ウインザー公 Vs あの方


[ 1 : 宝 石 類 の オークション ]

レマン湖とホテル

1987 年 4 月 2 日のこと、スイスの チューリッヒに次ぐ第 2 の都市である ジュネーブの レマン湖畔にある オテル ( ホテル ) ・ ボー ・ リバージュ ( Hotel Beau-Rivage Geneva ) は、世界中から集まった貴族 ・ 富豪 ・ 宝石 バイヤーたちでにぎわっていました。

それは世界最古の国際競売会社として有名な イギリス ( 現在は アメリカ企業に買収された ) の サザビーズ ( Sotheby's ) 社によって、 ある女性 ウインザー ・ ジュエリー ( Windsor Jewelry ) と呼ばれる宝石類の コレクションが、 オークションに掛けられるのを待つ人達でした。

パームビーチ

それまでに ニューヨークの マンハッタン や、 世界で 2 番目に小さい 国家で フランスの地中海沿岸地方 コート ・ ダジュールに位置し、カジノや F1 モナコ ・ グランプリ が開催されることで知られる モナコ 、そして アメリカの フロリダ州 マイアミの北約 100 キロメートルにあり富豪と セレブの別荘があることで知られる、 パーム ビーチ ( Palm Beach、写真 ) でも今回出品される宝石類の内覧会が事前におこなわれていたので、招待客にはそれぞれ購入目当ての品物がありました。

フラミンゴ

右の写真は オークションに出品された有名な フラミンゴの ブローチ で、 1940 年に パリの カルティエ ( Cartier ) で製作されたものですが、羽根の部分は カリブレ ・ カットの エメラルド、ルビー、サファイアを巧みに配し、くちばしは シトリン ( Citrine、黄水晶 ) と サファイア、首や脚は ブリリアン ・カットの ダイヤモンドでした。

オークション会場に出席する男性は ブラック ・ タイ ( Black Tie、つまり タキシード+黒の蝶 タイ )、女性は イブニング ・ ドレスに宝石という装いで、さながら パーティー会場のようでした。

オークションは翌日も催されましたが、二日間の売り上げ総額は 5,100 万 ドル ( 51 億円 ) にのぼりましたが、 「 その女性 」 の遺言に従い、純益は後日 フランスにある パスツール研究所 ( Institut Pasteur ) に エイズ研究基金として全て寄付されました。

エドワード八世

これから述べることは かつては イギリス国王であった エドワード 8 世 ( 1894〜1972 年 ) が、 王位に留まるか 不倫相手 の 「 その女性 」 ( 1896〜1986 年 ) を取るかの選択 を迫られ、 イギリス国王の地位を捨てて その女性と結婚した 「 ウインザー公 ( 退位後の名称 ) 」 の物語です。


[ 2 : 私 生 児 だった そ の 女 性 ]

肺結核

「その女性」 は 1895 年 6 月 19 日に アメリカ ・ メリーランド 州 ・ ボルチモア で生まれましたが、父親 は 当時特効薬 がなく 安静 だけが 唯一の 治療法 であり、死 病 といわれた 肺結核 を 患 い 大学 を 中退 して 小 さな アパートを借 りて、一人 で 療養中 の テアクル ( 25 才 )という 男 で した。出産 した 女性 との 結婚 は していませんで した。

母親 になった 女性 は ボルチモア の 裕福 な 家庭 の 娘 の アリス で し た が、二人 は 恋仲 になり やがて 妊娠 したので した。生まれた 女児 は 私生児 だったので、キリスト 教 の 一宗派 である 教会 は 不道徳 の 産物 である 女児 に 幼 児 洗 礼 ( child baptism )を 授 けることを 拒否 しま したが、このことは 「 その 女性 」 に 終生深 い 心 の 傷 を 与 えま した。

翌年、出生 から 1 年 5 ヶ月 後 に 二人 は 教会 で 結婚式 を 挙 げようと しま したが、前述 の 理由 から 教会 での 挙式 を 断 られ、ある 宗派 の 牧師 を 務 める 人 の 自宅 の 居間 で 結婚式 を 挙 げ、祝福 する 両 家 の 家族 が 誰 もいない 寂 しい 式 でした。

ところが 1 年後 に 夫 の テアクル が 結核 の 悪化 で 死 亡 しま したが、それまで 結核 の 感染 を 恐れて 一度 も 抱 いたことのない 我 が 子 の 写真 を 死 の 床 で 見 せられ、 テアクルは 涙 をこぼ したといわれています。

夫 の 死後 妻 の アリス は 赤子 を 連れて 夫 の 実家 に 同居 しま したが、気詰 まりな 居 候 ( いそうろう、他人 の 家 で 食 べさせてもらっている 食客 ) 生活 から 抜 け 出 して、1901 年 に 他所 に 移 り 住 み 、縫製工場 で 働 きながら 子供 を 育 てま した。しかし 1902 年 に アリス の 姉 が 見 る に 見 かねて同居 をすすめてくれたので、人並 みの 生活 が 送 れるようになりま した。

1908 年 に 母親 の アリスが 37 才 まで 独身 だった 男 と 結婚 することになり、当時 12 才の 「 その女性 」 も 一緒 に 暮 らすことになりま した。小学校の同級生 で した ミセス ・ ホイトマン によれば、

あの方が 一番頭 がよかった。絶対 に 一番 になると 決 めていら しゃったみたいね。でも とても 貧乏 でいらっしたわ。お 小遣 いを 持 っているのを 見 たことがありませんもの。

と 回想 していま した。


[ 3 : 最 初 の 夫 と の 出 会 い ]

1916 年春 のこと、フロリダ 州 ペンサコーラ ( Pensacola ) に 住 んでいた 従姉妹 の コリンヌ から、 「 夫 の マスティン 海軍大尉 が テスト 飛行 をおこなうので 見 がてら 遊 びに 来ないか 」 と 「 その女性 」 のところに 言 ってきま した。

