南 鳥 島 、航 法 、標 準 時
[ 1 : 最 初 は、 航 法 士 ( ナ ビ ゲ ー タ ー ) 乗 務 ]1. 私は海上自衛隊 幹部候補生学校を 卒業後、 アメリカ 海軍 飛行学校 で 対潜水艦 哨戒機 ( P 2 V - 7 ) の 操縦課程 に入 りま した。 フロリダ ・ アラバマ ・ テキサス 州 にある 海 軍 航 空 基 地 ( Naval Air Station ) で 座学 や 飛行訓練 ・ 航法訓練 を受 け、昭和 3 3 年 ( 1958 年 ) 9 月 に 卒 業 しま した。 帰国後は 青森県にある 海上自衛隊の 八戸航空基地 ( 現 第 二航空群 ) の 第 二飛行隊 ( P 2 V -7 の 部隊 ) に配属 されま したが、そこでは 哨戒機 の 副操縦士 になる前 に、下積み の仕事である 第 三 操縦士 ( 航法士、ナ ビ ゲ ー タ ー、Navigator ) と して 1 年 半 乗務 しま した。 日常の 訓練飛行 では 外が見えない 航法士 ( Navigator ) の 座席 で 6 時間乗務 し、戦 術 航 法 ( Tactical Navigation ) や 推 測 航 法 ( Dead Reckoning Navigation )をおこない、夜間の 航 法 訓 練 では 夕方 6 時に 離陸 して 翌朝 6 時過ぎに着陸 すると いう、 1 2 時間飛行 を 2 名 の ナ ビ ゲ ー タ ー ( 航法士 ) が 乗 務 して、6 時間 交代で 飛行機の 位置 を 天 文 航 法 ( Celestial Navigation )で 確 認 しながら チャート ( 航法図 ) に記入する 航法士 の業務を 担当 しま した。 これから述べる 日本 最 東 端 の 南 鳥 島 ( 別 名 マ ー カ ス 島、Marcus island ) も、夜間 航法訓練の際に 上空を飛行 しま したが、八戸基地 から 1,230 海里( 約 2,300 キロメートル ) 飛行 して 上空に到達 したものの、島の周囲 1, 000 キロ メートル 以内 に 陸地 や 島 が 無 い 「 絶 海 の 孤 島 」 は、 真夜中 で しかも 高 い高度 のため、 上空 からは 何 も見 えませんで した。当時の 夜間航法 といえば、水平飛行中に 照明弾 を 海面 に 投下 し、偏 流 測 定 儀 ( Drift meter ) で 偏流角 ( 風で 飛行機 が流される 角 度 ) を 測定 して上空の風 ( 風向 ・ 風速 ) を測 りま した。 月 などの 惑 星 や 4 5 個ある 天 測 ( 天 体 高 度 測 定 ) 用 恒 星 ( 「 天文学上 は 恒 星 に 属 する 太 陽 」 のように、自ら光を発 する ガ ス 状 天 体 の 総 称 ) の 高度 を 飛行機 の 天井 から 潜 望 鏡 型 六 分 儀 ( Periscopic Sextant ) を 上 に突き出 して 天体の高度を 測 りま した。 測定 した高度の 値 から 飛行機の 位 置 を算 出 するには、その当時は アメリカ 海軍 の エ ア ・ ア ル マ ナ ッ ク ( Air Almanac 、 航空用天測計算表 ) を 使用 して、緯 度 ・ 経 度 を 計算で 求める 昔 ながらの方法で した。 右は 海上保安大学 の 練習船 における 学生の 天測実習 ですが、 艦 船 における 天測 は 六分儀 ( ろ く ぶ ん ぎ ) を使用 して、水平線 からの 天 体 高 度 を測 定 しま した。 測 定 瞬 間 の 時 刻 を 時計係 が 二分 の 一 秒 単位 で 読み取 り 、 天測 による 位置 ( 緯度 ・ 経度 ) の 決 定 に 使用 しま した。 