銭屋五兵衛の没落

[1:銭屋五兵衛の記念碑]

踏切五兵衛記念碑

江戸時代の豪商に銭屋五兵衛( ぜにや、1773〜1852年)という人がいましたが、たしか加賀 ( 石川県)出身のはずでした。ところが私の散歩コースの途中にある兵庫県北摂地方の、栄根寺 ( えいこんじ ) の廃寺跡にある遺跡公園内に、なぜか銭屋五兵衛の記念碑があったので不思議に思いました。それと共にすぐ近くを通る阪急電車の踏切にも銭屋踏切と書いてあったので、この場所と銭屋五兵衛との間に何らかのつながりがあったのではないかと思い、興味が湧きました。

碑文には丸印の中に五を書いた家紋( 帆印 )と共に、日本貿易開祖、 銭屋五兵衛記念碑とありましたが、説明文によれば、

銭屋五兵衛は安永2年(1773年)に加賀の国、宮越(みやのこし、現石川県金沢市)の商家に生まれた。家業の質業を継いだ五兵衛は質流れの古船で海運業に乗り出し成功を収め、富を築き(加賀)藩の御用を受けるまでになった。しかし晩年加賀の河北潟 ( かほくがた )の干拓に乗り出したところ、死魚が出たり、それを食べた人が中毒死する事件が起き、疑いを掛けられた五兵衛とその一族は捕らえられ、嘉永5年(1852年)に五兵衛は牢内で非業の死を遂げた。

生前の五兵衛と交流のあった栄根寺の本寺である西光寺は、彼の遺徳を偲び明治35年(1902年、死の50年後)に東塚一吉の援助を受け、この地に 銭屋五兵衛の碑を建立した。

と記されていました。これを読めば河北潟の埋め立て工事の公害が原因で、住民に死者の被害をもたらした結果、銭屋五兵衛が罪に問われたと思われますが、実際はそれほど単純なものではなく、加賀藩内部の権力抗争や、富を得る為の外国との密貿易、財政赤字に悩んだ藩が彼の莫大な財産を狙った陰謀説など、色々な説が取り沙汰されました。

ところで説明文に名前がある西光寺や東塚一吉という人物についても調べてみると、大正4年に書かれた「摂北温泉誌」によれば、銭屋五兵衛の記念碑に関して美文調で、

銭屋五兵衛の記念碑は停留場より一丁北なり、奇石巨岩を以て小丘を造り、丘上建つるに碑を以ってす、是れ福井県敦賀町仁侠の志士 東塚一吉の寄附する処、地勢高燥にして閑雅俗塵を断つ、眺望頗る好く伊丹附近の田園及尼ヶ崎の白波も一眸の裡に集む、西は六甲山禿峰奇巒と相対し、東は五月山の鬱蒼たるあり、春風駘蕩桜花の候及び秋気満天楓樹の夕、明月麗花共に詩人墨客の一遊に価す。炭酸泉あり脚気病痔病に大効能ありて、一度入浴せば必ず験( しるし ) ありと、古霊泉として太閤時代迄噴水せしも後一時止みたりしも 東塚一吉之を開きしに、再び噴水するに至れり、料理店旅館を設け内湯として開設す。
とありました。西光寺についても調べてみると、東塚一吉の出身地である福井県敦賀市に今も同じ名前の寺があるので、その寺ではないかと最初は思いました。しかし川西市史の 「 かわにし 」 第1巻によれば、

栄根寺は天正年間(1573〜1592年)の兵火で荒廃し、寛永8年(1631年)から現大阪府池田市にある西光寺の支配をうけ、留守僧をおくだけの寺となった。

と書いてあったので、私の推測は間違いであり敦賀市の西光寺ではなく、ここから数キロ東にある隣接市の西光寺のことでした。なお栄根寺は奈良時代からこの地を支配した氏族の氏寺(うじでら)として建てられ、平安時代後期(11世紀)に建立された仏堂の遺跡がありましたが、江戸時代に建てられた薬師堂は、平成7年の阪神淡路大震災の際に全壊しました。 

[2:評価の変遷、銭屋五兵衛の場合]

