修行について

辺地(へち)修行

1:四国の旅

四国遍路についての昔の資料から、つぎの詞(ことば)を目にすることがあります。
われらが修行せし様は、忍辱(にんにく)袈裟(けさ)をば肩に掛け、また笈(おい)を負ひ、衣はいつとなくしほ(潮)たれ(垂)て、四国の辺地(へち)をぞ常に踏む。

これは梁塵秘抄(りょうじんひしょう)という今様(いまよう)の歌謡集の中にある詞ですが、この歌謡集には五百六十六首が収められていて、「梁塵秘抄口伝集」と共に後白河法皇(1127〜1192)が、十二世紀後半に編集させたものです。

今様とは当時流行した新しい歌謡であり、七、五の十二音の四句からなる歌詞に曲を付けて白拍子(しらびょうし=歌い舞うのを職業とする女性)などが歌い、世間で流行したものです。

梁塵(りょうじん)とは家の天井の梁(はり)の上に積もった塵(ちり)のことですが、すばらしい歌や音楽がその梁塵を動かすという中国の故事(注参照)から、優れた歌や音楽のことをいいます。この詞はその歌謡集の三百一番目にあるもので、俗界を離れ聖(ひじり)といわれた人が、四国での辺地修行を回顧して詠んだ歌です。

私が修行した当時の有様は、忍辱の袈裟を肩に掛け、更に笈の箱を背負い、衣はいつしか潮風や波しぶきで濡れたようになり、四国の海辺の道を常に巡り歩くというものでしたよ。

注:)梁塵秘抄の名前の由来
梁塵秘抄と名づくる事、虞公、韓娥(歌の上手な二人)と言ひけり、声よく妙(たえ)にして他人の声及ばざりけり。聴く者賞(め)で感じて涙おさへぬばかり也。謡(うた)ひける声の響きに梁(うつばり)の塵(ちり)起ちて三日居(い)ざりければ、梁(うつばり)の塵の秘抄とは言ふなるべし。

三人連れ遍路 笈(おい)、右の写真は修行僧の遍路中の姿ですが、背中に背負った物が「笈」と呼ばれる仏具、経本、衣類などの入れ物の木箱(竹製もあり)です。昔の修験者、行脚僧などが使用したものは、脚や開き戸がついた仏壇状の縦長のものでしたが、後年になって持ち運びし易い「つづら」形の物が使われるようになりました。

笈摺り、袖無しの白衣などの「ちゃんちゃんこ」状の衣装のことを「おいずり」または「笈摺る」といいますが、笈摺の名前の由来について「板東観音霊場記」によると、

「笈摺の名義に就いて、上古(じょうこ、遠い昔)の事を考ふるに求道(ぐどう)の知識、行脚(あんぎゃ)の浄侶(じょうりょ=僧侶)すべて負笈(ふきゅう)の沙門(しゃもん)と言ふ。笈の中へ仏像経巻を入れ背負ひて修行し巡れり。

この故に法衣の背を破る、法衣の破るるを恐れて肩衣やう(様)の物を着せり。これを荷笈摺においずりと言へり。これこの笈摺の元(もと)となりぬ。後に在家の巡礼の道者(どうじゃ)、知識行脚の流れを汲みて、荷を略して笈摺(おいずり)ばかりを用ゆ。」(以下省略)

遍路の際に白衣や笈摺りを身につけることは、おのずから心身ともに清浄にして無垢な状態に入ること、換言すれば「俗なる世界」から「聖なる世界」への転入を意味します。それゆえ身分制度の厳しかった封建社会においても、ひとたび白衣、笈摺を着れば俗世間における身分の上下、貧富の差などは一切関係のない一介の遍路として、誰もが世間からも仲間からも平等に扱われたのでした。

忍辱(にんにく)とは、菩薩が涅槃(ねはん)の世界に入るためにする六つの修行である六波羅蜜(ろくはらみつ)、即ち布施、持戒、忍辱、精進、禅定(ぜんじょう)、知慧、のうちの第三番目の修行のことです。

それは種々の侮辱や苦しみを耐え忍び、心を平静に保つ修行のことで、忍辱袈裟とはどんな苦しみにも耐え忍ぶと誓って袈裟を身に付けることが、更に耐え忍ぶ働きを持つことを強調していう言葉です。

今昔物語

四国での辺地(へち)修行は早くから行われていたらしく、今昔物語の巻三十一に、「四国の辺地を通りし僧、知らぬ所に行きて馬に打ちなされたること(妖怪によって馬の姿に変えられたこと)」という題の物語があります。