これに対 して、飛行機の 場合 は 水平線 の代わりに 潜 望 鏡 型 六 分 儀 の 視 野 にある 気 泡 ( Bubble ) の真ん中 にある 十 字 線 を 水 平 線 と 見な し 、その中央 に 目標の天体 を 置 く ように 六分儀の 高度目盛 ( 平 均 値 算 出 装 置、Averaging Device ) を 2 分間 操作 することにより、天体 の 2 分 間 の 平 均 高 度 を 読 取 り、 位置の算出 に使用 しま した。 ( 1-1、天 文 航 法 か ら 電 波 航 法 へ ) 昭和 3 3 年 ( 1958 年 ) 当時は、 地上 の 電波施設 からの 援助 を必要 と しない 慣 性 航 法 装 置 = I N S ( アイ ・ エヌ ・ エス、Inertial Navigation System、 ) のような 自 蔵( 立 ) 航 法 装 置 ( Self Contained Navigation System ) は未だ開発されてな く、もっぱら 昔からの 天文航法 と 推測航法、それと 第 2 次大戦中 に米国で 開発 された 地上系 双曲線 電波航法 システム を、 使用 して いま した。 二地点 からの 距離の差 が 一定 な点は 双曲線 を描 く ことから、地上 にある 主局 ・ 従局 二つの 固定局 からの パ ル ス 電波を受信 し、到 達 の 時 間 差 を 測定 し 位置 を求める シ ス テ ム に ロ ラ ン ( L O R A N = L O ng R A nge N avigation、)がありま した。 また 位 相 差 ( Phase difference ) を 測 定 し、位置を知るものに オ メ ガ 電波航法 シ ス テ ム ( O M E G A radio navigation system ) 、船舶用 には デッカ 航法 システム( D e c c a Navigator System )がありま した。 ロ ラ ン ( L O R A N ) については、最初は ロラン「 A 」 型を使用 し、後 に は より 高性能 の ロ ラ ン 「 C 」 が 開発 されま した。
( 1-2、冷 戦 時 代 の 航 法 ) 第二次大戦 終了後 から 「 米 ・ ソ の 対 立 」 が続 きま したが、ソ ビ エ ト 連邦 社会主義 共和国 が崩 壊 した 1991 年までを、一般に 「 冷 戦 時 代 」 と 呼 びま した。 この 冷戦時代 には、 地上系 電波航法 シ ス テ ム が 相 手 ( 敵 ) に利用されることを 防 ぐ ために、故意に 誤差 デ ー タ を加える 操 作 ( Selective Availability、 S A ) が行われる 可能性 があり、また テ ロ 攻撃 などによる シ ス テ ム 障害 や 施設破壊 の可能性もありま した。 そのため 単 一 の 航 法 のみに 依存 することは 安 全 上 好 ま し く な い と 判断 されたので、多くの 国 々 では 商 船 の 航海士 や 航空機の 航法士 は、 電波航法 の バックアップ と して、 天文航法( Celestial Navigation ) に関する 知識の 保持 が求められま した。 アメリカ でも 海 軍 と 空 軍 は 航法担当 の 乗組員 に対 して、 1997 年 ( 平成 9 年 )まで 天文航法 の 技 術 を 習 得 させていま したが、これは 天文航法の持つ 独 立 性 によるもので した。
