江戸時代の陸運と海運

[1:江戸 ]

江戸の名が日本の歴史に初めて登場したのは、鎌倉幕府 が編纂した公的記録 ( 1180 年から〜1266 年迄 ) である 「 吾妻鏡、( あずまかがみ ) 」 の記述でした。それによると、江戸桜田郷に居を構えた秩父重継の長男が 江戸太郎重長 ( しげなが ) と名乗り、武蔵国の長 ( おさ ) として平氏に味方し源頼朝と戦ったとありました。鎌倉時代から南北朝を経て江戸氏は滅びましたが、江戸という地名は残りその地を武蔵国豊島郡 ( ごおり ) 江戸郷 ( ごう ) と呼びました。

太田道灌

その後 江戸は草深い葦の茂る片田舎となりましたが、室町幕府の頃に関東管領 ( かんれい ) を務めた上杉氏は家臣の武将である、太田道灌 ( 1432〜1486 年 ) を江戸に封じましたが、彼が 1457 年に江戸に城を築いたのが江戸城の始まりでした。それ以後江戸は城下町として、徐々に発展することになりました。右は太田道灌像。

16 世紀末に天下の覇権を握った豊臣秀吉 ( 1536〜1598 年 ) が、徳川家康に対して関 八州 ( 相模、武蔵、上野、下野、安房、上総、下総、常陸 ) の領地を与えると共に、江戸に住むことを命じました。

徳川家康

そこで徳川家康 ( 1542〜1616 年 ) は、天正 18 年 ( 1590 年 ) に本拠地の 三河 ( 愛知県東部 ) の岡崎を出て江戸に移住しましたが、秀吉の死後 1600 年に起きた天下分け目の 「 関が原の戦い 」 に勝利して天下の覇権を握り、江戸に徳川幕府を開きました。

家康が最初にしたことは 道路、宿場、伝馬制の整備 でしたが、家康の死後も幕府はそれらの整備を継続しました。しかしあくまでも陸上の交通、通信制度や物資の輸送を前提としていて、後述する隆盛を極めた海運事業に対して幕府がとった政策とは、保護育成の意図などは全く存在せず、ただ 鎖国令を徹底させるための厳重な監視や取り締まり に終始しました。


[ 2:五街道の整備 ]

徳川の天下になったものの伊達、前田、毛利、加藤 ( 清正 ) など各地に住む旧豊臣家に恩顧のあった大名の動向を監視し、京都や大坂 ( 現、大阪 ) との通信連絡を迅速、緊密に行うため、軍事的、政治的理由から街道の整備に当たりました。江戸を起点とする主要な 五つの陸上交通路の整備を重点的におこないましたが、それらは東海道をはじめ、中山道 ( なかせんどう )、奥州街道、甲州街道、日光街道などでした。

それと共に街道にある交通の要衝に関所を設けて人や物資の移動を監視しましたが、特に人質として江戸に居住する大名の奥方が国元へ脱出するのを防ぐため、 入り鉄砲に出女 ( でおんな ) を厳しく取り締まりました。東海道については 軍用道路としての機能、役目 を第 1 に考えた為に、途中にある大井川、安倍川、興津川 ( おきつがわ、静岡県清水市 )、酒匂川 ( さかわがわ、神奈川県小田原市 )などは、上方と江戸を結ぶ交通の大動脈にもかかわらず、西国諸大名からの侵攻に備えて、江戸防衛上の理由から 川の架橋や渡し船の設置が禁止されました

川越島田宿

そのために川越人足の背中に頼って渡りましたが、降雨により水かさが増すと川留めとなり、長雨が続いた慶長 4 年 ( 1868 年 ) には 28 日間の川留めの最長記録 がありました。それ以外の天竜川、富士川、六郷川 ( 神奈川県と東京都の境界、多摩川の下流の名 ) だけが、渡し船で渡ることが許されました。絵図は東海道大井川の東側にある、島田の宿から金谷側に川を渡る様子。

