ダウン・バースト(下降噴流)
[ 1:クリスマスの夜の悲劇 ]平成 17 年( 2005 年 )12 月 25 日、羽越線での脱線事故の発生は、クリスマスの夜のことでした。JR東日本によると、秋田発新潟行きの 特急いなほ 14 号は、雪の影響で酒田駅を 1 時間余り遅れて出発しました。最上川に架かる鉄橋 ( 長さ約 6 百 メートル ) を通過した直後、6 両編成の車両すべてが脱線し、うち 3 両は転覆して大破しました。先頭車両は線路沿いの小屋に激突し、車体は 「 く 」 の字に変形し、4 月のJR尼崎脱線事故を思わせる惨状を呈しましたが、死者 4 名重軽傷者 33 名も多くがこの車両の中や周りに集中していました。 山形県庄内町のJR羽越線の現場付近はこの日 暴風雪警報が発令され、事故の直前には 約 9 キロ離れた酒田市 で最大瞬間風速 21.6 メートル の強風を記録していました。JR東日本の運行規定によると、風速 20 メートルを超えた場合に駅長が運転指令に報告し、25 メートルで徐行、30 メートルで運転を見合わせるなどと 3 段階の基準を設けていました。
[ 2:ダウン・バースト、Down Burst ]この言葉は航空機の パイロットの間では昭和 50 年代から、 ウインド ・ シアー ( Wind Sheer、後述 )と共によく知られていたものの、一般の人々にとっては今回初めて聞く言葉でした。 Burst とは破裂、爆発の意味ですが、羽越線の事故については、 ダウン ・ バーストと呼ばれる強い突風 が関係していたことが明らかになりました。 一部の マスコミはダウン ・ バーストのことを 下降気流 などと報じていましたが、明らかな間違いであり 発達した積乱雲の中で 局部的 に発生し、底部から地上に向けて噴出する、強力な 下降噴流 ( 又は奔流 ) と称すべきものでした。 山形地方気象台 酒田測候所の観測によれば、事故発生時と重なる12 月 25 日午後 7 時 10 〜 20 分ごろ、
寒冷前線の通過に伴って秋田県南部から佐渡ヶ島にかけて、線状に並んだ積乱雲が東へ移動していた。雲の頂上は 6 千〜8 千 メートルで、通常の高度約 3 千 メートルよりも 2 倍〜2 倍半以上も高いものであった。冬場でこの高さまで発達する雲はあまり見られない。かなり勢力の強い積乱雲で、ダウンバーストが発生した可能性は十分にあると述べていました。 JR東日本によると運転士(29)は同社の事情聴取に対し、
橋梁( きょうりょう ) 通過後、雪混じりの風が吹き車体が傾いた。大きな力で一気に押し出されたと説明し、さらに縦揺れの強い衝撃があったとも話していました。
現場から約 7 キロ 西の酒田市広栄町では事故発生とほぼ同時の 25 日午後 7 時ごろ、 風速 40 メートル の風にも耐えられる はず の国道 7 号線の防雪柵 ( さく ) が 、東へ約 20 メートル飛ばされていました。国交省酒田河川国道事務所によると、重さ 105 キロ の鉄柵が 5 セット飛ばされ ましたが、柵 1 セットは鉄板(縦 50 センチ、横 4 メートル ) 4 枚組で、「 管内 50 カ所で過去 15〜16 年間に防雪柵が飛ばされたことはない 」とのことでした。
[ 3:ダウン・バーストの分類 ]( 3−1、大きさから )
前述の如くダウン・バーストとは積乱雲(夏季に見られる入道雲と同じ)の底から、局部的に狭い範囲で地面に向けて吹き出す激しい空気の流れのことをいいます。その速さは最も強いダウン・バーストの場合は、時速160キロメートル(秒速44メートル)から時には時速240キロ(秒速67メートル)にもなり、地面に衝突すると次には水平方向へ広がり、その際には秒速50〜70メートルの激しい風により周囲に大きな被害を及ぼします。写真はその様子です。 この局地風の広がりが半径 4km 未満の小型(範囲が狭いだけで、風が弱い意味では無い)のダウン・バーストをマイクロ・バーストと定義し、4km を超える大型のダウン・バーストを、マクロ・バーストと呼んでいます。 ( 3−2、特性から ) 米国の研究によると大気の状態が不安定で雷雲が発生する場合には、60〜70パーセントの高い確率でダウン・バーストが起きることが知られています。 さらに詳しく調べるとダウン・バーストには湿潤型ダウン・バースト( Wet Down burst )と、乾燥型ダウン・バースト( Dry Down burst )の二種類が存在することが分かりました。左の写真は雲や激しい降雨が地上に接する一般的な湿潤型のダウン・バーストの様子ですが、発達した積乱雲から強い雷雨や雪と共に激しい風が地面に吹き下ろし、そこから水平に広がって羽越線脱線事故のような強風となりますが、多くの場合に稲妻、雷鳴などを伴います。
これに対して右側の写真に示す乾燥型マイクロ・バースト(小型のダウン・バースト)の場合は、上空に乾燥した空気が多く存在する場合であって、降雨が地上に達する以前に途中で蒸発するか、あるいは降っても僅かな量しか降りません。更に稲妻を伴わない場合もあり、積乱雲の雲底高度も高いという性質があります。しかし油断は禁物で、強烈な風が吹くことには変わりません。写真では降雨は見られないものの、上空から地上に叩き付けられた激しい空気の流れ(風)により巻き上げられた砂ほこりが、風の激しさを示しています。
[ 4:強風をもたらす原因 ]列車を脱線させるような強風が、突然になぜ吹くのでしょうか?。それには積乱雲の内部を知る必要があります。発達した積乱雲の中には時として ゴルフボール大の雹 ( ひょう、Hail stone )や、外国では直径10 センチ近くもあり、ソフトボール大の雹( ひょ う)を降らせるものもあります。その生成に際しては強い上昇気流によって夏季でも水滴が摂氏零度以下の高空まで持ち上げられて氷結し、重さで落下し、再び上昇気流により高空に持ち上げられるという、積乱雲中での上昇下降運動が繰り返された結果、水滴や氷の塊が互いに結合し、次第に大きく成長したものです。 雲の中で上昇気流と水滴や氷塊の重さのバランスが崩れると、一気に地上に向けて落下を開始し激しい雨や雪を降らせますが、それと共に周囲の空気を摩擦力で一緒に降下させます。 私は現役時代に年間 120 日〜最大で 135 日間 国内、海外の ホテルに宿泊しましたが、いつも シャワーを使い浴槽にお湯を満たして入ったことはありませんでした。シャワーを浴びるには水が飛び散らぬよう浴槽の周囲にカーテンを張りますが、シャワーからお湯を勢い良く出すと、近くの カーテンが必ず シャワーの方向に引き寄せられました。 つまり流れ落ちる シャワーの水が、周囲の空気を 一緒に引きずり下ろすからでした。積乱雲の中でも同じ現象が起きていて、高空から水滴( 氷塊 )の落下と共に、周囲の空気も一緒に引き降ろされますが、その中で局部的に水滴の落下速度が速く、水量が多ければ空気の流れは加速され、これが ダウン ・ バーストの基になります。 [ 5:下降気流の加速 ]ではなぜ雷雲の中で下降気流が秒速 50 メートルもの速度まで加速するのでしょうか?。それには地上に達するまでに通過する、乾燥した空気層の存在が関係しています。 ダウン ・ バースト自体は上空に乾燥した空気層がなくても起きますが、途中に乾燥した空気の層があれば、より強力なものになります。その理由は水滴が落下する際に乾燥した空気層を通過すると急激に蒸発が起こり、その際に 気化熱を奪われて 水滴がさらに低温となり 、下降気流のスピードが増加します。もしこれに前述の雹 ( ひょう )や 「 あられ 」 が混じる場合には、氷から一気に気化する蒸発の過程で 昇華熱が奪われ 、さらに 空気( 下降気流 ) が冷却され、重くなり、加速されます 。この様な物理現象を繰り返しながらより激しい下降気流が形成され、膨大な量の水滴 ( 又は雪 ) と共に地面に叩きつけられて、次には地面に沿って水平方向に向きを変え強風による大きな被害をもたらします。地面に沿って吹く強風により、落下点周囲の空気も引きずられて四方に拡散し、下降する空気は更に加速されます。 