情けは人のためならず

「 情けは人のためならず 」 という格言をご存じだと思いますが、近頃の若い人の中には、文言そのままに解釈して、 人に情けをかけることは、( 甘やかすことになるので )、その人の為にならない 、と意味を誤解している人が多いのだそうです。今回は格言の 「 正しい意味 」 をお知らせします。


[ 1 : オスマン帝国 ]

昔 高校時代に世界史の授業で習った オスマン帝国という名前を覚えていますか?。その住民である トルコ族の先祖は広大な ユーラシア大陸の東の草原に生まれた モンゴロイド ( Mongoloid 、蒙古系人種 ) であり、一説によれば バイカル湖の南から アルタイ山脈北麓に住んでいた遊牧民に、起源をたどることができるのだそうです。

その遊牧民が西方へ移動するにつれて、コーカソイド ( Cauca-soid 、白人系人種 ) の住民との間で混血が進み、次第に トルコ族を形成するようになったともいわれています。

13 世紀に トルコ系 遊牧民の族長でした オスマン ( Osman 、1258〜1326 年 ) が、次第に勢力を増やして東 ローマ帝国の領土を攻略し、 1299 年に トルコ系 イスラム国家 を建国しましたが、後に オスマン帝国と呼ばれるほど強大な国になりました。

オスマン帝国版図

1453 年に メフスト 1 世が コンスタンチノープル ( 現、イスタンブール ) に遷都し、 1550 年には オスマン帝国は全盛期に達して、 中東 ( バビロン、バグダード、メソポタミア地方 )、 地中海沿岸、アフリカ ( アテネ、エルサレム、アレキサンドリア 、 カルタゴ、カイロ、メッカ、メジナ )、 バルカン半島 ( セルビアの首都 ベオグラード、ハンガリーの首都 ブダペスト ) の諸都市にまで領土を拡大しました。

上図の黄色で塗られた部分は スレイマン 1 世 ( Suleiman the First ) 統治下( 1580 年当時 ) の オスマン帝国の支配地域ですが、トルコと書いてある辺りが、アナトリアにある現在の トルコの領土です。

[ 2 : トルコの軍楽隊 ]

この国の歴史書によれば、トルコの軍楽隊は近代 ヨーロッパにおける軍楽隊の指導的存在でした。

トルコ軍楽隊

1720 年代のはじめに、スルタン ( イスラム教国の支配者 ) の アフメット 3 世から、 ポーランド王 アウグスト 2 世に軍楽隊が贈られましたが、さらに 1725 年に ロシアの使節が イスタンブールを訪れた際には、ポーランドへ贈られたのと同様の軍楽隊を伴って ロシアに帰国しました。

かつての オスマン帝国繁栄の時代をしのばせ、先祖の勇猛さを称えた軍楽曲 「 先祖も祖父も 」 、および行進する軍楽隊員たちが 体を左右の観客に向ける 、独特な歩き方の映像を You Tube でご覧下さい。

Ceddin Deden ( ジェッディン ・ デデン )、先祖も祖父も 


前述の如く オスマン帝国 ( トルコ族 ) が各地の戦闘で勝利し、帝国の領土を急速に拡大していったったので、 ヨーロッパ諸国では 「 トルコ ( による侵略 ) の脅威 」 が人々の間で語られるようになりました。

18 世紀の有名な音楽家の モーツアルト ( 1756〜1791 年 ) 、 ハイドン ( 1732〜1809 年 ) 、ベートーベン ( 1770〜1827 年 ) がそろって トルコ行進曲 を作曲しましたが 、その当時の人々の間にあった オスマン帝国や、トルコ人に対する恐怖、異国情緒、トルコ音楽 が持つ ビート ( Beat、強い リズム ) に影響を受けたからでした。 You Tube の映像と音楽をどうぞ。

モーツアルト作曲、トルコ行進曲

ベートーベン作曲、トルコ行進曲


[ 3 : 小松宮の ヨーロッパ訪問 ]

幕末の頃の宮家 ( 宮号を賜った皇族の分家 ) に東伏見宮家がありましたが、弘化 3 年 ( 1846 年 ) に第 8 子として男の子が生まれ、 彰仁 ( あきひと ) と名付けられました。