ちなみに東海道の 「 海道 」 とは海岸に沿った道の意味であり、途中の 2 箇所に船で海を渡る場所がありましたが、浜名湖南岸の舞坂と新居 ( あらい ) との間の海上 1 里 ( 4 キロ ) と、熱田 ( あつた ) 神宮の宮を略称して付けられた宮 ( みや ) と桑名の間の海上 7 里 ( 28 キロ ) でした。

大名行列

江戸は徳川幕府の所在地として行政の中心地となり、寛永 12 年 ( 1635 年 ) に改定された武家諸法度 ( ぶけしょはっと ) による参勤交代の制度化によって、全国の大名たちが 1 年おきに国元と江戸を往復するようになり、それ以外にも商人、庶民、飛脚など多くの旅人が往来したので、江戸の陸路の物流を支えた街道も賑わうようになりました。

江戸で暮らす町民に加えて大名の出府 ( しゅっぷ ) に随行して江戸にやって来た大勢の家来たちも暮らすようになったため、江戸の人口は 寛永年間で 60 万〜70 万人の大消費地 となりました。しかし関東地方の生産物だけでは江戸の消費を到底賄えきれないため、全国各地の産物や米が江戸に運ばれましたが、特に上方 ( かみがた ) から運ばれた装飾品、工芸品、呉服、酒、などの品物は 「 下 ( くだ ) りもの 」 と呼ばれてもてはやされ、そうでない品物の 「 下らないもの 」 とは値段の面で差がありました。これが 「 くだらない 」 の語源になりました。

[ 3:宿場、伝馬制度 ]

伝馬 ( てんま ) とは輸送用の馬のことですが、7 世紀半ば〜10 世紀の律令時代には各郡に馬を置いて官吏の公用に供されました。しかし平安時代以後この制度がすたれましたが、戦国大名などによって 一部復活されていました。徳川家康は輸送通信手段の整備の皮切りとして慶長 6 年 ( 1601 年 ) に伝馬定書 ( てんまさだめがき ) を制定し、 東海道に五十三次の宿駅伝馬制度を敷きました

これにより、各宿場では、 伝馬朱印状 ( 公用証明書 ) を持つ者の公用の書状や荷物を、次の宿場まで無料で輸送するために必要な人馬の用意を義務付けられました。伝馬は宿場毎に当初 36 頭 と定められていましたが、その後公用者の往来や荷物の輸送量が増えるに連れて 100 頭に増えました 。こうした人馬を負担するのは宿場の役目でしたが、その代わりに、宿場の人々は屋敷地に課税される年貢が免除されたり、旅人の宿泊や荷物を運んで収入を得ることができるという特典を与えられました。

問屋場

しかし注意すべき点は伝馬をはじめこの時代の荷物の輸送は 次の宿場まで であり、その宿場に到着する度ごとに人 ( 馬子、まご ) や馬を交替させ荷物を積み替えるという、言わば リレー方式による非能率的な輸送方法でした 。そこには 宿場や馬子達の既得権益 や、自分達の縄張り( シマ ) を通過する荷物は、俺たちに運ばせろという 縄張り主義の弊害 があったからでした。絵図では問屋場 ( といやば ) と呼ばれる宿場での荷物の積み替え場所で、宿 ( しゅく ) 役人が伝馬朱印状の点検をしている間に、人足が次の宿場に向けて馬の荷物を積み替えています。

[ 4:駄賃馬の利用解禁 ]

駕篭と馬

最初は無料の伝馬 ( てんま ) を利用できるのは公用の者に限られていましたが、後になると駄賃を払えば 誰でも馬 ( 駄賃馬 ) を利用できるようになりました 。伝馬と駄賃馬とを比較すると、1 駄当たりに積む荷物の制限重量は、無賃 ( 公用 ) の伝馬は 32 貫 ( 重量、120 キロ ) 、駄賃馬の場合は 40 貫 ( 重量、150 キロ ) までとなっていました。

