トロイ の木馬
[ 1:長編叙事詩 ]トロイ の木馬などと聞くと、 パソコン ・ ウイルス の話かと思う人もいるでしょうが、そうではなく、古代 ギリシャの トロイ戦争 ( Trojan War ) で使われた木馬 ( Trojan Horse ) のことです。私事で恐縮すが 「 トロージャン 」 ( トロイ人 ) と聞くと、その昔もっぱら愛用した大丸 デパートの既製服 ( 背広 )を思い出します。
トロイ [ Troy ] のことを ギリシャ語では トロイア ( Troia ) というそうですが、私は昔から馴染みのある トロイを使用します。トロイ は トルコ 北西部の エーゲー海を望む、 トルコ語で ヒッサリク と呼ぶ丘陵地帯にありましたが、そこには青銅器時代 ( 紀元前三千年 〜 前二千年頃 )から 人が居住していました。 古代 ギリシャ の人々の間には、太古の昔に起きたとされる トロイ戦争 の伝承がありました。それによれば ミケーネ王の アガメムノンを総大将とする ギリシャの連合軍 が エーゲ海を渡り、対岸にある城塞都市 トロイ と 10年にも及ぶ戦いをして、遂に勝利を収めたというものでした。
それは長い年月を超えて人々の間で、神話として あるいは物語として語り継がれ、また 吟遊詩人 ( ぎんゆうしじん 、wandering minstrel ) たちによって歌われ、語られ続けてきました。日本でも時代は異なりますが平安時代に始まり、僧侶の服装をした盲目の芸人である琵琶法師 ( びわほうし、平家座頭ともいう ) が、平家物語などを弾き語りして諸国を回り、生活の手段としながら人々を楽しませました。
その後 紀元前 8世紀 になると詩人の ホメロス ( 英語読みで ホーマー、 Homer ) が、それまでの伝説や吟遊詩人などの語り部たちによって語られてきた数々の物語、神話、事件などを編集脚色して長編叙事詩の イリアス 、( Ilias、英語名では イリアッド、Iliad ) と、 オデュッセイア ( Odysseia 、英語名オデッセイ( Odyssey )を完成させました。実は ホメロス自身も、吟遊詩人であったとする説もありますが、写真は彼の胸像です。 これらの叙事詩は ヨーロッパの文学史上、 最古、最大とされる文学作品になりましたが、有名な画家たちにより物語の場面や主人公が絵の題材に多く使われると共に、これらの古典に通じることが、ヨーロッパにおいては、教養人としての尺度にもなりました。
[ 2:パリス ( Paris ) の審判 ]長編叙事詩 「 イリアス 」 に述べられた トロイ ( 別名 トロイア 、 Troia ) 戦争の原因とは
人間の数が増えすぎたので ギリシャ神話の 最高神 ゼウス ( Zeus ) は、 人間の数を減らすために戦争を起こす計画を立てました。そこである女神の結婚式に際しては、 不和を司る女神 ( Goddess of Discord ) の エリス ( Eris ) をわざと 招待しませんでした。 つまり トロイ戦争の原因とは ギリシャ神話の最高神によって仕組まれ、不和の女神がもたらした、 女性をめぐる争い でした。
[ 3:トロイ の木馬 ]ようやく本題に入りますが、この話は長編叙事詩 「 イリアス 」 の中だけでなく、同じく 「 オデゥッセイア 」 の中でも語られています。 ヘレーネ を奪い返すために前述した ギリシャの ミケーネ ( Mycenae ) の王、 アガメムノン ( Agamemnon ) 率いる 10 万人の連合軍 が多数の軍船に乗り、エーゲ海を渡って トロイを攻撃しましたが、堅固な城壁に囲まれていたために、 10年の歳月をかけて トロイを包囲攻撃したものの、陥落させることができませんでした。叙事詩の題名の 「 オデゥッセイア 」 ( Odysseia ) や、英語読みの 「 オデッ セイ 」、( Odyssey ) とは名前が似ていて間違いそうですが、ギリシャの包囲軍には名前の最後の 2文字が異なる [ オデッセウス ] 、( Odysseus ) という名将がいました。
