子 供 の 頃 の 話 ( 続 き )
[ 7 : 黒 船 を 見 た お ば あ ち ゃ ん ]巣 鴨 ( す が も ) では 子供 たちの 遊び場 のそばに 、田 代 ( た し ろ ) と いう 家 があったが、そこには 家族 と 一 緒 に 「 お ば あ ち ゃ ん 」 が 住 んで いた。私より 3 歳 ~ 1 0 歳 年 長 の 姉 や 兄 たちによれば 、その 当時 と しては 珍 し く 長生 きで 、9 3 ~ 4 歳 位 だったそうである。しかも 腰 や 背中 も真っ 直 ぐ で シャ キ ッ ト した お ば あ ち ゃ ん であった。 姉 ・ 兄 たちによれば 田 代 家 ( け ) の 表 札 には、 士 族 ( し ぞ く ) と 書 いてあったそうで、先祖 が 「 さ む ら い 」 の 出 身 だとのことであった。 敗 戦 直 前 の 第 4 2 代、鈴 木 貫 太 郎 内 閣 で、第 6 8 代 内 務 大 臣 を 務 め た 安 倍 源 基 ( あ べ げ ん き ) が 書 いた 本 によれば、士 族 は 華 族 と 異 なり 何等 ( な ん ら ) 政治的 特 権 を持って い る 訳 ではな く、ただ 武 士 の 家 柄 に 対 して、明治維新 後 に 与 えられた 「 族 称 」 に 過 ぎ な か っ た が、 士 族 の 家 柄 は 一 般 から 尊 敬 を 受 け た ものである---。と 記 して いた。 しか し 小 学 校 入学 前 であった 私 に は 、お ば あ ち ゃ ん の 話 を 聞 いても、 「 黒 い 船 に 乗 っ た 怖 い 人 」 の 話 と し か 理 解 で き な か っ た。 成長 してから 兄 ・ 姉 たちと 子供時代 の 思 い 出 話 を し た 際 に、田 代 の お ば あ ち ゃ ん の 実 家 は 、どうやら 東 京 湾 入り 口 に あ っ た 「 海 の 関 所 」 の 「 浦 賀 船 番 所 」 、享 保 6 年 ( 1 7 2 1 年 ) から 明 治 5 年 ( 1 8 7 2 年 ) までの 約 1 5 0 年間 続 い た 船 番 所 に 務 め る 幕 府 の 役 人 だったら し い ことを 知った。 空 き 地 で 遊 ぶ 私 が 学 齢 前 の 当時 6 歳 ( 1 9 3 9 年 ) だったとすれば 、ペ リー 来 航 ( 1 8 5 3 年 ) は 、1 9 3 9 - 1 8 5 3 = 8 6 年 前 のことになる。 田代 の お ば あ ち ゃ ん が 9 4 歳 だったと 仮定 すれば、9 4 - 8 6 = 8 つまり ペ リ ー 来 航 は 彼女 が 8 歳 頃 の ことで あ った 。 「 黒 船 来 航 の 詳 細 」 につ いて 知 りた い 方 は 、随 筆 集 の 第 6 7 項 に ぺ り ー の 黒 船 が あ る の で、下 記 を ク リ ッ ク して 読 まれ 度 し。 [ 8 : 明 治 女 学 校 の こ と ]明 治 1 8 年 ( 1885 年 ) に 、東 京 ・ 九 段 下 ・ 牛 ヶ 渕 ( う し が ふ ち 、現 ・ 千代田区 ・ 飯 田 橋 ) に 開 校 し た 明 治 女 学 校 の ことを 知る人は、今では 殆 ど い な い と 思 う。 女 学 雑 誌 を 主 宰 ( し ゅ さ い ) し て い た 巌 本 善 治 ( い わ も と ・ よ し は る、1 8 6 3 年 ~ 1 9 4 2 年 ) や 木 村 熊 二 などが 発 起 人 となり、木村の妻 の 鐙子 ( と う こ ) が 取締役 を 務 めて 明 治 女 学 校 を 開 校 した。 