一里塚

江戸幕府は五街道整備の一環として 1 里の距離を 36 町 ( 約 4 キロ )と定め、1 里ごとに道の両側に土を盛り、そこに榎 ( エノキ ) を植えて旅人が距離の目印にし易いように、1 里塚を築きました。1 里あたりの馬の駄賃は慶長 11 年 ( 1606 年 ) 当時の値段によれば、ほぼ米 1 升の値段に近い値でした。

馬方

我が家の老妻の話によれば家で購入するこの地方産の コシヒカリ は、5 キログラム当たり 2,300 円だそうですが、白米 1 升は約 1.4 キログラムなので、換算すると米 1 升の値段は 644 円 になります。つまり米を基準に馬の駄賃を現代の貨幣価値に換算すれば、1 里( 4 キロメートル )当たりの駄賃は、 約 650 円程度 で、タクシーの初乗り運賃 ( 地域により異なりますが、 2 キロメートルで 660 円 )と比べれば、約半分程度の値段になります。

馬子と荷駄

しかし宿場毎に荷物を積み替えるという駄賃馬による荷駄輸送の非能率さでは、大量の荷物の長距離輸送など到底できるものではなく、前述のように馬 1 頭の積載量はおよそ米 2 俵に相当するので、仮に米 100 石を輸送するには 160 頭の馬が必要になる計算でした。全国に点在した天領と称する幕府直轄地からの産米輸送や、生産や流通の発達に対応した大量輸送の方法としては、 馬に頼るよりも必然的に海や川を利用した海運、舟運に頼ることになりました

 

[ 5:弁財船 ( べざいせん、千石船 ) ]

千石船

江戸時代の物資の輸送には、後述する 菱垣廻船 ( ひがきかいせん ) 樽廻船 ( たるかいせん ) 北前船 ( きたまえぶね ) などで活躍した 弁財船 ( べざいせん ) がその主役でしたが、俗に 千石船とも呼ばれました。 1 本 マストに横帆 1 枚 でしたが帆走性能、経済性に優れていて全国的に活躍し、江戸時代の海運の隆盛に大きく貢献しました。

船体構造としては現代の船のような竜骨 ( キール ) を中心にした縦貫材や肋骨がなく、船体の割には 舵は大型でしかも固定式ではなく 、水深に合わせて引き上げることができるように吊り下げ式でした。貨物は船体中央部にある 胴の間 に積載しましたが、和船の構造はこの 千石船に限らず、百石積み以上の船であればばほぼ同じでした。この船は江戸時代だけでなく明治の中頃まで貨物の運搬船として使用されましたが、上の写真は明治 33 年 ( 1900 年 ) に撮影されたものです。

弁財船の欠点とは

    胴の間

  1. 水密甲板 ( water-tight deck、水が漏れない甲板 )が無かったこと
    荷物を搭載する 「 胴の間 」 は荷役をし易いように天井板を張らずに、取り外しの利く板を並べただけの甲板なので、荒天時に波が打ち込んで来ると荷物は水浸しになり、船体の復元性にも悪影響を及ぼしました。絵図は樽廻船の胴の間です。

  2. 乾舷 ( フリーボード、Freeboard ) が低いこと
    項目 [ 5 ] の弁財船 ( べざいせん ) の写真には船縁 ( ふなべり ) に 垣立 ( かきだつ ) と称する欄干状に作られた穴の明いた垣 ( 積み荷の転落防止用 ) が見えますが、船の甲板の位置は概略その下部です。したがって喫水線から上甲板までの乾舷 ( 海面から甲板までの高さ ) が低く、波をかぶり易い構造でした。

