うるしの話
[ 1:道具の歴史 ]私が高校に入学した昭和 24 年 ( 1949 年 ) 当時 日本の考古学界の定説では、 日本列島に人が住みついたのは縄文時代 ( 世界史では 新石器時代 に相当 ) からとされ 、神話に基づく歴史から脱却した敗戦後の新しい歴史教科書でも、日本における 旧石器時代 の存在を 否定していました 。
ところがその誤りを打破したのが、納豆 ( なっとう ) の行商をしながら考古学の研究を続けていた、在野の考古学研究家の相沢忠洋 ( ただひろ )青年でした。ある時 群馬県 ・ 桐生市に隣接する、みどり市 ・ 笠懸町 ・ 岩宿 ( 旧新田郡 ・ 笠懸村岩宿 ) の切通しにある崖、( 後の 岩宿 ( いわじゅく ) 遺跡 )の赤土 ( 注参照 ) の中から、見慣れない形の石を発見しましたが、それが日本初の 旧石器 ( 槍先形尖頭器 ) の発見となりました。写真はその現物です。
しか しこの大発見は日本の考古学会からは無視されただけでなく、彼の夜間小学校卒業という低い学歴 ・ 貧 しい行商人という職業のせいで、その後に岩宿の発掘をおこなった明治大学助教授の S により、第 1 発見者を相沢青年から S にすり替えた発表が行われる という事態に一時なりました。
注:) 赤土 ( 関東 ローム層 )
岩宿の旧石器発掘現場付近には現在 「 岩宿 ドーム 」 という施設があり、関東 ローム層 ( 赤土 ) の中から発見 した、 ( 黒耀石の ) 石槍を見つめる相沢忠洋の銅像がありますが、そこに漂う 一抹 ( いちまつ ) の寂 しさを感 じるのは私だけで しょうか?。 ところで ウ ル シ 科の植物が分泌する樹液である 「 うる し 」 を利用する 「 文化 」 は アジア に固有のものですが、その歴史は古く石器時代からありました。
その時代には食物を得る為に狩猟 ・ 採取生活を しま したが、狩猟用の道具である矢の先端に付ける先の尖った石器 ( 矢じり ) を矢柄 [ やがら、矢の柄 ( え ) の部分 ] に固定するためには、細い竹などを割って石器を挟み、その部分を藤蔓 ( ふ じづる ) などの細 いひもで縛 ( しば ) り、その上から 「 うる し 」 を塗って固めま した。
遺跡の発掘の際には長年土中に埋まっていた矢柄 ( やがら ) の竹や 「 つる 」 の繊維は腐っても、一旦固まった 「 うるし 」 は 1 万年経っても腐らずに 「 やじり 」 の付け根部分に残り、 「 うる し 」 の使用 が確認されました。
縄文時代になると 大量の食糧を得るために植物の栽培をするようになりました。縄文時代前期の遺跡である青森県 青森市にある 三内丸山 ( さんないまるやま ) 遺跡 の発掘調査から、縄文人は栗 ・ ヒョウタン ・ ゴボウ ・ 豆類 などを栽培 していたことが分かり、さらにこの時代になると 土器や 木器 ( 木製の器具 ) が使用されるようになりま した 。 三内丸山遺跡の発掘現場は上の写真のように水分の多い土地でしたので、「 うるし 」 を塗った器具などの保存に適していました。 ちなみに縄文時代の年代については AMS ( Accelerator Mass Spectrometry 、 加速器質量分析計 ) 測定法によると、今から約 1 万 5 千年前に始まったとされ、 約 1 万 2 千年間続き、3 千年前に弥生時代へと移りましたが、考古学の時代区分について 一説によれば、草創期 ・ 早期 ・ 前期 ・ 中期 ・ 後期 ・ 晩期の 6 期に分けられます。
