お酒について
昔 むかしのこと 初めて イギリスに行った際に、 パブ ( Pub ) で ビール ( エール、Ale ) を飲んだところ生ぬるかったので、冷えた ビールしか知らなかった私は驚きました。 ビールだけでなく ワインについても日本では白 ワインは冷やして、赤 ワインは常温で飲むのを知っていましたが、ドイツでは加熱した ワインを飲んだので、世界にはいろいろな酒の飲み方があるのを初めて知りました。
[ 1 : 酒の種類 ]酒税法 ・ 第 2 条によれば、「 酒類とは アルコール分 1 度以上 の飲料をいう 」 とありますが、同法第 3 条 ・ 第 3 号から 6 号までの規定によれば、酒類の分類及び定義については下表の通りです。
酒には使う原料により、大別すると下記の二つがあります。
珍しいものでは リュウゼツラン科 ( Agavaceae ) リュウゼツラン属 ( Agave ) の植物である 竜舌蘭 ( りゅうぜつらん ) の汁から造る メキシコの酒 テキーラ ( Tequila ) があります。 写真は竜舌蘭の収穫風景で、長く伸びた竜舌蘭の葉を切り落とすと パイナップル状の茎株が現れますが、これを 「 蒸し焼き 」 にした後に摺り潰し、その絞り汁を発酵させ蒸留して テキーラを造ります。 この酒は天災がきっかけとなって生まれたとする伝説がありますが、それによればある時 メキシコの北西にある ハリスコ州の テキーラ村 の近くで大規模な山火事が発生し、焼け跡には黒こげになった野生の マゲイ ( 竜舌蘭の現地語名 ) が数多く転がっていました。 ところが辺り一面に芳香が漂 ( ただよ ) っていたので、村人のひとりが焼けた マゲイ ( 竜舌蘭 ) を押しつぶしたところ、チョコレート色の汁がにじみ出てきました。舐めてみると上品な甘さがあるので、その汁を搾って発酵 ・ 蒸留し無色の アルコール飲料を造りましたが、これが後に テキーラ村にちなんで テキーラと呼ばれるようになりました。
しかし この酒を国際的に有名にしたのは、テキーラを ベースにした カクテルの マルガリータ ( Margarita、スペイン語の女性名 ) の出現でした。私も サンフランシスコや サンディエゴで飲みましたが、写真で グラスの縁に付着しているのは食塩で、それを舐めながら飲みます。
私は昭和 33 年 ( 1958 年 ) 当時、 テキサス州の メキシコ湾に面した コーパス ・ クリスティー ( Corpus Christi ) 市にある米海軍基地に半年間滞在して実用機の飛行訓練を受けましたが、そこは メキシコとの国境が近いために市内には、 ヒスパニック ( Hispanic American、中南米の スペイン語圏出身者、狭義では メキシコ系の人 ) が数多く住んでいました。
そこにある エル ・ パラシオ ( El Palacio 、英語の Palace、宮殿 ) という名の 大きな 酒場で、 テキーラの飲み方を教わりましたが、 握りこぶしの親指の付け根にできる 「 くぼみ 」 に塩を置き、それを舐めながら 40 度もある強い酒を飲みました。 その当時 アメリカで流行った音楽に ザ ・ チャンプス ( The Champs ) が演奏した 「 テキ−ラ 」 という軽快な曲がありましたが、曲の合間に 「 テキーラ 」 という 「 かけ声 」 が入りました。 この曲を聴くと、 54 年前のことを思い出します。聴きたい人は、 ここをクリック
