アフターイメージ






“夢を見た日から今日まで走った。”










 フラッシュのたかれる瞬間、意識が飛びそうな錯覚に陥ることがある。
 何年もこの仕事をしていれば撮影なんて数え切れないほどあった訳で、決して慣れていないわけではない。それでも強烈な閃光が放たれる瞬間に、トリップしてしまうような気がすることがあった。
 ポラチェックしますんで。カメラマンの言葉に、キリトは控えスペースに戻る。するとパイプ椅子に座ってぼけっと自分を見上げていた潤が、三白眼を細めて笑った。
「かあっこいい」
「…当然だろが」
 口の端を上げて笑顔を作る。きっと皮肉気な笑顔に見えるんだろうという自覚があったしそう装った。感情を出さないように。
 彼が真直ぐに見ていたこと、讃辞の言葉を告げてくれたことを喜んでいることを。
「何かさー、やっぱりキリト痩せてから格段にかっこ良くなったよねえ」
「羨ましかったらお前も痩せろ。ぷにぷになんだから」
「俺普通だって。まあ、こういう仕事だしもーちょっと締めた方がいいんだろうけど」
 きっちりと運動することで減量に成功したキリトに、程よく筋肉質のリズム隊二人と、細すぎるアイジ。その中にいるとやはり、中肉中背の潤は太く見える。でも面倒だしなー、と明るく言う彼はそんなに気にはしていないのだろうけれど。
「けどさあ、」
「あ?」
「…確かにかっこ良くなったと思うしあなた前からもててたけどさあ」
 心持ち眉を顰めた潤は、ちらりと隣に座ったキリトを見る。その表情は言いたいことを躊躇っている時のもので、キリトはやや眉を顰めて次の言葉を待った。
「もー少し、私生活の乱れを直した方がいいんじゃない?」
 余計なお世話かもしれないけどさ、これでも心配なんだよ。
 続けられた言葉に、憮然としたようにキリトは黙り込んだ。怒った?ごめん、そう言う潤に、首だけ振って。
 言われた内容そのものではない。潤が、それを言うことに憮然となったのだった。
 再開された撮影で、カメラを見返す瞳がいつもより、ほんの少し強かった。





 昔から、遊んでなかった訳ではない。キリトは良くも悪くも惹き付ける存在だったし、知名度が出てきてからはそれこそ引く手数多だっただろう。それは他のメンバーにも多かれ少なかれ言えることで、しかし誰もが取り立てて気にするでもなく容認してきたのは、特に注意するほどの問題がある訳で無かったからで、――――だけど最近の彼の行動は少し目に余る、と潤は思っていた。
 そしてそう思っていたのは自分だけではなかったようだ。
 その日、少しばかりの注意を告げてキリトが黙り込んでしまった後、撮影を終えてひとり次の仕事に向かったキリトが去った控え室で、タケオが潤を手招きした。


