関所について


十文字峠標識御巣鷹山現場

60年ほど昔のこと、関東西部の奥秩父山系にある標高 2,035 メートルの 十文字峠 を、長野県 ・ 南佐久郡 ・ 川上村から東に向かって越え、原生林に囲まれた険しい山道を 10 時間かけて歩き、埼玉県 ・ 秩父郡 ・ 大滝村の 栃本 ( とちもと ) 部落に着きましたが、その峠は後に 520 名 が死亡した、日航機墜落事故現場の御巣鷹山 ( おすたかやま、1,639 m ) から南南東 9 キロメートルの所にありました。

注:)
十文字峠越えについては、 ここにも以前の記述があります
栃本部落

栃本 ( とちもと ) 部落は埼玉県の西部の山奥のさらに奥にあり、周囲を 2,000 メートル級の山に囲まれた急斜面に へばりついた僻地の中の僻地で、平らな土地が無く収穫できる農作物といえば麦と コンニャク芋だけで、当時は 埼玉県の チベット といわれました。

そこには日本 三大峠の 一つである雁坂峠 ( かりさかとうげ、2,082 m ) を越えて、武州 ( 武蔵国 ) と甲州 ( 甲斐国 ) を結ぶ山道の、秩父往還 ( ちちぶ おうかん )がありましたが、戦国時代に甲斐 ( 山梨県 ) の武田信玄が最初に関所を設けて不審者の侵入を防ぎました。

栃本関所跡

徳川時代になると秩父は天領 ( 幕府領 ) となりましたが、いわゆる 関東への 「 入り鉄砲 」 と、そこからの 「 出女 ( でおんな ) 」 を取り締まるために関所は存続しました。かつては武田家の家臣でした大村家の当主が、武田家滅亡後は徳川家に仕官して代々関所の番士を勤め、明治維新に至りましたが、右は栃本 ( とちもと ) の関所跡である、大村家の役宅です 。

[ 1:最古の関所 ]

大化の改新

飛鳥時代の皇極 4 年 ( 645 年) に中大兄皇子 ( なかのおおえの みこ ) らが、飛鳥の板蓋宮 ( いたぶきのみや ) で クーデター を決行し、政治権力を持っていた豪族の蘇我入鹿 ( そがの いるか ) を倒しました。

その後政治の実権は 中大兄 ( なかのおおえ ) が握りましたが、 第 36 代 孝徳女帝を即位させ、自分は皇太子となり 古代史上最大の改革である 大化改新 ( たいかの かいしん ) をおこないました。改新の翌年 ( 646 年 ) に孝徳女帝が出した詔 ( みことのり ) によれば、

初修京師置畿内国司郡司 関塞 斥候防人駅馬伝馬及造鈴契定山河

その意味は

初めて京師 ( けいし、都 ) を定め、畿内 ( きない、王城周辺の地の意味で律令国家が定めた行政区域のこと ) ・ 国司 ・ 郡司 ・ 関塞 ・ 斥候 ・ 防人 ・ 駅馬 ・ 伝馬の制度を設置し、駅鈴 ・ 契を作成し、国郡の境界を設定することとする

と記されそこには 関塞 ( かんさい、関所 ・ とりで ) を置く とありましたが、 関所の古名である関には、当時次の 三つの 種類がありました。

  1. 後述する古代の 重要な 三関

  2. 摂津 ( 神戸市 ) ・ 長門 ( 現、山口県下関市 ) ・ 唐津 ( 佐賀県唐津市 ) などの 水関 。船や イカダなどの水上交通の監視

  3. その他の関 、たとえば越中国 ( 富山県 ) 砺波関 ( となみのせき )、伊勢国 ( 三重県 ) 川口関など

不破関

ちなみに古代の 三関のひとつの 不破関 ( ふわのせき ) の規模については、岐阜県 ・ 不破郡 ・ 関ケ原町にある不破関の資料館によれば、周囲に土塁をめぐらして、総敷地面積約 12 万平方 メートル ( 37,300 坪 ) という広大な砦 ( とりで ) で、その建物は当時としては立派な瓦葺きの屋根でした。

日本における最古の関所はどこで、いつ頃のことかといえば、次の (1 ) と (2) の資料があります。

(1)、新撰姓氏録 ( しんせん しょうじろく )

新撰姓氏録

平安初期の 815 年に成立し、諸氏族の系譜を記したものに 新撰姓氏録 ( しんせん しょうじろく ) がありますが、当時存在した 1,182 の氏 ( うじ ) を家柄、出自によって、 神別 ( しんべつ ) 、皇別 ( こうべつ ) 、諸蕃 ( しょばん ) の 3 類に大別して祖先を明らかにし、氏名 ( うじな ) の由来などを記したものです。

神代の天神地祇 ( ちぎ、土地の神 ) を祖とする 神別の氏 ( うじ ) は 連 ( むらじ ) などの姓を持ち、藤原氏、弓削 ( ゆげ ) 氏などはその子孫でした。歴代の天皇を祖とする 皇別の氏 ( うじ ) は 天皇、皇太子から別れて臣下になったもので、 臣 ( おみ )、君 ( きみ )、別 ( わけ ) などの姓を持ち、源氏、平氏、橘氏、紀氏などのことでした。