    巨大船乾舷

    参考までに乾舷が非常に高い船の例を示しますと、左の写真は空船状態の V L C C ( Very Large Crude Carrier 、20 万 トン以上の超大型原油 タンカー ) の舷側ですが、縄梯子の左の船体に描かれている白と赤の細長い 矩形の マーク ( 9 Meter mark ) は、赤白の境界線から甲板の手摺り ( ブルワーク、Bulwark ) まで、9 メートルの高さがあることを示しています。

    つまり手摺りの高さを甲板から 1.3 メートルとすれば、この船の乾舷は 7.7 メーター近くあることになります。なお吃水 マークを見ると、この船の満載吃水線は約 16 メートル 以上 ( 5 階建ての ビルの高さほど ) あります。

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    舵

  3. 船体に比べて舵が大きく、しかも船体に固定されてなく 吊り下げ式のため、荒天時には荒波に打たれて 舵が破損 ・ 流失し易く 遭難する最大の原因になりました

  4. 1 本 マストのために、暴風雨の時など沈没の危機に直面して マストを切り倒すと、その後の航行が全く不能になり、これも難破、漂流の大きな原因になりました。

    水船

欠点だけでなく利点を挙げますと、時化により遭難しかかっても荷物を捨てて船を軽くすれば、 水船 ( みずぶね )状態 ( 半分、水に沈んだ船の状態 ) になっても、木造船のため簡単には沈没しないという長所もありました。写真は水船状態で漂流中の レジャー ・ ヨットですが、乗組員 2 名は海上保安庁の巡視船に救助され、後で ヨットにも浮力回復措置を施した結果、正常な姿で浮かぶようになりました。

御朱印船

結論をいえば、弁財船 ( 千石船 ) は 内航用に発達した為に耐波性 ( Sea Worthiness ) に乏しく、外洋航海には適していませんでした 。それは 1633 年から始まった徳川幕府の鎖国政策に適したものであり、鎖国以前に徳川家康などがおこなった東南 アジア諸国との貿易に使用され、年平均 11 隻が海外に向け運航した 御朱印船 ( ごしゅいんせん ) とは構造が大きく異なるものでした。絵図は御朱印船ですが、マストの数に注目。

[ 6:菱垣廻船 ( ひがきかいせん ) ]

廻船という名前は貞応 2 年 ( 1223 年 ) に書かれた廻船式目 ( しきもく、箇条書きにした船法度、海事法規 ) に見られますが、商船の意味に用いられました。 江戸時代の物流は前述の如く海運に大きく依存していましたが、国内沿岸の物資輸送に従事した荷船を廻船 ( かいせん ) と呼びました。

菱垣廻船

その中でも 大坂 ( 大阪 ) と江戸を結ぶ幹線航路 を運航した荷船のことを菱垣廻船 ( ひがきかいせん ) と呼びましたが、その始まりは元和 5 年 ( 1619 年 ) に堺の商人が、紀州の富田浦の廻船を雇って江戸へ日用品を運んだのが最初でした。

船の大きさは初期には 六百石〜 七百石のものが多数でしたが、後には 千石積みのものも出現しました。享保 8 年 ( 1723 年 ) には菱垣廻船の数は、 160 隻に達しました 。写真は平成 11 年に復元された、菱垣廻船の浪華丸が帆走中のもの。

菱垣廻船

菱垣 ( ひがき ) の名前の由来については廻船問屋に所属する海運業者の持ち船であることを示す目印として、船の舷側垣立 ( かきだつ ) の下部に菱組 ( ひしぐみ ) の装飾を付けたことから菱垣廻船と呼ばれました。写真は 「 なにわの海の時空館 」 に展示してある、復元された菱垣廻船ですが、大き目の舵と名前の由来となった舷側の 菱組 ( ひしぐみ ) 装飾 が見えます。

船の積荷は酒、油、醤油、砂糖、鰹節、紙、薬種、木綿、などの生活物資を輸送しましたが、大坂 ( 大阪 ) には菱垣問屋が 7〜9 軒あり、積荷や船の運航を差配しました。なおその当時の江戸には、3 軒の菱垣廻船荷受け問屋がありましたが、後に述べる樽廻船 ( たるかいせん ) の荷受け問屋も含めて、5〜6 軒になりました。