基地正門

そこで 21 才になった 「 その女性 」 は ペンサコーラに行くことに しま したが、不肖 ( ふ しょう ) 私 が 昭和 32 年 ( 1957 年 ) に 同 じ ペンサコーラ海軍航空基地 ( Naval Air Station ) 内にある海軍飛行学校 に 留学 する、 41 年前のことで した。

そこで 「 その女性 」 は 制服 を 着 た男、つまり 海軍 の パイロット で、しかも 夢 に 描 いた 金持 ち の 息子 である スペンサー と 再婚 しま した。彼 の 父親 が シカゴ の 紳士録 に 名前 が 載っているこの 男 は とんだ 食 わせ 者 で 酒癖 が悪 く、酒 を 飲 んでは 何 かと トラブル を 起 こ し、おまけに 同性愛者 で した。

その後 1918 年 に アメリカ の 西海岸 に ある カリフォルニア 州  サン ・ ディエゴ ( San Diego ) に 転勤 になりま した が、「 その女性 」 は 運転免許停止中 の 夫 を 朝夕海軍基地 へ 送 り 迎 えする 役目 を 果 た しま した。

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俯瞰図

ちなみにその 29 年後 に 私 は ジェット 機用 の 長 い 滑走路 ( 9,400 フィート ) が 1 本 しかない サン ・ ディエゴ 国際空港 を 主基地 に して、 ボーイング 727 型機 の 飛行訓練 を 同 じ 州内 にある 砂漠地帯 の ブライス ( Blythe ) 飛行場 で 受けま した。

右上の写真は サン ・ ディエゴ 空港 の 滑走路 ですが、「 1 」 とあるのが 係留中 の ヨット の 群 で、「 2 」 は インター ステイト ・ ハイウエイ ( Interstate Highway 、州間高速道路、 アメリカ では 高速道路 は 全 て 無料 ) の 5 号線 で、これを 上方 に 行 けば ロサンゼルス へ、下 に 行 けば メキシコ 領 の ティファナ ( T i j u a n a ) に 行 きます。 「 3 」 は 私 が 宿泊 していた シェラトン ( Sheraton ) ホテルのある、  ハーバー ・ アイランド ( Harbor Island ) です。

サン・ディエゴ空港

サン ・ ディエゴ 国際空港の東側には サン ・ ディエゴ 海軍病院 や 市立大学 のある丘陵地帯 のために、西に向かい 着陸 する 際 には 丘陵地帯 を 越 すと 急降下 して 着陸 する、いわゆる キャニオン ・ アプローチ ( Canyon Approach、谷間 の 滑走路 へ の 着陸方法 ) を しなければなりませんで した。

ティフアナ

私はその 後 も 夫婦 の 個人旅行 で 北米西海岸 を 訪 れた 際 に サン ・ ディエゴを 二度 訪れま したが、レンタカーを 借 りて インターステイト ・ ハイウエイ 5 号線 を、当時の フランキー ・ レインが歌う リバイバル の 歌  「 SOUTH OF THE BORDER 」 ( 国 境 の 南 ) の 歌詞 ( South of the border Down Mexico way−−− ) を 口 ずさみながら 南下 して、 メキシコ 領 の ティファナ ( Tijuana ) まで 遊 びに 行 きま した。

デル・コロナド

なお サン ・ ディエゴ の コ ロ ナ ド 地区 にある ホテル ・ デ ル ・ コロナド ( Hotel del Coronado ) は、 「 その女性 」 が 夫 の 転勤 に 伴 いこの 市 に 来 た 際 に 最初 に 泊 まった ホテル で したが、その 2 年後 の 1920 年 4 月には 当時 の イギリス の エドワード 皇太子 ( 後 の ウインザー 公 ) も 宿泊 した ホテル でした。 

私達夫婦 は 有名人 が 泊 まったことなど 全 く 興 味 がな く、料金 が 高 めな 赤 と 白 の 色彩 の ホテル に 宿泊 しま したが、後方に見える橋は コ ロ ナ ド 橋 で下を 航空母艦 などが 通過 します。

なお ハイウエイ 5 号線 沿 いに ティファナ ( Tijuana ) の 国境 ゲート の 手前 まで、市内電車 が 走 っていたのが、昔 との違 いで した。

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[ 4 : 夫 婦 生 活 の 破 綻 ]

「 その女性 」 の夫は酒浸りがひどくなり暴れて家具を壊したり深夜泥酔してわめきちらし、彼女を バスルームに何時間も閉じ込めるようなことまでするようになりました。彼は妻である 「 その女性 」 が彼に冷たくなったのは妻が浮気をしているに違いないと決めつけ、自分の行為に対する反省はまったくなく、ついには別居する事態になりました。

すると タイミングよく海軍士官 の 夫 は 中国 の 広東 ( かんとん ) に 転勤 したので、子供 のいない 「 その女性 」 は 女学校時代 の 金持 ちの 親友 を 頼って ワシントンに 行 き、やがて 社交界 に 顔 を出 すようになりました。

その 社会 では 離婚 して しまった 女性 よりも、 「 わけあり 」 夫 と 別居中 の 妻 の 方 が 交際 するには 好 ましい 相手 とされたので、「 その女性 」 は次から次へと 相手 を 替 え、快楽 にふけるようになりま した。

当時 の 国際電報 は 全 て 外国 の 諜報機関 により 傍受 され 暗号 も 解読 される 危 険 があったので、国務省 では 海軍士官 の 妻 や 家族 に 外国公館宛 ての 秘密書類 を 携行する 伝 書 使 ( クーリエ、Courier ) の 仕事 を 依頼 していま した。「 その女性 」も 特別待遇 の 海外旅行 ができるとあってこれに 応募 し、1924 年 に 中国 に 向 けて 出発 し 現地で 夫 と 再会 しま した。