[ 2:世界最古の 漆器 ( しっき ) ]「 うるし 」 の語源は 麗 ( うるわ ) し に由来するという説がありますが、うるし塗りの食器 ・ 道具などの表面のしっとりとした光沢、深みのある黒、朱の色などは、古くから日本人の生活に深くとけ込んでいました。古代人は 「 うる し 」 を前述のように最初は接着剤 ・ 防水剤と して使用 しま したが、その後は木器 ( もっき ) などに塗る塗料に使うようになりま した。これまで日本で出土した最古の漆 ( うる し ) 塗りの品は、昭和 37 年 ( 1962 年 ) から昭和 60 年 ( 1985 年 )まで、10 次に分けて発掘調査がおこなわれた、福井県 ・ 三方 ( みかた )郡 ・ 三方町にある縄文時代前期の 鳥浜 ( とりはま ) 遺跡 から出土 した朱塗りの櫛 ( く し ) や器物で、今から 5 〜 6 千年前のもの とされま した。発掘報告書によれば
取り上げた瞬間は 真紅の櫛 だったものが、5 千年後の空気に触れたとたん、手の中でみるみる 黒ずんだ赤色 に変色 していった。とありま したが、発掘現場にいた者ならではの リアル な驚きと興奮が伝わってきま したが、写真はその櫛 ( く し ) です。
前述した青森県の三内丸山 ( さんないまるやま ) 遺跡からも縄文前期の漆器が出土 していますが、朱色の漆を全面に塗ったお椀などで、 5 千年以上 経っても朱色を保っていま した。 うる し工芸の専門家によれば、縄文時代の彩色は主に 「 赤色 ( 朱色 ) うる し 」 が使われ、弥生時代に続く古墳時代 ( 4〜6 世紀 ) から奈良時代 ( 平城京遷都 710 年 ) にかけては、 「 黒色 うる し 」 が主に使われたことから、それぞれの時代を 「 うる し 」 について赤の時代、黒の時代という人もいました。
ところで平成 12 年 ( 2000 年 ) 8 月、北海道 ・ 函館市 ・ 南茅部町 ( みなみかやべちょう ) の縄文時代早期の 「 垣ノ島 ( かきのしま )−B 遺跡 」 から発掘された出土品の中に、朱色の漆 ( うる し ) が塗られた副葬品が発見されま した。これを炭素 C−14 による年代測定を したところ、 9 千年前の物 とという測定結果が出ました。 それまで世界最古の 「 うる し塗りの品物 」 とされていたのは、中国上海の南、浙江省 ( せっこうしょう ) にある新石器時代 ( 日本の縄文時代に相当 ) の 河姆渡 ( かぼと ) 遺跡 から出土した、木製朱塗り椀と黒塗りの筒で、 7 千年前 のもの とされてきましたが、それを大きく上回る古い時代のものと判明 しま した。 この発見により漆 ( うる し ) は中国から伝わったとするこれまでの考古学会の定説から、 日本起源説あるいは同時発生説 の可能性が出てきま したが、前述 したように当時のうる し塗りは全て朱色であり、その後に黒色が使用されるようになりま した
「 うる し 」 を赤く着色するには紅柄 ( べんがら、酸化第 二鉄を主成分とする顔料 ) を使うか、天然に産出する辰砂 ( しんしゃ )、別名を 丹砂 ( たんしゃ ) とも呼ばれる水銀と硫黄の化合物からなる深紅色の鉱石 ( 左の写真 ) を、微細な粉末に砕いて朱 ( しゅ ) を作り 「 うるし 」 に混ぜ合わせました。 朱色は 魔除け の意味を持ち 祭祀、儀式の道具 にも使用 されましたが、その原料となる朱は入手量が少なく貴重なもので した。
縄文時代も中期 ( 4 千年前 )、後期 ( 3 千年前 ) 以後になると、生活日用品だけでなく、装飾品の イヤリング ( 耳飾り )、ペンダント などにも 「 うるし 」 が盛んに用いられるようになりました。「 うるし 」 は彩色、接着剤、水漏れ防止剤、成形剤などの実利的効用のほかに、装飾、触覚、表現効果を高めるための素材としても縄文人に好まれました。 そのことは多くの縄文出土品から裏付けられますが、写真はかつて私が昭和 33 年 ( 1958 年 ) から 5 年間住んだことがある、青森県八戸市にある是川 ( これかわ ) 遺跡から出土した、3 千年前の イヤリングの複製品です。