[7:樽廻船 ( たるかいせん )、酒の輸送が契機 ]

大坂 ( 大阪 ) から江戸の大消費地への海上輸送が始まった頃から、酒は他の貨物と混載されて当時の花形輸送船であった菱垣廻船によって、江戸へ運ばれていました。 酒は腐敗しやすい商品のために、出荷から江戸到着までなるべく短時間で運ぶ必要がありましたが、菱垣廻船では酒以外にも他の日用雑貨も搭載したため、貨物の搭載に時間を要し、船が出航するまでは 2 週間近くかかるのが普通でした。

弁財船

酒の腐敗防止が最重要課題の酒造業者にとっては荷役時間の短縮と、海難処理の問題 ( 注参照 ) をめぐり菱垣廻船の荷主間に利害対立が生じた為に、享保 15 年 ( 1730 年 ) に菱垣廻船問屋から脱退し、以後は伊丹の酒造業者と大坂近郊の伝法村の船問屋が共同し、酒樽専用の廻船を仕立てて酒の輸送に当たりました。これを樽廻船 ( たるかいせん ) と呼びましたが、船も千五百石から二千石の大型船を使用し、江戸後期では年間に百万樽の酒を江戸に運びました。

樽廻船は菱垣廻船よりも運賃が安く、しかも港で雑貨を積み込む為の荷物待ちの日数も少なく、その為に江戸までの所要日数も少なかったので、菱垣廻船を圧倒するようになりました。酒樽だけの搭載では荷が重すぎて船の吃水が深くなるので、酒樽の数を減らして、上に積む上荷として 7 種類の商品である、醤油・酢・塗物・紙・木綿・金物・畳表等を積み込みました。

注:)
海難処理の問題とは現代の海商法にも規定がある、 共同海損 ( きょうどうかいそん、General Average )  のことで、航海中に生じた積荷の損害を荷主すべてが共同で負担する方法でした。

分かり易く言えば 3 億円の積荷を積んで航行中の船が時化に遭い、沈没の危険に遭遇した際に、船を軽くするために積荷の 3 分の 1 ( 評価額 1 億円 ) を海中に投棄して沈没を免れたと仮定します。その際に助かった積荷の持ち主も、海中に投棄した 1 億円の損害について、平等に負担する制度のことをいいます。

菱垣廻船において酒樽は重いために常に船底に積む 下積み荷物 でしたが、海難の際に投棄される軽い割には金額がかさみ、海水で傷み易い上積み荷物に対する共同補償の義務があったため、不満を持ったものでした。

[ 8:廻船のスピード競争 ]

カティーサーク

19 世紀に中国から イギリスまで紅茶の輸送に従事した帆船を ティー クリッパー ( Clipper とは快速帆船の意味 ) と呼び、その所要時間を競いましたが、その レースを目指して建造された帆船の カテイー ・ サーク ( Cutty Sark ) 号が有名です。私は軽い味の スコッチ ・ ウイスキーの銘柄、カティー・サークの ラベルからこの帆船のことを知りましたが、後に イギリスの ロンドン東部にある グリニッジで、 テムズ河畔に保存されている実物にお目に掛かりました。

サンマのように細長い船体で、最高時速 17 ノット(時速 31 キロメートル)まで出した記録があるそうです。しかし A P 通信社からの ニュース配信によれば、この船は平成 19 年 5 月 21 日に火災が発生し、船体がほとんど焼ける大きな被害がでました。