帰化人を祖とする 諸蕃 ( しょばん ) の氏 ( うじ ) は 史 ( ふひと )、村主 ( すぐり ) 、秦 ( はた ) 氏などの姓がありました。以上述べた中でも 臣 ( おみ ) と 連 ( むらじ ) は高い栄誉を持った姓であり、それを称した氏は貴族階級の首位を占めました。

ところで新撰姓氏録の中で、 右京 ・ 皇別 ・ 下 の項目にある、和気朝臣 ( わけのあそみ ) の姓に関連して以下の記述があります。

神功 ( じんぐう ) 皇后 、新羅 ( しらぎ ) を征伐して凱帰 ( かへ ) りたまひ、明年 ( 翌年 )、都 に還りまさむ ( 帰ろう )とする時に、忍熊別皇子 ( おしくまわけのみこ ) ら、ひそかに謀 ( はかりごと )を構 ( かま ) へて、明石の済 ( わたり ) に、兵を備へて待てり。

皇后これを知って、弟彦王 ( おとひこのみこ ) を針間 ( 播磨、兵庫県 ) と 吉備 { きび = 備前 ・ 備中 ・ 備後 ・ 美作 ( みまさか ) 地方の古名 } の堺 ( 境 ) に遣 ( つか ) はして、関を造りて防がせり。 いわゆる和気 ( わけ ) の関、これなり

とありましたが、一説によると 記録にある 最古の関所は 和気 ( わけ ) の関 だといわれています。

神功皇后とは記紀 ( 古事記、日本書紀 ) に記された第 14 代 仲哀 ( ちゅうあい ) 天皇の皇后ですが、天皇の死後新羅に出陣し、凱旋の後に筑紫 ( 九州 )で第 15 代の応神天皇を出産したとされます。しかし いわゆる神話 ・ 伝承の時代のことなので、その信憑性や正確な年代などは不明ですが、和気の関は 5 世紀に作られたとする説があります

関があった場所については、岡山県備前市 ・ 三石と、兵庫県赤穂 ( あこう ) 郡 ・ 上郡町 ・ 梨ヶ原の境にある 船坂峠 ( ふなさかとうげ ) とされますが、昭和 30 年 ( 1955 年 ) に国道 2 号線の船坂 トンネル ( 長さ 408 メートル ) が完成するまでは、昔から山陽道の難所でした。

(2)、風土記

出雲風土記

風土記 ( ふどき ) とは、 713 年に元明天皇の詔 ( みことのり ) により諸国で編纂された官撰の地誌のことですが、そこには郡名の由来、伝承、産物、土地の状態などが記されていて、完全な形の風土記は出雲 ( いずも ) の国のものだけで、他の約 30 ヶ国のものは逸文 ( いつぶん、部分的な文章 ) が存在しています。出雲風土記によると、その当時出雲国境には 12 の関が置かれたことが記されていました

そのうちの一つに伯耆 ( ほうき、鳥取県 ) の国から出雲 ( いずも、島根県 ) の国へ通じる古道の境には、手間関 ( てまのせき ) という関所がありましたが、後の時代の 安田関 ( 島根県 ・ 安来市 ・ 伯太町・安田関、やすぎし ・ はくたちょう ・ やすだせき ) のことで、現在もその地の住所表示に安田関の名前が残っていました。

さらに 阿毘縁関 ( あびれのせき ) の名前もありましたが、現在の鳥取県 ・ 日野郡 ・ 日南町 ・ 阿毘縁 ( あびれ ) にあったもので、これも今の住所表示に残っています。しかしこの件も記紀にいうところの第 7 代 孝霊 ( こうれい ) 天皇当時の、神話 ・ 伝承時代のことなので、年代などの詳しいことは不明でした。

 

[ 2:古代の三関、それ以降の関所 ]

関東や 関西の語源になった 関 ( せき ) の東、関 ( せき ) の西 とは、どこの関 ( 関所 ) のことかご存じですか?。前述したように大化改新の翌年に孝徳天皇 ( 在位 645〜654 年 ) が発した詔 ( みことのり ) により、律令国家としての制度を整え 地方には国郡制を敷き 行政区域を定めましたが、山背 ( やましろ、山城 ) ・ 大和 ・ 河内 ( かわち ) ・ 摂津 ( せっつ ) の 4 ヶ 国を畿内 ( きない、王城の周辺地の意味 ) と称しました。後に河内の国から和泉 ( いずみ ) の国が分離したの、で畿内は 5 ヶ国になりました。

672〜3 年にかけて、第 40 代 天武天皇の命により、奈良県 ・ 明日香村 ・ 飛鳥にある都 ( 飛鳥浄御原宮、あすか ・ きよみはらの ・ みや ) の防備の為に 三つの関を設けましたが、

  1. 東海道 ( 別名、うみつみち ) では、伊勢 ( 三重県 ) の 鈴鹿関 ( すずかのせき )

  2. 東山道 ( 別名、やまつみち、注:1 参照 ) では、美濃 ( 岐阜県 ) の 不破関 ( ふわのせき )

  3. 北陸道では、越前 ( 福井県 ) の 愛発関 ( あらちのせき、注:2 参照 ) でした。

これを 古代の 三関 といいますが、それらは前述のように軍事的防衛施設であり、鼓吹軍器 ( 兵器類 ) を備え国司 ( こくし、諸国の政務を管掌した地方官 ) が関を守りました。