銭屋五兵衛

銭屋銭屋五兵衛ほど毀誉褒貶 ( きよほうへん、悪口をいわれることと 褒められること )の著しい人物はいませんでした。彼の晩年は金沢近郊の民衆から 、「 藩の権力者と癒着して密貿易をおこない莫大な財産を築き、河北潟干拓工事では毒物を投入した極悪人 」として非難されました。ところが明治以後になると国粋主義の台頭から彼に対する評価は一変して、徳川幕府がおこなった鎖国政策の犠牲者であり、処罰を恐れずに海外に雄飛し、国富を増進させた海外貿易の先駆者であると位置づけられました。

[軍国主義から−−−、マスコミの場合]

時代が変われば物事の価値判断も変わるのは世の常のことですが、問題はそれを如何に先取りしたかでした。私の経験でも昭和20年 ( 1945年 )8月15日の敗戦により、それまで米英撃滅、鬼畜米英を叫んでいた朝日新聞をはじめとする マスコミが、態度を一変させて次には 占領軍として マッカーサーが来日する以前から、 彼の礼賛記事を掲載したのには驚きました。

マスコミの役目は権力に対する チェック機能だなどと、 テレビ朝日の番組で偉そうなことを言う 連中に敗戦直後に マスコミが新しい権力者に、自らすり寄って行ったこと、その変わり身の素早さを教えてやりたいと思いました。

五兵衛は安永2年(1773)に加賀国宮腰(みやのこし、現、金沢市金石町)で銭屋を屋号とする商家の長男に生まれました。幼名を茂助といい、長じてから祖父、父の名前を継いで五兵衛と名乗りましたが、百姓から身を興して銭屋を開いた先祖からは七代目でした。彼は銭屋の家憲に従い十七才で父から家督を譲られ、呉服、古着商、木材商、海産物、米穀の問屋などを次々に営みましたが、商売は浮沈が激しいもので、ひとつの業種に固執せずに利益の上がる商いを求め、時機をみては転々と商売変えをするのが、当時の賢い新興商人の生き方とされました。

[3:海に関所はない]

彼が北前船を使って海運業に乗り出したきっかけは、前述したように文化8年(1811年)に質流れの120石船を入手したことでした。江戸時代には東海道、中山道などのいわゆる五街道の交通の要衝以外にも、他藩との国境 ( くにざかい、藩境 )にはほとんど関所があり、人や荷物の往来を取り締まりましたが、その関所の中には関銭 ( せきせん )という通行料を取るものも数多くありました。

関の関所

一例を挙げますと、大阪、京都、奈良から伊勢参りをするには伊勢街道を利用しましたが、初瀬 ( 現・奈良県桜井市 )から伊勢に向かう場合、奈良県の宇陀 ( うだ ) 郡内だけでも 五ヵ所も関所があり、その他に田口( 同・室生村 )と菅野( 同・御杖村 )にも関所がありました。これらは通行する度に、往きも帰りも関銭を払う必要がありました。右の絵は伊勢別街道と大和街道の分岐にある、古くは鈴鹿の関が置かれていた関の関所。国境の関所は関西だけでなく、関東地方でも千住、松戸、市川、秩父、関宿( せきやど )、横川( 上州 )などにもありました。

サバ口

15世紀〜17世紀には、朝廷や武家政権、荘園領主・有力寺社などの権門勢家 ( けんもんせいか、官位が高く勢力のある家 ) がおのおの独自に関所を設置し、金儲けのために関銭 ( 通行税 ) を徴収しましたが、室町時代 ( 1336〜1573年 ) には京の七口 ( ななくち )といわれた、京都に入る七ヶ所の出入り口に関所を設け、いずれかの関所を通行せざるを得ない状況となりました。写真は福井県小浜 ( おばま )と京を結ぶ鯖 ( サバ ) 街道口の碑で、後に見えるのは出町 ( でまち ) 橋です。

足利義政の妻で山名宗全と組んで応仁の乱の原因を作った、金銭欲旺盛な日野富子(1440〜1496年)は、七口で関銭の徴収を決めました。京都相国寺にある、鹿苑院 ( ろくおんいん ) の蔭涼軒 日録 ( おんりょうけん にちろく ) の記述に依れば、寛正3年 ( 1462年 ) 当時は、京に入る淀川筋の関所の数は、なんと 三百八十ヶ所もあって陸上交通を大いに阻害し、庶民を苦しめていました。