[ 3:ウルシノキ ( 漆の木 ) ]「 ウルシノキ 」 の原産地は ヒマラヤから中央 アジアの高原地帯 ( インド北部 〜 中国西南部 ) とされますが、落葉する高木で、秋には黄褐色の球形の実がなり、幹から 「 うるし 」 の樹液が、実から和 ローソクの原料となる木蝋 ( もくろう ) が採れますが、今では 「 ハゼノキ 」 から木蝋を採ります。「 うるし 」 には中国うるし、アンナン( 安南、ベトナム中部 )うるし、ビルマうるし、カンボジアうるし等があります。古代の神話によれば、日本武尊 ( やまとたけるのみこと ) が狩りに行き、真っ赤に紅葉した枝を持ち帰ると樹液が乾いて黒くなったので、これを器物に塗らせたと記されていて、これを後に漆塗りの最初としていましたが、あくまでも神話上のことでした。
一説によれば 「 うるし 」 の利用法を最初に発見したのは、人間ではなく昆虫の 「 ハチ 」 だとされます。 6 月頃になると 「 ウルシの木 」 は淡い黄白色の小さな花を咲かせますが、葉や細い枝から浸み出す 「 うるし液 」 を 「 ハチ 」 が集め、樹木や家の軒下に ハチの巣を作る際に、巣の付け根や接着部を 「 うるし液 」 と唾液を混ぜて補強するのだそうです。 巣が大きくなればなるほど重くなるので ( スズメバチ の巣、1.5〜2 キロ前後、) 接着部分を補強する必要がありますが、「 うるし 」 を運ぶ ハチの姿を見て その接着効果を知り、石器時代の人がそれを利用するようになったとされます。
縄文時代になると 「 うるし 」 を採取するために、日本各地で 「 ウルシの木 」 が栽培されるようになりましたが、記録によれば第 42 代、文武 ( もんむ ) 天皇 ( 683〜709 年 ) の大宝元年 ( 701 年 ) に制定された、 大宝律令 ( りつりょう 、古代国家の基本法 ) によれば、大蔵省に 漆部司 ( うるしべのつかさ ) という役職を設け、その下に漆部の役人 20 人を置きました。 律令下では、 租 (そ、注 1 参照 ) ・ 庸 ( よう、注 2 参照 ) ・ 調 ( ちょう、注 3 参照 ) の徴税制度がありましたが、調として諸国にある 「 うるし 」 の産地にそれを献じることを定め、そのため百姓に土地を支給し、その労働力に応じて上戸 ・ 中戸 ・ 下戸に分け、上戸には 「 ウルシの木 」 を100 本、中戸には 70 本、下戸には 40 本というように管理を割り当てて、それから採れる 「 うるし 」 を以て租税 ( 税金 ) の対象にしました。 正丁 ( せいてい、21 才以上 60 才以下の健康な公民男子 ) 1 人につき、 漆 「 うるし 」 3 勺 ( しゃく、54 ミリ ・ リットル ) と、金漆 ( こしあぶら、注 4 参照 ) 3 勺 ( 54 ミリ ・ リットル ) を物納させました。
注:) [ 4:うる しの採取法 ]かつては東北を中心にしてどの山里にも 「 ウルシの木 」 が茂り、「 うるし 」 採取を夏から秋にかけての収入の手段にする人々がいましたが、江戸時代に各藩の藩主がこぞって 「 ウルシの木 」 の植樹を奨励したからでした。父親の田舎にも村で うるし山 とよばれていた 「 ウルシの木 」 を一面に植えた山がありましたが、そこに行くと カブレルので村の子供たちもなるべく近づきませんでした。
「 うるし 」 の成分は種子にも葉にも含まれていますが、最も多く含まれるのは樹の幹で、樹皮と材部との間に 「 うるし 」 液の溝があり、 掻き鎌 ( かま )と呼ばれる道具で木の 幹に 水平方向に キズ を付ける 「 うるし掻き 」 をして採取します。 「 うるし 」 を掻く とその傷をふさぐ為に 「 ウルシ の木 」 から自然に乳白色の樹液が滲み出すので、その僅かな樹液を 「 ヘラ 」 で掻き採り集めますが、集めた 「 うるし 」 を 荒味漆 ( あらみうるし ) といいます。 それには木の皮や木屑などの ゴミが混じっているので布で濾過 ( ろか ) して 生漆 ( きうるし ) にしますが、白い色が空気にさらされると表面が飴色 ( 茶褐色 ) になります。 「 うるし掻き 」 の作業は通常 6 月半ばの、葉が開いて活動が盛んな頃に始められ、成長が止まる 11 月初旬に終わるのが普通です。