絹の道の東端 ( East End )
[ 1 : カイコ を初めて見る ]昭和 19 年 ( 1944 年 ) のこと、米軍機による空襲の被害を避けるために当時東京の小学校 5 年生だった私は、級友たちと一緒に長野県の山奥の寺に 学童集団疎開 をしました。その村では古くから養蚕 ( ようさん、カイコを育てて マユを作らせる ) がおこなわれていて、 多数の カイコ を手のひらに乗せると冷たく感じることを初めて知り、 口から糸を吐いて マユを作る様子を初めて見ました。一家の働き手だった男性の 徴兵 ・ 徴用 ・ 戦死などによる太平洋戦争末期の労働力不足を補うために、幼い我々も付近の農家に勤労奉仕に行きましたが、 カイコの エサにする桑の葉を摘み採ることや、あるいは桑畑で葉の付いた枝を切り、その束を背負子 ( しょいこ ) に結び付けて運びましたが、かなりの労働でした。農家の人の話では カイコが成長すると、夜中に何度も桑を補給する必要があるとのことでした。 その当時は昭和 14 年 ( 1939 年 ) から食料の 配給制度が実施 されていましたが 、昭和 20 年 ( 1945 年 ) になると戦況の悪化から食料の遅配 ・ 欠配が続き、我々は 常に空腹 に悩まされました。 山奥の村では 6 月になると桑畑に桑の赤い実がなるので、学校から寺に帰る途中に熟れて赤黒くなった甘い実を摘んで食べ、一時的に空腹をしのぎました。 しかし桑の実の汁で口の周囲や指先が ドドメ色 ( 黒紫色 ) になると色が落ちにくく、しかも下手をすると桑の実に留まり汁を吸う カメムシ ( 屁 ピリムシ、ヘコキムシ ) から、強い悪臭を噴射されることもありました。童謡の名曲 「 赤とんぼ 」 の歌詞の 2 番に、 山の畑の桑の実を小籠 ( こかご ) に摘んだは まぼろしかがありますが、この歌を聞くと 当時は空腹で とても辛かったが 今となっては 、68 年前の集団疎開生活のことが懐かしく思い出されます。 ちなみに カイコ の語源については古代日本では、カイコ を蚕 ( こ ) と呼んでいましたが、人が蚕 ( カイコ ) を飼うことから、「 飼う蚕、カウコ 」 から 「 カイコ 」 となったとする説があります。養蚕農家にとっては年に 3 〜 4 回 [ 春蚕 ( はるご ) ・ 夏蚕 ( なつご ) ・ 秋蚕 ( あきご ) ・ 時には晩秋蚕 ( ばんしゅうさん ) ] の 、貴重な現金収入をもたらす カイコ に敬意を払い、また虫から絹糸が採れることに畏敬 ( いけい、心から服しうやまう ) の念を抱いて お蚕 ( こ ) さま ・ オカイコさま とも呼びました。 太平洋戦争当時、軍用機の パイロットが緊急脱出 ( Bail out ) に使う パラシュートは、軽くて丈夫な 絹の布地 が使われました。しかし絹の特性である軽い ・ 丈夫 ・ 柔らかい の他に 「 吸湿性が良い 」 ことから、湿ると重くなり万一の場合に開傘しなくなる危険があったので、現在では ナイロンなどの化学繊維が使われています。 ( 1−1、カイコ との縁 ) カイコとの縁はこれが最初で敗戦の翌年である昭和 21 年 ( 1946 年 ) には、埼玉県 ・ 秩父市にある 5 年制の旧制中学から名前が変わった新制高校の併設中学校に 3 年間通いましたが、そこは山国のために水田が乏しく食料の米はもちろんのこと、炭俵を編むのに使う稲 ワラさえも周囲にある峠を越えて他の地域から運び込む始末でした。 その当時、秩父の主な産業といえば農家の養蚕 ( ようさん ) とそこから採れる絹糸を使って作る 秩父銘仙 ( めいせん、注 参照 ) の機織りと、近くの山で採れる石灰岩から作る秩父 セメント ( 現 ・ 太平洋 セメント ) でしたが、銘仙の産地としては秩父の他にも群馬県の伊勢崎 ・ 桐生、東京都の八王子、栃木県の足利などがありました。 