しかし 12 年 続 いた 夫婦 の 絆 はすでに 切れ 「 その女性 」 は 伝書使 の 仕事 を 終 えるとすぐには アメリカには 帰 らずに、中国 の 上海 や 北京 でも 夫 に 内緒 の 派手 な 火遊 びで 妊娠 した 子供 を 堕 ろ し 1928 年 2 月に 二人 の 離婚 がようやく 成立 しま した。


[ 5 : 地 位 と 富 を 求 め て ]

かつての 計画 どおりに 「 その 女性 」 は、それまでの 海軍士官夫人 の 生活 からより 豊 かな 生活 を求めて、妻子 のある ユダヤ人貿易商 の アーネスト ・ シンプソン と 交際 するようになり、やがて彼に妻を離婚 させ 彼 と 二度目 の 結婚 を しましたが、最初 の 離婚成立 から 僅 か 5 ヶ月後 の 1928 年 7 月 のことで した。これで 青年実業家 夫人 と して 経済的 には 安楽 に 暮 らせることになりま したが、「 その女性 」 の 野心 はこれだけでは 留 まりませんで した。

夫 の アーネスト は 商売 に 支障 があるために 自分 が ユダヤ 人 であることをひたすら 隠 し、 ワ ス プ ( W A S P、White,Anglo-saxon,Protestant、白人 で しかも アングロサクソン 系 の 新教徒 ) の出身 である 妻 にも このことを 隠 して、 イギリス 紳士 のように 振 る 舞 い ロンドン に 住 むことに しま した。

1920 年代 の アメリカ 人は イギリス に 憧 れていて、一方の イギリス でも アメリカ 人 は 膨大な富 を 稼 ぐというので、ロンドン の 社交界 もようやく 彼等 を 受 け 入 れるようになりま したが、ロンドン の 社交界入 りを 目指 した 「 その女性 」 にとっては 絶好 の タイミング で した。

しか しその 当時 ロンドンに 大勢 いた アメリカ の 大財閥 の 夫人連中 からみれば、シンプソン の 二度目 の 夫人 になった 元海軍士官 夫人 出 の 「 その女性 」 の 存在 など 眼中 にありませんで した。


[ 6 : い わ し ( 鰯 ) と 呼 ばれた エドワード 皇 太 子 ]

イギリス 王室 について 調 べる際 に 混乱 するのは、呼 び 名 が 変化 することです。たとえば 1894 年 に 誕生 した エドワード 皇太子 ( 後の ウインザー公 ) は 1909 年 に 祖父 の エドワード 七 世 が 死 ぬと、父 が 即位 して ジョージ 五 世 になりま したが、エドワード も新たに コーン ウォール 公爵 ( Duke of Cornwall ) の 位 を 贈 られて 正式 に 王位継承者 になりま した。

エドワード皇太子

参考 までに エドワード 皇太子 が 12 才 で 王立海軍学校 に 入学 した 際 には、彼 のことを 腕白 な 同級生 は 特別扱 い しませんで した。小柄 で痩 せていた エドワードに付 けた あだ 名 は サーディン ( Sardine、いわし ) でした。

これは 将来 皇太子になった 際に プリンス ・ オブ ・ ウェールズ の 称号 が与 えられることが 既 に 決 まっていたことから、 ウ ェ ー ル ズ ( Wales ) と 同 じ 発音 の くじら Whale(s) とは 大違 い の、 「 チ ビ 」 という 意味 で 付 けられたもので した。

その後 1911 年 7 月 の 16 才 の 誕生日 には 予定通 りに プリンス ・ オブ ・ ウェールズ ( The Prince of Wales ) の 称号 が 授けられま したが、将来国王 になる者 に 爵 位 など 不要 と 思うのは、今も イギリスに 厳然 と 存在 する 階級社会 ・ 肩書社会 無知 な 日本人 だけです。

これにより将来 彼 の 配偶者 になる 女性 は イギリス 王妃 になるまでは、 ダッチェス ( Duchess 、公爵夫人 ) または ウェールズ 公 妃 殿 下 ( Her Royal Highness The Princess of Wales ) と 呼 ばれる 公的資格 が 与 えられることになりま した。


[ 7 : 上 流 階 級 の 暮 ら し ]

ダンス

当時の イギリスにおいては 上流階級 の 夫人 たちは 後継 ぎの 子供を 産 めばそれで 十分であり、家庭内 のことは 使用人 の 頭 ( かしら ) である バトラー ( Butler、執事 ) に任せ、育児 は 小児語 で ナニー ( nanny ) と呼 ばれる 住 み 込 みの 乳 母 ( Nurse-maid ) が 世話 を しま した。

夫は先祖伝来の広大な土地から得る収入や莫大な金融資産から生じる利益のために 働く必要がなく 、クリケット ・ 乗馬 ・ 狐狩りや社交 ・ ダンス パーティー などでひまをつぶすぜいたくな暮らしをしました。

子供が小学校にあがる頃になると子供 1 人ひとりに専属の チューター ( Tutor、家庭教師 ) を付けて家庭内で教育させ、その後は 中高 一貫校である いわゆる イートン校などの パブリック ・ スクール ( 私立学校 ) で寮生活をさせるのが英王室 ・ 貴族の子弟に対する一般的な教育方針でした。

ちなみに 1440 年に創立された イートン校の場合、授業料と寮費の合計は現在 年額 3 万英 ポンド = 450 万円 程度であり、制服は最低でも 10 万円以上する燕尾服を着用し、貴族の親は子供が生まれるとすぐに入学申し込みをするといわれていました。


[ 7−1、不 倫 狂 騒 曲 ( 狂 想 曲 ? ) ]

「 貞操観念 」 という 言葉 は 現代 の 日本 では 既 に 死語 になっていますが 、19 〜 20 世紀における ロンドン の 上流階級 の 人々 にとっても 無用 の 言葉 であり、 不倫 が 流行 していま した