採れる 「 うるし 」 の質は時期により差があり、樹勢の盛んな 7 月半ばから 8 月までの頃が最も上質の 「 うるし 」 が、しかも多く採れるのだそうです。 「 ウルシの木 」 は幹の太さが 8 センチ以上になると 「 うるし 」 の採取が可能になりますが、1 本の木から採取する量は幹の直径が 12 〜 13 センチ ( 樹齢 15 〜 16 年程度 ) ほどの木で、1 シーズン に 150 グラム 前後という少量です。 かつては 「 うるし 」 のことを 金の水 ともいいましたが、敗戦後は中国産の安い 「 うるし 」 が輸入されるようになると国産 「 うるし 」 は採算が取れなくなり、村にあった 「 うるし山 」 の 「 ウルシの木 」 も伐採され消滅してしまいました。現在では東北 ・ 北関東などの少数の県を除き 「 うるし林 」 の維持管理、うるしの採取は日本では珍しくなりました。ちなみに 「 ウルシの木 」 を切り倒して薪にする場合は、2 年以上間を置かないと、煙によっても カブレルといわれています。
うるしの樹液は少量しか出ないので、代わりに ゴムの木の樹液採取の状態を示しますと、昔 マレー半島を旅行した際に ゴム園で見ましが、樹液の量が多いために、 キズを 斜めに 付けておき 、小さな樋 ( とい ) や漏斗 ( じょうご ) を設けて滴り落ちる樹液を容器に受けて貯めて、それを毎日回収していました。ちなみに切り込みは毎日 5 ミリ 程度の深さで新しく付けるのだそうです。 生 ゴム は戦略物資として戦前、戦時中は貴重品で、太平洋戦争中は南方から生 ゴムが輸入されなくなり、そのため小学生の時に ズック靴や雨の日に履く ゴム長靴 が商店から姿を消し、入手できずに不自由をした思い出がありました。戦後になると合成 ゴム ( 人造 ゴム ) や ビニール製品が開発され大量生産が可能となった為に、生 ゴムは希少価値を失い値段も大幅に下落しました。
[ 5:うる し カブレ ]「 うる し 」 はご存じのように 「 ウルシの木 」 から採れる樹液ですが、その木は植物学の分類に従えば、ウルシ科 ウルシ属 ウルシ 種の植物で、世界には ウルシ 科の植物は 4 百種以上あるといわれています。 意外なことに甘い果実が食べられる マンゴー や カシュ ・ ナッツの カシュー の木なども、ウルシ 科の植物で した。東南 アジア に行った際に、皮をむいた マンゴー に丸ごとかぶりつくと汁が したたり、その為に口の周りが赤 くなる人がいま した。これ以外にも カブレる植物には ヤマウルシ ・ ツタウルシ ・ ハゼノ木 ・ ヌルデ ・ ギンナン などもあります。「 ウルシの木 」は 日本では南は沖縄から北は北海道に至るまで、日本列島の全土にわたりありますが、 1 万年以上前から 「 ウルシの木 」 は栽培され、生活の中で利用されて来ました。 「 うる し かぶれ 」 に関する歴史も古く、中国の戦国時代 ( 紀元前 403 〜 前 221 年 ) の歴史書である 戦国策 には、「 うる し 」 を顔に塗って腫れさせ、仇討ちを しようと した 豫譲 ( よ じょう ) という人の話がありました。 日本でも平家物語 ・ 巻 1 にある 「 鹿 ( し し ) ヶ谷 」 の記述でお馴染みの、 京都の東山 ・ 鹿ヶ谷 ( し しがたに ) にあった 俊寛 僧都 ( しゅんかん そうず、注参照 ) の山荘で 1177 年に起きた平 清盛打倒の クーデター 計画が発覚 した際に、公家の 1 人が指名手配を逃れるために顔に 「 うるし 」 を塗り、腫れあがった容貌で検問を突破して木曽義仲の所に行き旗揚げを勧めたことがありました。 最近では イギリス 人女性を殺害 して 2 年半近く逃げ回った市橋達也 ( 30 ) 容疑者は、その間に顔の整形手術を しましたが、昔は 「 うる し 」 がその目的にも使われました。