しか し 彼女 は 翌年 死亡 し 、明治 20 年 ( 1 8 8 7 年 ) に、巌 本 善 治 が 教 頭 になって 実務 を 執 り行 い、 「 近 代 的 女 子 教 育 」 に 従 事 した。 ところで 明治 3 年 ( 1 8 7 0 年 ) に 、ア メ リ カ の 改 革 派 教 会 ( R e f o r m e d - C h u r c h - i n - A m e r i c a 、R C A ) により 創 設 され 、キ リ ス ト 教 の 信 仰 に 基 づ く 女 子 教 育 を 建 学 の 精 神 に 掲 げる 横 浜 の フェリス ( F e r r i s ) 女 学 院 に 、巌 本 善 治 が 明治 2 2 年 ( 1 8 8 9 年 ) に 講 演 に 訪 れた。 その 際 に 、女 学 院 を 既に 卒 業 し 、英語 の 助 教 を して い た 若 松 賤 子 ( わ か ま つ し ず こ ) と 知 り合 った。 そ して 当 時 25 歳 だった 彼女 と 翌年( 明 治 2 3 年 、 1 8 9 0 年 ) に 結 婚 したが、彼 女 は ア メ リ カ の 女 流 小 説 家 バ ー ネ ッ ト ( B u r n e t t 、1 8 4 9 年 ~ 1 9 2 4 年 ) の 書 い た 『 小 公 子 』 ( し ょ う こ う し ) を 翻 訳 し 、 日本 初 の 少年 少女 のため の 「 キ リ ス ト 教 文 学 」 を 紹 介 し た ことで 知 ら れ て いる。 巌本 善治 ・ 若松 賤子 夫妻 は、後 に 長女 清 子 ・ 長男 荘 民 ( ま さ ひ と、彼 について 後 述 する )・ 次女 民 子 ら 3 人の子を 授 かった。しか し 明 治 2 9 年 ( 1896 年 ) に 教 育 家 ・ 翻 訳 家 の 若松 賤子 ( し ず こ ) は 死亡 したが、享 年 3 2 であった。 なお 後年 自 由 学 園 を 創 設 した 羽 仁 も と 子( 旧 姓 松 岡 ) は、明 治 2 3 年 ( 1 8 9 0 年 ) に 明治女学校 へ 入学 して いる。 学校は 明治 25 年 ( 1892 年 ) に 現在 の 千代田区 ・ 六番町 に 移転 し、生徒数 3 0 0 の 最 盛 期 を 迎 えたが、明治女学校 の 教 壇 に 立った人 の 中 には、8 歳で 岩 倉 遣 欧 ( い わ く ら け ん お う ) 使 節 団 と共 に 渡米 し 米国 留学 した 津 田 梅 子 ( 後 の 津 田 塾 大 学 の 創立者、1 8 6 4 年 ~ 1 9 2 9 年、6 4 歳 で 没 ) も 、明治 2 7 年 ( 1 8 9 4 年 ) には 明治女学校 で 英語 の 講 師 を 務 めた。 ところが 明治女学校 は 明 治 2 9 年 ( 1 8 9 6 年 ) の 深 夜 に 失 火 して、不 運 にも 校舎 ・ 寄宿舎 ・ 教員住宅 の大半を 焼 失 した。日本 における 近 代 女 子 教 育 の 先 駆 ( さ き が ) け となった 明 治 女 学 校 を、このまま 廃 校 とするには 惜 し い と 関 係 者 は 考 えた。 そこで 明治 30 年 ( 1 8 9 7 年 ) に、東 京 府 ・ 北 豊 島 郡 ( き た と し ま ぐ ん ) ・ 巣 鴨 村 ( す が も む ら ) ・ 大 字 ( お お あ ざ ) 巣 鴨 ・ 字 ( あ ざ ) 庚 申 塚 ( こ う し ん づ か ) 6 6 0 ( 現 ・ 豊 島 区 ・ 西 巣 鴨 2 丁目 ) に 校 舎 を 新 築 して 、明治女学校 の 経 営 を 続 けることに した。 