[ 2 : 酒の歴史 ]( 2−1、魏志倭人伝 )日本列島に住む人々がいつ頃からお酒 ( いわゆる日本酒 ) を造るようになったのかは分かりませんが、従来からの考古学によれば稲作は弥生時代 ( 紀元前 300 年 〜 紀元 300 年の 600 年間 ) に始まったとされるので、米を原料とする酒が造られるようになったのは、その時代からと思われます。 古代日本人の風俗 ・ 習慣に関する事柄は中国の歴史書からも得られますが、「 中国 二十四 史 」 の ひとつであり、魏 ( ぎ ) ・ 呉 ( ご ) ・ 蜀 ( しょく ) の 三国の歴史を記した 三国志のうちの 魏志 三十巻のうちの 東夷伝 ・ 倭人条 ( 通称 魏志倭人伝 、ぎしわじんでん ) には、三世紀の日本についての記述があります。 そこには日本における酒の存在を示す 最古の記録 があるので、原文の赤線部分を抜き書きして下記に示します。
とありますが、これだけでは当時の酒の原料やその造り方も不明でした。ところで日本に限らず多くの国では酒は農耕神と深い関係がありますが、その理由は醸造の際に 泡 ( 炭酸 ガス ) を伴って発酵する様子が、多産 ・ 作物の豊穣 ( ほうじょう、豊かな実り ) などと、関連して考えられたためとされます。 ( 2−2、古事記 ) 日本における酒の飲み方は 古くから 一人で飲むものではなく、 集団における 宗教的儀礼 のなかで飲むもの でした。そこでは神と人との交流の場であり、そこで用いられる酒は 少彦名命 ( すくなひこなの みこと ) や大物主神 ( おおものぬしの かみ、別名 三輪明神 ) などの、酒の司 ( くしの かみ ) によりもたらされたものとされました。 712 年に成立した古事記が伝える第 14 代、仲哀 ( ちゅうあい ) 天皇紀によれば、妻である神功 ( じんぐう ) 皇后、正式名は息長帯日売命( おきながたらし ひめの みこと ) が詠んだ歌に、
[ 万葉仮名 ( まんよう がな ) で書かれた原文 ] ( 2−3、泥酔した役人 ) 718 年に公布された養老律令 (ようろう りつりょう ) の中の儀制令( ぎせい りょう ) 19 条には 春時祭田 ( しゅんじ さいでん ) の条 がありますが、
凡春時祭田之日集郷之老者一行郷飲酒礼使人知尊長養老之道。( 其酒肴等物。出公廨供。)と記されていましたが、班田収授 ( はんでん しゅうじゅ ) の法により支給された口分田 ( くぶんでん ) を耕す人びとにとっては、農作業の開始が 一年の始まりでしたが、その際に行われたのが 予祝行事の 「 春時祭田 」 でした。村内の男女がことごとく集まり、用意した酒などで飲食を共にし、神にその年の豊作を祈る祭祀であり、一年の稲作の始まりを告げる重要な行事でした。 ところで天平神護 2 年 ( 766 年 ) に 、越前国足羽郡 ・ 大領 ・ 生江臣東人 ( いくえのおみ あずまんど ) が、神社の春の祭礼で泥酔し装束を着けることもできない状態でしたので、呼び出しに応じることができなかったと、東大寺に対して釈明を行った文書が残っていますが、当時の住民だけでなく役人にとっても、春の祭礼 ( 酒を飲む機会 ) がいかに待ち遠しいものであったかを示すものでした。
奈良時代の和銅 6 年 ( 713 年 ) に元明天皇の詔 ( みことのり ) により諸国で編纂された官撰の地誌である 風土記 ( ふどき ) がありますが、そこには郡名や村名の由来 ・ 伝承 ・ 産物 ・ 土地の状態 ( 肥痩、ひそう ) などが記されていて、出雲 ・ 常陸 ・ 播磨 ・ 豊後 ・ 肥前の 五ヶ国の風土記があるものの、完本は出雲国風土記だけで、一部の文章が伝わる逸文 ( いつぶん ) があるのは 三十ヶ国程度です。 その 一つである 播磨風土記 ( はりま ふどき ) によれば、宍禾郡 ( しさわの こおり ) 比治里 ( ひじの さと ) 庭音村 ( にはと むら ) について、下記のように記されています。