注 : 秩父銘仙当時の秩父では労働人口の約 7 割が養蚕業や織物関係の仕事にかかわっていましたが、友人の中学生の家も養蚕農家でしたので遊びに行く度に カイコ の育て方を見聞しました。 [ 2 : クワコ と、カイコ ]人類史上 カイコの繭 ( マユ ) から絹糸がとれることを利用し、それを初めて絹織物に加工したのは古代の中国人でしたが、最初に利用したのは樹上に育つ 野生の カイコ である クワコ と呼ばれたものでした。写真の左側茶色が クワコ、右が カイコです。 クワコの成虫 ( 蛾、ガ ) と幼虫 ( いもむし状の虫 ) の姿は カイコ に似ていますが、色は少し茶色で カイコ との間に雑種が作られるので カイコ の先祖 ・ 野生種 ( 野蚕、やさん、Wild Silk Worm ) とされます 。 その クワコ をおそらく 何百年 ・ 何千年もの時を掛けて飼い慣らし 、屋内で桑だけを エサ にして育つように 品種改良して 大量飼育 ・ 集中管理を可能にしたものが中国の カイコでした。最初は皇帝の宮殿敷地内で飼育され、 カイコの繭 ( マユ ) や桑の種子も 門外不出の品 とされましたが、その後に絹の需要が増したために農民に養蚕を教え、租税として絹を納めさせるようになりました。 カイコは 野生回帰能力を完全に失った唯一の家畜化動物 として知られていて 、今では野外の桑にとまらせても 腹脚の 把握力 ( はあくりょく ) が弱いため 樹木に自力で付着し続けることができず 、風が吹けば容易に落下してしまいます。 羽化した カイコ 蛾 ( が、カイコの成虫 ) は翅 ( はね ) はあるものの体が大きく、飛ぶのに必要な筋肉が退化しているために飛ぶことはできず、マユから出た羽化後には食べ物も水もとらずに、 1 〜 2 週間の間に交尾 ・ 産卵して死んでしまいます。カイコは人間による管理 ・ 飼育なしでは生育することができない昆虫なのです。ちなみに野蚕 ( やさん ) の一種である クワコ は東 アジアだけでなく九州以北の日本各地にも分布していますが、その 仲間である山繭 ( ヤママユ ) は山林などで、くぬぎ ・ こなら ・ くり ・ しらかし などの樹木の葉を エサにしています。( 右の写真 ) 山繭 ( ヤママユ ) の絹糸は緑色を帯び光沢があり、繊維が太く強度と伸びる度合いが大ですが欠点もあり、幼虫が糸を吐き出す能力が低く、一つの マユから得られる絹糸の長さは 約 500 メートル ほどと、現代の品種改良された屋内で飼う カイコ [ 家蚕 ( かさん ) ] に比べ、半分から 三分の 一程度の長さにしか過ぎません。 [ 3 : カイコ の ライル ・ サイクル ]カイコ は正しくは 「 カイコガ 」 と呼び、前述した チョウ や ガ ( 蛾 ) の仲間を表す鱗翅目 ( りんしもく ) の カイコガ 科に属する昆虫ですが、その 幼虫のことを 一般に カイコと呼んでいます。
[ 4 : 中国最古の カイコ の マユ ? 、神話と伝説 ]1926 年のこと、中国 ・ 山西省 ・ 夏県 ・ 西陰村の遺跡から、小さな繭殻 ( けんかく、マユの からの部分 ) が発掘されました。遺跡は新石器時代に属し、その年代は 紀元前 4 千年頃 とされます。
