古代人と アイヌ
[ 1: 寒さが可能にした、動物 ・ 人の移動 ]これまで 地球の歴史には少なくとも 4 回以上 氷河時代 ( Ice Age、氷河期ともいう ) があったとされますが、そのうち最後のものは 6 万年 前から 1 万年 前まで続いたといわれています。 氷河時代のなかでも 特に寒さが厳しく、中緯度地方にまで氷河が発達 ・ 拡大した 氷期 ( Glacial period ) になると、全陸地のほぼ 3 分の 1 ( 27 パーセント ) が、厚さ 2,000 メートル以上 の氷の層 ( 氷床、 Ice Sheet ) に覆われ、大陸中央部では気温が マイナス 80 度 まで低下しました。 莫大な量の雪や氷が陸上に堆積しましたが低温のため溶けずにいたために、河川が海に流入せず海水が減少し、 氷期 の最盛期には 海面が 100 〜 200 メートル低下したといわれています 。
ところで日本列島の原形がほぼ完成したのは約 300 万年前といわれますが、 中国大陸と九州をへだてる東支那海の大部分は水深 200 メートル以下 の浅い大陸棚であり、朝鮮半島との間にある対馬海峡や 朝鮮海峡の水深は 140 メートル 足らずです。津軽海峡 [ C ] では東部の水深が 260 メートル以上 ありますが、青函 トンネルが通る西部の水深は 140 メートル です。 北海道と サハリン南端との間にある幅 42 キロメートル の宗谷海峡 [ B ] の水深は 40〜70 メートル で、 サハリンと シベリア大陸との間にある間宮海峡 [ A ] ( タタール海峡 ) は、水深が僅か 4〜20 メートル しかありません。 そこで 氷期 における海面低下が起きると、日本列島は周囲の大陸や島との間に 陸橋ができて地続きとなり 、 マンモス ・ ナウマン象 ・ 虎 ・ 熊 ・ 猪 ・ 鹿 をはじめ 、沖縄 ・ 奄美諸島では猛毒を持つ蛇の ハブ ( 注:参照 ) に至るまで 、大小さまざまな動物が日本列島に移動してきました。人類がそれらを追い、狩りをしながら日本列島にやってきたのは 後期 ・ 旧石器時代といわれる およそ 4 万年前 のことでした。( 30 万年前とする説も 一部にあり )
[ 2: 人口の増加 ]氷河時代が1 万 3 千年前 頃から終わりに近づくと、代わりに 地球の温暖化 が始まり日本列島の自然環境も大きく変化しましたが、それに伴い植物相 ( 植生 ) や動物相も大きく変化し、必然的に人類の生活様式も変化しました。
ほぼこの時期に日本列島のあちこちで 縄文人による土器 の製作が始まりましたが、最初は煮炊き用の道具が作られ、その結果 縄文人にとって摂取可能な食物の種類や量が拡大して、食生活の改善に大きな役割を果たしました。右の土器は次に述べる 大森貝塚 から出土したもので、縄文時代 ・ 後期 ( 4,500 前〜3,300 年前 ) の遺物です。
私は昭和 54 年 ( 1979 年 ) 当時 、東京の JR大森駅に近い大田区 ・ 山王 2 丁目に住んでいましたが、近くにある NTT データ大森 ビル横の狭い急な階段を下りると、急斜面の下にある行き止まりの線路ぎわには、 モース博士 ( Morse 、1838〜1925 年 ) の レリーフと 大森貝墟 の石碑があり、台座には Relief of Omori Shell Mound Discovered と書いてありました。なおここから 400 メートル北側にも、品川区立の 大森貝塚遺跡庭園 があります。 この場所は米国の動物学者でした モースが、明治 10 年 ( 1877 年 ) に 日本で初めて 貝塚や縄文土器を発見した所ですが、縄文時代には海辺でした。土器の表面にある 「 ヒモ状 」 の文様から土器を Cord Marked pottery という言葉で報告書に書いたことから、それが後に 「 縄文 ( 紋 ) 」 と訳されて以後の土器や歴史の時代区分に使われるようになり、日本の考古学、人類学に道を開きました。 ちなみに 弥生式土器 とは、それから 7 年後の 1884 年に東京府 ( 当時 )・ 本郷区 ・ 弥生町 ( 現・東京都 ・ 文京区 ・ 弥生 )で、縄文とは異なる種類の土器が最初に発掘されたために名付けられたものです。
