同和の、うまい汁
[ 1 : 植民地、東京人の気質]私は昭和 8 年 ( 1933 年 )に東京で生まれましたが、昭和 19 年 ( 1944 年 ) 小学校 5 年生の時に長野県の山奥の寺に 学童集団疎開 に行くまでそこで暮らしました。江戸の昔から、また明治 2 年 ( 1869 年 ) に都 ( みやこ ) が東京に移ってから更に、地方から職を求める 移住者や出稼ぎ人たちの上京が盛んになりました。子供の頃に住んでいた東京都豊島区巣鴨 ( 現、お婆ちゃんの原宿と言われる、巣鴨の トゲ抜き地蔵 ) の周辺や、大人になってから住んだ 大田区 J R 大森駅近くの 山王 1 丁目 界わいでは、先祖が偉い家系であろうが、農地を持たない貧農の倅 ( せがれ ) であろうと、あるいはその昔故郷で差別され、蔑視された 新平民 ( 注参照 ) の出であっても、植民地 (?) の東京では 他人の先祖や出自を気にする住人など誰もいませんでした 。 注 : )新平民 江戸時代には士農工商の身分制度がありましたが、長年その枠外に置かれていた 穢多 ( えた )、非人 ( ひにん ) の取り扱いに関して、新政府は明治 4 年 (1871 年 ) 8 月 28 日の太政官 ( だじょうかん ) 布告 489 号 「 賤称 ( せんしょう )廃止令 」 により、その名称を廃止すると共に、身分職業を平民同様にすべしということで新しく戸籍を作り平民に編入しました。 新平民とはその人達に対する 賎称ですが、参考までに布告の原文を記しますと、
穢多非人等ノ 称被廃候条自今身分共 ( しょう はいされそうろうじょう じこん みぶんとも ) 平民同様 タルヘキ事 ( たるべきこと ) [ 2 : 被差別部落 ]身分職業を平民同様にすべしとする太政官布告が出されたものの、
長野県における学童集団疎開の生活も、昭和 20 年 ( 1945 年 )8 月の敗戦の結果現地解散となり、東京で戦災に遭い田舎に疎開していた両親とは、父親の出身地である栃木県の田舎で合流しました。その村とは本校の他に、小学校の分教場が 二つもあるへんぴな所でした。 そこで親戚の人からいわれたことは、村にある特定の部落には近づかない方がよいとのことでしたが、私にとって被差別部落やそこに住む部落民の存在を、このとき初めて知りました。被差別部落の人達は主に林業や農業などの日雇いで生計を立てていましたが、その家の子供達は 一目で分かるほどの貧しい身なりをしていました。部落の人が他人の家を訪れる際には玄関から来ずに、当時は裏口 ( 勝手口 ) から来る習慣でした。その人達のことを表す言葉は 「 よつ 」 であり、指を 四 本出して示すこともありました。 四 は動物の 四 本足の意味であり、当時の農耕や林業の木材搬出などに使用した牛や馬が病死すると、彼等に処理を依頼し、彼等の所有物になったことに由来したのだそうです。なお地元の人によれば住所と姓から、被差別部落の者かどうか概略分かったのだそうです。 私の村では 三つの小学校合わせて 94 人が卒業しましたが、疎開者の子供を除くと村人から 村長さま、駐在 ( 巡査 ) さま、局長 ( 郵便 ) さま などと、日頃から尊敬されていた家の子供や、裕福な家の子供しか進学しませんでした。 義務教育終了後の村の進学率は約 9 パーセント でしたが、被差別部落の子供は一人も進学しませんでした。ちなみにその当時の上級学校への進学率は 全国平均で 25 パーセン ト であり、現在では高校進学率は 97 パーセント に達しています。