彼は 木馬作戦 を計画しましたが、それによれば巨大な木馬を作り内部に精鋭の兵士 30人を隠し、城壁の内部に侵入させることでした。木馬作りを指揮することになったのは大工の技に長けていた エペイオスで、彼は 山から木を切り出させ、あるいは自軍の船の木材を転用して木馬を組み立てました。 木馬が完成するとそれを広場に放置し、脱走兵を装った一人の ギリシャ兵だけを残して、ギリシャ軍全員は艦隊と共に撤退・帰国したように見せかけました。その後、残された一人の ギリシャ兵は トロイ人に対して、
と述べましたが、木馬にも 女神 アテナ へ奉納 の文字が書かれてあったので、それを信じた トロイ軍は神官の反対にもかかわらず、女神 アテナへの献上品を大切に扱い、その大きく重い木馬を引きずり城壁の門を開け、内にある アテナ 神殿に奉納しました。
ギリシャ軍が全員撤退したので兵士たちは トロイを守り抜いたことを喜び、戦勝の宴会をしましたが、 宴会を終えて彼らが寝静まると、木馬に隠れていた ギリシャ軍の兵士たちが城壁の門を内側から開けました。それと共に出航した後に、闇に乗じて トロイに引き返してきた ギリシャ艦隊の兵士を城内に引き入れると、 トロイ兵の寝込みを襲い、一斉に攻撃を開始しました。
城内では火災が発生し、兵士の数で勝る ギリシャ兵が トロイ兵を皆殺しにしたので トロイ城塞は遂に陥落しました。戦利品となった女たちは ギリシャ兵により犯され、奴隷にされて ギリシャに連れて行かれましたが、戦争の発端となった世界一の美女 ヘレーネ は元の夫である スパルタ 王の手に戻され、10年続いた戦争はようやく終わりました。 廃墟となった トロイは数千年の歳月が流れるうちに城壁は崩れ地中に埋まり、歴史学者からは トロイ戦争の伝承は、神話や物語の世界の出来事として扱われるようになりました。
[ 4:子供の頃からの夢 ]日本でいえば江戸時代末期の文政年間にあたる1822年1月6日に、ドイツ北部の バルト海に面した田舎町 ノイエ・ブコウというところで、牧師の家に男の子が生まれましたが、 ハインリッヒ と名付けられました。母親は小さな町の町長の娘で教養のある女性でしたが、男の子が 9才の時に亡くなりました。プロテスタント派の牧師であった父親は考古学や古代史に興味を持ち、幼い息子に前述した ホメロスの叙事詩に書かれた トロイ戦争 や、 ポンペイの悲劇 ( 注、参照 )などを語って聞かせました。
1829年の クリスマスに、父はようやく 8才になった息子に [ 子供のための世界歴史 ] という本を プレゼントしましたが、その本には古代 ギリシャ連合軍の攻撃により炎上する城塞都市 トロイの 「 さし絵 」 があり、そこには巨大な城壁や門が描かれていました。後の ハインリッヒの自伝によれば、
古代の トロイにはこの絵に描かれているような堅固な城壁が実際にあったのか、という私 ( ハインリッヒ ) の問いに対して、父はそうだと答えました。そこで私は、もし トロイ戦争が単なる物語や神話の出来事ではなく本当にあったならば、その城壁や門は何百年経ってもそれが跡形もなく無くなることはなく、きっと石ころや土の下に埋もれているかもしれないと述べ、、私はいつの日にか トロイを発掘することを父に話ました。注 )ポンペイ ポンペイ [ Pompeii ] とは イタリア南部、ナポリ湾岸にある ベスビオ 火山 [ Vesuvio 、標高 1,277 m ] 南麓にあった古代都市で、ローマ時代に栄えましたが、西暦 79年の ベスビオ火山の噴火による火砕流、火山灰により跡形もなく埋没しました。その後1748年に初めて発見され、発掘されました。