ところで大和朝廷が奈良盆地に王権を確立した頃の日本列島には、すでに多くの人々が住んでいましたが、一説によれば 縄文晩期 ( 3,300 年前 〜 2,800 年前 ) の人口は 16 万人 であり、 弥生時代 ( 前 3 世紀〜後 3 世紀 ) になると 60 万人 、 4 〜 6 世紀の古墳時代 には 540 万人 といわれています。
それらの人々の 祖先は 前述したように氷河時代やその後の時期に、シベリア大陸 ・ 朝鮮半島 ・ 中国大陸 ・ あるいは黒潮に乗って島伝いに東南 アジア方面から日本列島に移動してきたましたが、それぞれの集団が日本列島に 旧石器 ・ 縄文土器 ・ 稲作 ・ 弥生式土器 ・ 製鉄 ・ 前方後円墳などの文化 ・ 技術をもたらしたとされます。左は縄文時代の土偶 ( どぐう、土製の人形 ) で、授乳する女性のものです。
弥生時代以後の人口増加の主な原因は、 水田稲作の普及による食料の大量 ・ 安定供給化 によるものと考えられますが、縄文時代の狩猟採集 ・ 焼畑雑穀農業と比較して、土地の生産性が カロリー計算で 3 〜 5 倍増加した とする説があります。それにしてもかなり高い人口増加率なので、いわゆる人口の自然増だけではなく、大陸や朝鮮半島などからの外部から、 人口の大量流入があった とする説もあります。
[ 3: 古書 によれば ]日本に未だ文字による記録がなかった頃の古代人のことを知るには、中国の書物に頼るしか方法がありませんが、
( 3−1、礼記 )
東方、 夷 ( い ) と曰 ( い ) う、被髪文身、火食せざる者有りとありましたが、当時から中国人は全て火を通した物を食べる習慣であったのに対して、料理に火を使わず食物を生で食べる人の存在を記していました。刺身や寿司 を好む日本人の習性があるからといって、礼記にある 生食の民 の記述を直ちに当時の日本人に当てはめるのは早計です。 シベリア大陸と北米大陸の アラスカの間には幅 85 キロメートル 、水深 54 メートル の ベーリング海峡がありますが、氷期にできた陸橋を エスキモー ( Eskimo ) の先祖に当たる モンゴロイド ( 蒙古系人種 )が徒歩で渡り、北米大陸に移動しました。エスキモーとは彼等の言葉で、 生肉を食べる人 の意味でした。 夷の音読みは 「 い 」 ですが、 訓読みは 「 えびす ・ えみし 」 となります。礼記にいう 夷 が日本の古代史に登場した 「 えびす ・ えみし ・ えぞ 」 を指すとは必ずしも言えません。
( 3−2、魏志倭人伝 ) 倭人は 断髪文身 つまり髪は結ばずに短く切り、 身体には 入れ墨 をしていました。ところで辞書の大辞林によれば、 えみし ( 蝦夷 ) とは えぞの古名 であり、同じく えぞ とは、
アイヌ語の enju ( 人 ) に由来し、古代に北関東から東北 ・ 北海道にかけて住み、朝廷の支配に抵抗し服従しなかった人々のことと記されていました。
( 3−3、日本書紀、景行紀 )
景行天皇の 27 年、 武内宿禰 ( たけのうちのすくね、注参照 ) 東国より還りて奏言。 東夷 の中に日高見国 ( ひだかみのくに、岩手県水沢市地方 ? ) あり。その国の人 男女椎結 ( 髪をわけ )、文身 ( 入れ墨 )をして、人となり勇敢、 これをえみし ( 蝦夷 ) という。土地 沃 ( こ ) えて広し。 撃ちて取るべしと( 3−4、日本書紀、斉明紀 ) 私はこれまで知りませんでしたが、斉明天皇の 5 年 ( 659 年 ) に第 4 次遣唐使を派遣した際に、 えみし ( 蝦夷 ) の男女 2 人を同道して唐に行き 高宗に拝謁しました。