ダウン ・ バーストは列車に限らず、特に航空機にとっては深刻で最も注目すべき危険な気象現象です。日本では昭和 50 年代になって外国における航空機事故の情報や教訓から、その危険性が運航関係者の間で知られるようになり、フライト ・ シミュレーター ( 模擬飛行訓練装置 ) を使用して ウインド ・ シアー遭遇時からの回復訓練もおこなわれるようになりました。米国ではマイクロ・バースト ( 小型のダウン ・ バースト、ウインド ・シアーなど )に関連して、これまで 20 件の事故が発生し 650 人が死亡しました。
事故機は高度 500 メートルを飛行中に ウインド ・ シアー( Wind Sheer、風の急変、ダウン ・バーストや、前線通過などの際に生じる風向、風速の急激な変化のこと ) に遭遇し、急激に高度を失い墜落しました。パイロットは計器の監視よりも外の対象物の視認に努めていて、 機体が大きく沈み込んでいること に気付くのが遅れましたが、N T S B ( 国家運輸安全委員会 ) は、仮に パイロットが即座に対応していても、ウインド ・ シア−の規模から推測して回復が間に合わなかったとしていました。 上図について マイクロバースト( ウインド ・ シアーと下降噴流 )がもたらす 事故機の 飛行経路 を説明しますと、飛行機は常に風に向かい着陸し離陸しますが、着陸する場合は通常、滑走路に対して 2.5 度〜 3 度の降下角で降下を続けます。 「1」の地点に来ると マイクロバーストによる向かい風が急激に増加するので、揚力が急増し機体は自然に降下経路から上方に逸脱します。パイロットは正常な降下経路に戻すため機首を下げますが、そのままでは飛行機の速度が増えるので エンジンの出力を絞って対応します。 「2」の段階では向かい風が突然止むと前述の揚力が今度は急減し、次には強い下降噴流( ダウン ・ バースト ) を受けて飛行機は急激に下に押し下げられます。前述した事故機の パイロットが機体の大きな沈みに気が付かなかった、というのはこの時点のことです。 「3」の段階では、強風を今度は追い風で受けることになり、飛行機は速度を失って失速状態に近づきます。それと共に下へ押し下げられる力が重なり、機長が墜落の危険を感じてエンジンの出力を最高出力まで上げて上昇回復を試みますが、ジェット・エンジンの特性でもある 加速の遅れ も重なり、回復操作が間に合わず多くの場合飛行機は滑走路の手前に墜落する事態になります。 この危険から逃れる為には、 君子危うきに近寄らずで 、
[ 7:ニューオルリーンズの飛行機事故 ]昭和 57 年 ( 1982 年 )7 月 9 日、ネバダ州 ラスベガス行きの パン ・ アメリカン航空 759 便 ボーイング 727 が、ニューオリンズ国際空港を離陸直後、空港から約 1.5 キロメートルの ルイジアナ州 ケナーの住宅街に墜落しました。この事故で乗員 8 名、乗客 137 名、計 145 名全員と地上の 8 名の合計 153 名が死亡し、地上の 16 名が重傷を負いました。 事故機は離陸直後に マイクロバーストによるウインド ・ シアー に遭遇したことで、 38 ノット( 19 m/秒 )もの急激な向かい風の減少に次いで、毎秒 7 フィート( 2.1 m/秒) もの下降気流に見舞われました。 パイロットは ウインド ・ シア−の存在の可能性を認識し、通常よりも早い離陸速度を設定し、 空調を止めて ( 注参照 ) エンジン推力を確保するなど、ウインドシア−対策をとりましたが、それにもかかわらず自然の猛威に打ち勝てませんでした。写真は同社の ボーイング 727−100 ( 短胴型機 )で、事故機ではありません。