[ 5:語学、商売の天才 ]牧師の息子である ハインリッヒ の生まれつき優れた能力は、語学の習得能力にありましたが、その天才ぶりは早くも11才の時に、たどたどしいながらも 「 オデュッセイア 」 や 「アガムメノン、( 古代 ギリシャの トロイ派遣軍、総指揮官 ) 」 について、ラテン語で作文を書いたといわれています。成人してからはある国の言葉を覚え、書き、話すのに 6週間もあれば十分でした。彼の少年時代は恵まれたものではなく、町の商業学校を14才で卒業すると、小さな食料品店の住み込み店員となって働きながら簿記の勉強をしました。19才で船の キャビン・ボーイ( 船室係 ) になりましたが、海難事故に遭い その後は ドイツには帰らずに オランダの アムステルダムで職を求め、商人の道を歩みました。そこで商売をしながら フランス語、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語などを 6週間以内のうちにすらすら話したり書いたりできるようになりました。そして最後には何と 15ヶ国語を読み、書き、話すこと ができるようになりました。 24才で アムステルダムの貿易商会 シュレーダー社の代理人として、当時の帝政 ロシアの首都 ペテルスブルク ( サンクトペテルブルク、現在は ロシア第二の都市 ) に出張し、習い覚えた ロシア語を駆使して商談をまとめ、大きな利益を上げることができました。
25才の時に卸売り業者とし独立して自分の商館を持ち、ギルドに登録されましたが、 彼の先見の明と機会を捉えるのに敏感な優れた商才により 、商売は発展しました。クリミア戦争 ( 1853〜1856年 ) 中は当時の ヨーロッパではもっとも貴重な染料とされた インディゴ ( Indigo 、インドの染料の意味から、藍色染料のこと )や軍需品 ( 戦時用品 ) をの売買をおこない、アメリカの南北戦争 ( 1861〜1865年 ) の際には大量の木綿の取引をおこない利益を上げました。 帝政ロシアの首都サンクト・ペテルブルクの北西 32 キロにある クロンシュタット市が大火に見舞われると、すぐに木材の買い付けしてその売買取引に成功し財をなしました。それらで得た資金を元手にして、当時の ゴールドラッシュの アメリカに銀行を持つなどして国際的な取引をおこなう大商人となり、 巨万の富 を築きましたが、彼の名は ハインリッヒ ・ シュリーマン ( Schliemann 、1822〜1890年 )でした。
[ 6:夢の実現に向けて ]ここからが常人には真似のできない シュリーマンらしいところですが、1863年、41才の時に それまで順調に展開していた 全ての商売を突然打ち切り 、今後は幼い頃から抱き続けてきた 夢の実現 つまり「 トロイ戦争の遺跡発見 」に向けて人生を歩むことに決めました。発掘の前に夢のひとつであった世界旅行に出ることにして、1865年 43才の時に世界旅行に出発し、インド、ホンコン、上海、北京から横浜を訪れましたが、日本には同年 ( 慶応元年 ) 6月1日から7月4日までの1ヶ月と3日滞在しました。次の目的地の サンフランシスコに向かう 50日間の船中で彼が書いた旅行記の原題は、 [ 現代の シナ ( 清国 )と日本 ] でしたが、それを読むと もし文明という言葉が物質文明を指すならば、日本人はきわめて文明化されていると答えられるだろう。なぜなら日本人は工芸品において、蒸気機関を使わずに達することのできる、最高の完成度に達しているからである。 と日本をほめていましたが。 [ 7:発掘の成功 ]世界旅行から帰った シュリーマンは パリに住み、そこで考古学を勉強し、二年後には学位を取りましたが、子供の頃から トロイ戦争の舞台となった トロイの存在を固く信じ、それを明らかにするための情熱を持ち続けた彼は いよいよ ホメロス作の長編叙事詩の イリアス や オデュッセイア に述べられ、 近代の歴史学者たちが単なる神話、物語にすぎないとした トロイ戦争の地を発掘することにしました。
シュリーマンは、1870年から トロイ( ヒッサリク ) で 1 日平均 80人の人夫を自費で雇い試掘にとりかかりました。その後も 私財を投げ打って人夫 100人 〜 150人を雇い入れ 、発掘作業をおこなった結果、1871年 ( 49才の時 ) に念願の トロイの遺跡を発見しました。