「最近、キリト、ツマってんのかな」
 話しやすいとこに移動したいから。そう言ったタケオに、じゃあ一緒に飯でもと提案し、二人でファミレスに落ち着いた。お互い、と言うよりバンド全員酒が飲めない体質故、行き慣れた場所だ。
「そう、思う?」
「ん。潤くんは、思わない?」
「…苛ついてる、とは思う」
 思っていることを素直に口にすると、タケオはストローを銜えたままでじっと見返した。
「知ってるよな」
「え」
「あの人の、最近のプライベート」
「…大体は」
 仕事以外でそれ程会うことはないから、私生活について詳しいわけではない。ただ、最近の、キリトのプライベートの乱れようは、身近な者なら解っていた。それを、今日、本人に諭したばかりだ。
 しばらく思案するように視線を落としていたタケオが、つと、潤に向き直る。訳も無く緊張するのを感じながら、無意識に潤は息を詰めた。
「あのさ、この前、二人で上がりが一緒になったしさ、六本木の方に行ったんだけど」
 うん、と頷く潤は少し苦笑した。潤から見たら呆れるほど遊び人のタケオがそういう店に行くのは珍しくなく、それに便乗する形でキリトが一緒に消えていくのも見たことがある。出無精で面倒臭がりの潤にしてみればそういう遊び自体が億劫で、止めようとは思わないまでも半ば呆れていた。
「まあ、リーダーと店に行ったこととかけっこうあるんだけど、何か…様子が違ってて」
「…どんな風に?」
「俺けっこうマメに女の子に接するんだけど、リーダーってそういうタイプじゃなくてさ。でも、この前はやたら積極的で。何て言ったらいいのかな。こう…不用意に明るくしてる感じ」
 …そうか。
 呟いて、椅子に身体を沈めた潤を見つめる。やや項垂れた潤は、苛々したように前髪を弄っていた。
「俺も、そんな感じは、した」
「うん?」
 項垂れたまま、やや苛立った声で潤が言う。もやもやと抱えていたものを吐き出すように。
「何か、誤魔化すためにか忘れるためにか、そんな感じに見えてて、それで」
 気になってたんだけど、うまく言えなくて。
 そんなことストレートに言ったら、あの人のことだからヘソ曲げそうで。
「…そっか。キリト、どうしてた?」
 歯切れの悪い言い方だったろうに、しかしそう聞いたタケオは穏やかに、やんわりと微笑みさえ浮かべていて。妙な気分になりながら潤は答える。
「むすっとしてた」
「そっか。自覚は、あるんだろうね」
 どうしたもんだかね。
 沈黙が訪れる。深夜のファミレスは適度に閑散としているけれど、話さなければ辛いほど静まり返ってはおらず、だけどこの沈黙は、痛い。
「…ね、タケオくん」
「ん」
 所在な気にコースターを弄っていた潤が、どことなく戸惑いがちに沈黙を破った。
「何でさ、その話、俺にしたの?」
 …ある意味核心だな。そう思いながら、タケオは俯いたままの潤を見遣った。だけど目の前の彼はおそらく無自覚なのだろう。ただ、持て余すくらい大きな問題を抱えて途方にくれている、それだけで。
「…まあ、コータは単純だし兄貴のことだから本気で悩みそうだし。アイジは何か、落ち込みそうだし」
「それで、俺?」
「うん。それにね…何となくさ」
 タケオは微笑んでいた。実は何もかも解って言ってるんじゃないか、そんな錯覚さえしたくらい穏やかに。
「潤くんじゃなきゃ駄目かなって思って」


 ……何で。その問に答えはなくて。
 穏やかに笑うタケオの前で、潤はまた、俯いた。





* * * * * * * * * * * * * * * * *





 家の前で車を降りた時は、既に日付けが変わって数時間経っていた。明日は15時に迎えに来ますから。そう言ったマネージャーに生返事をして、キリトはのろのろとエレベーターに向かう。
 今日は何処かに寄る気分にも誰かを呼ぶ気分にもなれなかった。女の名前を表示して着信を告げる携帯は全部無視した。元々が契約じみた関係の彼女らが再びかけてくることはなく、嫌でも関係の希薄さを感じるとともにそんなもので紛らわしている自分を嘲笑いたくなった。
 ……だって、しょうがない。こうでもしないと。


 勢い良く溢れるシャワーに打たれながら、不意に目眩を感じて踞った。
 不摂生がたたってるんだろう、他人事のように考えて意識が戻るのを待つ。スケジュールに比較的余裕がある時期とは言え充分な休みがあるわけではなく、そんな中での最近の乱れた生活はやや狂気じみてもいるんだろう。――潤が、あの穏やかな空気を消して諌めるほどに。
「でも、だって、だからってお前が…」
 呟いてみて、情けなさに笑った。


 だからって、お前が鎮めてくれる訳はないだろう?





 眠りに落ちて、見た夢は悲しかった。
 求めてやまない、たった一人を抱き締めて眠る夢。腕の中は暖かくて、だけど溺れていられればいいのに、それでもこれは夢だ、と気付いていた。気付かずにはいられなかった。
 ……あいつが、この腕の中にいるなんて、夢でない訳がないんだよ。


 だから、次の日に「帰り家に行って良い?」と言われて、とっさに息を飲んだ。





* * * * * * * * * * * * * * * * *






 必要最低限の会話しかない、帰り道。いつもならそれに何の苦痛も感じないはずなのに、今日はやけに空気が重い。ハンドルを握る潤は相変わらず安全運転で、そのせいで余計、沈黙を感じてしまう。
 家の前付近に来た時、キリトの携帯が鳴って沈黙が破られる。表示された名前を見たキリトは、そのまま鞄に放り込んだ。
「出ないの?」
「出なくていい」
「…そう」
 それ以上追求しない潤を好ましく思い、同時に腹立たしくもなる。


「…相変わらず殺風景な部屋だこと」
 通されたリビングで椅子に座りながら、潤がぽつりと呟くように言う。必要最低限のものしかない部屋は、家主以外を拒んでいるようにも感じる。
「大抵の物は、仕事部屋にあるから」
「ふーん…それにしたってさあ、コップ類とかもひとつずつしかないじゃん。誰か来たらどうしてんの」
 言ってしまって、はっとする。そんなつもりはなかったけれど、今のは彼に対する揶揄と取れるような発言だ。恐る恐る見上げると、しかしキリトは表情を変えずに答えた。
「別に。誰も来ないし」
「…え」
「遊んでる、オンナとか?そんなのここに入れねえよ」
 シンクに凭れて、あくまで平然とした態度で、だけど目を逸らして言う。見つめる潤の視線が辛くて、見返す勇気がなかった。

