ソクラテスの死
毒を飲むのが少しばかり遅くなったところで、もう何も得るものはない。それにもかかわらず、生にいつまでもしがみついているのは見苦しいと思わないか。さあ、後生だからわしの言うとおりにしてくれ。そこで クリトン は、近くにいた少年にうなずいて合図を送った。少年は部屋から出ていったが、長いこと戻ってこなかった。やがて戻ってきたときには、 毒杯 を持った男といっしょだった。ソクラテスはその男をみると、こう尋ねられた。 「 さて、わしは何をしたら良いのかな?。」 「 何もなさる必要もございません 」男は答えた。 「 これをお飲みになって、歩き回ってくださればいいのです。足が重たくなったら、横になられるように。あとは、毒が自然と回ってまいります 」 言い終わらないうちに、男は杯を差し出した。 ソクラテスは落ち着いた様子で手も震わさずに、顔色ひとつ変えずにそれを受け取られた。そしていつものように、おだやかな目で男をしっかりと見つめて尋ねられた。 「 これを少しばかり御霊 ( 神 ) に献上することは、許されないだろうか? 」、 「 ソクラテスさま、毒は必要最低限しか用意されてございません 」、 「 そうか、ならばこの世からの旅立ちが幸せなものになるよう、せめて神々に祈りの言葉を、願わくば、わが祈りが届き、許し賜らんことを 」 そう言って杯を口元に持っていき、ためらうことなく飲み干された。それを見ると、居合わせた者たちの目からはそれまで 一心にこらえていた泪が 一気にあふれ出てきた。どれほど抑えようとしても、押しとどめることができなかった。 ソクラテスは指示どおり部屋の中を歩き回り、足が重くなると仰向けに横たわられた。毒杯を運んできた男は ソクラテスの体の上に両手を置き、しばらくすると、彼の足に触れた。それから力を込めてつねり、感覚があるかどうかと尋ねた。ソクラテスが 「 ない 」 と答えると、彼の体を下方から上へと順々に確認していった。体は徐々に冷たく、硬くなりつつあった。 彼は再び体に触れ、冷えが心臓まできたら、そのときが最後だと言った。いまや腿 ( もも ) のあたりまで冷たくなってきた。このとき ソクラテスは、顔にかけられていた覆いを自ら払い除けて、こう言われた−−−。そしてそれが彼の最後の言葉になった。 「 クリトン、アスクレピオス ( 医の神 ) に鶏を 一羽、お供えしなければならなかった。忘れずにやってくれ 」 「 はい、承知いたしました 」 クリトンは答えた。「 ほかに何か−−−。 」 この問いに対する答は、ついに聞くことができなかった。 哲学とは死の練習である 、とかつて言った ソクラテスの最後であった。
プラトン著、[ パイドン ] より
|