことで、だけどキリトが真剣なのは解って、呆気に取られながらも嬉しいような気持ちが沸き上がってしまって、潤は硬直したまま呆然とキリトを見上げた。頬を包んだ両手に力が入り、顔を上げられて覗き込まれた、キリトの表情は真剣だ。 知ってる、これは、次の瞬間に笑って、騙された、そういう時の顔ではないこと。 「解ったんだよ。どうしたらいいかっていうか、自分がどうしたいか、どうしたらうまくいくのか」 そうして軽く口づけられ、泣きそうに顔を歪ませた潤に気付いたのか、キリトは少し笑って続ける。そのまま、潤は未だ動けずに聞いた。 「コイビト期間が長過ぎて、でも俺たちの関係は先がはっきりしないから、それで色々、見えなくなってた気がする。そうじゃない? この前まで、さ」 「…そう、かも」 「だったらもう、メンバーとか仕事仲間だけの方が気楽じゃん、て思ったけど」 「…うん」 ああそうか、と今更ながら潤も納得した。長く一緒にいすぎて、それが当たり前になって、当たり前になっていることに逆に苛々して、だからキリトは不機嫌だったのだ。そして自分は、それに気付かずに麻痺してしまっていた。 二人とも、長い時間で根本的なことを忘れてしまっていた。失うこと、それの重さも考えられないほど。 友達になんか、戻れるわけはなかったのに。 「…けど、離れてみて、違うってことに気付いた。お前も、そうだろ?」 「うん、…違う」 やっとはっきり自覚して、潤もキリトに手を伸ばした。そっとその腰に腕を回す。 「俺はやっぱり、潤とこうやって触れ合えないのは嫌だ」 「…俺も」 「だろ? だからさ、思った。どうであっても。やっぱりお前と一緒に生きて行きたいって、………それはもうつまり、結婚したいってことだなって」 もう一度、今度は深く口づけられて、告げられた言葉の重さと相まって、ほとんど泣き笑いのような表情になってしまう。嬉しいのか恥ずかしいのか、どうしたらいいのか解らなくて、ただぎゅっとしがみつくように抱きついた。 「…あなたが結婚とか、言うと思わなかった」 「俺も初めて思ったって」 「無茶、言うよね…」 「だからさ、……本当に出来はしないんだけど、気持ちとか形の上でとか、そういうとこで……一緒に生きて行きたい」 ひどく真面目に言われて、戸惑いながらもゆっくり体を離し、キリトと向き直った。自分はきっと赤い顔で、混乱した表情を見せてるんだろう。 だけど、向けられた目は、とても優しくて。 「……もう、さ、…結婚しよう」 ああ、こんなことを言われる日がくるなんて、誰が想像しただろう。ひどく恥ずかしくて、くすぐったくて、そしてひどく、幸福だ。 先が見えないということには変わらないかもしれない。それでも、──それでも、一緒に生きて行きたい、そう思って、潤は小さく頷いた。 “もう、戻れないよ。” |
end 2006.04.09
仮666HIT、あず様に捧げます。本当にお待たせしました…!!(もう来てらっしゃらないかも…)
「せつない感じで、でも最後は幸せな」ということで…幸せにしたら結婚なんて言葉が…(あわわ)
実はテーマにしたのが及川光博「婚約者になりたい」だったので(すいません)こんな結果になったのですが、長く付き合いすぎた二人の葛藤、みたいなものが出せたら、と思いました。
タイトルは“なんという恵みか”という意味合いを兼ねて、有名な讃美歌から。美しいメロディの好きな曲です。
リクエスト、本当にありがとうございました。これからもどうぞよろしくお願いいたします。