しかし戦国時代になると各地の戦国大名が領地の支配権を強めた結果、関銭目当ての関所は次第に減少し行きました。しかし全国的には依然として関所の数が多かったので、たとえ海賊に襲われるという可能性があったにせよ、陸路よりはるかに有利な海上輸送が発展していきました。

琵琶湖輸送路

江戸時代になると前述の如く陸には依然関所が残っていましたが、海の上には藩の境界もなく、入港する際に港の役所で船の大きさに応じて税金を支払えば、自由に往来し商売することができました。北陸や東北地方の日本海側で収穫された各藩の米や幕府直轄地の米を、天下の台所といわれた大阪まで輸送し米市場で換金する為に、それまでは福井県の敦賀港まで北前船で運び、そこから荷物を馬の背に積み替えて、塩津(しおつ)街道を山越えして琵琶湖の最北端にある塩津港まで、24キロの道を運びました。そこからは琵琶湖の水運を利用して南岸の大津港に運び、更に陸路と淀川水系の舟運を利用して大阪堂島の米蔵に運び込みました。なお大津港は天智天皇 ( 626〜671年 )が飛鳥京から大津へ遷都した、667年以来の港でした。

琵琶湖、西回り

ところが伊勢出身の商人でした河村瑞軒 ( ずいけん、1617〜1699年 )が、1672年に東北地方と大阪や江戸を結ぶ航路を開拓し、 寄港地の港を整備したために、日本海を西に向かい下関を経由して瀬戸内海に入り、大阪に至る西回り航路が盛んになり 海の大動脈となったため、敦賀から琵琶湖経由の輸送路は利用価値を失い廃止されました。その後北前船の航路は更に北へ伸びて蝦夷地 ( えぞち ) の函館、松前からのコンブ、海苔( のり )、ニシンの搾り粕 ( 肥料 )などの海産物に加え、酒田港から山形の庄内米を積み、産物の輸送が効率化されました。帰りは大阪で酒、綿、醤油、繊維製品、煙草などの雑貨を積み込みましたが、千五百石程度の北前船の儲けは上り便(大阪行き)で七百両、下り便で三百両合計千両といわれました

なぜ北前船は儲かったのでしょうか?。通常の船では荷物を運びその運賃収入で稼ぐ、 いわゆる 賃積み でしたが、北前船では 買い積み を商売の基本にしました。つまり自己資金で買い集めた積み荷を、各地の寄港地でより高値で販売し、その地方の産物を安く購入して別の港で高く売ることで利益を挙げるという、いわば動く仕入れ問屋兼、卸売り問屋の役目をしたからでした。したがって船頭は船を運航するだけでなく、何百両もの品物、産物を売り買いするための、商人としての才覚も要求されました。しかし冬期の四ヶ月間は日本海の時化が多く船が運休した為に、奥羽地方の港から太平洋経由で江戸に向かう東回り航路や、瀬戸内海航路に遅れをとりました。

[4:密貿易の誘因、上納金]

ところで北前船による海運で巨額の財産を築き日本有数の豪商となった銭屋五兵衛は、大きい船だけでも 二千五百石積みの船が四隻、千五百積みが六隻、千石積みが八隻、八百石積みが十隻、五百石積みが十三隻など多くの北前船を保有していました。彼は当時財政難に悩んでいた加賀藩の勝手方御用掛として、藩政実務のトップにあった奥村栄実 ( ひでざね ) から財政立て直しの為に、多額の御用金の調達 ( 上納 ) を命じられました。

銭屋五兵衛が負担した御用金(上納金)

年 度備 考
文化11年(1814年)加賀藩より御用金の調達を命じられる
文政9年(1826年)加賀藩より御用金を命じられる
文政10年(1827年)加賀藩より御用金を命じられる。
天保1年(1830年)調達銀を上納する。
天保4年(1833年)御用金、十万六千両を調達する
天保7年(1836年)調達銀を上納する。
天保8年(1837年)加賀藩より御用金を命じられる
天保11年(1840年)加賀藩年寄り、奥村栄実へお出入りとなり、献金をする
弘化1年(1844年)幕府への八万両上納のための御調達銀について、船主一統で評定