シュリーマンはさらに トロイ戦争で ギリシャ連合軍を率いた アガメムノンの本拠地であり、ギリシャの ペロポネソス半島北東部にあった古代都市の、ミケーネ ( Mycenae、 ) などの遺跡を1876年 ( 54才の時 ) に発掘しましたが、その結果はそれまでの古代文明の歴史を一変させました。写真は 「 まぼろし 」 の都市国家 ミケーネを発掘し、城壁の入り口にある ライオン・ゲート ( Lion gate、向き合った 2頭の ライオンの彫刻で上部を飾る門 ) の前に立つ シュリーマンです。
ミケーネ は ミュケナイ( Mykenai ) ともいいますが、紀元前 15世紀〜前12世紀にかけて、ミケーネを中心とした ミケーネ文明 が栄えた所でしたが、古代 ギリシャ文明とは異質であり、同じ ギリシャ人によって異なる文明が展開されていたことの発見の業績は高く評価されました。 それは堅固な城壁と炉を備えた宮殿を持ち、仮面、杯などの金工芸に優れている特徴がありましたが、仮面は前述した アガメムノンの仮面です。
[ 8:毀誉褒貶 ]トロイや ミケーネを発掘し古代遺跡の発見から、古代文明の存在を明らかにした シュリーマンの行為は賞賛に値しますが、別の見方によれば彼の発掘方法があまりにもにも幼稚、かつ、非科学的であり、しかも彼の発掘目的が トロイ最後の王であった プリアモスの財宝と呼ばれる 財宝目当てでもあった ために、遺跡の発掘記録などはずさんで、考古学的には遺跡の破壊に近い無残な結果を残したのは残念でした。さらに発掘した財宝の一部を私物化した話もありましたが、彼にしてみればこれまで何百年間、いや、トロイ が滅亡した紀元前 1,250年頃から西暦 1871年まで 3千年以上もの間、誰も見向きもしなかった伝説の土地を、 莫大な私財を投じて 発掘し、ようやく掘り出した 無主 ( 所有者のいない ) の財宝の一部を所有して どこが悪いのか?。口を出すのであれば、そのまえに カネ ( 発掘資金 )を出せ という気持ちがあったと思います。
写真は シュリーマンよりも 30才年下の 妻 ソフィアですが、発掘した財宝を身につけて撮影していましたが、トロイを自国の領土とする トルコ人からは、トロイ戦争の原因となった世界一の美女、 「 ヘレーネ 」 の装身具を盗んだ女 と非難されました。この財宝は 後に多数の発掘品と共に ドイツに寄贈されましたが、第二次世界大戦後行方不明になり、ソ連崩壊後は ロシアの前述した サンクトペテルブルク にある美術館に展示されているそうです。 今でこそ各国の文化財や埋蔵文化財に関する所有権や、国外持ち出しなどが厳しく制限されていますが、当時はそうではありませんでした。シュリーマンの発掘から 数十年後の 19世紀末から 20世紀初頭にかけて、 自費によらずに ハンガリー人で後に イギリスに帰化した オーレル ・ スタインや、 スウェーデン人の スウェン ・ ヘディン をはじめ ヨーロッパの探険隊が シルクロードを探険しました。 彼等は シルクロードの遺跡から手当たり次第に大量の仏像や、経文を 持ち去り 、あるいは貴重な壁画を 剥がして 、自国の博物館や大学の研究室に運び込みました 。 彼らの行為と比較して、誰が シュリーマンを非難できるでしょうか?。聖書にも 汝らのうち罪なきもの、石もて打て とあります。
彼に対する 毀誉褒貶 ( きよほうへん 、人により 褒めたり くさしたり と評価が異なること ) が絶えませんが、 コロンブスの卵 の話と同様に、他人の業績の後を追う 「 二番煎じ 」 は誰にでもできることであり、シュリーマンが発掘した後を掘り、彼の発掘が考古学研究に大きな損害を与えた、と非難するのは言い過ぎだと思いました。 なぜなら シュリーマンが 発掘し存在を 実証する までは、 トロイ文明や ミケーネ文明の存在を知る考古学者は誰もおらず、トロイ戦争は史実どころか、単なる 神話 か、 ホメロスの叙事詩に述べられた 文学的虚構の産物 にすぎないとしたのが、近代までの 歴史家たちの定説 だったからです。 子供時代からの 夢と ロマンを追い続け、成人した後には順調な商売を止めてまでそれを実現した、彼の強固な意志とそれによる優れた発掘の成果を思えば、彼に対する非難中傷など、私には 色あせて見えました。
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