この 三つの 関よりも 東を関東 と呼びましたが、現在の関東の範囲や意味とは大きく異なり、そこには 文化的 圏外 の意味もありました。さらに関から西には畿内があったので、当時は関西という言葉はありませんでした。なお飛鳥時代には 東国 と呼び、鎌倉時代からは現代の関東のことを 坂東 ( ばんどう )とも称しましたが、箱根の足柄峠 ( 標高 759 m ) ・ 信州と上州の境にある碓氷峠 ( うすいとうげ、標高 960 m ) の坂より東の地の意味でした。

都に住む人々の間、特に公家社会では明治維新に到るまで文化的辺境にあるとして、 東国を蔑視 ( べっし ) する習慣 ・ 偏見があり 、近世 ( 江戸時代 ) になっても鬼が棲 ( す )み、野蛮な東夷 ( あずまえびす ) がはびこる僻地とする考えが横行していました。

注:1 )
東山道とは なじみのない言葉ですが、律令制下における 七道の ひとつで、畿内から出て、近江 ( 滋賀県 ) ・ 美濃 ( 岐阜県 ) ・ 飛騨 ( 岐阜県 ) ・ 信濃 ( 長野県 ) ・ 上野 ( 群馬県 ) ・ 下野 ( 栃木県 ) ・ 陸奥 ( 注:3 参照 ) ・ 出羽 ( 注:4 参照 ) という内陸にある各国の国府を通る幹線道路のことでした。

注:2 )
愛発関 ( あらちのせき ) は越前 ( 福井県 ) と近江 ( 滋賀県 ) の国境に設置されましたが、今に至るまでその位置が特定されていません。都が平安京に移ると愛発関 ( あらちのせき )は廃止されて、代わりに近江 ( 滋賀県 ) に、逢坂関 ( おうさかのせき ) が設けられましたが、古代の 三関は、延暦 8 年 ( 789 年 ) 7 月にすべて停止、あるいは廃止されました。

注:3 )
みちのく という言葉は 「 道の奥 」 から転じたもので、漢字で書くと陸奥になりますが、読み方は 「 みちのく ・ むつ 」 の両方があります。

陸奥国

「 みちのく 」 は東北地方の太平洋岸にある、陸前、陸中、 陸奥 ( むつ )、磐城、岩代の 奥州 5 ヶ 国の古名でしたが、明治元年 ( 1868 年 ) 以後、 陸奥 ( むつ ) は、 青森県全域と岩手県の一部のみ を示す言葉になりました。 右図の延喜式とは平安中期の律令の施行細則のことで、927 年に完成し律令政治の基本法となりました。

注:4 )
出羽とは山形県、秋田県の 二県に当たり、前述した明治元年から、羽前 ( うぜん、山形県 )、羽後 ( うご、秋田県 ) の二国に分割されたものです。

[ 3:白河の関 ]

白河の関

東山道を辿ると下野国 ( 栃木県 ) と岩代 ( いわしろ、福島県)の国境付近に 白河の関 がありましたが、この関所は律令国家が支配し、役所を置いた陸奥 ( むつ、注:3 参照 ) 国への出入り口として、また蝦夷 ( えぞ、アイヌ人 ) の南下を防ぐために、現在の白河市付近に軍事的防衛施設として設けられました。

白河の関といえば、平安時代における三十六歌仙 ( かせん、和歌に優れた人 ) の 一人に選ばれた 平 兼盛 ( たいらの かねもり、?〜990 年 ) の 「 みちのくの白河関 こえ侍 ( はべ ) りけるに 」 の詞書 ( ことばがき、和歌で その歌を作った日時 ・ 場所 ・ 背景などを述べた前書き ) を付けて詠んだ歌が拾遺和歌集 ( しゅうい わかしゅう、第 3 番目の勅撰和歌集で 1006 年頃に成立 ) にありますが、そこには兼盛が詠んだ和歌が 38 首取り上げられています。

便りあらば いかで都へつけやらむ、今日 白河の関はこえぬと 

その意味は

機会があったなら、どうにかして都の人たちに告げたいものだ、今日あの名高い白河の関を越えたことを。

同時代の歌人で同じく三十六歌仙の一人であった能因法師 ( ?〜988 年 ) の和歌が、後に作られた後拾遺和歌集 ( ごしゅうい わかしゅう、第 4 番目の勅撰和歌集 1086 年成立 ) にありますが、彼も 31 首の和歌がそこに載せられています。

都をば霞とともに立ちしかど、秋風ぞ吹く白河の関

能因法師

しかし、鎌倉時代の説話集である 古今著聞集  ( ここん ちょもんじゅう、1254 年成立 ) によれば、

実のところ能因 ( 法師 ) は奥州へは行っておらず、京に籠もって日焼けをし、いかにも現地に行って和歌を詠んだように見せかけたものだ
と批判されました。もしそうだとすれば歌枕として白河関を有名にした能因は、とんだ食わせ者でしたが、その関は平安時代の末頃には廃止されました。 

[ 4:関所の役目の変遷 ]