ジョージ 五世 の 長男 として 生 まれた エドワード 皇太子 ( 後の ウインザー公 ) の 初恋 の 相手 は、こともあろうに イギリスの下院 ( House of Commons、庶民院 ) 議員の妻である ワード夫人でしたが、二人 の 子持 ちである 彼女 に 皇太子 は 青春 の 情熱 を 傾 けま した。

フランス 人 の ローラン 夫人 も 皇太子 の 恋人 の 一 人で、 自分 と エドワード 皇太子 との 不倫関係 を 棚 に 上 げて 、大金持 ちである 夫 の 女性関係 に 嫉妬 して 夫 を ピストルで 射殺 する 事件 を 起 こ しま した。

しか し 裁判 で 彼女 が 無罪 になったのは、皇太子 が 腕利 きの 弁護士 を 裁判 に 差 し 向 けて 彼女 を 弁護 したためといわれていて、皇太子 はその 後 も 週末 になると 飛行機 で ローラ 夫人 に 会 いに 行 き 楽 しい 週末 を 過 ご しま した。

そのほか 女性 で 初 めて 大西洋横断飛行 に成功 した アメリカ 人 の 飛行家、アメリア ・ イアハート( Amelia Earhart、1897〜1937 年 ) も、 一時 エドワード皇太子 の 愛人 になりま した。

同棲

当時 ロンドン の 社交界 の 中 でも 有名 だったのは アメリカ 人 の テルマ ・ ファーネス 、子爵夫人 ( Thelma Furness, Viscountess Furness 、1904〜1970 年 ) で、夫 の ファーネス 子爵 がいる 身 でありながら 堂々 と エドワード 皇太子 の 別荘 で 同棲生活 を 始 め、世間 をあっと 言 わせま した。

しか し 彼女 の 夫 も 夫 で カリブ 海 にある バミューダ 諸島 での クルージング 会社 の 経営 が 好調 で、南 フランス に 若 い 美女 を 囲 い、 ロンドン の 妻 の 元 には 寄 りつこうとは しませんで した。

上の 写真 は 夫婦気取 りの エドワード 皇太子 と ロイアル ・ ミストレス ( Royal Mistress、皇太子の愛人 ) の テルマ ・ ファーネス子爵夫人

当時の ロンドン 社交界 は 遊 び 好 きの 皇太子 を 中心 に して 不倫 狂騒曲 ( きょうそうきょく ) を奏 ( かな ) でていましたが、「 名声欲 ・ 財産欲 」 が 人 一 倍旺盛 な 「 その 女性 」 も、知り合いを通じて ロンドン の 社交界 になんとか 潜 り 込 む 事 に 成功 し、皇太子 との 出会 いの チャンス をひたすら 待 ち 望 みま した。


[ 8 : ロ イ ア ル ・ ミ ス ト レ ス ]

テルマが エドワード 皇太子 との 同棲 を 続 けたのは、 彼 の 弱 点 を しっかり 握 っていたからとされますが、後に彼女は親 しい 友人 に 皇太子 のことを  「 The little man 」 とあだ 名 を 付 けたことを 告白 しま したが、その 「 little 」 の意味について ここでは各自の想像にお任せ します。

「 その女性 」 が エドワード皇太子 と 初 めて 言葉 を 交 わ したのは 1931 年の 1 月のことで、テルマ の 別荘 に 夫婦 で 招待 され、そこで 皇太子 に 紹介 された 時 のことで した。「 その女性 」 は 初対面 の 瞬間、 皇太子 が 従順 で 控 えめな 女性 よりも、意志 が 強 く 包容力 のある 女性 に 惹 かれる タイプであることを 本能的 に 見抜 きま した。

当時 の 上流社交界 では 夫 は 妻 の 行状 に 口 を差 し 挟 まない し、妻 も 夫 が 若 い 愛人 をつくっても 知 らぬふりを していま した。「 その女性 」 はやがて 長年 の 夢 が 叶 い、 友人 の テルマ を 蹴落 と して エドワード皇太子 と 愛人関係 になることに 成功 し、ロンドン 社交界 で ロイアル ・ ミストレス ( エドワード皇太子 の 愛人 ) という 地位 (?) を 得 ることに 成功 しま した。しかも その 一方で アーネスト ・ シンプソン の 妻 でありながら−−−

不美人のウォリス

写真 を 見れば 分 かりますが、彼女 はどう 見 ても 美 人 の 部 類 で は な く 「 並 か そ れ 以 下 」 の 容貌 で あ り、上流階級夫人 と しての 教養 にも 欠 ける 「 その女性 」である ウォリス ・ シンプソン が皇太子 を 虜 ( とりこ ) に した 理由 については、皆 が 不思議 がりま した。


( 8−1、「 ウ ォ リ ス 」 の 慢 心 )

ロイアル ・ ミストレス になるとあたかも 王室 の 一員 のごとき 扱 いを 社交界 で 受 けられようになり、その 快感 を 彼女 にもたら しま したが、同時 に 貧 しい 出自 の 「 ウォリス 」 を 有頂天 にさせ 慢 心 させま した。

皇太子 の 私邸 の ヨーク ・ ハウス で 長年皇太子直属 の 使用人 と して 働 いていた フットマン ( Foot-man、男性家事使用人 ) や 執事 に対 して、「 皇太子 さまが−−− 」 を 口癖 に しては、彼女 のやりたい 放題 のことを 命 じま した。

その結果、それまで 父親代 わりに 皇太子 を 監督 してきた 執事 の フィンチとも 対立 し、 「 嫌 だ っ た ら 辞 め れ ば い い 」 と 冷 ややかに 言 う 彼女 に、彼等 は 辞表 を 出 して 職場 を 去 っていきま した。