注:)俊寛 僧都 ところで子供の頃東京に住んでいた私は、毎年夏になると父親の実家がある栃木県の田舎に親と一緒に、お盆の里帰りを兼ねて帰省し 1 週間ほど滞在 しま したが、小学校低学年の時に 「 うる し山 」 では遊ばなかったものの、山で 「 うるし 」 に カブレ ました。 一緒に遊んでいた地元の親戚の子には異常がありませんで したが、最初は顔が痒 くなり一面に湿疹ができてきて赤く腫れてきま した。
次に細かい水泡から分泌物が滲み出て痛痒 くなり、町の医者に連れて行かれると最初に パンツ を下ろされて、「 珍宝 ( ちんぽう )」 を調 べられました。排尿の際に顔の 「 分泌物 」 が付着した手で毎回 「 珍宝 」 に触れた為に 、皮膚が弱 いそこにも 「 うる し カブレ 」 ができて腫れていて、経験豊かな皮膚科の医師がそれにより、「 うるし カブレ」 の診断を確定しました。 現在であれば ステロイド 剤の軟膏と抗 ヒスタミン 剤の内服とで治療をおこないますが、当時は太い注射をされて飲み薬をもらいま したが、今考えると カルシウム か何かの静脈注射だったと思います。治るまでに 10 日以上かかりま した。
[ 6:人生で最大の失敗、ウ ン の尽 き ]実は子供の時に 「 うる し カブレ」 の、 もっとひどい例 を体験 しま した。戦争末期の昭和 19 年 ( 1944 年 ) 当時のこと、国民学校 ( 小学校 ) 5 年生でした私は米軍機の空襲を避ける為に 75 名の同級生と 一緒に、東京の小学校から長野県の山奥の寺に学年 ごと 学童集団疎開 を し ま した。
ある時 寺の裏山で遊ぶ最中に便意を催 しま したが、あいに く紙が無かったので「 山での慣習 」 に従 い、近 くに生えていた木の葉 5 〜 6 枚をむ しり取ってお尻を拭きま した。ところが都会の子の悲 しさで、木の種類の見分け方を知らなかった為にひどい目に遭 いま した。写真は ヤマウルシ の葉。
不運なことに 「 山 うる し 」 の葉で拭 いたために 、二 日後から水戸黄門 ( 肛門 ) さま にひどい 「 うる し カブレ 」 ができて しまい、かゆみと後に「 痛痒 ( いたかゆ ) さ 」 に悩まされる事態になりま した。 子供心にも恥ずか しい体位を毎日させられては、地元の村出身で看護婦経験のある寮母の N さんから、黄門 さまの周辺や 「 珍 宝 」 の方まで大きく広 がった 「 うる し カ ブ レ 」 の患部に 、白い薬を塗ってもらいま した。
その時は 10 日 近 く、 ガ ニ 股で歩 く 羽目になりま したが 、話題の少ない へんぴな山里で 私の大失敗の件は やがて N さんを通 じて村人の間に知れ渡り、茶飲み話の際に格好な笑いを提供することになりま した。 周辺の村々を含めて無医村地帯で したので、医者にも行けずに白 い塗り薬だけで自然に治るのを待ちま した。
なお 「 うる し 」を舐めると 渋 い味がする のだそうです。ちなみに漢方では長い間貯蔵 しておいた 「 うる し 」 の塊を粉に して、回虫駆除の薬などに飲む場合があるそうです。
[ 7:カブレの分析 ]( 7−1、原因による分け方 )カブレ とは医学的には 接触皮膚炎 といいますが、それには原因と して 毒性反応と アレルギー 反応 の 二つに分けられます。 毒性反応とは毒性のある薬剤や、 チャドクガ の毛虫などに触れた皮膚に毒による炎症を起こすものですが、アレルギー 反応による カブレとは、原因となる物質に過敏な人に主に起こる カブレ で、「 うる し カブレ 」 がその代表です。 うる しに触れると 植物性接触皮膚炎 をもたらす拒否反応の物質 ( ヒスタミン ) が体内に作られて、2 〜 3 日後に皮膚に異常が起こります。カブレは 体質による個人差が大きく、 敏感な人は 「 ウルシ の木 」 の下を通っただけでも木の 葉から発散する 「 うるしの成分 」 により痒くなり、皮膚炎を起こすそうで、ひどく カブレル と全身に発疹ができたり熱が出て入院することもあるのだそうです。