写真 の 右 側 二 階 建 の 建 物 が 巣鴨 における 教 室 ・ 左 側 の 黒 い 建 物 は 寄 宿 舎。作 家 の 「 野 上 弥 生 子 」 明治 1 8 年 ( 1 8 8 5 年 ) ~ 昭 和 6 0 年 ( 1 9 8 5 年 、 9 9 歳 で 没 ) などがこの 教室 で 学 んだ。しか し 当時 は 王 子 電 気 軌 道 ( 現 ・ 都 電 荒 川 線 ) が J R 大塚駅 から 開 通 し て な く、女生徒 たちは 通学 の 不便 さもあり、明 治 4 2 年 ( 1 9 0 9 年 ) に 財 政 的 理 由 から 閉 校 して 、 2 4 年 間 の 近 代 女 子 教 育 の 幕 を 閉 じ た 。 [ 9 : 大 日 山 ( だ い に ち や ま ) ]その後 明 治 女 学 校 の 敷 地 に 隣接 する、北東方向 に 長 さ 2 0 0 メ ー ト ル 、幅 1 5 0 メ ー ト ル の 土 地 が 東 大 農 学 部 に 売 却 された。その 土地 の 北側 半分 は 農 場 と して 学 生 の 実 習 に 使用 されたが、南 側 は 草 原 や ク ヌ ギ などの 雑 木 林 の ま ま で あ っ た。 私を 含 め 近 所 の 子 供 たちは、草 原 や 雑 木 林 で ト ン ボ や セ ミ を 取 ったり、 時 に は ク ヌ ギ の 樹 液 を 舐 め に 来 る カ ブ ト ム シ が 取 れることもあ り、高 学 年 の 小 学 生 たちは 木 に 登 っ て タ ー ザ ン 遊 び などを して 楽 し ん だ。 廃 校 となった 明 治 女 学 校 は 、昭 和 1 5 年 ( 1 9 4 0 年 ) 頃 に その 寄 宿 舎 を 利用 して 私 立 の 幼 稚 園 が 開 園 したが、それまで 長年 閉 鎖 されて いたので、子 供 たちは 二階建 ての 洋 館 部 分 を 「 お 化 け 屋 敷 」 と 呼 んで いた。 明治女学校 が 建 てられた この 地 域 一 帯 は 、昔 か ら 「 大 日 山 」 と 呼 ばれて いた が そ の 理由 は 、徳川幕府 の 第 二 代 将 軍 秀 忠 ( 法 名 、台 徳 院 殿 ) と 、その 夫 人 徳 子 ( 法 名 、 崇 源 院 殿 ) に 仕 えた 平 等 山 ・ 真 如 寺 ・ 宝 性 院 ( 現 ・ 台 東 区 ・ 池 之 端 1 丁目 ) の 開 山 である 、「 春 海 和 尚 」 に 由 来 する。 秀 忠 と 徳 子 の 没 後 「 新 葬 」 の 際 に、春 海 和 尚 は 納 経 を 行 ったが、その 時 に 与 えられた 布 施 ( ふ せ ) で 豊 島 郡 ・ 巣 鴨 村 内 の こ の 地 に 土 地 を 購 入 し 、石 造 の 「 大 日 如 来 坐 像 」 を 造 る と 共 に 、坐像 を 安 置 するために 大 日 堂 を 建 立 ( こ ん り ゅ う ) し た と い う。この 像 の 台 座 には、秀 忠 と 徳 子 の 菩 提 ( ぼ だ い、死 者 の 冥 福 ) を 弔 うために 石 像 が 造 立 された 旨 が、像 立 年 月 日 の 承 応 2 年 ( 1 6 5 3 年 ) 2 月 2 8 日 の 日 付 とともに 刻 まれて い た。 