日本でも毎年菱垣廻船による 新綿番船 ( しんめん ・ ばんせん ) 」と樽廻船による 新酒番船 ( しんしゅ・ばんせん ) の レースがありましたが、新綿番船とは、大坂 ( 大阪 ) 周辺で秋に収穫した 「 わた 」 で編んだ木綿を積み込んだ菱垣廻船による スピード ・レースのことで、新酒番船とはその年にできた新酒を上方 ( かみがた ) から江戸まで運び、江戸到着の順位を争う帆船の スピード競争でした。新綿番船は元禄年間 ( 1688〜1703 年 ) から、新酒番船は享保 15 年 ( 1730 年 ) 頃に始まりました。

その年に江戸に向けて積み出される新酒を積んだ樽廻船が 「 酒どころ灘五郷 」 ( 西郷、御影郷、魚崎郷、西宮郷、今津郷 ) に近い西宮湊 ( みなと ) や大坂 ( 大阪 ) の安治川 ( 旧淀川 ) 川口の湊から出航する際には、鉦 ( かね ) や太鼓に送られて 一斉に スタートし、江戸湾入り口にある浦賀船番所前に到着の順位を競いました。

初期 ( 17 世紀後半 ) の頃は大坂〜江戸間 ( 片道 ) を、後述する地乗 ( じの ) り航法 ( 陸岸に沿って航海する方法 ) で約 1 ヶ月もかけて航海していましたが、寛政 2 年 ( 1790 年 ) には新酒番船が西宮から江戸まで通常 10 日から 20 日掛かるところを わずか 58 時間 で航海し、平均速力 6.5 ノットという記録を樹立しました。

さらに安政 6 年 ( 1895 年 ) には、新綿番船が大坂から浦賀まで 50 時間、平均速力 7 ノット の新記録を残しています。毎年の記録によれば新酒番船の 1 番になった船の所要時間は、平均で 6 日でした

新酒入港

一方の江戸でも船の到着を待ち受けていて、船の到着順位は 「 かわら版 」 などの刷り物にされ、賭博の対象にもされましたが、1 番で到着した船頭には祝酒や金 一封授与という華やかな行事がありました。絵図は文久 3 年 ( 1863 年 ) に御影の住宝丸が、新酒番船 1 位になった際のお祭り騒ぎの様子で、所要時間は 4.8 日でした。樽廻船の 1 番船で運ばれた新酒を品川沖で吃水の浅い小舟に積み替えて、酒の倉庫が建ち並ぶ川岸に到着したところです。

毎年おこなわれるこの競走のために、船主や船頭、水主 ( かこ、水夫 ) は帆走技術や航海技術に様々な工夫を凝らして改良を重ねました。こうした技術面での成果は、普段の廻船の運行にも生かされたため、菱垣廻船や樽廻船の運行も全般に スピードアップし、元禄期 ( 1688〜1704 年 ) には大坂 ( 大阪 ) 〜江戸間を 1 隻が年間 4 往復していたのに対し、天保年間( 1830〜1843 年 ) には 8 往復と稼働率は倍増し、北は北海道から西は九州まで全国をくまなく網羅したその輸送力は、江戸時代の経済や文化を支える上で大きな役割を果たしました。

江戸における大手の廻船問屋の取り扱い隻数 ( 入港船 )

年代大手の廻船問屋数年間扱い隻数
元禄13年(1700年)1,357
元禄14年(1701年)1,358
元禄15年(1702年)1,221


[ 9:北前船 ]

これまで述べてきたのは物資の集散地である上方と最大の消費地である江戸を結ぶ航路を運行する、菱垣廻船と樽廻船のことですが、これ以外にも東北 ・ 北陸の日本海沿岸の港を出て津軽海峡から太平洋を南下して房総半島に向かい、江戸に産米、三陸の俵物 ( ブリ、マグロ、くし貝、干しタラ、塩サケ、棒タラ、のし鮑 ) の 7 品をはじめ、鰹節、スルメや コンブなどを運ぶ 東廻り航路 や、日本海を西に向かい下関海峡を通り瀬戸内海に入り、大坂 ( 大阪 ) に向かう 西廻り航路 がありました。これらはいずれも江戸の豪商の河村瑞軒(ずいけん)が開発した航路でしたが、これによって日本の物流は画期的なものとなりました。