庭音村 ( 本名庭酒 ) 大神御粮枯而生黴 即令醸 酒 以献庭酒而宴之 故曰庭酒村 今人云庭音村とありましたが、蒸した米に生えた 「 カビ 」 とは、酒造りに必要な 米麹 ( こめ こうじ ) のことを指します。参考までに 庭音村 ( にはとの むら ) とは現 ・ 兵庫県 ・ 宍粟市 ( しそうし ) ・ 一宮町のことです。 ( 2−5、口嚼酒、くち かみの さけ ) 鎌倉時代 ( 1192 〜 1333 年 ) に編纂され著者不明の 11 巻から成る辞書の 塵袋 ( ちりぶくろ ) がありますが、620 の事項について問答体で事物の起源や語源を説明しています。 そこに記された 口嚼酒 ( くち かみの さけ ) の造り方によれば、
一家に水と米とを設 ( まう ) けて、村に告げて回 ( めぐ ) らせば、男女 一所 ( ひとところ ) に集りて、米を嚼 ( か ) みて、酒槽 ( さかぶね ) に吐き入れて、散々( ちりぢり ) に帰りぬ。と記していますが、これは 鹿児島県東部の大隅 ( おおすみ ) 国の風土記について、原文がほとんど散逸 ( さんいつ ) し 世に 一部分しか文章が伝わっていない、いわゆる風土記の 逸文 ( いつぶん ) からの引用です。 母親が子供に食物を噛 ( か ) んで与える習慣は おそらく原始時代からあったと思われますが、穀物や 芋類を嚼んで容器に吐き出したものを 「 自然発酵 」 させる方法による酒造りは、古くから沖縄 ・ 北海道の アイヌ民族 ・ 東南 アジア各地に見られますが、主に女性がこれをおこない、原始時代における最も普遍的な酒造方法であったと推定されます。
ちなみに人の唾液には、 デンプンを分解して糖分を生成する消化酵素の アミラーゼ ( Amylase ) が含まれているので、酒槽 ( さかぶね ) に吐き入れた米が糖化され、そこに微生物の酒酵母 ( さけこうぼ ) が繁殖して アルコールの成分を造り酒になりました。 現代人の感覚からすれば、この酒造法は衛生上問題があり飲むには嫌悪感を否定できませんが、当時の人々は何とも感じなかったのに違いありません。
[ 3 : 麹 ( こうじ ) と 酵母 ( こうぼ ) の関係 ]猿酒 ( さるざけ ) の話を見聞した人があろうかと思いますが、
猟師や 「木こり」 が山の中で酔っ払っている猿を見つけて、その行動を観察していると、大木の虚 ( うろ ) から何かを飲んでいるのに気付き、近寄ってみると虚 ( うろ ) の中にはなんと酒が溜まっていました。おそらく猿たちが、木の虚 ( うろ ) に果物を隠して溜め込んでいる内に、発酵して自然と酒になったのに違いないとされますが、猿酒は果実酒の一種という事になります。 酒の最も古い造り方は、蜂蜜や果実に含まれる 糖分 を直接 発酵 ( はっこう ) させたものでした。 ところで 発酵とは麹菌 ( こうじ きん ) や酵母菌 ( こうぼ きん ) などの微生物が エネルギーを得るために、 米 ・ 麦 ・ デンプンなどの有機化合物 ( ゆうき かごうぶつ ) を分解して、 糖分 や アルコール 、 二酸化炭素 ( 炭酸 ガス ) を 生成する過程のことですが、酒 ・ 味噌 ・ 醤油 ・ パン ・ チーズなどの製造に、それぞれ特有の麹菌 ( こうじ きん ) や酵母菌 ( こうぼ きん ) が古くから利用されて来ました。 ( 3−1、日本酒の場合 ) 日本酒に例をとると、原料である米の成分は デンプン ( 澱粉 ) ですが、単細胞菌類である酒酵母などの 酵母菌 ( イースト、Yeast ) は繁殖力と発酵力が強く、糖分を好み それを分解しますが、 米の デンプンには糖分が乏しいので、そのままでは 分解し難い状態です。 そこで酒造りに必要になるのが 、 米の デンプンを 糖分に変える 働きをする 米麹 ( こめ こうじ ) ですが、麹菌が出す酵素が米の デンプンを分解して糖分にすると、微生物の 酵母がそれを食料 ( 栄養源 ) にして繁殖し、 糖分を分解して アルコールを生成し酒になります 。 重要なので、もう一度酒造りの要点を記しますと、