[ 5 : 古事記の神話 ・ 伝説 ]712 年に成立した 『 古事記 』 には神代の物語を記した 「 上巻 」 と、初代、神武天皇から第 15 代、応神天皇までを記した 「 中巻 」、および第 16 代、仁徳天皇から第 33 代、推古天皇 ( 女帝 ) までを記した 「 下巻 」 があります。その 「 上巻 」 によれば、高天原 ( たかまがはら ) から追放された乱暴者の スサノオ ( 須佐之男命 ) の ミコトが、食物神である オオゲツヒメ ( 大気都比売神 ) を斬殺すると、死体から様々な 食物の種 などが生じました。 頭から蚕 ( カイコ )が生まれ、目から稲、耳から粟、鼻から小豆−−−( 以下省略 )、が生じたとありましたが、オオゲツヒメは 五穀や養蚕の起源として書かれていて、後に 養蚕 ・ 穀物の神 として信仰されました。 ( 5−1、仁徳天皇の伝説 ) 『 古事記 』 ・ 「 下巻 」 にある、第 16 代、 仁徳天皇 の条には、 カイコ に関する記述 がありますが、日本書紀に記された、仁徳天皇 30 年 9 月 11 日の 「 皇后遊行紀伊国、到熊野岬−−−」 ( 皇后が紀伊国 に遊行して、熊野岬に到りて−−− ) とは、記述内容が大きく異なります。 『 古事記 』 によれば、皇后の石之日売 [ いわのひめ、別名 葛城磐之媛 ( かつらぎの いわのひめ ) ] が紀伊国 ( 和歌山県 ) への船旅の留守中に、 仁徳天皇 ( 注 : 参照 ) が八田若郎女 ( やたの わきいらつめ ) を宮中に入れた [ 再び、新しい女性を娶 ( めと ) った ] のを知って嫉妬 ( しっと ) 深い皇后は大いに怒り、旅からの帰途に 難波 ( なにわ ) の高津宮 ( たかつのみや ) に戻りませんでした。 そして山背 ( やませ、山城国 ) の筒木 ( つづき、現 ・ 京都府南部の京田辺市付近 ) に住む百済 ( くだら ) からの帰化人で、 養蚕と絹織物 で富豪となっていた 奴理能美 ( ぬり のみ ) の家に赴 ( おもむ )き、 そこに滞在しました。 ( 女性好きの ) 仁徳天皇は ( 後ろめたいので ) 皇后に使者を送り呼び戻そうとしましたが、皇后が帰るのを拒んだので使者の口子臣 ( くちこのおみ ) とその妹 ( 口比売、くちひめ ) ・ 奴理能美 ( ぬり のみ )の 三人が相談して天皇に次のように奏上しました。 奴理能美が養 へる虫、一度は葡ふ虫になり、一度は殻になり、一度は飛ぶ鳥になりて、三色に変る奇しき虫あり。この虫を看行はしに入りまししにこそ、更に異しき心なし といひき。 [ その意味 ] 皇后がここへおいでになったのは、奴理能美 ( ぬり のみ ) の 養 ( か ) っている虫が、 一度は這 ( は ) う虫 ( 幼虫 ) となり、一度は殻 ( から ) となり、一度は飛ぶ鳥 ( 蛾 ) となり、三色に変わる奇虫なので 、これを見においでになっただけで、他意はございませんと申し上げたところ、仁徳天皇は 自分も珍しく思うから、その虫を見に行きたいとして、奴理能美 ( ぬり のみ ) のところへ行幸 ( ぎょうこう、天皇のお出まし ) になりました。( つまり皇后に許してもらうのを兼ねて迎えに行きました ) そのおりに奴理能美は、 養っていた虫 ( つまり、カイコ ) の 三態を皇后に献上しました。( 以上は石王版 「 古事記 」 参照 ) 注 : 仁徳天皇1205 年に成立した第 8 番目の勅撰和歌集である 「 新古今和歌集 」 に、仁徳天皇御製とされる歌があります。 高き屋 ( や ) にのぼりて見れは 煙立つ、民のかまどは賑わいにけり以上は記紀の逸話 「 かまどの煙 」 ですが、仁徳天皇は仁政 ( じんせい、民を いたわり いつくしむ政治 ) を施した天皇として知られ、死後のおくり名である 諡号 ( しごう、 ) の 「 仁徳 」 もこれに由来します。 ( 5−2、仁徳天皇の 仁政 は本当か ? ) 写真は大阪府堺市にある 三重の水濠を巡らす日本最大の前方後円墳である 仁徳天皇陵 (?) とされるもので、全長 486 メートル 高さ 35 メートル、5 世紀の前期〜中期に造られたとされ、規模において紀元前 221 年に中国統一 を果たした秦の始皇帝の陵墓にも匹敵する、巨大な墓です。 記録によれば仁徳天皇自らが陵墓の位置を定め、存命中から天皇陵の造成を始めましたが、巨大な墓の造成に狩り出された多数の 民衆の労苦 と、「 かまどの煙 」 で強調された 仁徳天皇の 仁政 とが 一致せず 、疑問に思うのは私だけでしょうか ?。 注 : 仁徳天皇陵 造成に要する、ある試算 大手総合建設会社の大林組の社誌 『 季刊 大林 ・ 第 20 号 』 によれば、1985 年に プロジェクトチーム 「 王陵 」 による仁徳天皇陵 造成の試算がおこなわれた。それによれは、参考までに聖徳太子が 604 年に定めた 17 条の憲法がありますが、名前は憲法でも現行法とは異なり、役人に対する戒め ・ 道徳律 ・ 倫理規定 ・ 心構えをまとめたもので、その 第 16 条には以下の条文があります。ピーク時の労働者数を 2 千人 と仮定し当時の工法で計算すると、工事に要する総工数 ( マン ・ パワー ) は 680 万人、要する工期は 15 年 8 ヶ月 と算出された。これでも天皇が 仁政を施した と言えますか ? 。独裁者だった秦 ( しん ) の始皇帝と同じである、と思いました。 ( 前略 ) 冬の季節に暇 ( ひま ) が有れば民を使役することも可なれども、 春から秋にかけては農耕 ・ 養蚕の時節 なるが故に民を 使役してはならない 。 民が農耕せざれば 食うものが無く 、民が養蚕せざれば 着るもの無し 。これを読んで仁徳天皇陵の造成には 農閑期にだけ 人民が狩り出された、などと思わないでください。 ( 5−3、虫を祀る、古代の新興宗教 ) 『 日本書紀 』 によると仁徳天皇の時代から約 200 年後の皇極天皇 3 年 ( 644 年 ) のこと、駿河国の富士川の近辺に住む大生部多 ( おおふべの おお ) が村人に 「 虫 」 を祀ることを勧めました。 これは常世神 ( とこよの かみ ) という 神の虫 である。この虫を祀れば富と長寿が授かる。と言って触れ回り、神に仕えることを務めとする 巫覡 ( かんなぎ ) なども神託 ( しんたく、神のお告げ ) であると偽り、 常世神を祀れば、貧者は富を得、老人は若返る などと触れ回りました。さらに人々に財産を棄てさせ、酒や食物を道端に並べ、「 新しい富が入って来たぞ 」 と唱えさせました。 常世神の信仰はやがて都にまで広がり、人々は 「 常世神の虫 」 を採ってきて清座 ( せいざ、清浄な場所 ) に祀り、歌い舞い財産を棄捨 ( きしゃ ) して福を求めました。しかし益することは全くなく、その損害は甚大でした。ここにおいて山城国 ( 京都府の南東部 ) の豪族 ・ 秦河勝 ( はたの かわかつ ) が、民を惑 ( まど ) わす大生部多 ( おおふべの おお ) を憎み討伐しました。 『 日本書紀 』 によれば、この虫の体色は緑で黒点があり、橘 ( たちばな ) や蔓椒 ( ほそき、サンショウ ) に生じ、長さは 4 寸余り ( 約 12 センチ ) と記されているところから、これは アゲハチョウ の幼虫 ( ? ) を述べたもので、天蚕 ( てんさん、ヤママユ ) のことではありませんでした。 卵から孵化して幼虫になり、 繭 ( マユ ) を作り中で サナギになり、そこから羽化するという、いわば死と再生を 三度繰り返す 鱗翅目 ( りんしもく、 チョウ や ガ の仲間 ) ・ アゲハチョウ科 ・ アゲハチョウ属 は、新興宗教の人々にとっては不老不死の常世 ( とこよ、永遠に変わらない世 ) の虫なので、 カイコ に似た虫 が常世神 ( とこよの かみ ) として信仰されたのでした。 ( 5−4、カイコを祀る神 ) 京都市 ・ 右京区 ・ 太秦 ( うずまさ ) ・ 森ヶ東町に 「 木嶋神社 」 ( このしまじんじゃ ) がありますが、 この神社を有名にしているのは、同じ境内に 「 蚕の社 」 ( かいこの やしろ ) と呼ばれる、 蚕養 ( こかい ) 神社 が祀られているからでした。 家主である木嶋 ( このしま ) 神社よりも 「 蚕の社 」 ( かいこの やしろ ) の方が、昔から多くの人々に信仰されて来ました。そのため京福電鉄 嵐山線 ( 通称 嵐電、らんでん ) の最寄りの駅名は木嶋神社ではなく、 「 蚕ノ社 」 ( かいこの やしろ 、写真 ) ですし、 京都市営 バス 11 号系統 にも 「 蚕ノ社 」 の停留所があります。 木嶋神社の起源は定かではありませんが、平安時代初期に勅撰により編纂された歴史書である 続日本紀 ( しょくにほんぎ ) にこの神社の名があることから ( 注 参照 )、1,300 年以上前から祭祀されていたことになります。 この神社がある嵯峨野一帯はかって朝鮮半島を経由して中国から (?) 渡来した秦 ( はた ) 氏が製陶 ( 陶器作り )、養蚕、織物などの技術を持ち込んだとされるので、蚕 ( カイコ ) が祀られているのもそれに関係があります。 注 : 続日本紀 巻 2 、大宝元年 ( 701 年 ) 4 月 3 日の条 丙午、勅、山背国葛野郡月神 ・ 樺井神 ・ 木嶋神 ・ 波都賀志神等神稲、自今以後、給中臣氏 [ その意味 ] 丙午 ( 3 日 ) 天皇はつぎのように勅 ( ちょく、命令 ) した。山背 ( 山城 ) 国葛野郡 ( かどの こおり ) の月読神 ( つくよみかみ )・ 樺井神 ( かばいかみ ) ・ 木嶋神 ( このしまかみ )・ 波都賀志神 ( はつかしかみ ) などの神稲 ( くましろ、神に供える稲を作る神田からとれる稲 ) については、今後は中臣氏 ( なかとみし ) に給付せよ。( 5−5、衣襲明神、きぬかさ みょうじん ) カイコ を祀る神社には、これ以外にも蚕影 ( こかげ ) 神社 ・ 蚕霊 ( こだま ) 神社 ・ 蚕玉 ( こだま ) 神社などの養蚕の神々が日本各地にあり人々の信仰を集めていましたが、そのうちの 一つに常陸国 ( 茨城県 ) ・ 鹿嶋郡 ・ 日向川村 ・ 蚕霊山 ( さんれいさん ) 千手院 ・ 星福寺 ( せいふくじ ) に祀られた衣襲 ( きぬかさ ) 明神がありました。 『 南総里見八犬伝 』 などで有名な江戸時代末期の戯作者 ( げさくしゃ ) の滝沢 ( 曲亭、きょくてい ) 馬琴 が、星福寺発行のお札 ( ふだ ) を見て、 衣襲明神 ( きぬかさ みょうじん ) の錦絵の文章を書きました。なお桑蚕 ( そうさん ) の祖神とされる女神は、左手に桑の枝を、右手に蚕卵紙 ( さんらんし、カイコの卵が多数産み付けられた紙 ) を持っています。 ( 前略 ) 衣襲明神の御神 ( おんかみ ) を祭れるもの、蚕養 ( こかい ) を業 ( わざ ) とする家には桑よく栄えて、その若芽の春の寒さに傷 ( いたむ ) ことなく、蚕屋 ( かいや ) の中に鼠 ( ねずみ ) つかず、蚕卵 ( たね ) は遺 ( おち ) なく化育 ( かいく ) して、如意( にょい 、自分の思うままになること ) 万倍 の利得あり。 