日露戦争の、日本兵捕虜

[ 1:陸軍大佐を筆頭に]

特殊潜航艇

この題名で随筆を書くことになったきっかけは、太平洋戦争開戦時に航空部隊による真珠湾攻撃と時を同じくして、五隻の特殊潜航艇に乗り海からの攻撃に参加した十人の軍人がいましたが、その中で潜航艇の針路を決めるジャイロ・コンパス(羅針儀)の故障から武運つたなく座礁し、捕虜第一号になった酒巻和男少尉(1918〜1999年)がいました。写真はオアフ島の海岸に座礁した酒巻艇。

彼について調べているうちに、それより三十七年前の日露戦争の際には勝利したにもかかわらず、歩兵第 28 連隊長の村上正路歩兵大佐を筆頭に、二千名以上もの日本兵が捕虜になっていたという事実を知ったからでした。しかも彼等は帝政ロシアの流刑地でした極寒、過疎のシベリアではなく、ヨーロッパの フィンランド湾に近い捕虜収容所に移送され、ロシア政府から毎月小遣いを支給されるなどの処遇を受けて抑留されました。皆さんはこの事実をご存じでしたか?。

収容所建物

写真は下士官兵の捕虜収容施設ですが、将校用のものはさらに立派でした。その当時、戦時国際法(ハーグの陸戦条約)に関する知識を持つ日本人捕虜にとっては、ロシア側の処遇に不満があったものの、太平洋戦争終了後にソ連によりシベリアに抑留された者の処遇に比べれば、天国と地獄ほどの差がある人道的で戦時国際法に適ったものでした。

[ 2:勝者には生殺与奪の権利]

旧約聖書の時代から戦争における勝者は、敗者や捕虜に対して生殺与奪(せいさつよだつ、生かすも殺すも意のまま)の権利を持つのが当然でした。11世紀から13世紀まで七回にわたり実施された十字軍の遠征の際も、敗者となった多くの異教徒や捕虜達が、キリスト教徒の十字軍により殺害されました。

源平盛衰記や平家物語を読むと、平安時代末期における源氏と平家の戦に敗れ、捕虜になった者の苛酷な運命を知ることができます。平家物語(巻第十一、第十二)によれば、長門(山口県)壇ノ浦の戦(1185年)に敗れて平家は滅亡しましたが、その際に生け捕りにされた平家の武将や一門の者たちが京に護送され、都大路を渡され(見せしめの為に引き回され)た後に、鴨川の六条河原で首を斬られました。

副将

その中には前の内大臣で平家の総大将でした平宗盛(1147〜1185年)の息子で、僅か八才の愛称を副将(ふくしゃ)と呼ばれた義宗もいましたが、やはり六条河原に引き出されて斬られました。付き添っていた二人の女房(女官)は泣く泣く彼の首と遺体を引き取って帰りましたが、数日後に二人は首と遺体を抱いて桂川に身を投げました。絵の中で赤印の子供が副将(ふくしゃ)で、二人の女性は女房(女官)です。

1180年に源頼朝の軍勢と富士川で対陣し、水鳥の羽音に驚いて敗走した小松三位(み)中将と呼ばれた平惟盛(たいらのこれもり、1158〜1184年?)には、長男で十二才の六代(ろくだい)がいましたが、平家滅亡後に母親と一緒に京に潜んでいたところを、ある女房(女官)の密告によって居所が突き止められて逮捕されました。

母親に嘆願された高僧、文覚(もんがく)聖人(しょうにん)の助命活動により、六代は鎌倉の頼朝に助命されましたが、出家して「三位(み)の禅師」と呼ばれ京都高雄(たかお)の寺で無事に暮らしていました。

六代

六代の墓

しかし1199年に頼朝が死ぬと鎌倉幕府の命により捕らえられて鎌倉に護送される途中、相模国(神奈川県、)の田越川(たごえがわ、逗子市)の辺りで、やはり斬られて三十才の生涯を閉じました。左の絵は鎌倉に護送される時の姿を描いたもので、右の写真は江戸時代に、田越川の近くに建てられた彼の墓所です。

[ 3:戦争にはルールが必要]