注:) [ 8:ダウン・バーストの名付け親 ]発達した雷雲中における強烈な下降気流の存在とその仕組みを初めて解明し、それを昭和 51 年 ( 1976 年 ) にダウン ・ バースト( Down Burst)と命名したのは、元 シカゴ大学教授で気象学者の故藤田哲也 ( 1920〜1998 年 ) 博士でした。前述の昭和 50 年 ( 1975 年 ) 6 月に ニューヨーク J F K 空港で起きた ボーング 727 型機の墜落事故の原因は、藤田哲也教授らを中心とする気象調査 グループによって、ダウン ・ バーストによる風の変化が原因であったことを突き止めました。 藤田教授は ダウン ・ バーストの研究だけでなく、ダウンバーストがさらに強くなると、下降噴流によって強風が渦を巻き出して竜巻になっていくことを発見し、さらにドプラー ・ レーダーにより竜巻の親雲になる雷雲を見つることにより、竜巻の発生を事前に予測できることを発見しました。 竜巻( トルネード、Tornado ) の研究においても、竜巻の風によって受けた家屋や自然物などの被害が 「 風力計 」 の役目を果たしていると考え、被害状況から竜巻の風力の大きさを推測できる基準を作りました。これが 藤田 ・ スケール( F−Scale )といわれるもので、国際的に竜巻の強さを決める基準 ( F−0 〜 F−5 最 大) として現在も使われています。藤田教授が帰国した際に、社内で講演を一度聴いたことがありました。
[ 9:風速計に代わるべきもの ]マスコミは例によって最上川に架かる羽越線の鉄橋付近に風速計が設置されていなかったことが、あたかも事故原因の一つの如くに報じていました。事故現場には風速計がなく、約 1 キロメートル北にある風速計が事故直前に風速が 20 メートル未満だったため、警報装置が作動しなかったからだ。−−−つまり風速計の設置場所に問題があったとしました。基本的なことですが風速計は 現在吹く風の強さ を測定する計器であり、列車の運行にとって危険な ダウン ・ バースト をもたらす積乱雲の 接近を知らせるものではなく 、まして突然吹き始める烈しい風を 事前に予測するものでもありません。そのような計器を鉄橋付近に何個設置しても、列車の安全運行には余り役立たないのは誰もが分かることです。
全国にこのような風速計が 1 千箇所設置されているといわれますが、技術的に百年前と変わらぬ風速計だけに頼るのではなく、前述の如く現場から 9 キロの距離にある山形地方気象台、酒田測候所に ドプラー ・ レーダー( Doppler Radar)を設置さえすれば、例えば高度 600 メートル以上の雲の存在を、半径 50 キロメートル以内で探知可能です。更に アンテナの チルト( Tilt、上下の傾斜角度 ) を制御することにより、遙か遠方の積乱雲の位置や移動方向、速度が探知可能です。 これにより ダウン ・ バーストの存在を正確に探知することができ、J R を含む交通機関、自治体などに現実に即した警報を出すことが可能で、ハイテクの時代に相応しい対応と考えます。ちなみに米国では 竜巻( トルネード )などの接近情報は、主に テレビや ラジオを通じて地域住民に流されます。( 写真は ドプラー ・ レーダ ・アンテナの塔 ) 測候所から更に遠く離れた強風地帯においてもドプラー ・ レーダーを設置し、 リモート ・ センシング( Remote Sensing 、遠隔操作による測定制御 ) の技術 の使用により、測候所に レーダー情報をもたらすことは可能です。 J R 東日本と気象庁がこの点について業務提携しさえすれば、気象による列車事故を防止することができます。
[ 10:ドプラー・レーダーとは ]昔の旧制中学校 ( 現高校 ) で理科の時間に習った ドプラー効果 を思い出してみると、たとえば道端に立って パトカーの サイレンを聞く場合、接近するにつれて音が次第に高くなり ( 音の大きさではなく高低の意味 )、通過後には音が低くなるように聞こえます。その理由とは接近する場合は音の波長が圧縮されて短くなり、そのために周波数が高くなったように聞こえ、遠ざかる際は逆に波長が引き延ばされて周波数が低くなったように聞こえるからです。つまり移動する物体から発射 ( 又は反射 ) された波動( 音波や電磁 波)は、物体の移動の早さ、方向によりその周波数が変化して受信される現象です。この原理を発見したのは オーストリア人科学者の クリスチャン ・ ドプラーですが、彼の名前から ドプラー効果と名付けられました。この原理を応用したのが ドプラー ・レーダーで、発射した電波と反射電波の位相のズレから物体の移動速度、方向などが得られ、それにより積乱雲や ダウン ・ バーストの位置、範囲、移動方向、速度などを知ることができます。