[ 3 : ランドセル ]それから 二十数年後のこと社会人になった私は大阪へ転勤したので、大阪府の M 市に住むことになりました。長男が小学校に入学することになり、義母が送ってくれたお金で ランドセルを買うつもりでいたところ、女房が幼稚園の友人から 「 市役所に申し込むと、ランドセルが貰えるらしい 」 という話を聞いてきました。 当時の ランドセルの価格は忘れましたが、現在では 3 万円〜3 万 5 千円程度 するはずなので、早速女房が市役所に申し込みに行きました。すると住所氏名を書かされて、1 週間後に連絡するからと言われて帰ってきました。 後日市役所から来た連絡によれば、その市には 「 昔から 同和地区 ( 被差別部落 ) というのがあって、その地区に昔から住む住民の就学児童に限り、ランドセルを無料で支給する規則になっている。貴方の家は該当しないから ダメだ 」、というものでした。つまり家庭の経済状態には全く関係なく、 同和地区に昔から住む者であればどんなに 裕福な家庭 であっても、 無条件で ランドセルを支給するという制度でした。
[ 4: 小学校の制服 ]その後に兵庫県の K 市に転居しましたが、そこの公立小学校には制服がありました。私立の小学校ならともかく、公立小学校で制服がある学校などそれまで聞いたことがありませんでしたが、その校区には同和地区があり貧しい同和地区の学童と 一般家庭の学童との間で、服装に差ができるのを防ぐ為に制服を定めたのだそうです。 我が家では子供のために夏服 ・ 制 シャツ ・ 冬用の制服などを購入しましたが、 同和地区の学童にはその制服も市が無料で支給していました。子供は成長するにつれて制服も小さくなるので買い替える必要がありますが、その度に同和地区の学童には無料で支給していました。 やがて不動産会社が開発した大規模住宅地にも小学校が新設されたため、住宅地に住む多くの子供たちはその学校へ転校しましたが、その際に不要になった制服を元の学校に全員が寄付しました。写真の制服はこの小学校のものではなく、他校の制服ですので念のため。その当時の制服はこれとは大違いの野暮ったいものでした。
[ 5 : 教室の テレビ ]その当時は理科の実験などを N H K の教育 テレビ番組で分かり易く放映していましたが、新築された小学校の教室には テレビ がありませんでした。ある教育 ママ が P T A 総会の席上で、「 K 市は同和対策に 予算を使い過ぎている。その費用を減らして 小学校の教室に テレビ を設置して欲しい 」と発言しました。 ところがその翌日からその女性の家に抗議の電話が殺到しました。相手は名乗らなかったそうですが、どういう連中かは容易に想像できました。「 この町に新参者のくせに何を言うか? 」、「 市が同和対策に カネを使い過ぎるとは何事か?、我々はもっと カネ を出すようにと要求しているのだぞ 」、「 戦時中は軍隊で使う背嚢用に牛革をなめして、国の為に協力したのを知っているのか? 」、「 女だと思って付け上がるなよ 」、などの言葉だったそうです。
( 6−1、業務上横領 ) 大阪で起きた財団法人飛鳥 ( あすか ) 会を巡る 1 億 3 千万円の業務上横領、詐欺事件 の判決が、平成 19 年 1 月 2 4 日に大阪地裁でありましたが、 部落解放同盟 飛鳥支部長 であり、30 年以上にわたり飛鳥会 理事長を勤めた 小西邦彦 被告 ( 73 才 ) に対して、杉田裁判長は判決を下しましたがその中で、
として、小西被告に 懲役 6 年の実刑 を言い渡しました。