堂 内 ( ど う な い ) には 高 さ 約 1 メ ー ト ル の 石 造 り の 大 日 如 来 坐 像 ( だ い に ち に ょ ら い ざ ぞ う ) が 安 置 さ れ て い たが、昭 和 2 0 年 ( 1 9 4 5 年 ) 4 月 13 日 の 東 京 大 空 襲 の 際 に 大 日 堂 は 焼 失 し 、 内部 の 石 像 は 破 損 し た。その 後 小型化 された 大日堂 が 近 隣 住 民 により 再 建 さ れ た。 [ 1 0 : 巌 本 家 の 長 男 荘 民 ]巌 本 善 治 ( い わ も と よ し は る ) の 長男 荘 民 ( ま さ ひ と、1 8 9 1 年 ~ 1 9 7 5 年 ) は 東 京 で 高等教育 をうけた 後 、ア メ リ カ の 大 学 に 留 学 し た。帰 国 後 駐 日 米 国 大 使 館 勤 務 を し て い た が、来 日 し た 米 国 人 の 「 マ ー グ リ ート ・ マ グ ルー ダ 」 と 親 し く な り 国 際 結 婚 した。 彼女 は 後 に 東京女子大学 の 英語講師 を した 。 父親 の 巌本 善治 は 明治女学校 の 廃校 後 も 西巣鴨 に 住 み 続 けたが、長 男 夫 婦 は 長 女 の 「 巌 本 メ リ ー ・ エ ス テ ル 」 が 生 まれてから は 、豊 島 区 巣 鴨 の 折 戸 ( お り ど ) と 呼 ば れ た ( 旧 ) 巣 鴨 4 丁 目 に 住 み、 6 歳 か ら 娘 に バ イ オ リ ン を、 英 才 教 育 で 有名 な 小 野 ア ン ナ から 習 わせた。 父親 によれば、娘 は 四 歳 ごろから、ラ ジ オ の バ イ オ リ ン 音楽 に 興 味 を もち、メ ロ デ ィ をすぐ 覚 えて しまう。そ して やや 長 じ て か ら は 、バ イ オ リ ン の 指 使 いの 批 判 を したとのことであった。( 1 0 -1、巌 本 メ リ ー ・ エ ス テ ル ) 当時 地元 の 子供 たち は 東京市 の 仰 高 北 ( ぎ ょ う こ う き た ) 尋 常 小 学 校 か、大 日 山 ( だ い に ち や ま ) 近 く の 東京市 ・ 西巣鴨 ・ 第 一 尋常 小学校 に 通 って い た 。しか し 「 メ リ ー ・ エ ス テ ル 」 は 裕 福 な 家 庭 の 子 を 対 象 に した 、私 立 の 帝 国 小 学 校 に 通学 することに な っ た。 すると そ の 小 学 校 では 肌 の 色 や 、容 姿 が 異 なる 『 あ い の 子 』 ( 混 血 児 、ハ ー フ ) と し て 同 級 生 た ち か ら イ ジ メ を 受 けた ため 、小 学 校 を 4 年 で 中 退 し 、自 宅 で 家 庭 教 師 につ いて 勉 強 することになった。 小 野 ア ン ナ による バ イ オ リ ン の 指導 も 継 続 しておこなわれ、小 野 ア ン ナ 自身 も 「 メ リ ー ・ エ ス テ ル 」 に 優 れた 音 楽 の 素 質 があるのを 見抜 いて、熱心 に 指 導 した。 その 結果、昭 和 1 2 年 ( 1 9 3 7 年 、1 1 歳 の 時 ) に 、第 6 回 日 本 音 楽 コ ン ク ー ル で 1 位 と な り、天 才 少 女 と 呼 ばれた。昭 和 1 4 年 ( 1 9 3 9 年 、1 3 歳 の 時 ) に ウ ク ラ イ ナ 出 身 で 、 ユ ダ ヤ 系 ピ ア ニ ス ト の レ オ ・ シ ロ タ の 伴 奏 で 、第 1 回 バ イ オ リ ン 独 奏 会 を 開 い た。 