関 ( 関所の古名 ) とはこれまで述べたように基本的には国境に置かれ、当初は大和朝廷に まつろわぬ ( 服従しない ) 部族勢力 ・ 外敵の侵入を防ぐための防衛、つまり 軍事的機能 が主でしたが、頻繁に政変が起きた奈良時代には天皇が死ぬなどの国家の重大事件が起きると、三関を閉鎖して交通を遮断して治安の維持に努めました。また 恵美押勝 { えみの おしかつ、藤原仲麻呂 ( 706〜764 年 )の別名 } の乱の際には、謀反 ( むほん、クーデター ) を起こした者たちが畿内から東国へ脱出しようとするのを、前述した越前 ( 福井県 ) との境にある 愛発関 ( あらちのせき ) を閉鎖して阻止しましたが、このような関の閉鎖を固関 ( こげん ) といいました。

後の時代になると住民の他国への移動を原則禁止し、浮浪 ・ 逃亡防止のためなど関所が 警察的機能 を持つようになりましたが、そのために関を通行する者には過書 ( 過所とも書き、もともとは古代中国の関所通過の許可証のこと ) が必要になりました。

これまで述べたように律令国家が設けた古代の関や後述する江戸幕府による近世の関所は、いずれも 軍事 ・ 警察上の必要性 から設置されましたが、ところが中世 ( 鎌倉 ・ 室町時代 ) になるとそれらの関の機能は変質してしまい、幕府や武家、荘園主、地方豪族などが交通の要所に新たに関を設けて、通行する人や貨物から、関銭 ( 通行料 ) を徴収するという 経済的な理由 から設置するようになりました。

東寺関

そのために文明 15 年 ( 1483 年 ) 頃には 権門 ( 権力者 ) や寺社などが勝手に、京都の町中にも数多くの関 ( 関所の古名 ) を設置し、関銭 ( 通行料 ) の支払を要求したので、

一条、九条の間 ( 通行 ) 難儀なり

日野富子像

などと当時の人の日記に記されたほどでした。室町幕府の将軍 ・ 足利義政の妻で 金銭に強欲な日野富子 ( 1440〜1496 年 ) は、地方から京への七つある出入り口の通称 七口 ( ななくち、粟田口、東寺口、丹波口、鳥羽口、鞍馬口、大原口、荒神口 ) に、 関を設けて通行料を徴収し 私腹を肥やしましたが、右は日野富子の木像です。

日永追分

ところで往来が頻繁な道路に関を作ればそれだけ収入が増えるので、伊勢神宮の参宮街道には桑名と日永 間の距離 18 キロ に 60 もの関 、つまり単純計算すると 300 メートル毎に関を置いて、1 文ずつの関銭 ( 通行料 ) を取る事態にまでなりました。写真は東海道と伊勢街道 ( 参宮街道ともいう ) が分岐する、日永 ( ひなが ) の追分 ( おいわけ ) ですが、 右 京大阪道、左 いせ参宮道 の道しるべがあります。

さらに伊勢の国では合計 120 もの関 を設けて、全国からやってくる伊勢参りの人々から関銭を むしり取っていたので、その 伊勢 コジキ と称された悪評通りの ガメツサ には参詣人も呆れましたが、伊勢出身で天台宗の高僧 ( 伝灯法師 ) 真盛 ( しんせい ) 上人は、

伊勢 1 国の関、120、御罰当たるなし。不思議ふしぎ

その意味とは

庶民が伊勢神宮に参拝するのは、その信仰心の発露であるにもかかわらず、それらの人々から伊勢 1 国だけでも 120 ヶ 所で関銭 ( 通行料 ) をとれば罰が当たるはずだか。当たらないのは不思議である

と嘆いていました。ガメイツのは伊勢だけでなく京都や大阪、その他の所でも一緒で、別の資料によれば、寛正 3 年 ( 1462 年 ) には、淀川の沿岸だけでも 関の数は 380 ヶ 所 を数え、文明 11 年 ( 1479 年 ) には、奈良から山城 ・ 近江を経て美濃の明智 ( 現・岐阜県 ・ 可児市 、かにし ) に至る間に、 29 ヶ 所の関 があり、関銭 ( 通行料 ) の徴収に当たっていました。

[ 5:織田信長の決断 ]

織田信長

戦国時代の英雄、織田信長 ( 1534〜1582 年 ) について学校で習ったことの中には、 楽市 ・ 楽座 ( らくいち らくざ、特権的な ”座 ”や独占販売の禁止などの革新的な商業政策 ) がありましたが、彼はそれだけでなく支配地域における新しい国造りのために、人々を苦しめてきた 関の廃止 という果断な交通政策を実施しました。

信長公記 ( しんちょうこうき、1600 年 頃成立 ) によれば、永禄 18 年 ( 1569 年 ) に伊勢国を征服すると、

当国の 諸関 、とりわけ往還旅人の悩みたる間、末代に御免除の上、向後 関銭、召置くべからざる の旨、堅く仰せ付けらる
と記され、伊勢参りの人々を ガメツイ関銭の搾取から解放して感謝されましたが、前述の 信長とは別物の 信長記 ( しんちょうき、江戸初期に成立 ) によれば、

伊勢参り

今度 ( このたび ) 勢州 ( 伊勢国 ) に於いて凶徒等悉く攻亡 し ( 悪者をすべて攻め滅ぼし )、万民撫育 ( ぶいく、かわいがりそだてる ) の功を立つ、

関停止せしめ、往還の累 ( るい、迷惑 ) なき様に沙汰致しつる趣き、申し上げられければ、 義昭公 ( 足利将軍 ) は斜めならず ( はなはだしく ) 御感有りて ( 感心して )、国光の御脇指 ( 差 ) まいらせ給ひけり