同和団体幹部の地位を利用して、私利私欲にふけった例は奈良県にもありましたが、 部落解放同盟 古市 ( ふるいち ) 支部長 の肩書きを持つ、奈良市 環境 清美部 ( ごみ収集担当 ) で、事件が明らかにされると市当局からようやく懲戒免職された中川昌史 ( 42 才 ) です。 奈良市によりますと中川元職員は 14 種にものぼる病名を コロコロ 変えて、 病気を理由に休暇 32 回、休職 2 回を取るなどして、5 年 9 ヶ月の間に僅か 8 日しか勤務していない にもかかわらず、市の規則で給料のほぼ全額の 2 千 4百 75万円 を受け取りました。 長期病気休暇中にもかかわらず、 部落解放同盟奈良市支部、協議会副議長 として市との交渉に出席したりしていましたが、 5 年 9 ヶ月の病休は人事課に記録がのこっている期間のことで、 実際は 14〜5 年前から このような状態を繰り返していた と、過去を知る職員は述べていました。 妻を社長名義にして実質的に自分が経営する建設会社の営業活動のために市役所に出入りし、去年 8 月には、 談合防止のための 「 郵便入札制度 」 の導入 に反対し、要求に応じなければ、市との交渉の場で問題にするなどと、市の担当者らを脅しました。 中川被告は職務強要罪で逮捕起訴され、 懲役 1 年 6 月、執行猶予 3 年 の判決を受けましたが、検察側の冒頭陳述によれば市の幹部に対して、「 ア メ ねぶらして ( 舐めさせ ) くれたら、黙っててもええんやで 」と述べ、市がおこなう建設工事を入札ではなく、妻の名義にしている建設会社と随意契約を結んでくれるなら、郵便入札問題をこれ以上騒がない、などと迫ったことが明らかになりました。
大阪・八尾市の 部落解放同盟 安中支部の相談役で 、 NPO 法人 「 八尾市人権安中地域協議会 」 理事長、丸尾勇 被告 ( 公判中、58 才 ) は、平成 18 年 5 月に公共工事をめぐる業者への恐喝容疑で逮捕されましたが、人権団体という表の顔と元暴力団という裏の顔を併せ持ち、糾弾と暴力を背景に八尾市の建設工事を事実上支配してきました。 丸尾被告は保育園、公共工事など市がらみの利権には必ず口を出し、 八尾で仕事がしたければ オレ に断りなしには絶対にさせん などと豪語していました。 市の職員は業者に公共工事を発注する際にも「 丸尾さんを通してくれ 」 などと、業者が丸尾被告に挨拶に行くよう暗に指示していました。つまり 市役所ぐるみで丸尾被告の同和利権稼ぎに協力 してきたのでした。 恐喝事件の逮捕を受けて八尾市は平成 19 年 2 月 8 日に、遅ればせながら同和利権を生む土壌である、同和関係団体に委託している 10 の事業を廃止することにしましたが、平成 19 年10 月 29 日、大阪地方裁判所は丸尾被告に対して 懲役 4 年 6 月の実刑判決 を言い渡しました。
大阪府大東市の補助金で運営されている人権啓発団体 「 ヒューネット ・ だいとう 」 が、 勤務実態がない ( つまり 仕事に来ない ) 男性職員 ( 57 才 ) に 過去 5 年もの間、毎年 8 百万円 もの給与、ボーナスを支給していたことが判明しました。 仕事をしない男性に、なぜ大金を支払っていたのでしょうか?。平成 14 年 ( 2002 年 )3 月に同和対策はもう十分実施したとして、政府は関連の財政特別措置法を打ち切りましたが、それによって従来から同和対策事業の受け皿だった「 市 ・ 同和事業促進協議会 」が解散しました。その事務局長をしていたこの男性はそれにより当然失職しましたが、仕事が無くなったにもかかわらず、大東市はそれまでの給料 ・ ボーナスを今回指摘されるまで、5 年間も継続して支払い続けてきました。市の人権推進部長によれば平成 19 年 2 月 14 日付けで、男性が人権啓発団体を依願退職したとのことでしたが、 働かずに年収 8 百万円も貰えるおいしい ポスト など、同和関係者だからこそ今まで得られたのでした。