( 1-3、衛 星 測 位 シ ス テ ム の 登 場 ) 米国海軍 が 1964 年 ( 昭和 3 9 年 ) に 実用化 した N N S S ( Navy Navigation Satellite System 、衛 星 航 法 シ ス テ ム ) が、1967 年 ( 昭和 4 2 年 ) にはその 利用技術 が 一般に公開 され、民間でも 使用可能 となり、これが 衛星航法 時代 の 幕開 けと な りま した。 現在 米国が運用する 衛星測位 システム の G P S ( Global Positioning System 、全 地 球 測 位 システム ) は、 宇宙で 2 4 機が 周 回 中 であ り、日本でも カー ナ ビ や 、ス マ ホ の 地図 ア プ リ にも 利用 されています。 G P S 以外にも、世界には 下記の 衛 星 測 位 シ ス テ ム があ ります。
[ 2 : グ ア ノ と 、リ ン 鉱 石 の 輸 出 入 ]16 世紀に イ ン カ 帝国を征服 した スペイン 人は、ペ ルー 沖 の 島々 に 海鳥の 糞などの 山があり、ケ チ ュ ア 族がそれを 「 フ ア ヌ 」 と呼んで、良質の肥料と していることを報告 していま した。 グ ア ノ ( Guano ) とは、この 「 フ ア ヌ 」 ( Huann 、ケ チ ュ ア 語の「 糞 」) が スペイン 語経由で英語に入る際に、転 訛 ( てんか、本来の音が、なまって変化 ) したものです。 ペ ル ー 政府は グ ア ノ 資源を国有化 し、欧米各国に売り込みま したが、当時の アメリカ では アフリカ 大陸からの 黒 人 奴 隷 の 輸 入 (1640~1865 年 ) による 農業 ( 棉 花 栽 培 ・ サトウキビ 栽培 ) が 盛 んになり、大量の 肥料を 必要 と したために、ペ ルー から 莫大な量 の グ ア ノ ( Guano )を 輸入 することにな り ま した。注 : グ ア ノ ( Guano ) と は海鳥 の 死 骸 ・ 糞 ・ エ サ の 魚 ・ 卵 の殻 などが 、長期間 ( 数千年 から 数万年 ) 堆 積 して 化 石 化 したものであり、肥料の資源と して 利用 された。主要 な 産地 は 南 米 ( チ リ ・ ペ ル ー ・ エ ク ア ド ル ) や オ セ ア ニ ア 諸国 ( ナ ウ ル 等 ) である。 窒 素 質 グ ア ノ と、燐 酸 ( リ ン サ ン ) 質 グ ア ノ の 二種類があるが、前者は 降雨量 の 少 な い 乾燥地 に 堆積 したもので、窒 素 分 に 富 む。後者は 降 雨 量 の 多 い 高 温 地 帯 の 珊 瑚 礁 の 上に 堆 積 したもので、有機物の分解が進行 して 窒 素 が失われ、燐 酸 の 割合が多 く なったものである。 これらは いずれも良質な リ ン 資源であり、特に 窒 素 質 グ ア ノ はそのまま 良質 な肥料 となる。燐 酸 質 グ ア ノ は 硫酸分解 などの 加工処理 を行った上で、リ ン 酸 肥 料 と して用 いられた。 [ 3 : 米 国 の グ ア ノ 島 法 ]1850 年代になると 南太平洋の 離島 にも グ ア ノ が存在することが知られるようにな り、ア メ リ カ 政府 は 1856 年 ( 安政 3 年 )8 月 18 日付で、「 グ ア ノ 島 法 」 を制定 しま した。これによれば、アメリカ 市民が グ ア ノ の 堆 積 している島を発見 した場合、その島が他国民によって占領、ない し 他 国 の 領 有 になっていなければ、 無 主 先 占 ( むしゅ せんせん、国家が無主の土地を 領有する意思を表示 して、実効的に支配すること ) によって アメリカ の 領土 とすることができる。と いうもので したが、この 粗雑 な 法律 がもたら したものは 混乱 で した。1859 年 3 月 8 日付 ニューヨーク ・ ヘラルド ・ トリビューン 紙 には、「 グ ア ノ 島 法 」 の 適用 申請 を した 4 8 島 の リ ス ト を 掲載 して いま したが、このうち実際に グ ア ノ が存在 したのは、僅か 4 ~ 5 島 だ け で した。 