井原西鶴の浮世草子、日本永代蔵 ( 1688 年 ) によれば、

今ほど舟路の慥 ( たしか ) なる事にぞ。世に舟あればこそ 一日に百里を越し、十日に千里の沖を走り、萬物の自由を叶へり。
北前船

と書かれていました。もちろん日本海沿岸や東北の港から北海道の松前、小樽に向かう航路もありましたが、そこでは夏の霧や冬の吹雪などの気象、親潮の海流の影響からずっと危険が増しました。北前船と呼ばれる日本海航路を廻る船は、船乗りたちの憧れの的であり、男なら 一度は北前船に乗ってみたいというのが船乗りの希望でもありました。

北前船の北前の語源については諸説ありますが、

  1. 北を 前にして進む意味から。

  2. 北廻り船から転化したものである。

  3. 国 松 ( きたぐにまつまえ ) の略称である。

  4. 北米 ( きたまい ) から転化したものである。
との説がありましたが、確定されたものはありません。

[ 10:商売の特徴、買い積み ]

北前船が他の廻船と大きく異なる点としては、目的地に向けて一路航海を続けるのではなく、途中の港々に寄港しながら品物を売り買いする商売の方法にありました。普通の船で採用されていた貨物の運賃で利益を挙げる、 運賃積み が収入の主体ではなく、出発地や途中の港で商品を仕入れ、品物を寄港地ごとに売り買いしながら利ざやを稼ぐという 買い積み商法 がその特徴でした。

下りは大坂( 大阪 ) から瀬戸内海を経て日本海へと航行しながら、木綿・塩・砂糖・鉄・米・酒などを仕入れ、積荷の売買をして蝦夷 ( えぞ ) 地に到着します。

そこでは鰊 ( にしん ) や肥料としての鰊の絞粕 ( しぼりかす ) 、数の子、昆布などを仕入れて帰り、上りは瀬戸内海や大坂でそれらを売却しました。その差益での儲けは、ひと航海で千両とも言われ、下り荷で 三百両、上り荷で 七百両の儲けといわれていました

河村瑞軒が最初開いた航路では石見 ( いわみ ) の湯泉津 ( ゆのつ )、但馬 ( たじま ) の柴山 ( しばやま )、能登の福浦 ( ふくら )、佐渡の小木 ( おぎ )、出羽の酒田などの港を結んだものでしたが、最初は出羽国 ( 山形県 )、酒田に集まってくる庄内米を、大坂 ( 大阪 ) に運ぶための航路でした。

日本海を航行するといっても、船の大きさはまちまちでして、従って乗組員の数も異なっていました。当時の記録によれば

船の大きさ乗組員数
三百石船9人〜12人
五百石船11人〜13人
八百石船14人〜18人
千石船19人〜23人
千二百石船20人〜24人
千四百石船23人〜26人
千六百石船25人〜29人


日本海の荒波を乗り切る帆船としては予想以上に少ない乗組員ですが、コスト削減の意味からなるべく同郷の出身者で固め、少数精鋭主義をとっていました。

[ 11:北前船の航海 ]

地乗り ( じのり ) とは航海術の一種で陸岸の地形を参考にしながら航海する沿岸航法のことですが、絶えず陸地の近くを航行するために効率が悪い航法です。これに対して沖乗り( おきのり ) とは、陸岸から離れた沖合を直線的に進む方法であり、船の位置は初期の推測航法や天文航法(?)で求める方法です。

スクーナー

帆船の帆の種類を大別すると、帆柱に直交する帆桁 ( ほげた ) に帆を張り、船の横方向に帆を張り広げる横帆( おうはん ) と、ヨットや スクーナー( Schooner、2 本 マストの縦帆船 )のように帆柱の片側にのみ帆を展張する縦帆 ( じゅうはん ) があります。