足利将軍義昭公は、信長が伊勢国を平定し、関を停止させ交通を容易にした功績を称えて、国光の脇差しを下付しました。上の絵は伊勢参りをする人の賑わい。

その後 信長が本能寺の変で死に豊臣秀吉による天下統一が完成すると、交通の障害になる関は廃止の方向に向かいました。

[ 6:幕藩体制下の旅、関所 ]

江戸時代になると大名統制策として 1635 年 の武家諸法度改定により参勤交代が制度化されましたが、主要な 5 街道や宿駅、旅籠 ( はたご ) の整備が進み、旅の大衆化を促進する下地が整えられました。オランダの東 インド会社が長崎に設けた オランダ商館付医師 ケンペル ( ドイツ人 ) が、元禄 4 年 ( 1691 年 ) と 翌 5 年に商館長に随行して江戸参府した際の見聞を基に、 江戸参府旅行日記 を書き死後に出版されましたが、それによれば、

この国の 街道 には毎日信じられないほどの人間がおり、2 〜 3 の季節には、住民の多い ヨーロッパの都市の街路と同じくらいの人が街道に溢れている。遠くからやって来たさまざまな年齢層の旅人が、さして苦労もない様子で街道を行き来し、その中には子供たちだけの旅行者 ( おそらく1650 年から始まった、伊勢神宮へのお陰参り ・ 抜け参りの連中 ) までいることに驚いた。

( 中略 ) これは、一つにはこの国の人口が多いこと、また 一つには他の諸国民と違って、 彼等が非常によく旅行することが原因である。そして旅人も、旅人相手の仕事をしている者たちも、ともに礼儀正しい。日本の街道は世界一安全である

草津宿

と書いていました。絵は東海道 草津宿の立て場 ( 街道筋で人足が駕篭や馬を止めて休憩した所 ) で、滋賀県草津市草津にありました。草津宿は江戸から 52 番目の宿場町で、70 軒を超える旅籠をはじめ、500 軒以上の町家があった東海道では屈指の大きさを誇った宿場町でした。

幕藩体制下では特に農民と女性の旅は厳しく禁じられていましたが、農民は土地を守り、女性は家を守るのが本分とされたからでした。ところが実際には庶民が相州 ( 神奈川県 ) の大山詣り、伊勢参り、四国 八十八 ヶ 所の遍路、西国 三十三 ヶ 所巡礼などに出かけました。そのうち女性の占める割合は僅か 4〜5 パーセントでしたが、それには理由がありました 。

ちなみに古い資料で恐縮ですが平成 3 年の観光白書によれば、20 才代の女性の 約 7 割 、30 才代から 60 才代の女性は 約 6 割 と、多くの女性が国内旅行をしていました。

[ 7:入り鉄砲に出女、建前と本音 ]

入り鉄砲 とは徳川幕府がある関東の地に、反乱防止のために諸大名などの鉄砲がひそかに持ち込まれることを防ぎ、 出女 ( でおんな ) とは江戸の藩邸に人質同様に居住する大名の妻子が江戸を抜け出し、国元へ逃亡するのを防ぐことをいいますが、関所はこれらの監視が主な任務でした。

諸国御関所書付によれば、関所に掲げる高札には以下の覚書きがありました。

  1. 関所を出入る輩 ( やから )、乗物の戸をひらかせ、笠、頭巾 ( ずきん ) をとらせ通すべき事

  2. 往来の女 ( 関所を通行する女 )、つぶさに ( 詳しくていねいに ) 証文引合せて通すべき事、附・ 乗物にて出る女 には、 番所の女 ( 人見女、改め婆のこと )を差出して、相改むべきこと

  3. 手負・死人 ・並びに不審なるもの、証人なくして通すべからざる事

  4. 相定める 証文なき鉄砲 は通すべからざる事

  5. 堂上の人々 ( くげ、公家 )・ 諸大名の往来、かねてより其 ( その ) 聞こえあるは、沙汰に及ばず ( 事前に連絡があるものについては、調べるにはおよばない )、若し不審の事あるにおいては、誰人によらず改むべき事

上の条々厳密に相守るべきものなり

関所破りは死罪 ( 磔、はりつけ ) に処せられるのが規則でしたが、天下に名だたる箱根の関所 ( 相模国 ・ 足柄郡 ・ 箱根、現神奈川県箱根町箱根 ) に残る記録によれば、元和 5 年 ( 1619 年 ) から廃止される明治 2 年 ( 1869 年 ) までの 250 年間に、関所破りの件数は 僅か 5 件の 6 名 にしか過ぎませんでした

その理由は徳川幕府が成立した当初は諸大名の反乱の危険があり、それなりに通行人を厳しく取り締まったものの、天下太平の世が続くと たとえ関所破りが見つかっても、道に迷っただけの者、つまり 藪入 り ( やぶいり )とみなして、関所の役人が叱責して追い返し、あるいは小田原藩の藩境からの追放処分で済ませましたが、これは箱根の関所独特の温情あるやり方でした。


[ 8:関所通行の際の書類 ]

  1. 往来手形 :( 往来切手、道中手形 ) ともいい、現代の パスポート、身分証明書に相当します。 武士の場合は各藩江戸留守居役の署名、公印入りの書類、庶民の場合には村 ・ 町役人が発行し、あるいは檀家制度に基づく旦那寺の住職による寺請 ( う ) け証文 ( 身分証明書 )、五人組、庄屋などの証文 ( 身分証明書 )などで、 旅行中は常時携帯するもの