昭和 17 年 ( 1 9 4 2 年 、 1 6 歳 の 時 ) の 戦時中 に 、英 語 の 名前 「 巌 本 メ リ ー ・ エ ス テ ル 」 が 「 敵 性 語 」 とされたことから、 「 巌 本 真 理 」 ( い わ も と ま り ) と 改 名 した。 敗 戦 直 後 の 昭 和 21 年 ( 1 9 4 6 年、2 0 歳 ) で 東京音楽学校の 教 授 となったが、昭 和 2 5 年 ( 1 9 5 0 年 ) に 退 職 し て 渡 米 し、バ イ オ リ ン の 技術 向上 を はかった。 帰国後、演奏活動を 再 開 し、1 9 5 9 年 に 芸 術 選 奨 文 部 大 臣 賞 ・ 芸 術 祭 奨 励 賞 ・ 1 9 6 4 年 に 民 放 祭 最 優 秀 賞 ・ 1 9 6 5 年 に ブ ラ ー ム ス の 室内 楽曲 の 全曲 連 続 演 奏 を 行 い 毎 日 芸 術 賞 を 受 賞 ・ 1 9 6 6 年 に 「 巌 本 真 理 弦 楽 四 重 奏 団 」 を 結 成 し ・ 1 9 7 0 年 に レ コ ー ド ア カ デ ミ ー 賞 ・ 1 9 7 1 年 に 再度 芸 術 選 奨 賞 ・ 1 9 7 4 年 に モービル 音 楽 賞 を 受 賞 した。 しか し 1 9 7 7 年 に 乳 ガ ン を 患 い 、手 術 するが 再 発 し て 、2 年後の 昭 和 5 4 年 ( 1 9 7 9 年 ) に 5 3 歳 で 死 去 した。 彼女 は 日本の 室 内 楽 演 奏 の 黎 明 期 ( れ い め い き 、夜 明 けにあたる 時 期 ) を 担 った 名 バ イ オ リ ニ ス ト であり、日本初 の 室 内 楽 定 期 演 奏 会 9 4 回 の 偉 業 を達 成 して いる。 墓 所 は 豊 島 区 駒 込 の 都 立 染 井 霊 園 にあり、現在 は 離 婚 し た 両 親 と 共 に 眠 って いる 。墓 碑 銘 ( ぼ ひ め い ) には、
と 記 されて いた。 ところで 私 は 生 来 の 音 痴 で 、大 晦 日 ( お お み そ か ) 恒 例 の N H K 紅 白 歌 合 戦 を 4 0 年 近 く 視 聴 したことがな い が 、それでも 巌 本 真 理 の 弾 く バ イ オ リ ン の 音 色 に は 心 に 感 じ る も の が あ っ た。読 者 も お 試 し あ れ。 なお 曲 名 の ア ヴ ェ ・ マ リ ア ( A v e - M a r i a ) とは ラ テ ン 語 であり、直 訳 すれば 「 こ ん に ち は 、マ リ ア 」 または 、 「 お め で と う、マ リ ア 」 を 意味 する 言葉 である。そこから 転 じ て 、この 文 言 ( も ん ご ん ) に 始 まる カ ト リ ッ ク 教 会 の 聖 母 マ リ ア へ の 、祈 り を 指 す こ と も あ る。 [ 1 1 : 小 野 ア ン ナ ]バ イ オ リ ン を 弾 く 人 であれば、小 野 ア ン ナ の 「 バ イ オ リ ン 音 階 教 本 」 の 名前 を 聞 いたことがあるのだそうである。 小 野 ア ン ナ こと 「 ア ン ナ ・ デ ィ ミ ト リ エ ヴ ナ ・ ブ ブ ノ ワ 、 1 8 9 0 年 ~ 1 9 7 9 年 」 は 、帝 政 ロ シ ア の 首 都 で あった サ ン ク ト ペ テ ル ブ ル ク ( ド イ ツ 語 ふう 読 み ) の 生 まれで、母 親 は 貴 族 階 級 出 身 の 芸 術 家 であった。 