[ 7 : 市職員に対する任命権放棄 ]( 7−1、同和地区応募者の優先採用 )呆れた同和行政の癒着をおこなってきたのが、革新の牙城の京都市でした。市の環境局職員の採用に当たっては、応募者に対する地方公務員としての適格性の審査権限を放棄して、 職員の任命権を同和団体に丸投げ してしまい、 同和、選考採用 ( 優先雇用 ) という雇用対策事業を 30 年以上も実施してきました。 部落解放同盟と全解連 ( 全国部落解放運動連合会 ) から推薦を受けた住民を、無条件で市職員として雇い入れてきましたが、記録が残る平成 7 年から平成 13 年までの 7 年間に 256 人 がこの制度により市の職員に雇用されました。同和地区の労働者のうち、 30 % 以上が市の職員 だといわれています。 同和、選考採用 ( 優先雇用 ) がもたらしたものは、 必然的に職場規律の乱れであり、勤労意欲の欠如 でした。市役所の職員という自覚や市民に奉仕する公務員の心構えが最初から欠落し、選考採用をしてくれた 同和団体を、 あたかも雇用主である かの如くみなしていました。 京都市議会でこの問題を繰り返し取り上げている共産党の山本議員は、平成 6 年 ( 1994 年 )9 月 12 日の本会議で次のように述べています。
同和、選考採用 ( 優先雇用 ) の結果特定団体の考え方が職場に持ち込まれ、職場規律が守れなくなっているという事態を生み出しています。現に清掃局長は、清掃事務所など現場での実態に対して市民からも厳しい批判があり、職員には せめて午後 3 時 までは職場で勤務するように と指導していきたいと委員会で答弁されているのが実態であります。同じく、自民党の内海議員は、平成 8 年 ( 1996 年 )11 月 21 日の本会議で次のように述べています。
管理職の方からは、一部の同和、選考採用 ( 優先雇用 ) 職員ではありますが、 出勤してもらうということだけでも大変で、 仕事をしてもらう なんて、とてもとても、との声を聞いております。 ( 7−2、三百万円出せば、市 バスの運転手に ) 『 ねっとわーく 京都 』 2007 年 1 月号、から引用、 京都市の選考採用で、私 ( 市民 ウオッチャー、中村弁護士 ) がたまたま別の事件でかかわった タクシーの乗務員の方が、市 バスの運転手に就職したがっていました。同和地域の出身でもありませんが、 部落解放同盟を通じて 3 百万円 を渡して市 バスの運転手に就職する という。公然と相場で 3 百万円が設定されていました。
かつて京都市の水道局職員として勤務していた男が、病気休職中の昭和 59 年 ( 1984 年 ) に酒を飲んで乗った タクシー内で暴れ、運転手から 2 千円を奪い逃走し逮捕されましたが、市は「 公務員の適格性を欠く 」 として分限免職にしました。 ところが驚くべきことに平成 4 年 ( 1992 年 ) に同じ男が、 同和の選考採用 ( 優先雇用 ) により再び市職員として清掃局 ( 当時 ) に採用されました。 一度免職になった者を再雇用する 役所や企業など、聞いたことがありません。その男が今度は ペットの死体引き取り手数料 15 万円を着服したとして、平成 19 年 2 月 13 日に 懲戒免職 になりました。職場規律の乱れや、生活態度の悪さから 京都市役所職員が逮捕される事件 が多発しました。平成 18 年 ( 2006 年 ) 8 月 25 日の朝日新聞 ( 大阪 )朝刊で紹介されている京都市職員の逮捕者状況は、 昨年 4 月以降 15 人であり、今年 4 月以来 8 月までに 9 人にのぼり 、詳細は以下のとおりです。 なお 逮捕者は同和優先採用をしている 環境局 、保健福祉局に集中していますが、これを見ても同和選考採用 ( 優先雇用 ) という 利権がもたらす弊害 が明らかです。
[ 8 : 返済免除の同和奨学金制度 ]日本には長い歴史がある日本育英会による奨学金制度がありますが、昭和 24 年 ( 1949 年 ) 当時私と同じ村出身の同級生で、日本育英会の奨学金を受けて高校を卒業し、二浪して東大に入り、更に奨学金を受けて卒業し、後に某国立大学の教授になった男がいました。 大卒 サラリーマンの初任給が 6 千円の頃に、高校生で月額 2 千円程度の奨学金を受けていましたが、卒業後には無利子かそれに近い低い利息で、20 年月賦で返済する制度であったと記憶しています。ところで同和地区の高校生や大学生に対しては、これとは別に、 同和奨学金の制度 があります。その額は高校と大学生では異なりますが、 最高で 月額 9 万円 であり、全貸与者の 3 分の 1 がこの額を貸与されているそうです。