  2. 関所手形 : 最も厳重とされる 4 ヶ 所の関所 ( 箱根、新居 = 今切、木曽福島、碓氷関 ) の通行には、 関所毎に宛てて用意 した方が無難に通行できるとされるもので、関所の数により、また往復の旅では複数用意し、 関所に手渡してしまうもの

    横川関手形

    右は 横川関に宛てた関所手形ですが、 前述した信州の碓氷関 ( うすいのせき ) は地元の 横川にあるので、横川関ともいいます。書面の形式としては封建制度の下で身分が低い百姓の旅行者や、差出人である五人組、庄屋などの名前は下方に書き、横川関所や役人のことを上方に記していました。


    差上申一札之事

    松平周防守領分  江州蒲生郡 十禅師村 百姓清兵衛/召使 藤七 /同 亀吉/ 〆弐人

    右之者 此度商用ニ付 野州都賀郡 小山宿 治兵衛方迄/罷下り候ニ付 相糺候処相違無御座候間/御関所 無相違御通シ被為遊候可被下候/為後日

    差上申一札 仍而如件

    右同領 江州蒲生郡 十禅師村 五人組 佐助 ( 印 )/ 年寄 源兵衛 ( 印 )/ 庄屋 林平 ( 印 )

    横川御関所  御當番 御役人衆中 様

    その読み方

    差上申一札之事 ( さしあげもうす いっさつのこと )

    右之者此度商用ニ付 野州 都賀郡 小山宿 治兵衛方迄 ( みぎのものは このたび しょうようにつき  やしゅう つがぐん おやましゅく  じへいかたまで )
    罷下リ候ニ付相糺候処 相違無御座候間 ( まかりくだり そうろうにつき  あいただし そうろうところ そうい ござなくそうろう あいだ )
    御関所無相違御通シ被為遊候可 被下候為後日 ( おせきしょ そういなく おとうし あそばされ そうろう くださるべく そうろう ごじつのため )
    差上申一札仍而如件 ( さしあげもうす いっさつよって くだんのごとし )
    横川御関所  御當番 御役人衆中 様 ( おやくにん しゅうちゅう さま )

  3. 関所女手形 :( 女性の場合は 1 と3 を必携。 )

ところで徳川幕府は延享 2 年 ( 1745 年 ) 当時、全国に 53 ヶ所の関所 を設けていましたが、それ以前には 76 ヶ所あった時代もありました。53 ヶ 所の関所のうち

  • 女性が往来手形だけで、通ることができた関所は 1 ヶ 所もなく

  • 女性の場合は 当該関所の通行をお願いする旨の証文が書かれ、女性の旅の目的や行き先、通る女性の人相、素性なども書き記され、身体的特徴 ( 容貌、髪形、ホクロ、お灸の位置など ) を記した 関所女手形 を提出して、書類の吟味や、女改め者 ( 改め婆 ) による 身体検査 を受けた上で通過できた関所は 32 ヶ 所

  • 女性の旅人を 全く通さない関所 21 ヶ 所

でした。

[ 9:井上通女の場合 ]

井上通女像

讃岐 ( 香川県 ) の丸亀出身で江戸時代の歌人 ・ 女流文学者の井上通女 ( つうじょ、1660〜1738 年 ) が、江戸藩邸にいる藩主京極高豊の母 養性院 ( ようじょういん ) に仕えるために、父親と一緒に江戸に行く途中のことを 東海紀行 に記しましたが、それによると関所の厳しい調べで有名な、浜名湖の西岸にある 新居 ( あらい ) の関所で彼女は通行を拒否されました。

上の像は郷土の誉れとして丸亀市の城西小学校の校庭にある彼女のものですが、丸亀高校 ( 旧 丸亀高等女学校 ) にも 「 井上通女 頌徳碑 」 があるそうです。

新居関

拒否された理由とは、女手形には彼女のことをと書いてありましたが、22 才で当時としては年増でしたが未婚の場合には、 着物の脇 あけたる 小女 ( こおんな ) と書くべきだと関所役人が主張したからでした。そこでやむなく大坂 ( 大阪 ) の丸亀藩邸に飛脚の使いを出して、女手形を書き直してもらうまでに 7 日間も宿屋で足止めされました。写真は新居 ( あらい ) の関所。

従来から通行する女性が持参した関所女手形に記された女性の区別が曖昧であり、関所側としても困ったために、新居 ( あらい ) の関所では以前に その件を江戸幕府留守居役に問い合わせました。その回答に基づき、寛文元年 ( 1661 年 ) に 関所手形可書載覚 を出しましたが、それによれば、前述の小女 ( こおんな ) の定義とは、

当歳より 15〜16 才迄も、 振袖の内は 小女 なるべき也

とありました。当時の女性は結婚すれば留め袖を着たので、振袖を着るのは未婚の女性でしたが、前述の井上通女も 22 才の年増ながら未婚なので 、 小女 と関所女手形に書くべきでした。注意すべき点は江戸からの 出女 だけではなく、 入り女 についても、ここでは うわさに違わず 厳しく調べたことでした。