こうじ菌が米の デンプンを糖分に変える 。−−− その糖分を酒の酵母菌が分解して、 アルコール と炭酸 ガス( 気泡 ) を生成する。
このことから発酵の進み具合は、炭酸 ガスの発生状態により知ることができます。写真は米を蒸して寝かせたものに 「 カビ 」 の 一種である麹菌 ( こうじ きん ) を着生させた種麹 ( たね こうじ ) ですが、麹菌の胞子 ( ほうし ) が多量に着生した米を乾燥させたものす。 ( 3−2、日本酒の造り方 ) 日本酒の造り方を簡単にまとめると、
( 3−3、杜氏 )
杜氏 ( とうじ / とじ ) とは日本酒の醸造を行う職人、またはその職人集団の長 ( おさ ) をいい、長は酒造りに対して全責任を負います。名前の由来については、古代中国の酒の神に 儀狄 ( ぎてき ) と杜康 ( とこう ) がいましたが、良い酒を造った者に酒の神に由来する 杜康 ( とこう )という 「 氏 」 ( うじ ) を授けたので、「 杜 」 康 ( とこう ) の「 杜 」 から 「 杜氏 」 になったとする説でした。
別の 刀自( とじ ) 説によれば、( 2−3、口嚼み酒 ) で前述したように、酒造りは本来女性の仕事とされましたが、台所での酒造りの仕事を取り仕切ったのはその家の年配の女性であり、 彼女に対する尊称が 刀自( とじ ) でした。酒造りの仕事が女性から男性に移った後も、酒造りに指導的役割を果たす者を長年の習慣から 「 とじ/とうじ 」 と呼び、杜氏と書くようになりました。 ( 3−4、日本三大 杜氏の郷里 ) 杜氏といえばかつては山間積雪地帯の農民が、酒造りの仕込み期間である 11 月から翌年 2 月頃までの約 100 日間だけ出稼ぎをしたので、「 百日稼ぎ 」 とも呼ばれました。 昔の杜氏は 13 人が 1 単位で 、杜氏以下、頭 ( かしら ) ・ 衛門 ( えもん ) ・ 代司 ( だいし ) ・ もと廻り ・ 道具廻り ・ 釜屋 ( かまや ) ・ 上人 ( じょうびと ) ・ 中人 ( ちゅうびと ) ・ 下人 ( したびと ) ・ 飯焚き ( ままたき ) に分かれて職務を分担しましたが、主に同郷出身の知人 ・ 親戚からなる気心が知れた者同士で グループが組織されました。 昭和 40 年 ( 1965 年 ) 当時、 全国最大の杜氏を有していたのは岩手県の 南部杜氏 ( なんぶ とじ ) の グループで、 3,200 名 が組合に所属し県内各地で酒造業を支えると共に、全国に赴き 「 南部杜氏 」 として日本酒の醸造に従事しました。 日本 三大杜氏 ( 南部 ・ 越後 ・ 丹波 ) のひとつである 越後杜氏 ( えちご とじ ) は、岩手県の南部杜氏に次いで全国第 2 位の人数でしたが、初めて組織が結成された昭和 33 年 ( 1958 年 ) 当時は 900 名 を越えていました。 関西では丹波国 ( 兵庫県 ) の 丹波杜氏 ( たんば とうじ/とじ ) が有名ですが、 「 灘 五郷 」( なだ ごごう、注 参照 )の酒 を醸造して 250 年以上の伝統 を持ち、酒造界の 中心的存在です 。 ある記録に 「 宝歴 5 年 ( 1755 年 )、丹波国 ・ 篠山 ( ささやま ) の南にある曽我部庄 ( そがべの しょう、現 ・ 篠山市 ・ 日置、ひおき ) の 武右衛門が 池田の大和屋 本店の杜氏となった という記録がありますが、これが丹波杜氏のはじまりといわれています。江戸時代から名高い池田 ・ 伊丹 ( いたみ、兵庫県 ・ 伊丹市 ) の酒や、灘の銘酒を支えたのは丹波杜氏でした。