また蚕養 ( こかい ) せぬ良賤男女 ( りょうせん なんにょ ) も恒 ( つね )に神影 ( みえい ) を信心して祷 ( いの ) れば、衣服に乏 ( とも ) しからず ( 以下省略 ) [ 6 : 絹の道 ]紀元前 4 世紀に活躍した古代 ギリシアの医師で歴史家の クテシアス ( Ctesias ) は、 古代 オリエントを統一した アケメネス朝 ペルシア ( Persia、現 ・ イラン、紀元前 550 〜 前 330 年 ) の王であった アルタクセルクセス 2 世 ( Artaxerxes 2、在位 : 紀元前 404 年 〜 前 358 年 ) に仕えた後に ギリシャへ帰国しましたが、東方に セレス人 ( Ceres /Seles ) が住むことを彼の著書である 「 ペルシャ史 」 23 巻の中で記しました。 セレスとは絹を産する人 であり、 セリカ ( Serica ) とは絹を産する土地を意味し中国の西北部を指しますが、 中国の絹 はすでにその頃から西方に知られていました 。 ( 6−1、三本の東西交易 幹線路 ) 太古から ユーラシア ( Eurasia = Euro + Asia ) 大陸には アジアと ヨーロッパを結ぶ東西の交通路があり、キリストの誕生以前から人々が移動 ・ 戦争 ・ 交易に利用してきました。後述する ドイツ人地理学者の リヒトホーフェンが 1877 年に著書の中で、中国からの絹がこの交易路を経由して西方に運ばれたことから、この道の一部を シルクロード ( 絹の道 ) と名付けましたが、東西交通路には以下の 3 本の幹線路がありました。
ロシアの南東部と モンゴル北部には背丈の低い イネ科の植物を主とする広大な スッテップ ( 草原 ) 地帯がありますが、そこを横断する道で、スッテップの道と呼ばれ、昔から多くの遊牧民によって利用されました。 図の緑色は草原地帯ですが、この帯に沿って行けば駄獣 ( だじゅう、荷物を運ぶ らくだ や馬 ) の エサと豊富な水がありました。 中国北部から ゴビ砂漠を越えて モンゴルに至り、シベリアの タイガ ( Taiga、針葉樹林 ) 地帯の南方にひろがる ステップ地帯を横断して、 カザフスタン、ウズベキスタン、アラル海 ( Aral Sea ) ・ カスピ海( Caspian Sea ) 沿岸に至る道でした。 辞書の大辞林によれば、絹の道 ( Silk Road、シルクロード ) とは中央 アジアを横断する古代の東西交易路の総称であり、中国を発し タリム盆地の タクラマカン砂漠の南北に点在する オアシス都市国家群を通り、パミール高原を越え西 アジアから地中海沿岸に達する交易路をいうとありました。 この道は 全行程がほとんど砂漠であり 、中央に パミール高原 の雪と氷の難所が控えていますが、東西 トルキスタンの砂漠には オアシスが点在し、東西文化交流 ・ 交易の中で最も多く利用され繁栄した道でした。この道を通って物資 ・ 文化 ・ 民族などの東西移動がおこなわれ、古代から最も重要な東西の交通路でしたが、一般に シルクロードとは、この道を指しました。 中国南部の港 ( 広州 ) から東南 アジア、セイロン島 ( 現 ・ スリランカ )、インドを経て、ペルシャ湾や紅海に達する海上 ルート で、海の シルクロードとも呼ばれ、造船 ・ 航海技術の進歩により大量の荷物を運べることから、陸上の交易路よりも次第に活発になりました。 ちなみに 13 世紀に 「 東方見聞録 」 で有名な イタリア ・ ベネチア商人の息子 マルコ ポーロ ( Marco Polo ) は、 17 才の時 ? ( 1271 年 ) に父や叔父と共に 「 オアシスの道 」 を通って、 元 ( げん ) 王朝の大都 ( 現 ・ 北京 ) に行き 17 年間滞在しましたが、帰途は 「 海の道 」 を経由して 24 年後の 1295 年に帰国しました。 ( 6−2、キャラバン ) 外国のことわざに If you want to go fast, go alone. If you want to go far, go together. 急ぐ旅をしたければ、1 人で行け。遠くまで旅をしたければ、仲間と共に行けがあります。( 注 : 参照 ) 注 : 集団による旅キャラバンにより中国からは絹を初めとする彩陶 ( さいとう、土器に彩色文様をほどこしたもの ) ・ 茶 ・ 紙などを シルクロードを経由して西へ運び、西の国々からは玉 ( ぎょく、ヒスイ ) ・ 宝石 ・ 香料 ・ 毛皮 ・ 絨毯 ( じゅうたん ) などの物品を中国に運びました。 これらの品物は隊列を組んで移動する キャラバン ( Caravan 、隊商 ) により運ばれましたが、盗賊から品物を守るためにも、通行税を払う場合も キャラバンの方が安全で有利だったからで、一つの キャラバンに 50 頭から 100 頭もの ラクダがいたともいわれています。 交易路を支配する権力者はやがて キャラバンから通行税を徴収するようになりましたが、それに見合う保護もするようになりました。その保護の役割を担ったのが、 キャラバン ・ サライ ( ペルシャ語で隊商宿 ) でした。 裕福な隊商や高価な品物を運ぶ隊商は弓の射手を護衛に付け、そうでない者は護衛料を支払って盗賊から守ってもらいました。彼等の交易範囲は 自分たちの言語が通じる範囲 に限られ、オアシス都市にある キャラバン ・ サライ では、隊商たちが東や西から運んで来た商品が次々に取引され、再び各地に運ばれて行きました。 いわゆる絹の道は、東は中国の長安 ( 現 ・ 西安 ) と洛陽 ( らくよう、河南省西部にある都市 ) に始まり、西に進み東 ローマ帝国 ( 395〜1453 年 ) の都、 コンスタンティノープル ( Constantinopolis 、現 ・ トルコの文化 ・ 商業の中心都市 イスタンブール ) や イタリアの ローマに至るもので、直線距離にして約 9 千 キロメートル 以上もありました。 しかし砂嵐の襲う熱砂の砂漠を通り、標高 5 千 メートルの パーミール ( Pamir ) 高原を通る厳しい東西交易道の利用は次第に廃 ( すた ) れて行き、前述した 「 海の道 」 による交易に取って替わられました 。 ( 6−3、オアシス ) オアシス ( Oasis ) とは ギリシャ語で肥沃 ( ひよく ) な土地の意味ですが、タクラマカン砂漠の周辺部や ユーラシア大陸の内陸乾燥地帯の中に分布し、そこには水があり樹木が生い茂る場所でした。 人々が オアシスに住む根源は、ひとえに水の存在に掛かっていて、気候の変化などで湖の移動 ・ 乾燥 ( 例えば ヘディンが発見した、さまよえる湖の ロプノール ) や川の水路が変わり、あるいは後述する地下水路 ( カレーズ ) から水が得られなくなると、 オアシスは放棄され居城 ・ 家屋 ・ 仏塔は流砂に埋もれていきました。 高山の雪解け水を集めて流れる河川の岸辺にある オアシスの他に、川がない多くの地方では カレーズ ( Karez ) と呼ばれる地下に長い トンネルを掘って水を流し、砂漠や乾燥地帯における水流の蒸発を防ぎ、その流れに沿って縦穴を掘り トンネルの土砂を地上に運び出し維持管理します。 上の右側の写真で連続した穴の先には、オアシスが見えますが、途中にある穴からも水の汲み上げが可能であり、水流は最後に地表に流れ出て農地を灌漑 ( かんがい ) します。カレーズは ユーラシア大陸内部の乾燥地帯にも広く分布しています。
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