仁和寺門

彼は安政 5 年 ( 1858 年 )12 才の時に第 120 代 仁孝天皇 ( にんこう、1800〜1846 年 ) の 猶子 ( ゆうし、一時的に養子扱いをする子 ) となり、親王宣下 ( せんげ、天皇がその子に親王の身分を与え ) 純仁親王という名前にして、京都の古刹 ( こさつ、古くからある寺 ) 仁和寺 ( にんなじ ) の、 第 30 代 門跡 ( もんぜき、注参照 ) に就任させました。写真は仁和寺の門。

注)門跡

門跡とは家督を相続する当てがなく、行き場のない皇子 ・ 皇族 ・ 公家の次男坊以下の子弟などが就職口 (?) として僧侶になり、法統 ( 法灯 ) を守り伝える寺院のことですが、次第に 「 寺格 」 を表す語となりました。江戸時代には

  1. 法親王 ( 出家した親王 ) が居住する 宮門跡 ( みや もんぜき )

  2. 摂政 ・ 関白家の子弟が居住する、 摂家門跡 ( せっけ もんぜき )

  3. 門跡に準ずる寺院の  準門跡 

  4. 皇女たちの場合には 尼門跡 ( あま もんぜき )

の区別がありましたが、明治 4 年 ( 1871 年 ) にすべての門跡制度は、公的に廃止されました。

以後 門跡寺院 などの表現は、 一部寺院の私的な箔 ( ハク ) 付け に使用されて 現代に至っています。

小松宮

ところで王政復古が間近くなったという政治情勢から、仁和寺の僧籍にあった純仁親王を、慶応 3 年 ( 1867 年 ) 21 才の時に還俗 ( げんぞく、僧籍からの離脱 )させて再び一般人に戻し、仁和寺宮 嘉彰 ( にんなじのみや よしあきら ) 親王と名乗らせました。

さらに明治 3 年 ( 1870 年、) に 24 才の時に 3 年間 イギリスに留学させ、明治 6 年 ( 1873 年 ) に帰国しました。写真の中央が仁和寺宮 嘉彰 です。


明治 15 年 ( 1882 年 ) に 仁和寺の寺領の地名である 小松にちなんで、 小松宮彰仁 ( こまつのみや あきひと ) と 3 度目の改名をしましたが、明治 19 年 ( 1886 年 ) 40 才の時に夫婦で 1 年間にわたり ヨーロッパ諸国を歴訪し、その際に明治 20 年 ( 1887 年 ) に オスマン帝国 ( 後の トルコ共和国 ) を 表敬訪問 しました。

スルタン・ハミト

オスマン帝国の首都 イスタンブールにおいて スルタン ( Sultan、イスラム教国の支配者 ) の、アブドゥル ・ ハミト  2  世 (  Abdul Hamid the Second  ) と会見し、明治天皇から贈られた勲章 ( 大勲位 ) を親書とともに伝達しました。


[ 4 : ボロ船での航海 ]

ボロ船

これに対して オスマン帝国 ( 後の トルコ共和国 ) は日本に答礼使節を派遣することになりましたが、この使節を運ぶ船として フリゲート艦 エルトゥールル 号 ( Erugrul ) が選ばれました。写真は紀伊大島にある トルコ記念館内の展示模型船です。

エルトゥールル 号は1863 年に 建造された 排水量 2,334 トン、全長 76.2 メートル、3 本 マストの帆船でしたが、翌年に 609 馬力の蒸気機関を搭載しました。しかし建造から 26 年経った古い木造の機帆船 でしたので、日本まで無事に航海できるかどうか、一部で危ぶまれていました。

一般に国家の答礼使を運ぶ場合には、国威発揚の見地からその国の最新鋭の軍艦を使うのが普通ですが、残念なことに イスラム教国の盟主である オスマン帝国 末期 の海軍には 、この程度の軍艦しかありませんでした。

犠牲者

特使は オスマン海軍少将、艦長は アリ中佐で、艦には特別に選抜された 56 人の将校を含め 609 名が乗組んでいました。その年に海軍士官学校を卒業した若い少尉たちのほとんどが エルトゥールル号に配属され、この遠洋航海で海軍士官としての経験を積むことになりました。写真の中央が特使の オスマン ・ パシャ司令官です。