長い間、捕虜の取扱いを含む戦争に関する成文化された法規など、世界に存在しませんでした。それを初めて作ったのは、プロイセン(ドイツ)から米国に移民した フランシス・リーバー(Francis Lieber 、1800〜1872年)でした。彼が起草した「リーバー・コード(規則)、Lieber Code」の正式名称は「陸戦の法規・慣例に基づく軍隊の守るべき規則」でしたが、1863年に米国陸軍省によって「陸軍一般命令第100号」として公布されました。

アンダーソン捕虜収容所

ところがアメリカの南北戦争(1861〜1865年)の際には、ジョージア州の 悪名高い アンダーソンビル収容所には 四万二千人の南軍捕虜が収容されましたが、十四ヶ月間に三十パーセントに当たる一万三千人が、病気(伝染病)、栄養不良、屋根が無い劣悪な居住環境、などで死亡しました。南軍対北軍という同じアメリカ人同士の戦争においてもこの状態でしたから、その後の戦争における外国人捕虜に対する、処遇のルール作りの必要性が生じたのは当然のことでした。写真は過密状態の南軍の捕虜たち。

「リーバー・コードは、その後の「ハーグの陸戦法規」(1899年)、そして第二次大戦後の「ジュネーブ条約」(1949年)、さらに「同議定書」(1977年)に至る、その後の百年あまりの戦時国際法・国際人道法の発展の基礎となりました。

[ 4:ハーグ陸戦条約と、軍隊手帳]

明治32年(1899年)に帝政ロシアの呼びかけにより、二十六ヶ国の代表がオランダのハーグに集まり万国平和会議が開催されましたが、そこで「陸戦の法規、慣習に関する条約( Convention respecting the Laws and Customs of War on Land )」並びに同附属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」が制定されました。日本もこれに参加して明治44年(1911年)に条約を批准し、明治45年(1912年)に「陸戰ノ法規慣例ニ關スル条約」として国内に公布しました。この条約はその後、明治40年(1907年)に改定されて今日に至っています。

陸戦条約を簡単に言えば「戦争に際して各国が守るべき基本ルール」であり、そこには交戦者の定義、宣戦布告、戦闘員・非戦闘員の定義、捕虜・傷病者の扱い、使用してはならない戦術、降服・休戦などが規定されています。明治政府が初めて外国と戦った戦争は、明治27年〜28年(1894年〜95年)に、朝鮮半島をめぐる清国との主権争いある日清戦争でしたが、その当時はハーグの陸戦条約は未だ存在しませんでした。明治37年〜38年(1904年〜05年)に起きた日露戦争 では、双方にとって成立したばかりのハーグ陸戦条約に準拠しておこなった初めての戦争となりました

日本も帝政 ロシアもこの ルールに沿って互いに正々堂々と戦いましたが、当時の日本の軍隊では捕虜に対する取り扱いを含む、戦時国際法の要点を記した軍隊手帳(下士官兵に与えてその身分証明書代わりにしたもの)を、将兵全員に携行させてその周知徹底を図りました。

その後の第一次大戦、日中戦争、太平洋戦争などでは、国民や兵士に対する戦意高揚の為に人種的偏見、蔑視を助長した教育、宣伝をした結果、ハーグ陸戦条約の条項について守られる機会が少なくなりました。

[ 5:陸戦条約上の、捕虜に対する取り扱い]

第二章 捕虜

  • 第四条:捕虜は敵対する政府の管理下に属し、これを捕らえた個人、部隊に属するものではない。捕虜は人道的に取り扱うべし。兵器、馬匹、軍用書類を除き捕虜の所有する物を没収してはならない。

    この意味は、たとえば日本軍が捕らえた敵の捕虜は日本政府の管理下に置くのであって、つかまえた兵士個人やその部隊が自由に管理権を持つのではないということです。

  • 第五条:捕虜は都市、城塞、陣営その他の場所に留置され、一定の地域外に出ざる義務を負う。しかし、やむを得ない保安手段としてその幽閉する事が許される。

  • 第六条:国家は将校を除く捕虜を階級、技能に応じ労務者として使役することができる。その労務は過度でなく、一切の作戦行動に関係しないものでなければならない。(詳細略)