カブレ が起きるまでの時間による分け方で、すぐに反応が起こるのは 即時型 といい、例えば 「 カ ニ 」 に カブレル 人が 「 カ ニ 」 を食べると体内で ヒスタミン が生成され、現れる症状としては 「 蕁麻疹、じんましん 」 の形をとり、 1 〜 2 時間 で発症 しますが、治る時も短時間で治ります。 これに対して 「 うる し カブ レ」 のように 遅延型 の場合は、触れてから 翌日か翌々日 に発症 し、症状としては 「 湿 疹 」 を生 じ、治るのに日数がかかります。 ちなみに蕁 麻 疹 ( じんましん ) の蕁 麻 ( じんま ) とは野山に自生する 「 イラクサ 」 のことで 「 刺 草 」 とも書き、葉や茎に ト ゲ があり、それに触れると毒性のある物質により痛みを感 じ、その後 人によっては紅色に少しふくれた発疹 ( 丘疹 ) を起こすことから、 「 イラクサ による発疹 」 の意味で蕁麻疹と呼ばれるようになりました。
「 うる し カブレ 」 の原因は 漆 酸 ( ウルシオール ) ですが、この物質を明治 17 年 ( 1884 年 ) に初めて抽出 したのは真島利行博士でした。漆 酸を持つ植物はこれ以外にも前述 した ウルシ 科の ハゼノ 木などがあります。
[ 8 : ジャパンは、漆器の意味に通 じない ]陶磁器のことを英語で チャイナ ( China ) というように、木製の工芸品などに 「 うる し 」 を塗った漆器 ( しっき ) は日本を代表する工芸品であり、英語で ジャパンとか、ジャパン ・ ウエア と言うと学校で習いました。 しか し私の経験では外国で、あるいは日本の航空会社に勤務する外国人に、漆器のことを 「 ジャパン 」 と言っても意味が通 じませんで した。 英語の辞書を見ると Japan には確かに漆器の意味が書かれていま したが、日本から漆工芸品が ヨーロッパ に輸出された当時は非常に珍 しく、芸術的に洗練されていたので高価で取引され、ヨーロッパの王侯、貴族、大金持ちにとっては人気があったものの、一般庶民にとっては高嶺の花であり無縁の存在で した。 その結果 Japan = 漆器を表す言葉 が一般大衆の間で普及せずに、今ではほとんど使用されなくなってしまったと思います。 では漆工芸品のことを英語で何というのでしょうか?。その答えは ラッカー ・ ウエア ( Lacquer ware ) です。英字新聞や英語雑誌にある広告を見ても、Japan ではなく Japanese Lacquer ware 、Asian Lacquer ware とか、冗長ですが、 Urushiol-based Lacquer ware ( ウルシオールを下地にした、ラッカー塗り ) とありました。 また輪島塗や津軽塗り、会津塗りなどは、いずれも Wajima ( Tsugaru ・ Aizu ) Lacquer ware と書かれていました 。
漆工芸品は日本だけで作られた物ではなく、古くか ら中国を初め アジア で作られていた からで、正倉院の宝物の中にも、螺 鈿 ( らでん、注参照 )を 「 うる し 」 塗りの表面に埋め込んだ 中国産の漆工芸品 がありま した。 写真は正倉院の宝物である外国製の楽器ですが、シルクロード にある中国の キジル 千仏洞には、この五弦の琵琶 ( びわ ) を持った 飛天 ( ひてん、天界に住み仏を守り称える天女 ) が描かれているそうです。
注:) [ 9 : うる し製の仏像 ]奈良時代に始まった仏像造りには、鋳造による金銅仏 ( こんどうぶつ ) 、木に彫った木彫仏 ( もくちょうぶつ ) の他にも 「 うる し 」 を用いて作った 乾 漆 仏 ( かんしつぶつ ) がありました。 粘土で仏像を作り、乾燥 してからその上に麻布を 「 うる し 」 で貼って行きます。重ねる布の枚数は仏像の大きさにより異なりますが、10 枚〜20 枚も重ねて貼ります。10 枚も貼ると厚さが 6 〜 7 ミリになるそうですが、貼りが完成すると型の粘土に水を流し込んで溶か し、これを除けば乾漆の像のみが残り原型が完成するので、あとは仕上げをおこないます。 