ボスポラス海峡

エルトゥールル 号は明治 22 年 ( 1889 年 ) 7 月に現 トルコの イスタンブールを出港し、様々な港に寄港しながら航海を続け、立ち寄った各国の国民や特に イスラム教国の ムスリム ( イスラム教徒 ) たちから熱烈な歓迎を受け、出航から 11 ヶ月後の 明治 23 年 ( 1890 年 ) 6 月 7 日に横浜港へ到着しました。写真は イスタンブールに面し、 アジアと ヨーロッパを分ける ボスポラス海峡。

オスマン ・ パシャ特使の 一行は、6 月 13 日に皇帝の親書を明治天皇に奉呈し、 オスマン帝国最初の親善訪日使節団は国賓として大歓迎を受けました。

ボロ船

日本に 3 ヶ月滞在しましたが、船体の老朽化ぶりを見た日本側から、台風の季節を日本でやり過ごしてから出航するようにと勧められましたが、母国からの指示であるとして、勧告を振り切って 9 月 14 日に横浜港から帰路につきました。右の写真は、 エルトゥールル 号の実物です。

この ウラには日本に長期間停留し続けることで、イスラム諸国にとって盟主であるはずの オスマン帝国が、実は 19 世紀末には列強の侵略に遭い領土を奪われ、斜陽の国を象徴するように船齢 26 年の エルトゥールル号という ボロ船を派遣せざるを得なかった 国力の衰退ぶり を、世界に知られることを恐れたからだと言われています。


[ 5 : 台風による遭難 ]

民謡 串本節の文句に、

ここは串本 向かいは大島 / 中をとりもつ巡航船 / アラヨイショ ・ ヨイショ ・ ヨイショ ・ ヨイショ ・ ヨイショ

とありますが、平成 11 年 ( 1999 年 ) に紀伊半島最南端の串本と、紀伊大島を結ぶ 「 串本大橋 」 が完成したので、連絡船 ( 巡航船 ) は廃止されました。

You Tube の串本節

但し 囃子詞 ( はやしことば ) が  ハァ ・ オッチャヤーレ に変わっています。

樫野崎灯台

横浜から神戸を目指して航行中の エルトゥールル号は、明治 23 年 ( 1890 年 ) 9 月 16 日の夜に紀伊半島沖にさしかかったところで台風に遭遇しました。強風と高波の中を、エルトゥールル号は暗闇に光りを発する紀伊大島東端の樫野崎 ( かしのざき ) 灯台を目指して航行しましたが、運悪く灯台の南西にある船甲羅 ( ふねごら ) と呼ばれる岩礁に突入して座礁してしまいました。

蒸気船には エンジンを動かすための蒸気を発生させる汽缶室 ( きかんしつ、 かま室、Boiler Room ) がありますが、そこに大量の海水が浸入したために、熱せられていた ボイラー ( かま ) が轟音と共に水蒸気爆発を起こしたので、船は短時間で沈没しましたが、海岸から近い場所でした。

ちなみに樫野埼 ( かしのざき ) 灯台は日本最初の石造り灯台と言われていて、明治 3 年 ( 1870 年 ) に灯台業務を始めました。

遭難地点

この灯台に勤務していた 滝沢技師 は、台風の風雨が吹き荒れる夜に灯台の扉を叩く音に気が付きましたが、開けてみると半死半生の外国人の男が助けを求めていました。

着衣はずたずたに破れ、灯台の明かりを頼りに海岸から高さ 40 メートルの崖をよじ登ってきたのでした。遭難した外国船の船乗りであることは 一目瞭然でしたので、滝沢技師は急を知らせるために助手を樫野 ( かしの ) の部落に走らせました。

樫野は東西に 8 キロメートル、南北に 4 キロメートルある紀伊大島の中でも、灯台に一番近い 50 軒ほどの漁師の集落でした。知らせを聞いた部落の男たちは総出で岩場に降りて救助に当たりましたが、夜が明けるにつれて、海面にはおびただしい船の破片と遺体が漂い、岩場にも打ち上げられていました。

村長にも伝えられて大島村 ( 現、串本町 ) では村を挙げて生存者の救出と負傷者の介抱に当たりましたが、真っ先に知ろうとしたのは遭難船の国籍でした。言葉が通じないために滝沢技官が考えたことは、「 万国信号書 ( 後の国際旗流信号書 ) 」 を提示することでした。


[ 6 : 海難による死者の数 ]