 さらに 不品行 を していたのは エドワード 皇太子 だけではなく 彼 の 弟 の ジョージ 王子 もそうで した。黒人女性 や 同性愛男性 との 関係 ・ 麻薬の使用 ・ 私生児 の うわさなど、長兄 に劣らず ゴシップ ( 醜 聞 ) が 絶 えませんで したが、ギリシャ の マリーナ 王女 と 結婚 して ケント 公と 名 を 改 めま した。

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ついでに 述 べますと チャールズ 皇太子 と カミラ ( Camilla ) 夫人 との 長年 の 不倫 が原因 で、ダイアナ 妃自身 も 不倫 の 末 に 離婚 し、後 に 交通事故死 しま したが、 ダイアナ 妃 の 両親 についても、母親 フランシス の 不倫 が 発覚 したために ダイアナが 子供 の 頃 に 両親 は 離婚 しま した。

ダイアナ妃

彼女は 父 エドワード ・ スペンサー に 引 き 取 られて 育 てられま したが、 ダイアナは 生 来 頭 が 悪 く 学 業 成 績 も 不 良 で 、貴族 の 出身 にもかかわらず 勉強嫌 いのため 大学 にも 行 かずに 幼稚園 で 保育 の 仕事 を 手伝 っていま したが、20 才 の 時 に 33 才の チャールズ 皇太子 と 結婚 し、15 年後 に 離婚 し 翌年 に 自動車事故死 しま した。

イギリス における 皇太子妃 の 選考要件 には 頭 の 悪 さ、高 卒 の 教 養 などは 関係 なく、将来 の イギリス 王妃 にとっては Good looking 「 外 見 の 良 さ 」 だけが 最 も 重 要 で し た

キャサリン妃

ちなみに チャールズ 皇太子 の 長男 ウイリアム 王子 と 結婚 し、今回 ジョージ を出産 した キャサリン 妃 の母親は 元 英国航空 の 客室乗務員、父は同じく運行管理者 ( Dispatcher ) を して いて 結婚 しま したが、母方 の 祖父母 はそれぞれ 工員 と 炭鉱夫 の 家系 で 労働者階級 に 属 していま した。そのために、ウィリアム 王子との 結婚 では、「 炭 坑 から 王 室 へ 」 などと 報 じられましたが、家柄など もはや 問題 になりませんで した。

なお 欧米先進国 では 客室乗務員 に対する 社 会 的 評 価 が 低 く 、機内 で 食事 や 飲み物 を サービス するいわゆる 「 ウエイトレス の 仕事 」 は、 「 高 卒 女 性 の 職 業 」 とみなされています。 

私の 知 る 限 り 客室乗務員 の 採用条件 に 短大卒以上 とあったのは 「 KLM オランダ航空 」 だけであり、首都 アムステルダム にある ス キ ポ ー ル ( Schiphol ) 空港 がいくら 立派 でも、所 詮 ( しょせん、行 き 着 く と こ ろ ) オランダ は ヨーロッパ の 田舎者 といわれる 国 だからで した。

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即位式

1936 年 1 月 19 日 に ジョージ 五世 が 亡 くなると エドワード 皇太子 が 予定通 り 即位 することになり、翌日 に セント ・ ジェームズ 宮殿 で 即位式 がおこなわれ 、皇太子 は エドワード 八 世 となりま した。

その 日 の 午後 に 全 ての 王族出席 のもとで 父 の ジョージ 五 世 の 遺言 が 朗読 されま したが、新国王の エドワード八世 は 父 の 遺産相続 から 除外 されていま した。

英国王家系図

すでに 十分 な 財産 を 持 っているのを 理由 と して 相続人 から 排除 されま したが、父親 にそこまで 嫌 われていたのかと 思 うと、彼 は 悔 しさと 怒 りで 顔 を 赤 く し、 「 弟 や 妹 が 全部 持って いき、この 私 には 何 もないのか! 」 と 叫 びま した。しか し 彼 はすでに コーンウォール 公領 から 毎年 100 万 ド ル 以上 の 収入 があり 非常 に 裕福 で した。


[ 9 : 国 王 退 位 決 断 の 時 ]

当時 の 首相 スタンリー ・ ボールドウィン ( Stanley Baldwin ) は、政治的、宗教的理由 から、国王 に 在位 したままでの ウォリス ・ シンプソン との 結婚 は 不可能 であると エドワード八世 に 勧告 しま したが、新国王 の 母親である メアリー王妃 は 長男 が 王位 を 捨 てても 「 ウォリス ・ シンプソ 」 と 結婚 したがっているのを 知 り、「 あ き れ て 言 葉 も 出 な い 」 と 腹 を 立 てま した。

もしそうなれば 次男 の ジョージ 王子 が 王位 を 継 ぐことになりますが、内気 で ドモリ しかも 体力 もない 次男 が 寿命 を 縮 めなければ 良 いが、と 案 じました。

ここにきて イギリスの新聞 「 ロンドン ・ タイムズ 」 もそれまで遠慮してきた 「 ウォリス ・ シンプソン 」 と新国王との関係を報道するようになり、そこでは政府の諜報機関 ( M Iー6 ) が集めた 「 ウォリス 」 に関する二度の離婚暦 ・ 奔放な男性遍歴 ・ 中国時代の行状即ち、娼館の マダムの証言を基に、エドワード八世を虜 ( とりこ ) にした 「 ウォリス 」 の 中 国 仕 込 み の 巧 み な 閨 房 テクニック ・ 麻 薬 取 引 ・ ギ ャ ン ブ ル 習 慣 ・ 堕 胎 暦 ・ ドイツ の ナ チ との 関 係 について 詳細 に 記事 に しま した。

追いつめられた 「 ウォリス 」 は 新 国 王 さ え 手 放 さ な け れ ば 、屈辱的 な 世論 の 集中砲火 に 身 を 晒 ( さら ) すことなく イギリス の 社交界 から 退場 できると 判断 して、一 世 一 代 ( いっせいちだい、一生のうち唯一度 ) の 大 芝 居 を 新 国 王 の 前 で 打 ち ま し た