1 9 1 4 年 に 第 1 次世界大戦 が 始 まりると、サ ン ク ト ペ テ ル ブ ル ク を、 ロ シ ア 語 名 の 「 ペ ト ロ グ ラ ー ド 」 に 変 更 した が、そこで 日 本 人 留 学 生 の 小 野 俊 一 ( ロ シ ア 文 学 者 ・ 生 物 学 者 ・ 昆 虫 学 者 ・ 社 会 運 動 家 ) と 出 逢 い 、ロ シ ア 革 命 が 起 き た 大 正 6 年 ( 1 9 1 7 年 ) に 現 地 で 結 婚 し た。 翌 大 正 7 年 ( 1 9 1 8 年 ) に 夫 に 伴 われて 社 会 主 義 革 命 で 混 乱 する ロ シ ア から 東 京 に 来 たが 、その 後 の 音 楽 教 育 活 動 により 日本人 女性 バ イ オ リ ニ ス ト ( V i o l i n i s t ) の 、 育 て の 親 と 呼 ばれるようになった。美 貌 ( び ぼ う ) の バ イ オ リ ニ ス ト と して 有名 だった 諏 訪 根 自 子 ( す わ ね じ こ、1 9 2 0 年 ~ 2 0 1 2 年 ) や 前 章 で 取 り 上 げた 巖 本 メ リ ー ・ エ ス テ ル ( 1 9 2 6 年 ~ 1 9 7 9 年 ) なども 指導 した。 昭和 2 1 年 ( 1 9 4 6 年 ) に 武蔵野 音楽大学教授 に 就 任 し、その後 も 各学校 の 音 楽 科 で 後 進 を 指 導 した。昭和 3 4 年 ( 1 9 5 9 年 ) に、音 楽 教 育 に 関 する 貢 献 により 勲 四 等 瑞 宝 賞 を 受 賞 した。 翌 昭 和 3 5 年 ( 1 9 6 0 年 ) に 4 2 年 間 居 住 した 日本 を 離 れ 、ソ 連 ( ソ ビ エ ト 連 邦 社 会 主 義 共 和 国、現 ・ ロ シ ア ) に 帰 り、ソ 連 邦 の 構 成 国 だった グ ル ジ ア ( 現 ・ ジ ョ ー ジ ア、G e o r g i a ) の 黒 海 に 面 した 小 都 市 の ス フ ミ にある 音 楽 院 で バ イ オ リ ン 科 教 授 に 就 任 した。 その後 昭和 5 4 年 ( 1 9 7 9 年 ) に、 ス フ ミ にお いて 永 眠 したが、享 年 8 9 であった。彼女 の 門 下 生 の 一 人 で 、日 本 を 代 表 する バ イ オ リ ニ ス ト ( V i o l i n i s t ) だ っ た 、諏 訪 根 自 子 ( 故 人 ) の 演 奏 を 聴 かれた し。 [ 1 2 : 昭 和 の 思 い 出 ]私 は 豊 島 区 巣 鴨 で 育 ったので、 廃 校 となった 明 治 女 学 校 の 近 くで 遊 んだ し、その 近 くで 生まれ 、後に J R 大塚駅 に 近 い 折 戸 に 住 むようになった 巌本 真理 こ と 「 メ リー ・ エ ス テ ル 」 の こ と も 姉 ・ 兄 たち か ら 聞 いて 知 っ て いた。 米 軍 機 の 空 襲 に よ り 一 面 の 焼 け 野 原 になった 「 大 日 山 」 ・ 「 東 大 農 学 部 の 農 場 」 一 帯 にも その後 家 が 建 ち 、東大生 のための 学 生 寮 や 特 別 養 護 老 人 ホ ー ム の 「 菊 か お る 園 」 、西 巣 鴨 幼 稚 園 などが、昭和 4 5 年 ( 1 9 7 0 年 ) 頃 に 建 設 された。 しか し かつて 近 代 女 子 教 育 の 先 駆 けとなった 明 治 女 学 校 の 跡 を たどる 手掛 かりは、幼 稚 園 の 建 物 に 隣 接 して 建 つ 、この 石 碑 だけであった。