「……ねえ、何を望んでるの」

 暫くの沈黙の後、戸惑いがちな穏やかな声で、潤が聞いた。
 ゆっくりと顔を向けると、上目遣いにじっと見上げる潤とまともに視線がぶつかる。目付き悪いんだよ、この三白眼が、――そう言ってやりたくて、でもそう出来なくて再び目を逸らす。視界の端に映った潤の顔が、悲し気に歪んだ気がした。
「ね、キリト何か…悩んでる、よね」
 声は、震えていた。何をどう言っていいものか、悩み、だけど言わずにはいられないのだろう。彼が、どんな表情でこう言っているのかも解っていて、視線を戻せなかった。
「俺の思い込みかもしれないけど、何か、さ、辛そうだもの。好きで……夜遊びとかしてるように、見えないもの」
「……煩い、よ」
 撥ね付けたいのに、出すことが出来たのは弱々しい声でしかなく、潤が溜め息をついたのが聞こえる。
「…ね、俺で良かったら聞くから。そんな、一人で思い込まないでよ」
 もうやめろ、やめてくれ。そう言いたくて、だけど視線すら戻せない。
 叫びだしそうな気持ちを抑えるのに必死で、潤が動いたのにも気付かず、……やんわりと肩を掴まれて目を見開いた。
「ねえ、俺じゃ駄目なら、…誰か他の人にでもいいから、吐き出して、もう無理しないで」


 ――違う、お前じゃなきゃ駄目なんだ、お前が、俺は。
「…っ、キリト!」
 叫び出しそうになって堪らず身体を屈め、受け止めようとした潤を巻き添えにして床に転がった。潤の胸に抱き抱えられた形になり、慌てて起き上がろうとした身体に回された腕に、不意に力がこもる。
「じゅ…?」
 潤は何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。ただ抱き締めているだけの潤の胸に抱かれて、キリトの中で何かが外れた。



 潤が、どういうつもりで抱き締めていたか、解っていた。
 何かを抱え込んでいる自分を少しでも癒そうと、吐き出させようと。それだけの、必死な思いだったのだろうけど。……背中を押すには充分だった。



 身じろいで腕から抜け出したキリトに覆い被さられて、潤が戸惑った視線を投げる。何か言葉を発しようとして、――――抱き締められて目を見開いた。
「お前じゃ、なきゃ」
「…え」
「駄目。……お前じゃないと」
 誤魔化したくて、忘れたくて、でもどうでもいい相手はやはりどうでもいい存在でしか無く。
 求めるのは変わらない、ただひとつの。
「結局どうにも、なってないんだ」
「……キリト、」
 言っていることがうまく掴めないのだろう、困惑気味の声で呼び掛けられる。その後に続けるべき言葉も、きっと彼は見つけられていなくて。どういようもなくて黙り込んだ、その身体を抱き締めた。
「潤に―――愛されたい、だけ」
 苦しみながら告げた言葉に、腕の中の彼が息を飲む。
 困らせたい訳でも苦しめたい訳でもなかった。だけど、――もう、制止する理性は残っていなかった。
 ゆっくりと上体を起こして、呆然としている潤を見下ろした。押さえ込まれたこの状況は彼にとってひどく危険なものとも言えたのだけど、そんなことを気付く余裕などないようにただ、言うべき言葉を凍り付かせたように中途半端に口を開いて、呆然とキリトを見上げていて。
 その姿を愛おしいとすら思いながら、彼も、自分も傷付けるだけの言葉を言っていた。


「だけど、お前は、俺を愛さないだろう?」






 ……もう帰れよ。

 上から離れてそう言ったキリトに無言で頷いて、静かに潤は出て行った。
 ドアに手をかけて一瞬だけ振り向いた彼の唇が、ごめん、と声を伴わずに動いたのが見えた。










* * * * * * * * * * * * * * * * *








“いつかは雨に打たれるさ。誰かを待ち続けて。”