画像について説明しますと左側が ドプラー ・ レーダーの画像に地図を重ねたもので、右側が通常の 「 反射型 」 レーダーの画像です。
[ 11:役人根性の弊害 ]昭和 43 年( 1968 年 ) のこと、大阪空港の東にある生駒山系の 高安山に気象庁の新型気象 レーダーが建設されました。航空会社では大阪空港に離発着する飛行機の安全に重大な影響を与える周辺の雷雲の情報 ( エコー ) を得るため、雷の多い夏場の大気が不安定な日だけ社員を高安山観測所に派遣し、気象業務を邪魔しない範囲で、数時間おきにでも気象 レーダー 画面を見せて欲しい旨、大阪管区気象台、高安山気象 レーダー 観測所に頼んだところ、気象台からきっぱり断られました。他人に見せたら減るものでもないのに。
国の予算で気象台が作った レーダー を、部外者は見る資格が無い。まして営利企業の航空会社には見せられない。レーダー画像が見たければ自分で気象 レーダーを設置しろ。気象業務のことを米国では Weather Service といいますが、その目的は天気予報を含めて国民への サービス業務 に他なりません。しかし敗戦後 25 年経っても官尊民卑の意識は、当時の気象台の 尊大な公務員( 公僕 )たちに深く染みついていました。 ところでこんな話をご存じでしたか?。昭和 39 年 ( 1964 年 ) に台風の砦 ( とりで ) として富士山頂に気象 レーダーが完成しましたが、富士山 レーダーを苦労して建設しその運用に当たる気象庁が、運用開始予定日 ( 昭和 39 年 9 月 1 日 )を マスコミの 一部に リークしました。ところがそれを聞いた電波の管理 監督、検査権限を持つ電波庁が、自分達の 許認可権限 を犯されたとしてひどく怒りました。そこで気象庁の レーダーの責任者であった測器課長が電波庁に行き、相手の係長、調査官、補佐官、課長と順に頭を下げて謝罪を繰り返しましたが、怒りは収まりませんでした。
台風来襲 シーズン の最中にもかかわらず、 電波庁は富士山 レーダーの完成検査の期日を 意図的に 半月間遅らせるという陰湿な権限行使により、気象庁へ たっぷりお礼返 し をしましたが、その結果、 最もレーダー観測が必要な季節 における富士山 レーダーの使用開始が遅れました。写真は完成の翌年発行された郵便切手ですが、今は 80 円の封書も昭和 40 年当時は 10 円で送ることができました。 この経緯を題材にして 新田次郎 が小説 富士山頂 を退職後に書きましたが、彼こそが当時気象庁の測器課長として富士山 レーダー建設の指揮をとった本名、藤原寛人その人でした。 庁益あって 国益なし、公共の利益不在の役人根性については、電波庁も気象庁も同じ穴の 「 むじな 」 でした。 となると官民の垣根を超えた、気象 レーダー回線の分岐、共用による鉄道の安全性向上など夢のまた夢で、航空関係者の間でよくいわれる 墓石の安全( 注:参照 ) の事態にならないことを祈ります。
注:) 現代における航空機の安全性は、無数の墓石の積み重ねの上に築かれてきましたが、未だに事故とは無縁ではありません。写真は昭和 63 年 (1988 年 ) 8 月 12 日 ( お盆の日 )に 520 名の命 が失われた、日航機 御巣鷹山墜落事故現場から近い、群馬県藤岡市の体育館に設けられた遺体安置所の様子です。殉職した T 機長の顔は知っていました。( 合掌 )
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