  • 第七条:政府はその管理下にある捕虜を給養(食料、寝具の支給)すべき義務を要する。

  • 第九条:捕虜はその氏名および階級について訊問を受けたときは、事実をもって答えるべきものとする。もしこの規定に背いたときは、階級に応じた捕虜待遇を減殺されることがある。

  • 第十四条:交戦国は捕虜情報局を設置して捕虜の情報を提供、保存する。

  • 第二十条:平和回復の後は、なるべく早く捕虜を返還する

[ 6:日本兵捕虜の内訳]

日露戦争で捕虜になった日本人は合計2、088名に達しましたが、これには開戦直後に捕らわれて釈放された衛生部員、船員、商人など民間人(非戦闘員)や、捕虜収容所や満州で亡くなった日本人まで含んでいます。明治38年(1905年)9月5日、米国のポーツマスで日露講和条約が調印されましたが、それによりロシア側から日本が受け取った捕虜は、陸海軍の軍人、軍属、野戦鉄道員、船員、その他を含め下表のごとく、2,000名でした。

所属、階級別日本人捕虜数
区分身分人数小計
陸軍将校331,574
下士官兵1,541
海軍将校21
下士官兵17
陸軍軍属鉄道隊など9595
海軍軍属郵便船など142142
商船員秋浦丸など11隻159159
その他写真班員など
合計−−−−−−2,000



捕虜収容所位置

日露戦争当時の日本人捕虜はシベリア大陸の東端から移動させられ、全てヨーロッパにある当時の帝政 ロシアの首都、サンクト・ペテルブルク( Sankt Peterburg、スターリン時代の名は レニングラード )近くにあるメドヴェージ村の収容所に収容されました。なぜ日本から遠く西へ五千キロも離れたいわば文明の地に、日本人捕虜を収容したのでしょうか?。

日露戦争当時の日本人捕虜について詳しいロシアの女性ジャーナリストによれば、

  1. ロシアが広大な領土を持つ大国であることを、日本人捕虜達に見せつけるため。

    ペテルブルク

  2. 日本人が流刑地のシベリアや未開の地だけを見て、ロシアを文化的に遅れた国と侮ることがないように、文明の地である首都から、直線距離で180キロの近くにある場所を選んだこと。写真はサンクト・ペテルブルクにある、エカテリーナ宮殿。

  3. 中央政府から遠隔地にある シベリアは物資が乏しく、ハーグ国際条約に基づき日本人捕虜の処遇が適正におこなわれないおそれがあった為。

  4. 共産主義革命の気運が高まり政情不安から、首都サンクト・ペテルブルグの軍事防衛と治安維持のため、必要な場合には捕虜収容所の警備部隊を転用可能な状態にしておくため。

[ 7:捕虜収容所の生活]

<給養>
兵舎内部

収容所においては、将校の捕虜には各人にワラ布団、毛布が与えられ、食事は朝は黒パン(後に白パン)、茶、昼はパン、スープもしくは肉類、夜はパンと粟(アワ)飯、麺類と角砂糖十個でした。捕虜の記録によれば、

「下士官兵ニハ別ニ被服ノ貸与ハナク、各人ニ黒パン二斤、牛肉約二十匁(75グラム)、肉汁一回ニツキ約二椀、角砂糖一〜二個デアリ、食事ハ「日本人ノ口ニ適セザル洋食ナレ共、不足ナク給サレ、生存上ニ於イテハ聊(いささ)カモ顧慮スル事ナシ」

「野菜ノ多量ニ慣レタル日本人ハ、不幸ニモ其ノ分量ノ極メテ少ナキガ為ニ、収容久シキ者ノ中ニハ、壊血病ヲ発シタル者サヘ若干アリシトイウ」

このため一人の海軍将校がロシア側と交渉した結果、給与のパン三斤中、半斤分を代金 1.5 コペイカ ( 1ルーブル=100 コペイカ )の現金で受け取り、それで野菜を適宜購入し食べることができるようになりました。

<酒類>
酒類は一般に禁じられていましたが、十月上旬のロシアの大祭日に、十人に一本の割合いでウオッカが出されました。その後はこの禁制が緩んで、ロシア兵に金を渡せば密かに酒類を買ってきてくれるようようになり、十一月三日の天長節(明治節、天皇誕生日)には、公式に二人につきビール一本が許されました。将校クラスの捕虜生活はこれとは全く別で、月給十五 ルーブルで ロシア人を雇い、食料品を購入し調理させていました。ビールについては殆ど自由に飲めました。