一 攫 千 金 ( いっか く せ ん き ん、一時 に たやすく 莫大 ば利益を得る ) を狙った 山 師 ( やま し、投機 ・ 経済的冒険 をする人や 詐 欺 師 ) たちが、い い 加減 な 根拠 に基 づ く 申請を行った 結果 で した。 しか しこの 状況 も フロリダ 州で 生物起源の 堆積性 リ ン 鉱石が 発見 されたことや、化学肥料 が 実用化 されたので、19 世紀末までには 終 焉 ( しゅうえ ん ) を 迎 えま した。 その後 ミ ク ロ ネ シ ア の ナ ウ ル ( Nauru ) 島 ( 後の ナ ウ ル 共和国 ) で 厖 大 な 量 の グ ア ノ 質 ・ リ ン 鉱石 が発見され ま した。20 世紀に入って、ナ ウ ル の豊かな 資源 に目をつけた イギリス 連邦 に 属する オーストラリア ・ イギリス ・ ニュージーランドの 三国 が、化学肥料に使われる リ ン 鉱石を掘 り 尽 く し、国土 のほとんどを 丸 裸 に して しま いま した。 写真は グ ア ノ を 採掘 した跡 で、今では 家庭用野菜 でさえ育たないために、国外 からの 輸入 に 頼 っている 状況 です。更 に ナ ウ ル 共和国 の 役人 も 国民 も 働 く ことを 忘 れ、グ ア ノ の 輸出代金で暮 ら して いたため、グ ア ノ が 枯渇 してからは、経済的に 破綻 ( はたん ) 状態 にあります。 [ 4 : 幻 の 島、 グ ラ ン パ ス 島 探 し ]18 世紀における 欧州列強 による 植民地 獲得 ・ 新島 発見競争 の 最中に、中国の広 東 ( かんとん、広 州 ) 港 を 1788 年 1 月 22 日 に 出港 し、 東南 アジア の 各地に 寄港 しながら アメリカ に 向 かっていた イギリス 船籍 の フェリス ( Felice ) 号 ( 230トン ) がありま した。 船長は元 イギリス 海軍大尉 の ジ ョ ン ・ ミ ア ー ズ ( John Meares、1756?~1809 年 ) で した。彼の航海記 「 1788 ・ 1789 年 の 航 海 ・ 中国 か ら アメリカ 北西海岸 ま で 」 によれば、船は 小笠原諸島 の 東方海上を 北東 に向け航行 し、 アメリカ に 向かう途中 に 1788 年 4 月 5 日( 土 )に 太平洋上 で 島 を発見 した。それはこの 海域 でご く 頻 繁 に見 られる、不 毛 な 島 々 の 一 つ のようであった。 その長さは南北 に 15 ~ 16 マ イ ル ( 27.8 ~ 29.6 キロ メートル ) く ら いで、海岸 へ は ボ ー ト で は 近 づき 難 いように見えた。その 土地 の 内陸部 は高 く なって いるようで、僅 かな 孤立 した 木 々 が 、下 り 勾配 に 非常に 乏 し く 散 在 して いた。 その島は、前の 島 とは 3 ~ 4 リ ー グ ( 1 League = 4.828 K m だから、約 14.5 ~ 19.3 キロ メートル ) の 海峡 で 隔 てられて いた。島の数は 確認 できなかったが、海岸近 く では大きな 「 グ ラ ン パ ス 」 ( Grampus、ハ ナ ゴ ン ド ウ 、く じ らの 一 種 ) が潮 を吹き上げているのが見 えたので、 グ ラ ン パ ス 島 ( 諸 島 ) ( Grampus Isles )と命名 した。その概略 の 位置 は、北 緯 25 度 15 分、東 経 146 度 40 分 である。とありま した。この 記録 によれば グ ラ ン パ ス 島の位置は 火山列島 ( 北硫黄島 ・ 硫黄島 ・ 南硫黄島 など ) と、 マ ー カ ス 島 ( 南 鳥 島 ) との中間付近 にあることにな ります。その後 この島は 海図 に 記 載 されたものの、長 い 間 、島 の 存在そのものが 他の船 により 確認 されませんで した。 