摂津国 (せっつの くに ) 池田 ( 現 ・ 大阪府 ・ 池田市 ) と丹波国 篠山 ( 現 ・ 兵庫県 ・ 篠山市 ) を結ぶ摂丹 ( せったん ) 街道 ( 現 ・ 国道 173 号線 ) の古い民謡に、 天王 ( てんのう ) 大坂 七巡り というのがありますが、1981 年に天王 峠に 天王 第 1、第 2 トンネル及び接続する新道が開通するまでは、車のすれ違いも 所々困難な細い山道の カーブが続く道で、私も 40 年以上昔に パイクで走行したことがありました。
上の写真は天王 第 1 トンネルの入口ですがその右側にあるのが細い悪路の旧道で、江戸時代には馬の背に米俵を積んだ馬子たちが歩いた道でした。トンネル入口近くの今は滅多に車も通らなくなった旧道には、下記の歌碑が建っています。池田はかつて近郷からの物資の集散地でした。( )は管理人の注釈です。
身過ぎ ( 生活の手段 ) なりゃこそ 一夜おき / 越すは丹波のお蔵米 ( 酒造り米 ) / 九 里 ( 36 キロメートル ) に 九つ 峠を越えて / い ( 行 ) こか池田の大和屋 ( 造り酒屋 )へ( 3−4、灘 五郷とは ) 江戸時代から有名な 「 灘 五郷 」 の酒は、六甲山の伏流水( 硬水 ) と、米が大粒で心白が多く、蒸すと柔らかで日本酒の醸造に好適の 雄町 ( おまち )米 が使用されましたが、その産地である備前国 ・ 磐梨郡 ( 現 ・ 岡山県 ・ 赤磐市、あかいわし )や 和気郡 ( 現 ・ 岡山県 ・ 和気町 ) とは輸送の便がよく入手が容易でした。 水は日本酒の 80 パーセントを占める成分で、品質を左右する大きな要因となりますが、昔はもっぱら 酒の腐敗を防ぐために、硬水 が使用されました。さらに醸造過程で カルシウム- イオン や マグネシウム- イオンが比較的多量に含まれている 硬水 を使用すると、ミネラル成分により 酒酵母の働きが活発になり、アルコール発酵 すなわち糖の分解が速く進み、 ハードな酒になります。 逆に 軟水 を使用すると、ミネラル成分が少ないため酵母の働きが低調になり発酵がなかなか進まず、ソフトな酒になるといわれていますが、前述のように以前は硬水が酒造に適しているとされましたが、今では現代人の味覚に合うとして軟水を使用する酒も出回るようになりました。 ところで灘 五郷については時代により多少変遷がありますが、以下に郷名を記します ( ) 内は別名。色印は各郷の酒造 メーカー所在地。
[ 4 : アルコール ( エタノール ) の心身への影響 ]酒を飲むと体内に入った アルコールの約 20 パーセント は胃から吸収され、約 80 パーセント は腸から吸収され、静脈を経て肝臓に運ばれたのち、血流によって全身へ運ばれます。体内の アルコールの 80 パーセントが肝臓で 代謝 ( たいしゃ 、体内に取り入れた物質と エネルギーとの変化 ) 、 分解され、約 10 パーセントが尿 ・ 汗 ・ 呼気となって排泄されます。酒の主成分である アルコールは独特の麻酔作用を持ちますが、酒を飲むと 血液に入り、循環されて脳に到達します。それまでに数十分かかりますが、お酒と一緒に食べ物をとると、アルコールの吸収にさらに時間がかかります。 ちなみに アルコール ( Alcohol ) とは、 この上なく きめ細かく 混じりけのないもの を意味する 10 世紀の アラビア語 Al kohol に由来するといわれています。