<衣類、日用品>
通訳の韓国人を介して要望したところ、ロシア赤十字社より巻タバコ約七百本、葉巻タバコ約三十本、夏用の「じゅばん」と袴下(はかました)各二、手拭い二本、石けん二個、手帳、歯磨き粉、ようじ各一、戦時用露日会話書、簡単なロシア捕虜取扱規則書が送られました。

<散歩>
散歩の自由は極めて制限されていて、市中へ買い物に出るのは僅か一時間で五人限り、練兵場の散歩も二時から四時までだったと嘆く捕虜もいましたが、時間と場所の制限はあったものの、捕虜が市中に買い物に出ることも可能でした

[ 8:陸戦条約に基づく捕虜の正当な権利、処遇要求]

明治37年(1904年)九月十七日付で在日フランス公使から、「露国政府ハ同国収容ノ捕虜ニ宛テタル信書ノ検閲ヲ容易ニシ、且ツ其ノ交付ノ遅延ヲ避ケン為、日本文ノ信書ハ片仮名ヲ以テ認メ−−−」、つまりカタカナ書きの手紙ならば出してもよいことにしたとの通知を受けました。これに基づき捕虜は日本に郵便物を出すこともできましたし、日本からの手紙や小包は約三ヶ月かかって各捕虜の手元に届きました。

日本人捕虜の将校たちはハーグ陸戦条約に規定する捕虜の処遇について熟知していて、ロシア側の処遇に不満を抱き、ハーグの陸戦条約で認められた捕虜としての正当な権利や処遇を獲得するため、日本の軍部やロシア側に直接文書で直訴し抗議しました。二人の少佐が東京の陸軍大臣宛に捕虜収容所の待遇改善を外交交渉により求める直訴をしましたが、その内容とは

  1. 佐官である捕虜は1904年11月まではロシアの佐官級に相当する生活費が支給されていたが、理由もなく尉官級に減額されたこと。

  2. 下士官兵捕虜は一日につき14 コペイカの食料を受け取るだけで、消耗品購入費が全く支給されていないこと。

  3. このため、将校の捕虜達が毎月2〜2.5 ルーブルを拠金して、下士官兵に「小遣い」を与えていること。

    このような処遇は国際条約違反であるので、改善されるべきであるというものでした。

集合写真

これを受けた寺内陸軍大臣は、日本にいるロシア側の捕虜に対して十分な給養を与え消耗品購入費も、下士官には月額一円、兵士には50銭支給していることを挙げ、ハーグ陸戦法規付属規約第七条に基づく自国の軍人と同程度の待遇に改善するよう、外務大臣を通じて日本の利益代表国であるアメリカ、ロシアの利益代表国のフランス経由でロシア政府に要請しました。

その結果ロシアの陸軍大臣が捕虜の待遇改善に関する訓令を発し、問題が解決されました。上の写真はロシア軍将校も加わった日本の将校クラスのものですが、黄色印は捕虜の最先任者村上大佐、青印は次項に述べるアメリカのスミス副領事。

  <米国大使館へ調査要請>
日本人捕虜の将校全員を含む六十五名の連署で日本の利益代表国であった、ロシア駐在米国大使館へ代表者を捕虜収容所へ調査の為派遣するように要請しました。その結果スミス副領事が収容所を二度に亘り訪れて調査し、捕虜達の要望をロシア当局に伝えるなどしていました。

[ 9:捕虜は不名誉ではなかった]

日露戦争当時、日本政府は捕虜となった将兵、軍属については名前を逐次公表していましたが、これが新聞に発表されたり、市町村を通じて家族に通報されていました。 前述の如く抑留された日本人捕虜が条約上の捕虜の権利を主張し、待遇改善を求めて日本の陸軍大臣に要望書を提出したり、米国大使館経由でソ連軍当局に収容所の待遇に不満を訴えるなどして、次々に待遇が改善されて行く過程を見ますと、捕虜自身は勿論のこと日本政府、関係諸国のいずれもが、捕虜を軍人として失格者や不名誉な者とすることなく、ハーグの陸戦条約に沿って正しく取り扱われていたことが分かりました。