箱根関所

彼女は 8 年間の江戸藩邸勤めを終えて弟と一緒に、元禄 2 年 ( 1689 年 )に江戸から武家の 出女 として 箱根関所 ( 右の写真 ) を通行し讃岐に帰りましたが、 その際に 「 改め婆 」 から受けた調べの様子を 帰家日記 に記しました。それによると、

髪筋など、懇( ねんご )ろにかきやりつつ見る、むくつけげなる女の、年老いぬれども、すこやかにて、いと荒ましきが、近やかにより来りて、濁 ( だ ) みたる声にて物うち言ひ、かくするも心付きなく、いかにする事にかとおそろし

髪筋など度を超して掻き立てながら見る、無骨でむさくるしい感じがする女の、年は取ってはいるが壮健にて、とても荒っぽいのが近くに寄って来て、低く不快な声で物を言い、このようにするのも気に入らないが、どうなることかと恐ろしい。

改め婆によって調べられ、ばらばらにされた髪を彼女が結い上げたのは、関所を出て箱根の峠の茶屋に着いてからでした。

関所では 人見女、女改め者 ( おんな あらためもの )、番女 ( ばんおんな )、 俗称 改め婆 などと称する者が、女性の髪形や着物で隠れた部分の お灸や ホクロの位置まで探って、関所女手形にある本人の特徴の記述と相違ないかを確かめましたが、身分の高い女性ほど丁重な取り扱いをしながら、調べの内容は厳しいものでした。

しかしそういう女性にとって、武士よりも身分が低い足軽の妻や母など下賤の者から、女改め部屋で着物の襟元、裾 ( すそ ) などを大きく広げさせられて たとえば胸元にある ホクロの検査などを受けるのは非常な屈辱であり、前述した井上通女も いかならんと胸つぶるる心地しつる 、と記していました。

[ 10:関所通行時における チップの件 ]

改め婆

出女については当初の対象であった大名の妻子、武家の女性から、次第に 一般庶民の女性 に対しても対象を拡大していきましたが、その理由は世襲である関所役人が権限を拡大し、 役人の下で働く足軽の妻女 が主に勤める 「 女改め者 」 などが、 女性通行者からの余禄 ( よろく、 チップ ) を得るようになったからでした

上は髪の毛を解くだけでなく、着物も はだけて調べられる女性ですが、 女改め者、人見女、俗称 改め婆 への チップについては次に述べます。

(1)、高貴な女性の場合

駕篭

高貴な女性の 「 女乗り物 」 が関所を通る際には 「 女改め者 」 がまず引戸を開けて内を改めますが、その際に関所女手形に記されている髪形と一致するかどうか確認のために、 「 お髪長 ( かみなが ) でございー 」 とか 「 お切り髪でございー 」 と髪形を叫びます。その瞬間に乗り手の女性が 女改め者の袂 ( たもと ) に、 それなりの チップ を滑り込ませるのが当時の習慣であり、それにより検査に手心を加えたのは当然のことでした。

(2)、一般の女性 ・ 男装調べの場合

男装検査

ところで相手が裕福な商家の女性とみるや 「 改め婆 」 が小声で 袖元金 ( そでもときん = 袖の下 ) を要求し、拒否されたり、もらう額が少ないと 髪をわざわざ解かせたり、着物を脱がせたり、腰布 ( 腰巻 ) を取らせたりして 乳房や 秘所 をさわるなど 職権を乱用した嫌がらせをする 悪質な 「 改め婆 」 もいました

上の絵は娘による男装の疑いありとして、 若衆の股間を念入りに調べる 改め婆

(3)、武士 一家の場合

ところで天保 3 年 ( 1832 年 ) に江戸から 妻、娘、下女 2 名の女性 4 人 を伴い、大和の陣屋に引っ越したある武士の、幕府に宛てた報告書によれば ( 古事類苑、こじるいえん、1896〜1914 年 神宮司庁編 )、

前日の宿泊所、または前宿などへ本陣の宿役人ども罷 ( まか )り出て、御関所 通行方案内致す べき旨申し立て候義これあり
つまり宿役人がわざわざ宿泊所に来たり、途中まで出向いて関所へ案内することを申し出ましたが、その意味は箱根関所にいきなり行ったのでは、 4 人もいる女性たちに対する 出女 の調べは厳しいですよ。内々に話をつければ調べに手加減してくれますので、それについては人見女 ( 改め女 ) への謝礼が必要とのことでした。

この武士は箱根の人見女への謝礼として、 妻の分として金 100 疋 ( 9,300 円、注:1 参照 )、娘の分、金 2 朱 ( 4,650円、注:2、参照 )、下女 2 人の分、金 1 朱 ( 2,325 円 ) を渡し 、その合計額は 16,275 円 になりました。さらに前述した厳しい新居 ( 今切 ) 関所でもその半分の金額 ( 8136円 ) を渡しました。

後で仲介の宿役人 ・ 関所役人 ・ 改め女と チップを分配する仕組みであることが想像されましたが、ある関所の調べが厳しいという ウワサが立てば、それだけ役人たちの懐に入る 余禄 ( よろく、チップ ) が増える という仕組みでした。

ところで ある妊婦が関所を前にして早産で子供を産んだところ、女手形と人数が違うので書き直して出直して来い、と追い返された という関所のひどい対応例もありましたが、その場合はしかるべき筋に それなりの 袖の下 ( ワイロ ) を出せば 、無事に通行できたかも知れません。