個人の体質により異なりますが、一般的な日本人の アルコール代謝能力 ( 肝臓でアルコールを分解する能力 ) は、男性で 1 時間当たり 6〜7 c c / 時間、女性で 4〜5 c c /時間、 程度だそうですが、翌朝に酒気を残さないためには 男性なら、日本酒で 2 合、ビールなら大びん 1 〜 2 本 、ウィスキー の場合は ダブルで 2 杯 以内とされます。 女性の場合には、日本酒で 1.5 合弱、ビールなら 1 本、ウィスキーの ダブルで 1.5 杯程度以内に収まるように飲めば、男女とも ほろ酔い気分 で楽しい ひと時を過ごすことができます。
平成 21 年 6 月 1 日に施行された 改正 道路交通法施行令によると、
[ 5 : 歴史は シュメールに始まる ]文明とは一定の地理的、時間的広がりを持つ 文化群 のことですが、俗に世界の 「 四大文明 」 という言葉があります。これは中国の政治家 ・ 歴史学者である 梁 啓超 ( りょう けいちょう、1873〜1929 年 ) が唱えたもので、人類の文明が エジプト ・ メソポタミア ・ インダス ・ 黄河の流域で最初に起こり、以降の文明はこの流れを汲むものとする説で、昭和 8 年 ( 1933 年 ) 生まれの私も 学校でそのように習いました。ところがこの学説は世界の歴史や考古学の知識に乏しかった当時の アジアで流行したものの 、欧米では南米大陸に古くから存在した文明、たとえば 5,000 年前に存在した アンデス文明 [ ペルーから ボリビアへ至る アンデス中央高地にある カラル ( Caral ) 遺跡 ( 紀元前 3,000〜紀元前 1,800 年 ) ] などが欠落しているとして、認められませんでした。
アメリカの考古学者 サミュエル ・ クレーマー ( Samuel Kramer、1897〜1990 年 ) の 著書 ( 1959 年出版 ) に History Begins at Sumer ( 歴史は シュメールに始まる ) がありますが、 ビールの醸造 を含めてあらゆる文明は、 エジプトより先に シュメールで始まったとするものでした。
古代 ビールの発祥の地はそれまで古代 エジプトとされていましたが、ギリシャ語で 両河の間の土地 を意味する、 メソポタミア ( Mesopotamia ) 南部を流れる チグリス ( Tigris ) 川 と ユーフラテス (Euphrates ) 川の下流地域にあった、古代 バビロニア ( Babylonia ) 文明の調査が進むにつれて、シュメール ( Sumer ) 人が エジプト人よりもはるか以前から メソポタミアで ビールを造っていたことが判明しました。 ちなみに右上図の オレンジ色で示す メソポタミアとは、現在の イラク ・ シリア北東部 ・ イラン南西部にまたがる地域であり、紀元前 3,000 年頃に シュメール人が都市国家を建て、人類初の文字 (?)である シュメール絵文字から楔形 ( くさびがた )文字 を発明しました。 ( 5−1、ハムラビ法典 )
バビロン第 1 王朝の 第 6 代の王、ハムラビ ( Hammurabi 、紀元前 1728 年頃 〜 前 1686 年頃 ) は An eye for an eye 、目には目を の 「 同害応報刑 」 ( 196 条 〜 210 条 )を原則とする、 282 条からなる有名な ハムラビ法典 ( Code of Hammurabi ) を公布しました。左図は フランス ・ パリにある ルーブル美術館に展示の ハムラビ法典碑、高さ 2.25 メートルです。 その法典 ( 右下図 ) には、世界最古の ビールに関する法律が記されていました。