北前船の航行の原理は簡単で、船に張った 1 枚の横帆に追い風をはらませて走りますが、横帆の欠点は風に向かって走る際に、斜め前から風を受けるように帆の面を左右交互に切り替えて受け、ジグザグの コースで風上側に帆走する 「 切り上がり( Tacking 上手回し ) あるいは間切 ( まぎ ) り走り 」 が困難な点です。写真は縦帆の スクーナーです。

間切りは ジグザグコースを走る為に非常に効率が悪い走り方で、50 キロ走っても風上側には 10 キロしか進まない場合もありました。その為に無駄な走りをして数少ない水夫の エネルギーを無駄に使うよりも、船の航行に都合がよい風(追い風)が吹くまで、近くの港に入って 「 風待ち 」 をしたり、特に瀬戸内海の来島 ( くるしま ) 海峡や関門海峡などの狭水道の通過では、潮の干満による潮流が ゼロになる時 ( Slack water ) を待つ 「 潮待ち 」 が用いられました。これらの港を 「 風待ち港 」、「 潮待ち港 」 といいましたが、北前船が盛んになると、各地の大名は自分の領地で取れた産米や特産品を積み出す為にも港湾整備に熱心になりました。

荒波の船

北前船の航海は基本的には大坂を基地にして北陸、東北の日本海側、蝦夷 ( エゾ ) へ向けて 1 年に 1 度航海をしました。2 月頃に春祭りを済ませると北国の船乗りたちは船主から旅費を貰い、大坂に向けて徒歩で出発しました。大坂に着くと船の整備にかかり 4 月初めに出帆し、瀬戸内海、日本海の寄港地で積荷の売り買いの商いをしながら蝦夷地に到着し、6 月頃に 上り便の買付けを終えて 7 月〜 8 月頃に出帆し、大坂へは冬の初めまでに戻りました。

北前船の積荷は蝦夷に行く下りが 米、酒、塩、砂糖、紙、木綿などで、大坂に行く上りは昆布、鰊 ( ニシン ) などの海産物や酒粕などでした。北前船 ( 千石船 ) の積荷の利益は往復の 「 1 航海で 千両 」 といわれ、儲けが大きいものでしたが前述した夏季の海霧などで遭難の危険も多い航海でもありました。

[12:海運の発達 ]

物資の大量輸送で船にかなうものはありませんが、江戸時代の経済的発展も船の輸送力なくしては実現不可能でした。特に弁財船 ( 千石船 ) の経済性の向上が商品流通を増大させた効果は大きいものでした。前掲した大手の廻船問屋による入港船取り扱い表から約 50 年後の延享 4 年 ( 1747 年 ) に、江戸湾入り口にある浦賀の船番所に入港手続きをした、三河 ( みかわ、愛知県 ) 以西の遠国廻船は 3,948 隻 ( 乗組員の合計、約 4 万人 ) であり、その積載量は 258 万石に達しました

安政 4 年 ( 1857 年 ) に 北海道から 鮭、こんぶ、ニシンの絞り粕、胴ニシン、身欠き ニシン、などの産品を積み出した先をみると、

荷送り目的地積み出し石高百分比
大坂、兵庫301,00042.3
長門105,00014.7
加賀、越中、能登105,00014.7
南部、仙台、水戸、銚子42,0005.9
江戸40,0005.6
津軽、秋田、庄内35,0004.9
四国、九州35,0004.9
越後35,0004.9
以下省略−−−−−−


このような海運による効率的な全国的商品輸送があったからこそ、江戸、大坂を初めとする全国の大小都市における衣食住が量的に十分賄えたと共に、それまでの堆肥、糞尿などの自給肥料に替えて、代金を払って購入する ニシン粕などの 金肥 ( きんぴ ) の供給により、農業生産の分野でも収穫量の増大をもたらしました。

       
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