トルコ国旗

信号書には世界各国の国旗が示されていたので、身振り手振りで生存者に国名を尋ねると彼らは 「 三日月と星 」 の デザインの国旗を指さしましたが、それは オスマン帝国 ( 現、トルコ共和国 ) の国旗でした。このようにして オスマン帝国の フリゲート艦、エルトゥールル号の遭難沈没が確認されましたが、住民達は大波の打ち寄せる海や海岸から命がけで 69 名を救出 しましたが、オスマン司令官をはじめ 581 名 ( 注参照 ) が死亡しました

注:)死亡者の数

横浜港停泊中に当時横浜で流行していた コレラに乗組員が感染し死亡者が出たために、横浜出港時の正確な乗組員数が不明となり、海難による死者の数については 540〜578 名などと諸説あり、未だに正確な数は不明です。

紀伊大島図

紀伊半島南端の紀伊大島にある大島村 ( 現、串本町 ) はその当時は井戸もなく、飲み水には天水 ( 雨水 ) を利用し、漁がない日には食糧にも事欠くほどの寒村でしたが、救助された乗組員は村の学校や寺に収容されました。

村民は非常用の備蓄米を提供し サツマイモや鶏卵を持ち寄り、貴重な鶏まで殺して生存者の食事に当てました。

裸同然の トルコ人には無けなしの浴衣 ( ゆかた ) なども惜しげもなく提供しました。しかし、救助された者の中には負傷者や体調の悪い者もいたために、村長は和歌山県庁を通じて外国領事館と連絡をとり、生存者を神戸の病院に搬送するよう依頼しました。


[ 7 : オスマン帝国への輸送 ]

そこで神戸港に停泊中の ドイツの砲艦 ウォルフが大島港に急行し、生存者 69 名全員を神戸港に輸送しましたが、明治天皇はこの事故の話を聞くと、 可能な限りの援助を行うよう政府に指示しました。

日本全国から遭難者に弔慰金が寄せられ、トルコの遭難者家族に届けられました。そして遭難現場付近の岬と地中海に面する トルコ南岸の双方に、慰霊碑が建てられました。

初代金剛

乗組員の負傷者がある程度回復した明治 23 年 ( 1890 年 ) 10 月 11 日に、初代の巡洋艦 「 比叡 」と、同じく同型艦である初代の巡洋艦 「 金剛 」 の 2 隻に生存者 69 名を乗せて、東京の品川港を出航し、翌年 ( 明治 24 年、1981 年 ) の 1 月 2 日に、 オスマン帝国の首都 イスタンブールの港に無事に送り届けました。写真は イギリス製の同型艦のうちの初代の金剛で、 艦齢は当時 13 年でした

トルコ本国では、日本人による献身的な遭難者救助 ・ 介抱 ・ 本国への輸送 ・ 弔慰金に対して、国中で感謝をしましたが、 エルトゥールル」の遭難事件が、トルコ人が親日的になったことの起点になったと言われています。

さらに トルコ人にとって宿敵であった ユーラシア大陸の大国 ロシアが 日本攻略に派遣した バルチック艦隊を、東郷提督率いる連合艦隊が日本海海戦 ( 1905 年 5 月 28 日 ) において撃滅し、ロシアによる中国、朝鮮半島への 侵略の意図を完全に阻止し、日本の独立を守った ことが、当時の 小国日本への称賛をもたらしました。

三笠艦橋

絵図は左上端に 「 Z 旗、注参照 」 がはためく戦闘中の 「 旗艦 三笠 」 の様子ですが、連合艦隊司令長官の東郷提督 ( X 印 ) を中心にして、幕僚の中には司馬遼太郎の小説や NHK テレビでお馴染みの 「 坂の上の雲 」 の主人公、秋山真之 ( さねゆき、1868〜1918 年 ) 参謀もいたはずです。

注:)Z 旗

日露戦争当時の日本海軍の信号書によれば、Z ( ゼット ) 旗とは、

「 皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ 」
との意味を持つ信号旗でした。


[ 8:イラン ・ イラク戦争勃発 ]

中東の メソポタミア地方を流れる チグリス川と ユーフラテス川は、 バスラ近くの クルナで合流して シャトル ・ アラブ川 ( シャット ・ アル ・ アラブ 、Shatt al-Arab とは、アラブの岸の意味 ) となり、イランと イラクの国境を流れながら ペルシャ湾に注ぎます。