なぜ借りた奨学金を返済しないのか、その理由は同和奨学金の貸与手続きの際に、京都市の担当者が この同和奨学金は 返済の必要が無い ことを言い続けてきたというのです。 その からくり とは、同和奨学金の貸与者全員を何の審査もせずに 奨学金の返還困難者と認定 して、貸与者に同和地区住民に対する 自立促進援助金 を支給する形で、 返済すべき金額を 京都市が税金で肩代わり しているのです。
ところで同和地区に住み、 借りた同和奨学金を自らは 1 円も返済せずに、すべて税金で肩代わりしてもらっている 非常に恵まれた身分 の人は、どの程度いるのでしょうか?。その答は以下を参考にしてください。
[ 9 : 同和対策に支出した税金の総額 ]昭和 44 年 ( 1969 年 )に 同和対策事業特別措置法 ( 同対法 ) が 10 年間の時限立法として スタートしましたが、それ以後、事業費の 75 パーセントを国が、残りの 25 パーセントを地方自治体が負担して、同和地区の生活環境改善、進学率、就職率向上などの支援に当たりました。 法律の期限が近づくと同和団体の強い要望により、法律の名称を切り替えての延長が 4 度繰り返された結果、平成 14 年 ( 2002 年 ) 3 月に地域改善対策 財政特別措置法が失効するまでの 33 年間に、国と地方自治体が支出した税金の総額は 15 兆円にも及びました。この数字を見ただけでは 15 兆円の実感がわかないので具体例で示しますと、東京都の年間予算は 6 兆円ですが、これは インドの国家予算に匹敵します。同和対策にこれまで支出した金額は その 2.5 倍 に相当します。 更に去年( 平成 18 年 ) オープンした神戸空港の建設事業費は 3 千億円でしたので、 神戸空港 50 個分 に相当する莫大な額でした。
日本全国に、いったいどれほどの同和人口があるのでしょうか?。 同和人口は 減少傾向 にあるので、昭和 40 年 ( 1965 年 ) 8 月 11 日に内閣総理大臣に提出された、 同和対策審議会答申 の数字を引用しますと以下の通りです。
前述した私の見聞した同和地区学童に対する ランドセルや制服などの支給を含めて、政府や地方自治体がこれまで同和人口 1 人当たり、どれくらいの税金を支出したのでしょうか?。そこで前掲した昭和 37 年度 ( 1962 年 ) の同和人口 111 万人を基準にして 15 兆円の税金を単純計算すれば、 33 年間に 1 人当たり 1,351 万円、年間にすれば 1 人当たり 41 万円という莫大な税金が支出されたことが分かりました。ランドセル や制服の費用などは、この金額からみれば大したものではありませんでした。
[ 10 : それでも 不満な 一部の同和団体 ]
私事で恐縮ですが、結婚後に転勤などのために青森県 ・ 千葉県 ・ 大阪府 ・ 神奈川県 ・ 東京 ・ 兵庫県などへ合計 13 回転居しましたが、子供が大きくなり入学、就職、結婚の度に戸籍抄本 ( 謄本 ) を遠方の村役場から取り寄せるのは不便でしたので、本籍地を住民票の住所に毎回移動しました。栃木県の故郷にある畑の地籍 ( 地番 ) に過ぎなかった 本籍地 など、今では何の未練もありません。
[ 11 : 腐敗 ・ 堕落した部落解放同盟の、今後の在り方について ]
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