参考までに 「 うる し 」 の乾燥は ペンキ のように溶剤の成分が揮発 して固まるのではなく、「 うるし 」 の成分中の ラッカーゼ という 酸化酵素 が作用して硬化します。 それには摂氏 25 度前後の温度と湿度 80 パーセントの条件が最も適 しているため、漆器については塗りの工程の途中で水に濡ら し 「 ふ ろ 」 と呼ばれる湿気の多い乾燥用の小屋に入れて、 酵素の働きを助けることにより硬化させます 。乾燥させるのに湿気が必要とは、「 うる し 」 は奇妙な性質があります。
奈良時代に唐から渡来 した僧に鑑真 ( がんじん、688〜763 年 ) がいましたが、日本における律宗 ( りっしゅう ) の開祖になりました。彼は唐でも有名な高僧で したが、日本人留学僧の要請と聖武天皇の招きに応じて唐から 5 回の渡航を試みたものの失敗 し、その際に失明したにもかかわらず 6 回目の渡航にようやく成功し、 753 年に来日して東大寺大仏殿前に戒壇を設け、聖武天皇以下に授戒をおこないました。
唐招提寺 ( とうしょうだいじ ) はその名のとおり鑑真にゆかりの寺ですが、ここにある鑑真像は乾漆の製法で作られま した。鑑真の没後に弟子達が師を偲んで作ったものといわれています。唐招提寺にはそれ以外の乾漆仏と して、本尊である比廬舎那仏 ( びるしゃなぶつ )、脇侍の千手観音像があります。
[10 : うる し生産の現状 ]うる しは前述のごとく大化の改新以来 明治維新まで為政者による物納徴税 ( 年貢 ) ・ その為の植樹推進 ・ うる し工芸の奨励がおこなわれたため、全国の山里で 「 うるし 」 の植林 ・ 採取がおこなわれてきました。 明治以後は中国産の 「 うるし 」 が輸入されるようになったために、国内における 「 ウルシの木 」 の植林や 「 うる し採取業 」 は、敗戦後の 養蚕業 ( ようさんぎょう、かいこを飼い、生糸を採る仕事 ) と同様に、中国産の安い原料の輸入により次第に衰退 していきま した。以下の データ は、林野庁経営課 ・ 特用林産 基礎資料 からの引用です。
( K g とは キログラム のこと。) 昭和 40 年に比べ平成 16 年には 「 うる し 」 の国内生産量は僅か 22 パーセント に減りま したが、生活様式の変化に伴う プラスティック 製品の増加や不況に伴い漆器に使う 「 うる し 」 の消費量が 30 パーセントに減ったこともあり、中国からの 「 うる し 」 の輸入もそれに比例 して、昭和 40 年の 30 パーセント、約 100 トン 前後にとどまりま した。
平成 18 年度に日本国内で 「 うる し 」 を生産 したのは、下記の 9 府県であり、その生産量と 「 うる し林 」 の面積を示します。なお ( h a ) とあるのは土地の面積単位、フランス 語の ヘクタール( Hectare ) のことで、1 ( h a ) は 1 万平方 メートルの広さです 。
参考までに同じ年度における中国からの輸入量は 97,540 K g ですので、国内の生産量は輸入量の 1.36 パーセント に しか過ぎませんで した。 その理由は中国産 「 生( き )うる し 」 の価格が 一例として国内産 ( 9 万円 / Kg ) に比べて、 6 分の 1 程度 ( 1.6 万円 / Kg ) の安さの為であり、「 中国産 うる し 」 が占める割合は、今後もますます増えることが予想されます。 しか し中国産の 「 うる し 」 は、 国産品に比べて 品質が劣る といわれていますが、国産 「 うる し 」 は ウルシオール ( Urushiol、漆 酸 ) の含有量が多く、塗る際に伸びがよい、透明度も高いため、製品の 「 仕上げ塗り 」 だけに使用されています。
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