碑 文 明 治 女 学 校 之 址 ( め い じ じ ょ が っ こ う の し )「 歴 史 と は 、や が て 忘 れ 去 ら れ る も の 」 で あ る こ と を 、再 確 認 し た 次 第 で あ る 。 ( 1 2 -1、小 学 校 の ク ラ ス 会 ) ところで 5 0 年 近 く 定 期 的 に 毎 年 1 月 の 最 終 土 曜 日 に 開 催 する 学 童 集 団 疎 開 に 行 っ た 仲 間 の ク ラ ス 会 が、今年 も 1 月 25 日 の 最 終 土 曜 日 に J R 大 塚 駅 の 近 く で お こ な わ れ た。 まず ク ラ ス 会 代 表 幹 事 「 I 氏 」 の ご家 族 共 々 の 多大 な 尽 力 により 、地 域 の 「 鎮 守 さ ま 」 である 天 祖 神 社 ( て ん そ じ ん じ ゃ 、1 3 2 1 年 頃 創 建 ) に 一 同 昇 殿 し て、宮 司 から 「 お 祓 い 」 を 受 け、「 祝 詞 」 ( の り と ) を 読 み 上 げ て も ら い 、御 神 酒 の 入った 小 ビ ン を 各自 頂 いた。 その際 に 聞 いた 宮 司 の 話 によれば 、戦前 は 神 社 の 敷 地 は 1 , 6 0 0 坪 あったが、戦 後 は 連 合 国 軍 最 高 司 令 部 ( G H Q ) が 発 令 した 「 神 道 指 令 」 に 基 づき 、 4 0 0 坪 に 削 られたとのことであった。その後 近 くの 料 理 屋 で ク ラ ス 会 が おこなわれた。 宴 会 における 雑 談 の 際 に 、昔 折 戸 ( お り ど ) 通 り に 住 んで いた 級 友 の 一 人 が、天 才 バ イ オ リ ニ ス ト の 巌 本 真 理 の ことを 知 って い た の で 驚 い た 。な ぜ な ら 彼 は 私と 同 じ 年 齢 であり、しかも 兄 ・ 姉 が いな い 長 男 で あ っ た か ら で あ る。 戦 後 は 新 潟 市 で 生 活 し、中 学 校 長 を 務 めて 定 年 退 職 した 経 歴 の 持 ち 主 で あ っ た。 それに しても 昔 に 比 べ 、J R 大 塚 駅 周 辺 の 変 わり 様 は 大 き い。小学校時代 の ク ラ ス 会 に 出席 する 度 に、 J R 大 塚 駅 付近 の 定 宿 に して い た 「 ホ テ ル ベ ル ク ラ シ ッ ク 東 京 」 の 直 ぐ 近 くに 、い つ の 間 に か 2 0 階 建 て の 「 ア パ ホ テ ル ・ 山 手 大 塚 駅 タ ワ ー 」 が 出来 て 営業 し て い た。 昔 は 駅 の ホ ー ム か ら よ く 見 えた 天 祖 神 社 の 大 銀 杏 ( お お い ち ょ う ) も、大 日 山 ( だ い に ち や ま ) の 大 木 も、 駅 の 周辺 に 高 い ビ ル が 建 てられて、今 では すっ か り 見 え な くな っ た。
駅 周 辺 も 大きく 様 変 わり して し ま い 、昔 を 偲 ぶ 「 よ す が 、心 の よ り ど こ ろ 」 は 、J R 山 手 線 の ガ ー ド 下 にある 都 電 ( 早 稲 田 ~ 三 ノ 輪 橋 間 を 走 る 荒 川 線 ) の 乗 り 場 だ け で あ る。( 終 わ り )
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