唐側の書物 ( 通典 ) によれば、そのえみし( 蝦夷 ) の鬚 ( ヒゲ ) の長さは 4 尺 ( 1.2 メートル ) あったとのことでしたが、高宗からの質問とその答を遣唐使の随員として入唐した伊吉連博徳 ( いきのむらじ ・ はかとこ ) が記録し、それが日本書紀、斉明 ( さいめい天皇 ) 紀 5 年 7 月の条にあります。使人とは遣唐使の津守連吉祥 ( つもりのむらじ ・ きさ ) のことです。
えみし ( 蝦夷 ) の蝦 の文字は エビ の意味ですが、江戸中期の国学者 本居宣長 ( もとおり ・ のりなが、1730〜1801 年 ) の解説によれば、
えみし ( 蝦夷 ) は ( 万葉仮名で書くと ) 延美斯 ( えみし ) なり、名義 ( 名前の理由 ) は、身に凡 ( すべ ) て長き鬚 ( ひげ ) の多きを以て、鰕 ( エビ ) になぞらへ ( たとえ ) たり とありました。エビの文字は本来 魚偏 ( さかなへん ) の 「 鰕 」 ですが、それをわざわざ 虫偏 ( むしへん ) の 「 蝦 」 にしたのは、その方が野蛮人にふさわしく、さらに未開人の意味を表す 夷 を付けて、 えみし を 蝦夷 としたのでした。中華思想の中国を見習い日本も 小中華の国になったつもりで 、周囲の国や人々を見下しましたが、次を見て下さい。
( 3−6、倭王 ・ 武 の上表文 )
倭王 ・ 武の祖先が 東征 毛人、五十五国、西服 衆夷、六十六国、渡平海北、九十五国つまり東にある 毛人の国 55 ヶ 国を征討した ( 以下省略 )、と述べられていました。ちなみに倭王の武 ( ぶ ) とは宋書に見えるいわゆる 倭の 5 王の 1 人で、記紀でいうところの第 21 代 雄略 ( ゆうりゃく ) 天皇のこととされます。ここでいう 毛人 とは、大和朝廷から見て東方にある地域に住む部族や住民を指すのに違いありません。
[ 4: えみし の戦闘能力 ]日本書紀の神武紀 ・ 即位前 3 年 10 月の部分に えみし に関する歌謡がありますが、これは初代の天皇である 神武天皇 が 大和の橿原宮 ( かしはらのみや ) で即位するのに先立ち、大和地方を征服した際に 磯城 ( しき、奈良県櫻井市付近 )に勢力をふるっていた 八十梟師 ( やそたける ) を討ち滅ぼしましたが、その際に天皇の軍が歌ったとされる歌のひとつでした。
愛瀰詩 ( えみし ) 烏 ( を ) 毘ダ利 ( ひだり ) 毛々那比苔 ( ももなひと ) 比苔破易陪廼毛 ( ひとはいへども ) 多牟伽毘毛勢儒 ( たむかひもせず) 「 万葉仮名 」 で書かれたものを、分かり易い文字に書き換えると
えみし を ひとり 百 なひと、人は言えども手向かいもせず。その意味は
えみし は 1 人でも 100 人を相手にするほど強い人たちだというが、実際に戦ってみるとそれほどではなかったということで、自軍の強さとその勝利を称える内容でした。しかし勅撰の史書で平安初期に成立した続日本紀 ( しょくにほんぎ )によれば、
弓馬の戦闘は、蝦夷の生習にして、平民の 10、其の 1 に敵する能 ( あた ) はずとありました。 その当時 えみし という言葉は戦闘能力に優れ勇猛果敢なことから来る、 強さの象徴や畏怖 ( いふ ) の対象 ですらありましたが、そこには後世のような 蔑称や 軽蔑の意味 など全くありませんでした。 八十梟師 ( やそたける ) のことを神武の兵士たちが えみし と称したのは、彼の人種や部族名ではなく 戦いにおける相手の強さからでした。後の大化改新 ( 645 年 ) 当時の豪族である蘇我氏には 蘇我蝦夷 ( そがの ・ えみし ) という人物がいましたが、 えみし の名は前述の如く強さを表し、豪族にふさわしいので名付けられたのでした。