その結果 グランパス 島 の 存 在 の 可 能 性 が次第 に 薄 ら いで いき、日本の海図では 少な くとも 明治 21 年 ( 1888 年 ) 発行 の 太平洋航路図 には 記載 されて いま したが、その後は 削 除 された と いわれて います。 [ 5 : マ ー カ ス 島 、発 見 記 録 に つ い て ]マ ー カ ス 島 発 見 に 関 す る 19 世紀 以後の 主 な 記 録 は下表の通 りですが、日本と米国との間で 領 有 権 ト ラ ブ ル にな りかけたのが、最 下 欄 にある ピ ン ク 色 欄 の ロ ー ズ ヒ ル 船長 の 件 で した。
( 5-1、冒 険 家、水 谷 新 六 ) マ ー カ ス 島 ( 後 の 南 鳥 島 ) を 発見 し、 開拓 した水谷新六 のことをご存知ですか ?。彼は、ペ リ ー の 黒船 が来航 した 嘉永 6 年 (1853 年 ) に、尾張国 桑名郡 益生村( 現 三重県 桑名市 ) に生れま した。 しか し 最近の 説 によれば、嘉 永 3 年 (1850 年 ) 生まれであるとも いわれて います。 明治 初年 (1868 年 ) に東京に出て 呉服屋 に 丁 稚 奉 公 ( でっち ぼうこう ) し、後に番頭 にまでなりま したが、客に 頭 を下げる 客商売 が 嫌 にな り、明治16年 ( 1883 年 ) 3 0 歳の時 に 海 外 雄 飛 ( かいが いゆうひ、海外で勇 ま し く 盛んに 活動 すること ) の 夢 を語り合う 服部新介 と 意気投合 し、彼と共に小笠原 諸島 の 父島 に移住 し、雑貨商を営みま した。 彼は小型の 帆船 を購入 して東京と 小笠原を往復 して 雑貨の仕入れをおこない、更に 「 金十字社 」 という貿易会社を設立 し、サ イ パ ン 島、ト ラ ッ ク 諸島、ポ ナ ペ 島などの ミ ク ロ ネ シ ア の 島 々 とも 交易を行うよう にな りま した。 ( 5-2、水 谷 の マ ー カ ス 島、発 見 ) 水谷は、明治 26 年 ( 1893 年 ) 以来、南 洋 貿 易 の 傍 ( かたわ )ら、何度か グ ラ ン パ ス 島の 存在 を確 かめる べ く、探 検 航 海 を 繰 り返 してきま した。明治 29 年 ( 1896 年 ) の 帆 船 天 祐 丸 による 探 検 航 海 で も グランパス 島 を発見することができずに、 帰港する途中 の12 月 3 日 に、一 つの島を 発見 しま した。 その島は目的の グランパス 島ではな く、1543 年 ( 室町時代の 天文 12 年 ) に スペイン 人 により発見され、海図にも記載されている マーカ ス 島 ( 後の 南 鳥 島 ) で した。 当時この島は 無人島 ではなく、マ リ ア ナ 諸島の サ イ パ ン 島からの 住 民 ( チ ャ モ ロ 族 ? ) 数 名 が居住 していたといわれています。 島の 領有権 に関 しては 小さな島 のために、これまで どの国 も はっきり主 張 して いませんで した。 上陸 した 水谷新六 が見たものはそこに 住 む 多数 の 「 ア ホ ウ ド リ 」 と、海鳥 の 糞 などの 化石化 した 肥 料 となる 堆 積 物 の グ ア ノ ( Guano )で した。 水谷 は マーカス 島 ( 後の 南鳥島 ) を 開拓 して、羽毛 の 採取事業 などを始めることに しま した。 彼は島の 領有権取得 や 日本政府の 許可 を待たずに、 小笠原諸島の 母島 から 明治 3 0 年 ( 1897 年 ) 6 月に、 開 拓 移 民 2 3 名 を マーカス 島 ( 後の 南 鳥 島 ) に 移住 させま した。
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