政府の取り扱いだけでなく日本国内の学生や主婦など一般人が、武運つたなく異国で捕虜になった身の上に同情を寄せ、励まし、金品を送りましたが、その額は日露戦役統計によれば寄付金が 26,365,860円にも及び、慰問袋は 17,962個が託送または寄贈されました。ちなみに日露戦役の戦費は二十億円でしたので、その約1.3パーセントにも相当しました。

[ 10:捕虜に対する態度の変化]

日露戦争における日本軍の人的損害は戦死、戦病死 55,655人、戦傷 144,352人でしたが、帰国した日本人捕虜たちを待ち受けていたのは、前述の同情や励ましではなく、郷里の人達による冷たい態度でした。その理由は我が子や親類縁者をこの戦争で失い、あるいは身内に戦傷による障害者を持つ人々が、無事に生きて帰った人に対して「 鬱憤( うっぷん )ばらしや、不満のはけ口 」の攻撃目標 として、あるいは「 ヒガミ 」を抱いたからでした

「 あいつは敵の飯を食って、おめおめと帰ってきたくせに」、「 卑怯者のあいつが降参したから、息子が戦死したのだ 」

その後昭和の時代になると捕虜に対する考え方が大きく変わり、「 捕虜になることは恥辱である 」という考えが広められました。日露戦争から三十六年後の 昭和16年(1941年 ) の一月には有名な 戦陣訓(次項の注参照) が公布されました。

真珠湾攻撃

真珠湾攻撃

前述した昭和16年(1941年)12月8日の太平洋戦争開戦当時、私は小学校二年生でしたが、海から五隻の特殊潜航艇が攻撃したのに、戦死して二階級特進し軍神として祀られた人が、 九人では数がおかしいと仲間同士で話題になりました。結局その内の一隻は多分一人乗りだろうということになりましたが、開戦当日に捕虜第一号となった特殊潜航艇の艇長、酒巻和男少尉の存在を国民が知らされたのは、敗戦後のことでした。

当時歌った「 大東亜戦争海軍の歌 」の二番の歌詞によれば

九軍神

あの日旅順の閉塞(へいそく)に命捧げた父祖(ふそ)の血を/継いで潜(くぐ)った真珠湾/ああ一億は皆泣けり/帰らぬ 五隻 九柱(くはしら)の/玉と砕けし軍神(いくさがみ)

集合写真の中央にあるのは真珠湾がある、ハワイのオアフ島の模型らしきものです。

注:)戦陣訓
太平洋戦争開戦の年(昭和16年、1941年)一月に陸軍大臣東条英機の名で出された将兵のための「道徳書」である戦陣訓が全軍に示されましたが、本訓その2の、第8 [ 名を惜しむ ] によれば
恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々(いよいよ)奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。とありましたが、全将兵に死を強制する役割を果した。つまり、戦死者は英雄だが、捕虜になることは最大の屈辱という価値観の形成でした。

[ 11:火葬式]

ポーツマス講和会議

明治38年(1905年)9月にアメリカのポーツマスにおいて日露戦争の講和条約が調印され、戦争が終わりました。メドヴェージ村の捕虜収容所で既に死亡した十九名の日本人捕虜は、同地において丁重に葬られていましたが、明治41年(1908年)に同地で火葬式を行い、彼らの遺骸を荼毘に付して遺骨を日本に送ることとなりました。写真はアメリカのポーツマスで開催された日露講和会議のものですが、赤印は日本政府代表の外務大臣小村寿太郎(1855〜1911年)、黄色印はロシア代表のウイッテです。

火葬式

火葬式にあたっては、ロシア側は儀仗兵一大隊を派遣し、さらには防備第50旅団から花環を贈ったとの報告がありました。在ロシア大使館付陸軍武官・萩野末吉大佐より、ロシア側の好意的対応に関する報告を受けた寺内陸相は、直ちに小村外相にロシア側への謝意伝達を依頼し、これを受けて小村外相は、同年10月10日付、駐日ロシア大使に対して日本側の感謝の気持ちを本国政府へ伝えることを依頼しました。