その書き出しには

今は昔、仏の道を行ひける僧三人ともなひて、四国の辺地というは、伊予、讃岐、阿波、土佐の海の辺りの廻りなり、その僧どもそこを廻りけるに。
の記述があります。

同じく巻十一には後述の空海について、弘法大師渡唐伝真言教帰来語(とうにわたり、しんごんのおしえをつたえて、かえりきたれること)が述べられています。その中では一人の児(ちご)が年十八才にして学問に目覚め修行に励み、極限の修行である虚空蔵求聞持法をおこなうなかで、阿波国(徳島県)の大龍ヶ嶽では大きな剣が空から飛んで来た、あるいは室戸岬では明星が口に入る奇跡が起こったという話があります。

注:)
今昔物語とは「今は昔」という書き出しで始まる説話集のことで、日本のことだけでなく、天竺(インド)、震旦(中国)の仏教的、教訓的な千五十九の説話を採録したものです。1120年以後の成立ですが、作者は不明です。

2:越路(こしじ)の旅

またその当時、辺地(へち)修行は四国だけに限るものではありませんでした。前述の梁塵秘抄の三百番目の歌詞にも、

われらが修行に出(い)でし時、珠洲(すず)の岬をかい触(さわ)り、うち廻り振り捨てて、一人越路(こしじ)の旅に出(い)でて、足打ちせしこそあわれなりしか

があります。歌の意味は、
私が修行に赴いた時のこと、能登半島の珠洲の岬を難儀して廻ってやっと岬を過ぎ去って、一人で越路への旅に出たものの、足を痛めてつらかった、
ということです。岬には後になって、須々神社が祀られました。

   越路(こしじ)とは越の国と呼ばれた越前、越中、越後に通じる道(今の北陸道)のことです。越路に行く(現代ふうに言えば福井、富山、新潟方面に行く)のが旅の目的であれば、能登半島の最北端にある珠洲岬(すずみさき)に行く必要は無かったはずです。

しかし地の果てである室戸岬を訪れて修行した者がいたのと同様に、辺地修行者にとっては、やはり辺地(へち)を訪れることに意義があったので、大きく廻り道をしてわざわざ珠洲岬まで行ったのだと思います。

なお歌を詠んだ備中の僧、阿清については前述の今昔物語にも修験の霊場である白山、立山をはじめとする多くの山を巡り、海を渡る難行苦行をした際の話しが書かれていますが、この歌はその時の辺地修行から帰ってから詠んだものです。

弘法大師空海の修行は単独行か?

四国遍路の生みの親ともいわれる弘法大師空海は、かつて四国の山中や、海辺などの辺地(へち)で修行をしましたが、人跡未踏の地域に踏み込んで行場を選定し、修行したのではありません。

七世紀に現れた修験道の開祖、役の小角(えんのおずの、又はえんのおず、一般には役(えん)の行者と呼ばれる、634年?〜701年?頃の人)によって開かれた山岳宗教を信奉する修験者や、仏教の辺地修行僧などが、修行のために既に歩いていた四国の山中や海辺の道を、辿ったものと思われます。

室戸岬 室戸岬の先端にある御蔵洞(みくらどう)という洞窟は、空海が修行の際に長期間籠もった所ですが、空海の名前の由来は洞窟内での修行中にしか見えなかったことから、それにちなんで自分で名付けたと言われています。

現在は洞窟の前が埋め立てられていて国道55号線が通っていますが、その当時はすぐ前までが、波の打ち寄せる磯であったに違いありません。

ところで役の行者(えんのぎょうじゃ)には前鬼(ぜんき)、後鬼(ごき)の二人の従者がいましたが、空海も修行の際には、記録に残ってはいませんが、多分従者がいたのではないかと推測します。

その根拠は、以下に述べる前鬼での事例にあります。

1:前鬼について

修験道では和歌山県の本宮町にある、熊野本宮証誠殿から奈良県吉野町にある柳の宿(しゅく)に至る百八十キロの距離を、大峰山系の尾根伝いに七十以上もの峰を登り降りして、毎日十時間以上歩き、七泊八日かけて山岳縦走する大峰山奥駈(おくがけ)け修行が、平安の昔から修験者達によって行われてきました。

和歌山県本宮町から北上して吉野町に至る本来のコースをたどるのを順峰(じゅんぶ)と言い、逆コースを逆峰(きぎゃくぶ)と言います。ルートの南半分は修験者を除き、一般登山者にとっては魅力に欠ける山容で、しかも初夏から秋まで「山ヒル」が多く生息するので、登山者が歩くのは北半分のルートがほとんどです。

そのルートの中間点に当たる釈迦ヶ岳(1800メートル)の山麓には、前鬼(ぜんき)という所(奈良県吉野郡下北山村前鬼)があります。

私も大峰山系登山のためにそこを訪れたことがありますが、最寄りの J R の駅からバスで二時間半、山の中に入った前鬼口バス停から、更に山道を三時間歩き、途中で釣り橋を渡るなどして、人里から隔絶した山中にありました。前鬼の行場は山小屋から更に一時間半かかる所です。