 それから、潤は何も触れず、キリトも何も言わず。表面上は何も変わらなかった。
 潤の性格から考えて、そのせいでキリトを避けるようなことはないとは解っていた。だけど、例えば表情ひとつからも、少なからず胸に抱え込む事柄を与えてしまったのは否めないような、そんな変化は感じられて、キリトを少しずつ苦しめる。
 そしてキリトは、吐き出してしまった虚無感のようなものを抱え、出歩くことをひどく減らした。
 呼び出すことも呼び出されることも無くした複数の相手からは連絡が途絶えてゆき、どうでもいい存在だった彼女たちに対しても多少の喪失感を感じることに、自分はこれほどまで寂しいのだ、と思い知った。
 求めているものは、変わらないのに。


 誤魔化せていたはずだった。潤も、きっと自分の中で消化してしまっている。随分と表情も優しくなった気がする。自分の態度だってごく自然だ。そう思っていた。思い込んでいた。
 ――――思い込もうとしていたのかもしれないけれど。





 潤と二人での地方キャンペーンで。宿泊先のホテルの、キリトの部屋に不意に訪れた潤は、ひどく思い詰めた顔をしていた。






* * * * * * * * * * * * * * * * *





 鞄の中に手を突っ込んで車のキーを探っている時、軽く肩を叩かれて潤は振り向いた。
「あれ?」
「よ。追い付いちゃった」
 立っていたのはさっきドア越しに挨拶を交わしたタケオで、潤が部屋を後にした時はまだスタッフと雑談をしていたはずだった。
「早いねえ」
「ん、あの後すぐリーダーから連絡があってさ、何か、曲の変更したいからスタジオの方回ってくれって」
 それでスタッフが出たから、俺も帰ることにしたってわけ。肩を竦めながら言って、ふとタケオは表情を改めた。
「何かさあ」
「え?」
 タケオの表情は苦笑しているようにも、少し怒っているようにも見える。
「この前までとは違う感じで、リーダーまたツマってるかもね」
「……ん」
 否定することはできず、小さく潤も頷いた。タケオとは、ファミレスで話をして以来キリトについて話したことはなく、キリトの“告白”のことはもちろん、彼と話し合ったことにすら触れていなかった。タケオも何も言おうとはせず、ただ、キリトの微妙な変化に引っ掛かりを感じたのだろう。……厄介で、有難い存在だと思う。
 次の言葉を発しようとしない潤に、タケオは今度ははっきりと苦笑する。
「あのさ、この前までのキリトは外に向かって発散してる感じである意味解りやすかったけどさ」
「うん?」
「今は内に籠ってる感じじゃない?」
 ――――うん。
 こくり、と潤は頷く。キリトの変化はまさにそんな感じで、原因をはっきりと知ってしまっている潤は、だけどどうしたらいいか解らずにただ見守っていた。
 タケオは潤を見る目を細めて、ゆっくりと煙草を銜えた。そして何でもないことのように、煙りと共に言葉を吐き出す。
「やっぱ、潤だけかな」
「…え?」
「潤くんじゃなきゃ駄目なんじゃないかなって、キリトは」


「どういうこと?」
 いつかと同じような会話に、やっぱりタケオから答えはなくて。
 吐き出される紫煙に混ざるように見えたのは、焼き付けられた、あの時のキリトの苦し気な姿。





* * * * * * * * * * * * * * * * *







「……何、いきなり」
 椅子に腰を下ろして、入り口で突っ立ったままの潤を見上げる。自分とは対照的に白目がちの瞳が、やけに空ろに見返している気がして少しの気まずさを覚えた。だけど急な訪問という点でもこの表情から考えても、潤がどうしてここにやって来たのかは解っているつもりで、どう切り返そうかと考えていた。
「…潤?」
 声をかけたのは、何も言わない彼に切り出すきっかけを与えてやるつもりで、だった。自分の告白に悩んで、あのとき何も言えなかった言葉を、せめて伝えに来たのだろう。おおらかでマイペースで、だけどいつも自分を気にかけてくれる彼は、彼なりに悩んでケリをつけに来たのだろう。そう思って。
 呼ばれた声に反応したように、潤がゆっくりと近付いてくる。そしてキリトの前で止まり、ちょうど真後ろにあったベッドに腰を下ろした。
「…ねえ、キリト」
 声は落ち着いていたけれど、視線の空ろさは変わらない。だけどそれは空虚な、と言うより飽和状態から何も映さなくなったような、そんな風に感じられた。
 映していないような瞳がキリトを捕らえ、やや伏せられて。そのまま伸ばされた手が、近距離で座っていたキリトの腕を掴む。そして引き寄せられて、キリトの身体が椅子から離れた。
「…潤っ」
 腰を浮かせた瞬間に強い力で引かれ、不意を突かれたキリトは潤に覆い被さる形になる。狼狽して覗き込んだキリトを見上げた潤は真直ぐに見上げていて。
「ねえ、俺じゃないと駄目?」