その長さは 200 キロメートルありますが、イラク領の バスラ、イラン領の ホラムシャハル、アバダーンなどの港湾都市が川沿いに連なり、ペルシャ湾に通じる両国の重要な航路となっています。

1693 年当時、この地域を支配していた オスマン帝国と ペルシャ ( 現、イラン ) の サファヴィー王朝との間で結ばれた条約により、クルナ以南では シャトル ・ アラブ川が両国の国境と定められましたが、平穏でした国境付近も今から 101 年前の 1908 年に イラン南部の フゼスタン州で、同じ年に イラクの キルクークで初めて石油が発見されたことから、欧米の石油資本が利権を求めて活動し騒がしくなりました。

イギリス系の アングロ ・ ペルシアン ( Anglo Persian ) 石油会社で、 後に アングロ ・ イラニアン ( Anglo Iranian ) 石油会社と名前を変えた、現 B ・ P、 ブリテッシュ ・ ペトロリアム ( British Petroleum ) が石油利権を求めて進出し、 イラク は オスマン帝国の支配を経て イギリスの委任統治領となり、 1932 年に イギリスの支配から独立しました。第 2 次大戦になると石油資源を確保するために、イギリス軍と ソビエト連邦軍が 1941 年 8 月 25 日に、イランへ侵攻しました。

その後も イギリス系石油会社による利益の収奪に対抗して、1951年に イランが石油産業の国有化を図るなど、中東の石油利権を巡り紛争が起きるようになりました。昭和 55 年 ( 1980 年 ) 9 月 22 日に、その後 8 年続くことになる イラン ・ イラク戦争が起きましたが、イラク 側が仕掛けたその戦争の原因は、言わずと知れたその地域の 石油資源と積出し港の獲得でした

さらに アラブ人国家 ( アラビア語の イラク ) と ペルシャ人国家 ( ペルシャ語の イラン ) との 民族対立 や、イラクでは人口比 35 パーセントの少数派である、 イスラム教 スンニ ( スンナ ) 派 が国の中枢を占めたのに ( たとえば フセイン大統領、 ) 対して、イランでは 95 パーセントが イスラム教の シーヤ派 という両国の 宗派間の対立 もありましたが、エルトゥールル号の遭難事件から丁度 100 年の歳月が過ぎました。

イラン・イラク戦争

戦いは一進一退の状態となり、当時は アメリカが イラクを支援し、シリア、リビアなどが イランに加勢しました。戦争開始から 5 年後の昭和 60 年 ( 1985 年 ) 3 月 12 日、イラク軍による イランの首都 テヘランに対する空爆が始まりました。

テヘランの在留外国人は空爆を避けるために国外避難を準備し始めましたが、3 月 17 日になると、イラクの フセイン大統領が衝撃の声明を発表しました。( 写真は攻撃を受けて炎上し、黒煙を上げる油田地帯の油井 )。

今から 48 時間後 ( 3 月 19 日 20 時 30 分 ) からは、イラン上空を戦争空域とし、すべての飛行機を飛行禁止とし、飛行するものは 民間機であっても攻撃する

というものでした。


( 8−1、見捨てられた日本人 )

1985 年 3 月 18 日時点で、イラン国内に残された日本人は 280 名 ほどいましたが、各国では直ちに自国民を イランから脱出させるために、定期便の他に 臨時便の飛行機を飛ばしました。

しかし 平和 ボケし、例によって優柔不断、 危機管理能力欠如 の日本政府は救援機の派遣をせず、かつて テヘラン経由の路線を飛んでいて、戦争開始後は テヘランへの寄港を中止していた日本航空の乗員組合も、 臆病風に吹かれて 救援機の運航を危険だとして拒否しました

その間も各国の民間救援機が 、自国民救出のために門限の時刻ぎりぎりまで、 テヘラン の メヘラバード国際空港に離着陸していたというのに−−−です。


[ 9 : 東京銀行、毛利さんの話 ]