[ 12:日本におけるロシア人捕虜]

日露戦争においては77,120人という大量のロシア人が捕虜になりましたが、これは日本人捕虜の三十八倍の数でした。日本は松山を初め北海道を除く全国二十九箇所に捕虜収容所を設けて収容しましたが、寺内陸軍大臣は日露戦争開戦直後に、三十四条から成る陸軍俘虜(捕虜のこと)取扱規則を定めました。その第一条には「俘虜(捕虜)ハ博愛ノ心ヲ以テ之ヲ取扱ヒ、決シテ侮辱、虐待ヲ加エルベカラズ」とあり、それまでの俘虜(捕虜)取扱に関する成文、不文の国際法を最大限に尊重した内容でした。

これは日露戦争における捕虜だけでなく、第一次世界大戦で青島(チンタオ)で捕虜になったドイツ人捕虜に対する処遇も同様に国際法に則して極めて立派であり、国際的にも高い評価を得ました。

[ 13:捕虜は文化の伝播者]

751年の7月から8月にかけて中央アジアのタラス地方(現在のカザフスタン)で、唐とアッバース朝(イスラム帝国)の間で中央アジアの覇権を巡る天下分け目の戦いがおこなわれましたが、その際にサラセン軍の捕虜になった者の中に唐の紙漉(す)き職人がいました。彼が製紙技術を初めてイスラム世界に伝えましたが、後にそれがヨーロッパに伝えられました。

第九指揮者

ところで日本ではベートーベン交響曲の第九番を最初に演奏したのは、第一次大戦で捕虜になったドイツ人の捕虜たちでしたが、記録によれば大正七年(1918年)6月1日に、徳島県鳴門市大麻町板東にあったドイツ人捕虜収容所において演奏されました。現在そこには指揮をする者の像が、記念に建てられています。

車のタイヤについても日本足袋(たび)製造会社がドイツ人将校のパウル・ヒルシュベルゲンから製造技術を学び、日本足袋製造タイヤ部となり、現在の ブリジストン・タイヤ(株)に至りました。また捕虜の中の菓子職人の カール・ユーハイムが、バームクーヘン の作り方を日本人に教えたことから、洋菓子の製造技術が日本にもたらされました。しかしロシア人捕虜に関しては、彼等から何か技術を教わったという記録がありませんが、これはロシアが広大な国土を持つ大国ではあったものの、文化的、技術的に当時の先進国ではなく、ヨーロッパにおける後進国だったからでした。

[ 14:四十年後に実った親切]

ところで太平洋戦争終了後にシベリアに抑留されていた元大学教授の土肥忠男氏によれば、日本人捕虜を乗せた列車がシベリア鉄道で移動中にバイカル湖を越えたある駅で停車しましたが、一人の年老いたロシア人が姿を現し、

「私は日露戦争の際に捕虜の身となり、九州とか四国に収容されていたが、(日本人から)心温まる厚遇を受けました。」

と具体的にいろいろと語り、タバコの入った大きな袋を差し出し、去り行く我々に手を振っていました。彼にとっては四十年前に日本の捕虜収容所で受けた厚遇が、いつまでも忘れることなく記憶に残っていたのでした。

[ 15:シベリア抑留]

冒頭で少し述べた太平洋戦争終了後のソ連(当時)による、日本人捕虜のシベリア抑留は許し難いものでした。日本は連合国が示したポツダム宣言を受諾して降伏したからには、敗者だけでなく勝者もポツダム宣言に拘束されることは疑問の余地がありません。ポツダム宣言の第九項によれば、

日本國軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復歸シ、平和的且生産的ノ生活ヲ營ムノ機會ヲ得シメラルベシ

ハーグ陸戦条約第二十条:平和回復の後は、なるべく早く捕虜を返還する。

ソ連はポツダム宣言やハーグの戦時国際法を踏みにじり、満州(中国東北部)や北朝鮮にいた六十万人の日本兵の武装を解除後にシベリアに輸送し、森林伐採などの強制労働をさせた結果、六万人の死者が戦争終了後に生じ、シベリアに骨を埋める結果となりました。この事実を我々は忘れてはなりません。

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