自分と別れてもっと王妃にふさわしい方と結婚して、国王としての務めを果たしてください。

二度の離婚歴のある女性を イギリス国王妃とするのは前代未聞であり、エドワード八世はここで イギリス国王の地位に留まるのか、王位を捨てて彼女と結婚するのかの二者択一の決断を迫られました。

ラジオ放送を聴く

1936 年 12 月 10 日、新国王 エドワード八世は ウインザー城から ラジオを通じて、王位を捨てる覚悟であることを国民に伝えました。国王の重大発表を聞くために人々はラジオの周りに群がり、劇場 ・ 映画館は公演や上映を中断し、街の通りは からっぽになりました。

ついに私の考えを述べるときがやってきた。皆はすでに私が王位を捨てる理由については承知のことと思う。愛する女性の助けと支えなしでは、国王としての重い責任と義務を果たすことはとうてい不可能である−−−−−。

皆に平和を、次の国王に祝福あれ!

という言葉で放送を終えました。退位した エドワード八世 ( 1894〜1972 年 ) は ウインザー公 ( Duke of Windsor、公爵 ) と名称を変えましたが、彼の望みどおり ウォリス ・ シンプソン ( Wallis Simpson、1896〜1986年 ) が夫との離婚が成立したのを受け、王室の反対を無視して ウインザー公は ウォリスと念願の結婚を果たし夫妻は国外に住むことになりました。


[ 10 : 研 ぎ 澄 ま さ れ た 復 讐 心 ]

戴冠式

しかし夫妻は イギリス王室からは嫌われました。退位した エドワード八世に代わり国王の地位を継承したのは病弱な次弟の ジョージ 六世でしたが、彼が 1952 年に死亡したため、娘の エリザベス  ( Elizabeth 、現 ・ エリザベス女王 2 世 ) が王位を継ぐことになり、 1953 年に ウェストミンスター寺院で盛大な戴冠式 ( たいかんしき、コロネーション、Coronation celemony )がおこなわれました。

しかしその際に エリザベスの伯父に当たる エドワード公夫妻は 招待されず、イギリス王室から疎外されたことで 元 国王としての面目を大きく失墜しました 。 王室にとっては王位を捨てて不品行な過去があり、私生児という賤しい出自の ウォリス ・ シンプソンと結婚した ウインザー公を、 イギリス王室の面汚し ( つらよごし ) と思っていたからでした。

ブレスレット

右写真の時計型の ブレスレットは 、ウインザー公が結婚式の 1 ヶ月前に購入し 「 私たちの契約 ( コントラクト ) のために 」 と刻ませたもので、 ウォリス ・ シンプソン が ウインザー公との結婚式で腕に着けたものでした。それは 45 個の サファイアと無数の ダイヤモンド で飾られたものでした。

子供のいない ウインザー公が 35 年間の結婚生活で妻の ウォリス ・ シンプソン に買い与え、結婚記念日などに贈った数多くの宝石、いわゆる ウインザー ・ ジュエリー  ( Windsor Jewelry ) は、 1986 年に ウォリスが死ぬと生前の ダイアナ妃 ( 1961〜1997 年 ) が相続するものと イギリス国民は思っていました。

ところが冒頭で述べたようにそれらの宝石類は遺言により全て競売に掛けられてしまい、しかも純益すべてが イギリスではなく フランスの パスツール研究所に寄付されましたが、これは ウインザー公あるいは妻の ウォリス ・ シンプソン の、イギリス王室に対する長年研 ( と ) ぎ澄まされた 復讐心の表れでした


( 10−1、 棺 を 蓋 い て 事 定 ま る )

棺桶

アメリカの平民出身で しかも教会での 幼児洗礼も受けられず、美人でもなかった貧しい娘が、元 イギリス国王と結婚したという、文字通りの シンデレラ物語でしたが、中国の歴史書 ( 晋書、しんしょ ) に 棺を蓋いて事定まる  ( かんを おおいて ことさだまる ) 、つまり人に対する評価は、死後に棺の蓋を閉じてから定まるという言葉があります。

未亡人

1972 年に ウインザー公 に 78 才で先立たれ大きな 「 後ろ楯 ( だて ) 」 を失うと、交際する人も次第に減り彼女は自宅に引きこもり世間からも忘れられていきました。孤独のうちに認知症から植物人間の状態になり、1986 年に 90 才で人知れず死亡しましたが、棺の蓋をしてから判断すると、 宝石などの虚飾 に満ちあふれたものの、彼女の人生は 果たして幸せだったのでしょうか?。

14 世紀の中期に記された平家物語の冒頭にあるご存じの 、

祇園精舎の鐘の声、 諸行無常の響きあり 、沙羅双樹 ( しゃらそうじゅ ) の花の色、 盛者必衰 ( じょうしゃ ひっすい ) の理 ( ことわり ) を顕 ( あらわ ) す。驕 ( おご ) れる者久しからず 只  春の夜の夢の如し

の文章を思い出させます。



[ 11 : 現 人 神 ( あらひとがみ ) だ っ た 天 皇 ]

私は昭和 15 年 ( 1940 年 ) に東京市 ( 当時 ) 豊島区 ・ 巣鴨にある小学校に入学し、2 年生だった昭和 16 年 ( 1941 年 ) に大東亜戦争 ( 太平洋戦争 ) が開戦となり 、長野県の山奥の寺に 学童集団疎開中の 昭和 2 0年 ( 1945 年 ) 8 月 15 日に敗戦となりましたが、 6 年生の時でした。

その間 小学校 では 毎日 朝礼 際 に 「 宮城 ( 皇居 のこと ) 遙 拝 ( ようはい )、最 敬 礼 」 、あるいは 「 天皇陛下 に 対 し 奉 ( たてまつ ) り、最 敬 礼 」 という 号令 のもと、全校生徒 が 宮城 の 方向 へ 向 き 最敬礼 を しま した。