当時東京銀行の テヘラン駐在員をしていた、毛利悟 ( もうりさとる ) さんの話によれば、

航空会社の カウンターに人々が殺到した。脱出までの時間がない。民間航空機はすでに軒並み欠航。運行する飛行機があったとしても 日本人は弾き出された

どの国の航空会社も 自国民を救出するのが最優先 であり、外国人を助ける余裕などなかった。必死で手に入れた航空 チケットが目の前でただの紙くずになっていく。

日本からの救援機はいつまで待っても来ないし、刻々と迫る タイムリミット。取り残された日本人たちは途方に暮れ、母親は子どもを抱きしめるしかなかった。

毎晩続く爆撃に憔悴しきっていた日本人は、テヘラン市内の ホテルに身を寄せ、忍び寄る危険と隣り合わせで時計を見つめていた。絶望的な状況に気が狂いそうだった。現地時間 18 日夜中、日本大使館から情報が入ってきた。

トルコ航空機が 日本人の為に 飛んでくれるそうだ

空気がざわめき、歓喜の声があちこちからのぼった。

次の日 チケットを手に入れるため、朝 5 時半から トルコ航空の事務所に長い列を作った。昨日の外国機のように、トルコ航空機も自国民だけを乗せて飛び去ってしまうかもしれない。

しかし、これに賭けるしかなく最後の チャンスだった。飲まず食わずの立ちっぱなしでへとへとになりながら、祈るような気持ちで窓口の順番を待った。

トルコ航空機

19 日午後 4 時 30 分に トルコ航空 ( Turkish Airlines ) は 215 人乗りの DC−10 型旅客機を 2 機派遣してくれたが、そのうちの 1 機の座席は、すべて日本人に割り当てられた。 これでやっと戦場から脱出できる 。

日本人たちは着の身着のまま、ほとんど荷物も持ち出せない状態で、空港に向かった。避難民であふれかえる空港 ロビーを必死に通り抜け、やっとの思いで飛行機にたどり着いた。

飛行機の中に入ってびっくりした。普通の旅客機と変わらない クルーが待っていてくれた。クルーだって人間です、仕事とはいえ、戦火をくぐって人を助けに行くなんて、相当不安だったに違いない。

危険だからという理由で 日本の飛行機が来ないのに 、見知らぬ外国人を助けるのに、 自分の命を賭けられるものかと 、胸が熱くなった。

飛行機が飛び立ってしばらくすると、キャプテンの機内 アナウンスが入った。「 ただいま イラン国境を越えました。ウエルカム、ターキー! ( トルコへようこそ ) 」 疲労と恐怖でささくれだった心を癒すかのように、機長の言葉が胸にしみわたった。

第 1 便には日本人 198 名 、第 2 便には 17 名を乗せて テヘラン空港を飛び立ちましたが、第 2 便が離陸したのは タイムリミットの 1 時間 15 分前で、際 ( きわ ) どい タイミングで イラン領空を脱出することができました。

イランの隣国に位置し、陸路で トルコへの脱出も可能な自国民に優先して、トルコ政府が日本人に トルコ航空機を割り当ててくれたので、この救援機に乗れなかった トルコ人約 500 名は、自動車で イランを脱出して トルコ国内に戻りました。

ちなみに管理人は平成元年 ( 1989 年 ) に起きた天安門事件の 1 日前に、北京空港から成田に飛びましたが、その時の様子については ここをご覧下さい


[ 10 : 助けてくれた理由とは ]

( その 1 、伊藤忠商事、森永さんの話 )

トルコ政府が日本人救出のために危険を冒して救援機を派遣してくれた理由については、当時の日本政府さえもその理由が分かりませんでした。中には トルコの国情に無知な朝日新聞のように 、 「 トルコへの多額の経済援助が功を奏したのだ 」 という報道さえ流れました。

その当時伊藤忠商事の イスタンブール支店長として トルコに赴任していた森永堯 ( もりなが たかし )さんの所へ、本社から 1 本の電話がありました。

テヘラン在住の日本人を救出するために、トルコ航空の飛行機を出してくれるよう、( トルコ首相の ) オザール さんに頼んでみてくれ。

トルコに通算 16 年駐在していた森永堯 ( もりなが たかし ) さんは当時の トゥルグット ・ オザール首相とは個人的に親しい間柄でしたが、日本航空が 危険を理由に テヘランに飛ばない のに、関係の無い トルコ航空機で日本人を救出してくれと頼むことに、ある種のとまどいと後ろめたさを感じました。首相に連絡して窮状を訴えると、彼いわく