[ 6 : ビール について ]ビールのことを漢字で 「 麦酒 」 と書くように、 大麦 ( おおむみ ) を発芽させた麦芽 ( ばくが ) を主な原料とし、ビール酵母による発酵により得られる飲料で、通常 ホップ ( 注 : 参照 ) による快い苦みを持っています。大麦以外に副原料として糖質、デンプン質なども併用されます。
注 : ホップ ( Hop )( 6−1、ビール の歴史 )
ビールに関する最古の記録と言われているのは、 メソポタミアの現 ・ イラクにある ジャルモ / シャルモ遺跡 ( 約 50 戸ほどの集落に、300 人が居住した遺跡 ) から発掘された紀元前 3,000 年頃の、 フランス語読みで、 モニュマン ・ ブルー [ Monument bleu、ブルー(青) の誌碑 ] と呼ばれる陶器板の記録です。
そこには楔形文字 ( くさびがた もじ ) で 女神 ニンハル に捧げる ビールを造る様子が描かれており、これが 一般に最古の ビール作りの記録とされますが、右図はほぼ同じ時代に エジプトの壁画に描かれた ビール造りの様子です。
なお モニュマン ・ ブルー は ロンドンの 「 英国 」 博物館 にあるとされます。 英国における 「 The British Museum 」 という正式名称とは異なり、旧 宗主国の 権威をことのほか ありがたがる イギリス連邦 ( the Commonwealth of Nations ) の住民でもないのに 、 日本では未だに 「 大英 」 博物館などと最大級の敬称を付けて呼んでいますが 、これは 態度として卑屈であり、しかも誤りです 。 ところで 一説によれば、 モニュマン ・ ブルー の現物は パリの ルーブル 美術館にあるともいわれています。
この記録によると、シュメール人たちは古代に中近東 ・ 北アフリカ ・ エジプトなどで広く栽培されていた エンマー 小麦 ( こむぎ 、 Emmer wheat ) を粉にひいて パンのように焼き、これと水を混ぜて発酵させましたが、できた ビールに風味を付けるために種々の薬草・草根木皮・蜜・香料植物で味付けをしていたといわれています。 この小麦は現在も一部の地方で栽培されていますが、右がその穂先です。
シュメール人や エジプト人たちは、初期の ビールを麦や アシの茎を ストローにして飲んでいましたが、身分の高い者は、貴金属製の自分専用の ストローを持っており、死んだときには一緒に埋葬されました。 ジャルモ / シャルモ遺跡にあった家は石の基礎の上に日干し煉瓦の壁が築かれており、小麦 ・ 大麦 ・ 豆などが栽培され、家畜もいました。
ビールを日本で最初に飲んだ人の記録は、阿蘭陀 ( オランダ ) 通詞 ( 通訳 ) の今村市兵衛と名村五兵衛が 1724 年に書いた 「 和蘭問答 」 ( わらん もんどう ) の中に感想があります。当時は オランダ商館長 一行 ( 商館長、書記、医師の 3 名が原則 ) が表敬のために最初は年に 1 回、後には 4 年に 1 回江戸へ参府し、総計 166 回に及びましたが、1724 年の参府の際に、 ビール を献上した時といわれています。
麦酒給見申候処、殊他悪敷物にて、何のあぢはひも無御座候−−−以下省略。と記されていましたが、初めて飲む ビールの苦い味に驚いた様子がうかがえます。その後多くの西洋人が渡来するようになった江戸時代末期には、日本人の富裕層の間に ビールが浸透していきました。 福沢諭吉は 1865 年 ( 慶応元年 ) に 「 西洋衣食住 」 という本を書きましたが、その中で、