[ 5: 坂上田村麻呂 ]坂上田村麻呂 ( さかのうえの ・ たむらまろ、758〜811 年 ) のことは、戦前の小学校の歴史教科書に えぞ征伐 をしたことが記されていたので、 75 才以上の後期高齢者の方は名前をご存じのことと思います。 彼は 桓武 ( かんむ ) ・ 平城 ( へいぜい )・ 嵯峨 ( さが ) の 3 代の天皇に仕えた武将で、後述する政府軍の大敗北後には征夷副将軍として、後には 征夷大将軍 ( 注:参照 ) として蝦夷の支配下にあった陸奥国を平定しましたが、 798 年に京都の清水寺を創建した人物 でもありました。
平安初期の頃から陸奥国では蝦夷との戦争が激化していて、続日本紀 ( しょくにほんぎ ) 延暦 8 年 ( 789 年 ) 6 月の条には 、紀 古佐美 ( きの ・ こさみ ) 率いる 4,000 人 の政府軍の精鋭が衣川 ( ころもがわ、北上川水系川の支流 ) を渡り、 胆沢 ・ 巣伏村 ( いさわ ・ すふせ、現 ・ 岩手県水沢市地方 ) で、蝦夷の指導者 阿弖流為 ( あてるい ) 率いる 1,200 人の蝦夷軍と戦い大敗しました。政府軍の被害は
戦死 25 人 ・ 矢に当たれる人 235 人 ・ 衣川 に入りて溺れたる人 1,036 人 ・ 裸身で泳ぎ来るもの ( 退却の際に衣川を泳ぎ渡って戻った ) 人 1,257 人でした。詳しい結果によれば、 討ち取った賊の首は 89 個 ・ 政府軍の死者は 1,000 人前後 ・ 負傷者は 2,000 人 でした。つまり賊の首を 100 個も取れないのに、政府軍の死傷者 は 3,000 人という惨めな結果でした。
そこで大和朝廷は坂上田村麻呂を征東副将軍に任命し、延暦 12 年 ( 793 年 )、延暦 15 年 ( 796 年 )、さらに延暦 20 年 ( 801 年 ) には 4 万 の軍を動員して東北に遠征しました。その結果前述した蝦夷の指導者の阿弖利為 ( あてるい ) と 母禮 ( もれ ) は、 500 人 の蝦夷を伴い降伏しました。左図は一説によれば、 えぞ の指導者 阿弖利為 ( あてるい ) ともいわれる、悪路王 ( あくろおう ) の首です。 ところで前述した清水寺の創建者である坂上田村麻呂とのゆかりで、阿弖利為 ( あてるい ) と母禮 ( もれ ) の顕彰碑が、京都の清水寺にあるのをご存じですか?。以下にその碑文があります。
8 世紀末頃、日高見国胆沢 ( 岩手県水沢市地方 ) を本拠とした蝦夷の首領 ・阿弖流為 ( アテルイ ) は中央政府の数次に亘る侵略に対し数 10 年に及ぶ奮闘も空しく、遂に坂上田村麻呂の軍門に降り同胞の母礼 ( モレ ) と共に京都に連行された。 注:)征夷大将軍 [ 6: 東北の屯田兵 ]屯田兵といえば明治初期に北海道の開拓 ・ 北方警備を目的とし、 廃藩置県に伴う失業した士族たちの救済も兼ねて政府により奨励され、本州から家族的移住をおこなった農民兵のことですが銅像は軍服のまま クワを手に持つ姿です。 前述した大化元年 ( 645 年 ) に起きた蘇我氏打倒の クーデター成功後の大化改新により、従来よりも強力な中央集権国家の成立を目指し、そのために東北地方における対蝦夷政策も大きく変わることになりました。