心配するな、 テヘランに救援機を派遣するから。

との返事でした。そして首相は直ちに トルコ航空本社に日本人のための救援機の派遣を指示してくれました。森永さんによれば、トルコは日本が困ったとき、手を差し伸べてくれる国なんです。日本は何度 トルコに救われたことか。 かけ値なしの友情を日本に抱いてくれる 、数少ない国のひとつなんです。


( その 2、外交筋の話 )

日本政府が救援機の テヘラン派遣を断念したことを知らされた イラン駐在の野村大使は、個人的な親交を持つ イラン駐在の イスメット ・ ビルセル トルコ大使に在留日本人救出の協力要請をしたところ、トルコ政府がそれに応じて、自国民救出のためのトルコ航空の最終便を 1 機から 2 機に増やしてくれたとするものでした。これに深く感謝の意を表した野村大使に対して、ビルセル大使は、

日本と トルコは エルトゥールル号の時から 、深い友情の絆で結ばれています。トルコ人は エルトゥールル号の悲劇を覚えています。日本人から受けた恩義を忘れることはありません。エルトゥールル号のお返しです

といいました。

また、駐日 トルコ大使の ネジャッティ ・ ウトカン氏によれば、

エルトゥールル号の事故に際して、日本人がおこなった献身的な救助活動を、今も トルコの人たちは忘れていません。 私も小学生の頃、歴史の教科書で習いました

トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。


[ 11 : 情けが実を結び、救出へ ]

(その 1 ) と( その 2 ) の場合は 国と国との正式な外交 ルートに頼るものではなく、個人的な信頼関係に基づく 手ずる、つて によって解決の糸口をつかむことができましたが、その根底には日本に対する トルコの人達が持つ好意的感情があったことは否定できない事実でした。

95 年も昔 ( 1890 年 ) に起きた トルコ軍艦の遭難事件の際に、日本人が示した献身的な親切を忘れずにいた国が存在した事実と、当時の日本人が外国の遭難者救助 並びにその後の対応に、可能な限りの好意的行動をとったことを、今回調べてみて初めて分かりました。

イラン帰国者

情けは人のためならず 当時の親切が巡り巡って 95 年後に実を結び、 トルコ政府による 日本人専用 の救援機派遣をもたらしましたが、その結果 日本政府から見捨てられた 215 名の日本人が 、イラン ・ イラク戦争の戦場となった イランの首都 テヘランから無事に脱出することができました

上の新聞記事によれば無事に救出された人々の中には、うれし涙を流す者もいたとありました。


[ 12 : 慰霊碑の建立 ]

遭難事件の後 昭和 4 年 ( 1929 年 ) 4 月 5 日には、樫野 ( かしの ) 灯台付近に 「 日本 ・ トルコ貿易協会 」 により 「 エルトゥールル号殉難将士慰霊碑 」 が建立されましたが、同年 6 月 3 日には昭和天皇が紀伊大島にある樫野に行かれ、慰霊碑に参拝されました。

この ニュースが トルコに伝わると、ムスタファ ・ ケマル 大統領 ( 注参照 ) は エルトゥールル号殉難将士の慰霊碑の建て替えを決定しました。

トルコ政府からの資金提供と委託を受けた和歌山県が設計、施工、監理に当たった結果、この慰霊碑は昭和 12 年 ( 1937 年 ) 6 月 3 日に完成し、除幕式と 50 周年追悼祭もあわせて行われました。

注:)

ケマル大統領 ( 1881〜1938 年 ) は1922 年に クデターを起こして オスマン帝国を倒し、 トルコ共和国を創立して初代大統領に就任しましたが、国の近代化と発展に大きく貢献したために、 アタチュルク ( Ataturk 、父なる トルコ人 ) の称号を贈られました。

トルコ大統領参拝

現在和歌山県串本町の紀伊大島にある樫野 ( かしの ) 崎灯台の近くには慰霊碑公園があり、地元小学校の児童 ・ 生徒が学校行事のひとつとして常に清掃をおこなっています。さらに 5 年おきに慰霊祭が行われていますが、その近くには トルコ記念館も建てられています。

平成 20 年 6 月には、トルコの ギュル大統領の訪日の際には、エルトゥールル号の慰霊碑への参拝がおこなわれました。


目次へ 表紙へ