白馬と天皇

最敬礼 とはその 当時 天 皇 ・ 皇 族 ・ 神 霊 に対 しておこなう 敬礼 と して 定 められ、上体を 45 度前 に 傾 ける ( 具体的 には 両手 が 膝頭 に 届 くまで 曲 げる ) お辞儀 ( お じ ぎ ) で した。

ところで 神道 では 白 は 清浄 な 色 とされ、 神 霊 の 乗 り 物 とされる 神 馬 ( しんめ、しんば とも言う ) と しては、特 に 白馬 ( はくば ) が 神聖視 されま した。

私は 小学 4 年生 ( 1943 年 ) の 時 に、 一度 だけ 父親 に 連 れられて 当時 東京 の 代 々木 ( よよぎ ) 原 にあった 陸軍 の 練兵場 ( 現 ・ 代々木公園、陸上競技場、サッカー 場、NHK ホール などがある 場所 ) でおこなわれた 観兵式 を 見 に 行 きま したが、白馬 にまたがった 観閲官 の 大元帥陛下 は、遙 か 遠 くからでも、目立った 存在 で した。

陸軍始めの観兵式 ( 昭和 18 年、1 月 8 日 )

5 年生 ( 11 才 ) になると 2 学期の国史 ( 歴史 ) の テストでは、初代の神武天皇から今上天皇 ( きんじょう、当時の ・ 昭和天皇 ) までの 神話と虚構の産物 である 124 代の歴代天皇名 を、間違えずにどこまで言えるかが採点の対象でした。

幸いにも私は 124 代の天皇名 を 間違 えずに 全部言うことができま したが、 子供の 頃 に 懸命 に 覚 えたことは 80 才 を 過 ぎても記憶 に 残 るもので、 今でも ジンム ( 第 1 代、神武天皇 ) ・ スイゼイ ( 綏靖 ) ・ アンネイ ( 安寧 ) ・ イトク ( 懿徳 ) ・ コウショウ ( 孝昭 ) ・ コウアン ( 孝安 ) −−−と第 33 代、推古 ( スイコ、女帝の第 1 号 ) 天皇 までなら、順序正 しく 歴代天皇名 を 言 うことができます。

私と同じ年代の人は、皆このような教育を受けま したが、当時子供 たちの 間 で 盛 んに 歌 われた 歌 に 「 勝 ち 抜 く 僕 ら 小 国 民 」 がありましたが、参考までに 下記 を お聞 き 下 さい。

勝ち抜く僕ら小国民

なお歌詞の一番では 「 赤い心 」 となっていますが、私たちが歌ったのは歌の文句と同じ 「 赤い血潮 」 でした。歌詞は二番までしかが無いので、それ以下の歌詞も示します。

歌詞 三番
僕らの体に込めてある / 弾は肉弾大和弾( 魂、やまとだま ) / 浮沈を誇る敵艦も一発必中体当たり / 見事轟沈させてみる / 飛行機ぐらいはなんのその

歌詞 四番
今日、増産 ( ぞうさん、戦時中の労働力不足を補うための 小 ・ 中学生による勤労奉仕 ) の帰り道 / 皆で摘んだ花束を / 英霊室 ( えいれいしつ、小学校に設けられた地区の戦死者の慰霊をする場所 ) に供えたら / 次は君らだ分かったか / しっかりやれよ、頼んだと / 胸に響いた神( かみ、戦死者の英霊 )の声

歌詞 五番
あとに続くよ僕達は / 君は海軍予科練( 飛行予科練習生 )に / 僕は陸軍荒鷲 ( 陸軍機の操縦士 ) へ / やがて大空飛び超えて / 敵の本土に空高く / 日の丸の旗立てるのだ。

この歌を聞いた感想は如何ですか ?。私たち 80 才前後の者はこのような環境で育ち、敗戦前後の食糧難の時代を 辛い空腹に耐えながら 生き抜いてきたのです。


大元帥陛下

当時の小学生はこのような 天皇制国家主義、軍国主義に基づく 小国民教育 つまり天皇を神と崇 ( あが ) め奉り、そのためには死ぬことも辞さないとする教育を受けて育ちました。

大日本帝国憲法 ( 明治憲法 ) 第 11 条には、「 天皇ハ陸海軍ヲ統帥 ( とうすい、軍隊を支配下におき率いること ) ス 」 とありましたが、写真は 大元帥陛下 である天皇の大礼服姿です。それと共に伊勢神宮 ( 内宮 ) に祀られている天照大御神 ( あまてらすおおみかみ ) の子孫であり 現人神 ( あらひとがみ ) 、つまり人間の形をした神であると神格化されました。

しかし当時の小国民教育の中でさえ、124 人もいた天皇の中で国民に善政を敷いた例として学校で習ったのは、大阪平野から立ち上る炊煙 ( すいえん、炊事をする煙 ) が少ないのを高殿から見た、第 16 代、仁徳天皇が 3 年間国民に租税を免除したことと、第 45 代、聖武天皇の妃である光明皇后 ( こうみょうこうごう、701〜760 年 ) が悲田院 ( ひでん いん ) ・ 施薬院 ( せやく いん ) を建てて社会事業をおこない、貧しい人や孤児を救い、病人に薬を与え治療をしたことの二例だけでした。

天皇は現人神 ( あらひとがみ ) であるとする教育は昭和 20 年 ( 1945 年 ) 8 月の日本の敗戦まで続き、翌年の 1 月 1 の官報により発布されたいわゆる 「 昭和天皇の人間宣言 」 により、天皇自身が現人神 ( あらひとがみ ) の 神格を否定したことにより 幕を閉じました。