大峰山南奥駈け道の看板 大峰山奥駈けの北半分のルート(逆峰)を三泊四日かけて修行した者が、四国遍路でいうところの区切り打ちを終えて前鬼に下山したり、あるいはそこから四泊五日かかる南側の奥駈け道での修行をするために修験者が登山をするなど、山岳修験者の補給や宿泊、行場としても重要な場所でもありました。

江戸時代に日向の国(宮崎県)の山伏で大先達の位を持つ泉光院という人がいましたが、彼は南は鹿児島から北は秋田に至るまで日本国中の旅をして「泉光院江戸旅日記」、「日本九峰修行日記」、「泉光院山伏旅日記」を書きました。

そによると、彼は大峰山の奥駈け修行をした際に前鬼にも宿泊しましたが、行場への案内は勿論のこと、行場における七日間の修行の際の食事の世話などは、すべて世話人を雇ってしてもらいました。

それまでの六年間の回国修行(諸国を回り修行すること)の間、殆ど托鉢により生活をしてきましたが、前鬼では托鉢をしたくても辺地のため、五軒の宿坊以外に人家が無く、食糧を得る方法が無かったために、それまでに蓄えた金銭で食事の世話をする者を雇うのを条件に、食糧の購入をして修行しました。

修験道については明治五年(1873年)の修験道廃止令にり禁止された結果、衰退の一途をたどると共に前鬼もさびれて行きました。今では役の行者の従者を務めた前鬼(ぜんき)の末裔である、五鬼助(ごきじょ)という姓の人が営む小仲坊という宿坊が一軒だけ残り、初夏から秋まで山小屋を開いています。

山小屋の標識 昭和五十九年(1984年)五月十五日付の奈良新聞は以下のように報じました。

五鬼助義价(小仲坊経営者)死去、五十六才。小仲坊は大峰山系釈ヶ迦岳のふもとにある宿坊で、奥駈け修行の山伏はここに泊まって修行をするが、「前鬼のゴローさん」の愛称で修験道関係者はもとより山岳愛好者にも親しまれた。生涯独身を通し、秘境前鬼地区のただ一人の住民でもあった。

「前鬼という場所は行場を守れ、という役行者の命により従者の一族が平安時代から代々住み続けてきた所ですが、千三百年間、役行者との約束を果たして来た人達は立派でした。」

大峰山護持院の巽(たつみ)良乗師のコメント。

2:修行の必須条件(食糧確保)、支援者(従者)の存在

前鬼の事例をながながと引用したのは、人里離れた行場に一定期間居住して修行に専念するためには、衣食住のうちの食の問題、が最重要課題であり、この解決なくしては修行どころか生存そのものが不可能だからです。

その解決方法とは、修行の間に消費する食糧の確保、食事の支度を含めて、修行者の介助に当たる支援者(従者)の存在であり、前鬼の例では、そのための労働力の雇用でした。この例から逆に言えば、

従者がいたからこそ空海は阿波の太竜寺の裏山にある南舎心ヶ嶽で、百日間もの修行に専念することができ、また前述の御蔵洞(みくらどう)に百日間籠もり、真言を百万遍唱えるという虚空蔵求聞持法(こくぞうぐもんじのほう)を成就することができたのだと思います。

3:支援者不在が及ぼす、修行への障碍

もし修行の際に生活支援者が存在しなかったならば、人口の希薄な食糧の乏しい/あるいは食糧となるべき物がもともと無い、辺地(へち)の海辺の行場や、山間僻地の行場での数ヶ月にわたる修行では、修行者自身による食糧調達という非常に困難な、更に言えば不可能に近い仕事が必要でした。

地形を見れば明らかなように、四国山脈の支脈が室戸岬となって海に落ち込む四国南東部では山が海岸まで迫り耕地に乏しく、承応二年(1653年)に高野聖(ひじり)の澄禅(ちょうぜん)が、

音に聞く土州(土佐国)飛び石、跳ね石(淀ヶ磯四里の難所)から南へ室戸岬にかけて、この先七里先まで米が一粒もない、という食糧の乏しい村々を通った。
と「四国遍路日記」に書いています。

そのような食糧の乏しい地域で、しかも澄禅より八百年も前に、空海が単独で食糧調達、薪拾い、炊事という生存のための雑用をしながら、そのうえで毎日一万遍の真言を唱え、

土佐国の室戸崎(岬)に勤念(ごんねん)す。幽谷、声に応じ、明星来影(らいえい)す
と貞観十一年(869年)に完成した勅撰の史書である、続日本後記(しょくにほんこうき)の承和二年(835年)三月二十五日の条、空海伝にある如く、虚空蔵菩薩の化身といわれる明星が、口に飛び込む神秘体験をする程の集中力での修行が可能であったとは、私には到底考えられないことです。

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