注:1)
疋 ( ひき ) とは銭を数える単位で、初めは 10 文、後に 25 文 ( 93 円 )を 1 疋としました。時代により貨幣価値が異なりますが、ある データによれば、前述の武士一家が旅行した前年の天保 2 年 ( 1831 年 ) 当時、 1 両は 37,200 円、 1 分は 9,300 円、 1 朱は 2,325 円、1 文は 3.72 円でした

1 文を 3.72 円とすれば 100 疋の貨幣価値は、時代により 3,720 円 〜 9,300 円 になります。

注:2)
朱 ( しゅ ) とは江戸時代の貨幣の単位で、1 朱とは 16 分の 1 両のことです。

[ 11:入国、出国時の 手判 ( 関所の通行券 ) ]

江戸時代の 閉鎖的な藩 においては、藩領に入国の際には往来手形を関所に提示するだけでなく、 入り切符 ( 手判 )と称する入国証明書を有料で発行してもらい、正規の手続きに従い入国した者である証拠としましたが、これが無ければ宿屋に宿泊できませんでした。その後 藩領から出国する際には 出切手 ( できって ) という出国申請書が必要であり、加賀藩ではその取得には宿泊した宿屋の亭主を保証人にして、 代金 80 文 ( 297 円 ) を支払わなければなりませんでした。

加賀百万石の国主の御掟 ( おさだめ )、至って理不尽のなされ方と存ぜられ候

と、百万国の大国に似合わないその ガメツサ に、旅人からも不満の声が出ていました。( 野田泉光院、日本 九峰修行日記 )

これよりも更に厳しい取り締まりをする藩がありましたが、鹿児島の薩摩藩でした。他国者の入国に際しては旅の目的を厳しく問いただし、往来手形を入念に調べると共に所持金を申告させ検査したので、それには 見せ金 ( がね ) と称する旅行日程に必要以上の金銭の所持が必要でした。さらに琉球、唐物 ( からもの ) を買い取るまじく候、という誓約書を旅人に書かせ署名、爪印を押させました。

手判 ( てはん、関所の通行券 ) の形式は各藩によって異なりますが、安政 4 年 ( 1857 年 ) に仙台藩の笹谷番所から仙台領に入国した場合の手判を示します。

越後の善之助同道弐人、柴田笹谷相入候条、出口境無異義可被相通候 下役申出如此候以上。/巳十月六日、/渡辺六郎兵衛印/右之御境目通り

越後の善之助なるもの二人連れにて柴田郡笹谷の番所から仙台領に入国しました。あやしいところは無いので、出口に当たる番所では いぎなく あいとおさるべくそうろう と、下役このように申し出ております。以上。

幕末 ( 文久年間 ) に、羽州由利郡本庄 ( 現、秋田県・本庄市 )のある女性が、伊勢 ・ 讃岐の金比羅参りのために 5 ヶ月間の長旅をしましたが、その際の記録である 参宮道中諸用記 によれば、「 御関所 女通案内賃、 40 文 ( 149 円 ) 」、とか 「 女 かくれ道通る 」、「 女入手形賃 10 文 ( 372 円 ) 」 とかの記述がありましたが、女性を通さない関所もあったので、その場合には土地の者に案内を頼んで関所を迂回して、つまり関所破りをしながら旅をしました。

建前をいえば幕府の掟では当然死刑でしたが、 関所を迂回する女性のために非常に安い賃金で、 道案内を仕事 にする土地の者がいて、それを 女性に紹介する宿屋 もありました。また手形の無い女性には 入手形を用意する茶屋 もあり、更に関所の役人も、長年 見て見ぬふり をして来たのでした 

[ 12:関所の終焉 ( しゅうえん ) ]

徳川慶喜

慶応 3 年 ( 1867 年 ) 1 月 1 4日 ( 旧暦では 11 月 9 日 ) 15 代将軍 徳川慶喜が征夷大将軍の職を辞し、政権を朝廷に返上することを申し出て、翌日朝廷がそれを許可したことから、250 年以上続いた徳川政権が終わりを告げ、いわゆる大政奉還がおこなわれました。

発足した明治新政権は明治 2 年 ( 1869 年 ) に全国の関所をすべて廃止しましたが、その際の布告は下記の通りでした。

板倉主計頭 ( かずえのかみ )

今般太政 ( 天下の政治 ) 更始 ( こうし、あらたまり始まること )、四海 ( しかい、 天下 ) 一家の御宏謨 ( ごこうぼ、大きなはかりごと )、宣 ( のた ) まわれ候に付、箱根始め諸道の 関門、廃止 仰せ出され候間、この段心得の為めに相達し候事

正月      行政官

街道旅

これにより飛鳥時代に始まり 千年以上もの間 日本の道路における庶民の自由な交通や、特に徳川時代には女性に対する著しい通行制限を課し、藩の境界を越えた米を含む物品の自由な流通を妨げて来た関所 ( 関 ) が廃止され、男女を問わず全国を自由に移動 ( 旅 ) できるようになりました。

このことは、それまでの 権門勢家 ( けんもんせいか 、位が高く勢力のある家 ) や 寺社などによる道路の 私物化 ( 関の設置 ) に始まり、全国の道路が 鎌倉 ・ 室町 ・ 徳川幕府や各藩による いわば 私道 の地位から、名実ともに 天下の公道になった ということであり、日本の交通史における 最大の変革 でした



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