それまで大和朝廷の直接支配地域の外側にあった蝦夷の住む土地にも支配を拡大するために、東北に 辺境開拓の軍事拠点 ともいうべき 城柵 ( じょうさく ) という柵で囲った砦 ( とりで ) を設けて、兵士 ・ 役人 だけでなく 開拓移住者も住まわせましたが、この移住者を 柵戸 ( さっこ / きのへ )と呼びました。写真の柵で囲んだ中の建物は見張り台。 日本書紀によれば、大化 3 年 ( 647 年 ) に新潟市 ( 阿賀野川河口 ) 付近に 渟足柵 ( ぬたりの き ) を築くとともに柵戸 ( さっこ / きのへ ) を付属させ、翌年にはさらに北にある現・新潟県 ・ 村上市 ・ 岩船付近に磐船柵 ( いわふねの き ) を造営して越の国 ( 越前 ・ 越中 ・ 越後の国のこと ) と信濃の人々を柵戸 ( さっこ / きのへ ) として移住させました。 大和朝廷はこのようにして支配地域を拡大しましたが、柵戸の所在地には都岐沙羅 ( つきさら、山形県庄内地方 ? ) ・ 多賀 ・ 玉造 ・ 新田 ・ 牡鹿 ( おしか ) ・ 色麻 ( しかま ) ・ 雄勝 ( おがち ) ・ 桃生 ( もののお ) ・ 伊治 ( これはり ) ・ 秋田 ・由理 ・ 中山などがありました。
以上合計 1,800 戸 プラス 1,000 人 でした。 [ 柵戸 ・ 移住者の合計 ( 647〜802 年 ) ] 大化 3年 ( 647 年 )から 延暦 21 年 ( 802 年 ) までの期間について、日本書紀 ・ 続日本紀 ( しょくにほんぎ )・ 日本紀略 ( きりゃく ) ・ 続日本後紀 ( しょくにほんこうき ) に人数が記載されているものだけでも、柵戸に移住した / させられた者の合計は 1,800 戸 プラス 19,490 人 であり、種別については良民の百姓だけでなく、 逃亡兵士 ・ 浮浪人 ・ 貨幣偽造犯 ( 40 人 ) ・ 殺人犯などの 犯罪者 ・ 孤児 100 人も含まれていました。
[ 7: えみし の呼び名の変遷 ]今昔物語集、巻 第 31 に、「 安倍頼時、胡国に行きて空しく返れる語 ( 帰った話 ) 」 がありますが、安倍頼時が陸奥国の奥にいる 夷 ( えぞ )と同心 ( 同じ心の意味から、一味 ) との噂が立ち、陸奥守を務める 源 頼義 ( よりよし、985〜1078 年 ) の耳に入りました。危険を感じた安倍頼時は従者を連れて、胡国 ( 北方の国 ) に逃げるため渡海しました。そこで大河 ( 北海道の石狩川 ? ) を見つけて 30 日間上流にさかのぼった時に胡人の軍団に遭遇し、前途に不安を感じた頼時は陸奥国に帰ってきましたが、その後天喜5 年 ( 1057 年 ) に前 九年の戦 ( 注参照 ) で討死にしました。ここで重要なことは 夷 の文字を 、 えぞ と読むようになったことでした。従来は えみし と読んでいたものが、11〜12 世紀にかけて えぞ と読むようになりました。その背景には アイヌ文化の成立につながる大きな変化が起こっていたからでした。 えみし の名称を調べる過程で資料を読めば読むほど、 えびす ・ えみし ・ えぞ、それに アイヌ との互いの関係が混乱ましたが、時代の推移により、また該当する地域の移り変わりにより、呼び名が変化したからでした。
[ 8: アイヌ の起源について ]アイヌの起源については、昔から大別して以下の 4 説があります。
しかしながら 彫りの深い顔立ち、多い 体毛、四肢骨の プロポーションなどは、近隣の蒙古系人種とは外見上異なっていますが、人種 ・ 種族毎の データを比較した場合に アイヌ の骨格と最も近いのは、日本各地から発掘された縄文人の骨でした。このことから後期 ・ 旧石器時代人の子孫に当たる 縄文人が アイヌ の先祖に当たり、アイヌ は進化の過程で そこから分岐した種族 であるとする説が一般的となっています。 では縄文時代とはいつ頃のことでどのくらい継続したのかといえば、研究者により諸説あるものの、縄文土器を AMS ( Accelerator Mass Spectrometry、加速器 質量分析法 ) で測定した結果によれば、縄文草創期の始まりの 15,000 年前から、縄文晩期終了の 2,800 年前まで の、約 12,000 年間をいいます。 