国民学校のクラス会旅行
[学童集団疎開]平成16年10月の連休を利用して国民学校(戦中、戦後の小学校のこと)時代のクラス会が、新潟の山間部の温泉で行われたので出席しました。太平洋戦争の末期、空襲が必至となった昭和19年(1944年)の8月に、当時東京の国民学校5年生(11才)だった私達75名は、長野県の山奥の寺に先生1名、保母4名と共に学童集団疎開をしました。知らない雪国で飢えと寒さに苦しめられ、「ノミ」や「シラミ」に悩まされ、「欲しがりません、勝つまでは」の標語そのままの生活を1年1ヵ月続けました。敗戦により学童集団疎開は現地で解散となり、戦災で東京の家が焼けたため栃木県の田舎に移り住みましたが、それから60年の歳月が過ぎました。戦後の混乱期も過ぎて生活も安定してきた昭和40年(1965年)頃から、当時のクラスメートが互いに連絡を取り合い、焼失した母校の近くで毎年1月の最終土曜日の夜にクラス会をするようになりましたが、それ以来40年近く続いています。さらに定年退職後は体が動ける間にと、毎年秋に宴会を兼ねて旅行に行くようになりましたが、今年の旅行は魚沼(うおぬま)郡小出(こいで)町の東にある湯之谷温泉での宴会と、奥只見湖の観光でした。東京からはマイクロ・バスをチャーターして仲間が参加し、私は大阪から飛行機で新潟空港まで行き合流しました。
[ローカル列車]今回新津(新津)から福島県の会津若松まで通じている磐越西線(ばんえつさいせん)に初めて乗りましたが、過疎地帯を走るローカル線らしく、朝夕の通勤通学時間帯以外は、1時間〜2時間に1本の列車しかなく、乗り降りの際の扉を開くのも乗客がスイッチ操作をしていました。スイスの登山鉄道では経験したものの、国内では初めての経験でした。無人駅ではバス並に、乗車の際に乗車整理券をとるのを列車で見るのは初めてでしたが、ワンマンカーの運行など、 J R 東日本も経営合理化や人員削減に励んでいました。
[政治屋の銅像]上越新幹線の浦佐(うらさ)駅にも初めて行きましたが、駅前広場には例の片手を挙げて得意のホーズを取る田中角栄の銅像がありました。ここは角栄の地盤の新潟3区で、新幹線ができる前の上越線浦佐駅は特急はおろか急行も停車しない小さな駅で、国鉄は浦佐駅の無人化を検討していた程でした。そこに新幹線の駅ができると聞いて地元の人達も驚きましたが、現在も駅の周辺は何も無く裏はスキー場で、こんな場所になぜ新幹線が停車するのか理解に苦しみました。昼間の列車本数は1時間に1本の割合で、乗降客もまばらでした。
そういえば東海道新幹線にも「こだま」と名古屋発西行きの鈍行の「ひかり」が停車する「岐阜羽島駅」がありますが、当時人口4万に過ぎなかった岐阜県羽島市に「田圃の中の駅」として有名になった駅を作らせたのは、岐阜県を地盤とした自民党副総裁だった大野伴睦(ばんぼく)でした。 私はその駅に下車したことがないので政治力で駅を作らせた彼の銅像が、駅前に建てられているかどうか知りませんでした。ところがホームページを読んだ人からのメールによれば、彼だけでなく彼の奥さんの銅像も、岐阜羽島駅前に建てられているのだそうです。生きている内に銅像を建てて貰って、恥ずかしく無いのでしょうか、しかも奥さんまでも?。
上越新幹線は二階建ての 「M A X とき(朱鷺)」という車両でしたが、1階の席に座ると目の高さが丁度ホームの床と同じレベルのため、ホームに立つ女性のスカートの中が自然に見える位置関係になりました。手鏡で女子高生のスカートの内部を覗き逮捕された、元経済評論家で W 大学教授に教えてあげたいと思いました。女性の方は「M A X とき」に乗車の際は、「覗き、盗撮」にご用心を!。しかし1階席は走行中は景色が全く見えず、線路の両側にある防音壁しか見えないというデメリットがあり、道理でガラ空きでした。
[コシヒカリの里]魚沼(うおぬま)といえば言わずと知れた「魚沼産コシヒカリ」の本場です。新潟県の産米の80パーセントは「コシヒカリ」だそうですが、その中でも最高の品質と価格を誇るのが「魚沼産コシヒカリ」です。看板広告はもちろん、タクシーの運転手、旅館の女中さん、土産物屋」の従業員に至るまで、「魚沼産コシヒカリ」の宣伝に努めていました。 11月1日から政府が勧める町村合併で小出(こいで)町を含む2町4村が「魚沼市」になりますが、いっそのこと「コシヒカリ市」とでも名付ければ良かったと思いました。なぜ魚沼産の米が美味しいのかといえば、雪国新潟のなかでも特に豪雪地帯で知られ、2〜4メートルの積雪があり、積雪期間も11月から4月下旬までと長く続き水が豊富である。土壌がコシヒカリの生育に適していること。稲作時の気候が朝は気温が低めで日中には上がるという気温の差が稲の生育に適した環境で、夏場の稲が生育し熟する期間の平均気温が24度前後なのが、良い品質をもたらすのだそうです。 では「コシヒカリ」がいつ頃開発されたのかと言えば、昭和19年(1944年)のことでした。お米の品種改良は異なる品種の稲を交配して新しい品種を生み出しますが、新潟県農事試験場で味の良い稲を開発し「越南17号」と名付けましたが、その当時の評判は良くありませんでした。収穫量が少ない、稲穂の重みで収穫前に稲が倒れ易い、病害虫に弱いなどの欠点があったからでした。その後この欠点を栽培技術で克し、現在の隆盛に導きました。正式には系統名が「越南17号」、農林省の登録番号が「農林100号」、品種名が「コシヒカリ」ですが、いずれも同じ品物のことで呼び名が違うだけです。 土産物屋では本場の「魚沼産コシヒカリ」を5キロ入りで4,800円で販売していましたが、家で女房が買う「兵庫県産のコシヒカリ」は2,300円だそうです。旅館の女中さんが自慢した「コシヒカリ」の新米の味も、兵庫県産の味も、私の味覚ではあまり差がないような気がしました。 [かてめし、糅て飯]戦前の魚沼地方の農家では産米を売り収入を得るために、自分の家では「かてめし」と称して、主食のくず米に芋、豆、大根、雑穀などを炊き込んで量を増やしたものを毎日食べていて、白米のご飯など滅多に食べられなかったのだそうです。まさにテレビの「おしん」で見た「大根飯」と同じ状態でした。最近のテレビの料理番組で「かてめし」のことを、「健康に良いヘルシーな食事」などと紹介していましたが、戦中戦後に空腹を抱え食べるのがやっとの時代を過ごした者にとって、なんと見当違いな説明をするのかと思いました。なお「コシヒカリ」の名前の由来については、「越の国に光り輝く」ということから名付けられたのだそうです。
注:)
|