ビイル という酒あり、是 ( これ ) は麦酒 ( むぎざけ ) にて其の味至って苦 ( にが ) けれど、胸襟 ( きょうきん、胸の内 ) を開くに妙 ( みょう、非常にすぐれている ) なり。と述べていました。
日本で初めて ビールを造ったのは、兵庫県 ・ 三田 ( さんだ ) 出身の川本幸民 ( こうみん ) とされます。幸民は 1810 年に三田藩医の家に生まれ オランダ医学を学び、1857 年に江戸幕府直轄の洋学研究教育機関である蛮書調所 ( ばんしょ しらべしょ ) 教授になりました。 明治維新後は三田に帰り英蘭塾を開いて子弟の教育をおこない、日本最初の マッチを製作し、銀板写真の撮影をおこない、ヨーロッパで広く読まれていた ドイツの農芸化学書 「 化学の学校 ( Schule der Chemie ) 」 の オランダ語版を和訳し、「 化学新書 」を著しました。この書物の中に、ビールの醸造方法が詳しく書かれていましたが、それと共に 「 化学 」 という言葉を初めて使い日本理化学の祖とされました。
蘭学者であった彼が前述したように オランダ語の原書から得た醸造に関する知識をもとに、ペリー来航 ( 1853 年 ) 当時の 1850 年代に、自分の屋敷の庭先に炉を築いて ビールを試醸したとされますが、旧 三田 ( さんだ ) 城跡にある三田市 ・ 屋敷町の 三田 ( さんだ ) 小学校の正門横には川本幸民 ( こうみん ) の顕彰碑が建てられています。 ( 6−3、日本における ビール の醸造 ) 日本で本格的な ビールの醸造がおこなわれるようになったのは 1869 年 ( 明治 2 年 ) のことで、最初は ドイツ人が、次に アメリカ人が横浜で ビール の醸造を始めました。
二つの会社は互いに ダンピング ( Dumping 、投げ売り ) 競争をした結果 経営が悪化したので、三菱の岩崎弥太郎、渋沢栄一などが出資して会社を買収し、キリンビールの前身である ジャパン ・ ブリュワリー( Japan Brewery、日本醸造 ) 会社を設立しました。右は設立当時の ラベルではありませんが、後年のものです。 一般的な ビールの原料は、麦芽 ( モルト、Malt ) ・ ホップ ・ 酵母 ( イースト ) ・ 副原料としては 米 ・ トウモロコシの デンプン ( Corn starch ) など ですが、このうち、副原料を使わない ビールを オール モルト ( 麦芽 100 % ) ビールと言い、地 ビールのほとんどがこの タイプです。 酒税法では水以外の原料に占める 麦芽の比率が、 67 % 以上 ( 残りは副原料 ) の発酵酒を ビール と定義しています。
現在の ビールの製造工程は、まず大麦 ( おおむぎ ) を仕込釜で発芽させ麦芽 ( ばくが、モルト、Malt ) を作ります。その麦芽を仕込槽で煮沸かすと、煮汁に溶けだした デンプン質が麦芽糖に変化します。こうしてできた醪 ( もろみ ) を ろ過して 「 麦汁 」 を抽出し、煮沸釜に移して ホップを加えて煮沸します。写真は大麦の麦芽です。 それをよく冷やし、ビール酵母を加えると発酵が始まりますが、麦汁中の糖分が酵母により アルコールと炭酸 ガス ( 気泡 ) に分解されて ビールができあがるので、じっくり熟成 ( じゅくせい ) させます。熟成した ビールをろ過し、ビンや缶に詰めて完成です。 ( 6−4、 ビール の種類 ) ビール 酵母の種類と、発酵の方法によりにより、大きく三つに分かれますが、ビールの歴史は上面発酵 ( じょうめん はっこう ) に始まり、下面発酵へと移行しました。
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