ところで北海道各地から発見された縄文土器については、最古のものは縄文早期 ( 12,000 年前 〜 7,000 年前 ) に属するとされる土器であり、本州で発掘され名付けられた 縄文草創期 ( 15,000 年前 〜 12,000 年前 ) の土器については、未だに発見の確実な資料がありません。このことから 旧石器時代人を先祖とする縄文人から アイヌが分岐したのは、 今から12,000 年前 のこと であり、寒冷地での生活に適するように体毛などが発達したものと推定されます。
[ 9: えぞ ( 蝦夷 ) は アイヌ か、日本人か ? ]前述のように平安時代後期 以後は えみし という言葉を使わずに えぞ を使うようになりましたが、えぞ とは アイヌ であるとする説と、いや そうではなく 辺境に住む日本人 であるとする 2 通りの説がありました。
江戸時代を代表する学者のひとりであり前述した 荒井白石 ( はくせき、1657〜1725 年 ) は、著書 「 蝦夷志 」 の中で 、日本書紀などにある越 ( こし、越後 ) や陸奥 ( むつ、現代の東北地方太平洋側 ) に住む えぞ は、渡島 ( わたりしま ) アイヌ、すなわち北海道の アイヌが 内地 ( 本州 ) に移動したもの。つまり えぞ とは アイヌ であると考えました。そして アイヌが内地に移動した時期については
夷種 ( いしゅ、アイヌ人種 ) の内地に分居すること、その始まり詳 ( つまびらか ) にすることを得 ( う ) べからずとして、極めて古い時代のことなので分からないとしていました。
人間の頭の形を示すひとつの方法には、頭を上から見た場合の 前後の長さ ( L ) と、横幅 ( B ) との割合 を計測することにより得られる 頭長幅指数 ( とうちょう ふく しすう 、 B 割る L 、掛ける 100 ) という数値がありますが、左図はその値の グループ分けで これを見れば人種や種族により値が異なることが分かります。 インターネットの高速回線をご利用の方は ここを クリックする と より鮮明な画像を見ることができます。 グラフの最上段に 71 から 86 までの 頭長幅指数 がありますが、この指数の値が 小さいほど 頭の形が前後に長い 長頭形 であることを示し、 大きいほど 円形に近い 短頭形 になります。グラフの黒点は、日本人の頭長幅指数の分布を示し、 赤色の囲み線 は純粋 アイヌの、 青の囲み線 は混血 アイヌの頭長幅指数の範囲で、 緑色囲み線 は日本人の平均の範囲です。
グラフを見ると純粋な アイヌの頭長幅指数は 76 で形は長頭形であるのに対して、日本人の頭長幅指数は 81 であり、長頭形と モンゴルや朝鮮族などの短頭形 ( 円形頭 ) の中間の頭形になりますが、これを見るかぎり日本人は純血 アイヌとは明らかに違いがあり、朝鮮人よりもむしろ中国人と形質学的に近い関係にあるといえます。写真は カラフト ( サハリン ) ・ アイヌです。 さらに混血 アイヌ群の指数は純粋 アイヌ群を離れて、日本人のうちの東北や裏日本 ( 越前 ・ 越中 ・ 越後の国 ) に多い 中頭形 であり、アイヌが現代の日本人の構成に関連している証拠でした。 えぞ とは日本人か ? アイヌ か? の件に関しては、学術的にも種々の説があり いまだに確定されていませんが、 本州の えぞ に関する私の考え方としては、
人種的には縄文時代から北関東以北に住んでいた 日本人 を基本にして、 北海道から南下した アイヌ との長年にわたる混血 ・ 同化を経た者や、柵戸 ( さっこ / きのへ ) として東北の地に移住させられた人々も含みますが、
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