 声は震えていて。
 自惚れんなよバカ、別にお前じゃなくても、――――そう、いつものように憎まれ口でも叩けるならこれ以上君を苦しめることもないのに、そう思うのに。
 彼の声が、彼を逃すための嘘を許さない。



 馬乗りの形のまま、退くことも抱き締めることもできないで黙ったままのキリトは、望まないまま潤の言葉を肯定していた。潤はそんなキリトをしばらく見上げて、ゆっくりと肩を引き寄せた。
「…潤?」
 行動の意図するところが掴めないでいると、不意に首に腕が回されて抱き締められる。キリトの髪に顔を埋めた潤は小さく、しかしはっきりと告げた。
「好きなようにして、いいよ」


「…何、言って」
 反射的に身を起こしたキリトを見上げた潤は、泣きそうに、しかし穏やかな笑顔だった。告げられた内容に混乱したまま、だけどそれ以上離れられずにいるキリトに手を伸ばす。
「何、言って。どういうことか解ってんのか?…同情なんかで、そんな」
「違う、よ。キリト。だって」
 苦しそうに歪んだ顔を掌で包んで、穏やかに告げる。思いが、ちゃんと伝わるように。
「俺は、あなたが好きだから。だから」
 好きだから。大事だから。
「好きだから、俺にできることなら、何だってしたいと思うから。それくらい、あんたが好きだから」
 解る?解ってる?キリトの瞳を覗き込んで、口調とは裏腹に必死な気持ちで伝えた。
「あなたが俺じゃなきゃ駄目って言ってくれるんなら、俺は、それに応えたいんだ。恋愛かどうかは解らないけど、言い切れないけど、それでも、俺はあなたのために出来ることは、何でもするよ」
 必死で告げた言葉を、苦しそうに聞いて――――しばらくして、頬に添えられた潤の手首を掴んだキリトは、ゆっくりそれを引き離した。
「…そんなこと、言うんじゃねえよ」
「信じない?」
 キリトは首を振った。潤が考えに考えて、悩んで出した答えだということは解っている。だけど、受け入れる訳にはいかないと、思った。
「お前の気持ちに嘘はないだろう。だから、駄目なんだ」
「キリト…」
「俺を思ってくれてるから、駄目なんだよ」
 ただの契約による関係なら、何も考えずにいられるのに。こんなに自分を思ってくれる彼は、だけどきっと自分を愛さないのは解っているから、――――彼が大切だから、触れてはいけない。
「……だけど、キリト」
 潤の眼は潤んでいた。見返す自分の眼もきっと弱々しいんだろう、と思う。
 眼を潤ませて、か弱い声でキリトに掴まれたままの手首を振りほどいて、潤は俯いた。
「あなた、ずっと苦しそうじゃないか。…どうすればいいの。俺は、どうしたらあなたを楽にしてあげられるの……」
 ……だって結局、あなたを苦しめてるのは俺なんでしょう?
 キリトは唇を噛んだ。自分が潤を追い詰めているのだ、と思った。好きなのに。ただ、好きなだけなのに。
 お互いを大切に思っているのに。何故こんなにも。


 俯く潤の顔を上げさせると、赤く充血した眼が見上げてきた。その身体をそっと抱き締めて「これで、もう忘れる」と囁いた。うん、と呟いた潤もそっと抱き返して。






 俺は、あなたからは離れられないから。それだけは、知ってて。
 縋るように言った潤に、ただ頷いて、目を閉じた。
















 瞼の裏に焼き付いて離れない面影は、フラッシュの残像にも似て。そしてこの想いも、印画紙に焼き付けるように胸に刻まれて、消えることはないのだろうけれど。
 それは俺だけが持っていくよ。言わずに、心の中で呟いて、キリトは腕を広げ―――――声も無く、笑う。













“残したものも残ったものも何もないはずだ。夏は終わった。”
 

end 2002.08.15




書いてるうちに「レーゼンデートル」にかなり近くなってしまって、結局、根本的に私の中にはっきりしたキリ潤像があって、そこから抜けられないんだろうなーということがよく解りました(アイ潤像も…う、キャパ狭っ)。
私にとってキリトと潤ではカラダ先行の関係はあり得ないんでしょう。あくまでメンタルで繋がってないと。
色文字はムーンライダーズ“くれない埠頭”。バンドの解散とかにもぴったりな(苦笑)終焉ソングです。何も残さず終わることの難しさと美しさを考えて書いたんですけどね。
読んで下さってありがとうございました。