そうせざるを得なかった背景には、昭和 20 年 ( 1945 年 ) 12 月 15 日に占領軍総司令部 ( G H Q ) が出した 政教分離 の指令 、即ち S C A P I N ( Supreme Command for Allied Powers Instruction Note ) の 「 国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件 」 ( 448 号 ) が出されたからでした。


( 11−1、 天皇 は 利用 されることに 存在意義 がある )

日本の歴史を見れば天皇自らが政治をおこなったのはせいぜい平安時代までの僅か 500 〜600 年程度でありで、それ以後 は 武家勢力 の 台頭 によって 天皇 の 政治的 な 権力 は 次第 に 奪われ、鎌倉時代 ( 1192〜1333 年 ) ・ 室町時代 ( 1336〜1573 年 ) ・ 江戸時代 ( 1603〜1867 年 ) へと 武家政権 が 続 きま した。

天皇 が 再 び 政治権力 を 持 つようになったのは 明治維新 による 新政府樹立 ( 1868 年 ) から 敗戦 ( 1945 年 ) までの、 僅 か 77 年間 で した。

その 大日本帝国憲法 ( 明治憲法 ) 下においても、第 4 条、「 天皇 ハ 国 ノ 元首ニシテ 統治権 ヲ 総攬 ( そうらん、一手 ににぎって 治 める ) シ 」 、とありま したが、実際 には イギリスの 王室並 みに 「 君 臨 すれども 統 治 せず 」 に 近 い 飾 り 物 に 過 ぎませんで した。

第 55 条、「 国務各大臣 ハ 天皇 ヲ 補 弼 ( ほひつ、助言 を 与 える ) シ 其 ノ 責 ニ 任 ス ( つまり 統治 の 結果 に 関 する 責任 は 国務大臣 が 負 う ) 」 とあり、さらに第 2 項には 「 全 テ 法律 勅令 其 ノ 他 国務 ニ 關 ( カカワ ) ル 詔勅 ハ 国務大臣 ノ 副 署 ヲ要 ス 」 とありま した。

つまり 基本的 には 内閣 の ( 軍 部 の 台 頭 後 は そ の 意 向 を 含 め た ) 方針 を 天 皇 が 追 認 す る という 慣行 になっていきま した。


( 11−2、 戦 争 終 了 後 の、天皇 に 対 する 取扱 い )

日本の 敗戦間近 であった 1945 年 6 月 29 日 の ワシントン ポスト 紙 によれば、ギャラップ 社 ( Gallup Organization ) がおこなった アメリカ 人 に 対 する 世論調査 によれば、敗戦後 の 昭和天皇 の 取扱 いについては 以下 の 結果 で した。

  1. ( 裁判によらない ) 処 刑 が、 33 パーセント

  2. 裁判 で 決定、 17 パーセント

  3. 終身刑 が、 11 パーセント

  4. ( たとえば 中国大陸 などへ の ) 追 放、 9 パーセント

  5. ( 天皇 に 関 して 知 らない、または 興味 がないことによる ) 無回答、 23 パーセント

でした。

ところが 「 カミカゼ 特 攻 機 」 を 投入 し 離島 では 玉砕 してまで 必死 に 戦 った日本軍が、天皇 の ポツダム 宣言受諾 という 「 鶴 の 一 声 」 によりただちに 戦闘行為 を 中止 し 降伏 した 事実 を 目 の 当 たりに した 米国政府 は、敗戦後 の 日本 に対する 占領政策 を 円滑 に 遂行 するために、 天皇の国民に対して持つ 女王蜂 ( Queen Bee ) ・ 女王蟻 ( Queen Ant ) 的影響力を 極力利用 することに決めま した。

このように 昔 から 天皇 は 時 の 政治権力者 に 利用 されることに、その 存 在 意 義 がありま した

天皇対マック

この 写真 が 撮影 されたのは神奈川県 ・ 海軍厚木飛行場に アメリカ の 占領軍 が 飛来 してから約 1 ヶ月後 の 昭和 20 年 9 月 27 日 のことですが、場所 は皇居の濠近 く の 第一生命館 に 置かれた G H Q ( 占領軍総司部 ) の建物内ではなく、連合国軍総司令官 の マッカーサー が 住 んでいた アメリカ 大使館内 で した。

戦 いに 敗 れたとはいえ 一国 の 元首 が 公式訪問 したのにもかかわらず 、マッカーサー は 玄 関 ホ ー ルに 出迎 えもせず 、モーニングに シルク ハット という 昼間 の 礼装姿 の 天皇 に対 して 相手 に 敬意 を 示 す 服装 をするどころか、 わざと ネクタイ を 外 した 普段 の 軍服姿 で 会談 に 臨 み 天 皇 を 侮 辱 し ま し た

そして 神 で あ る 天 皇 よりも 偉 い 存在 であると 自認 する、自 らの 姿 を 日本国民 の 前 に 示 しま したが、彼 は 自己顕示欲 が 極 めて 旺盛 な 嫌 な 性格 の 奴 で した。

ちなみに 仲間 や 親 の 仇 ( かたき ) であろうが、時 の 権 力 者 にすぐに 媚 ( こ ) び へつらう 悪 癖 を 持 つ 日 本 人 か ら、この 男 や GHQ ( General Head Quarters 、連合国総司令部 ) に対する 感謝文 や 「 日 本 人 の 得 意 な 密 告 」 などの 手紙 が、  トルーマン 大統領 により 彼 が 首 にされる ( 1951 年 4 月 ) までの 5 年 8 ヶ月 間 に 50 万 通 も 寄 せられま した。

中 には 64〜70 才 の 老爺 に 対 して 「 ア ナ タ の 子 を 産 み た い 」 と手紙を書いた ア ホ ( 関西弁、阿 呆 ) な 日本人 女性 が 15 人 も い た といわれていますが、母親の出身地である バージニア 州 の軍港 がある ノーフォーク には マッカーサー 記念館 があり、観光名所 になっています。


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