上表にある如く、 銭屋五兵衛の上納金は三十年間に九回に及びましたが、その中で金額が分かるものは二例しかありませんが、それ以外の場合についても 十両盗めば死罪になった時代に、恐らく 『 万両単位 』 の金額であったろうと想像します。御用金の調達に拍車をかけたのが天保の大飢饉で、天保4年(1833年)から天保7年(1836年)まで続いた全国的な凶作で、これにより藩に年貢米が集まらなくなり、藩の財政は最悪の状態になり各地で農民一揆が起きました。加賀藩では借知 ( しゃくち )と称して家臣から知行米を借りる( 実際には減俸 )により急場を凌ぐことにしました。五兵衛の上納金負担も限界であり加賀藩の財政危機を乗り切る為には、最早外国との密貿易による以外には解決策が無いことを、五兵衛と藩の重役が共に理解しました。

五兵衛は多額の御用金 ( 上納金 ) を引き受ける見返りに、転んでも タダでは起きない商人らしく、加賀藩御用船の主宰 ( 管理者 ) であることを示す『 御手船 裁許状 ( おてせん さいきょじょう )』と『 渡海免状 』を得ると共に、加賀藩首脳から密貿易の黙認という大きな獲物の入手に成功しました

藩の御手船 ( 所有船 ) 裁許( おてせん・ さいきょ、注参照 )により銭屋の持船のうち常安丸が藩所有となり、後に銭屋の持船から三隻が追加されました。加賀前田家の剣梅鉢の家紋が船体に取り付けけられ、家紋付きの提灯や小旗の使用が認められたので、運航を任された銭屋は加賀百万石の威光を背景に、北前船の商売を行い巨利を得ました。以下はその裁許状の文言です。

加州手船宮腰町銭屋五兵衛裁許船頭水主共九人乗永代渡海於浦々異儀有間鋪者也   

弘化三年四月 加賀宰相内 里見亥三郎 津々浦々役人中

注:)御手船 ( おてせん )
危機に瀕した藩の収入拡大を図る為に天保13年以降藩営の海運事業を始めましたが、その際に藩が御手船 ( 御用船 ) として 銭屋五兵衛の所有する北前船を買い上げ、それを銭屋が運航して蔵米や国産の専売品を大坂(大阪)や江戸に運び運賃や販売利益を藩の収入にしました。

加賀藩の取った態度とは、御用金の調達という名目で密貿易による多額の利益を上納させるが、万一幕府に密貿易が露見した場合には、銭屋だけに罪を着せ、藩は知らなかったことにするという、まことに虫のよいものでした。

鎖国令については寛永10年(1633年)以来寛永16年(1639年)まで、五回に亘り発せられましたが、日本船の海外貿易禁止、日本人の異国渡海全面禁止により、渡海した者は死罪、異国から帰った者も死罪という厳重なものでした。しかしオランダには長崎出島での貿易を許し、対馬藩主の宗氏を仲介として朝鮮との貿易を認め、薩摩の島津藩の支配下にあった琉球を仲介として中国大陸との貿易を幕府は黙認していました。つまり江戸時代の鎖国とは国全体の制度ではなく、前述の三ヶ国以外の貿易を禁止するという、単なる禁止令に過ぎなかったとする見方もありました。

鎖国体制下で、 銭屋五兵衛が北前船を使い異国との密貿易をすることは、加賀藩の黙認なくしては到底できなかったことでした。彼の行動範囲は広く、蝦夷(エゾ)から樺太 ( サハリン )、対岸の山丹 ( さんたん )北部から満州、中国、ロシアなどを相手に交易をしました。

[5:タスマニア島の石碑]

ところで明治24年(1891年)5月3日の読売新聞に、下記の信じられないような記事が載りました。

オーストラリア地図

100年前大胆敢為、密かに海外貿易を営み、事顕われて刑せられたる加賀の豪商銭屋五兵衛は、ただ日本近海にて貿易せしものと思いしに、なんぞ図らん、遠く濠 ( 豪 )洲の領地を有せんとは。濠( 豪 )洲の南部タスマニヤに数個の石碑あり。蒼苔(そうたい)深く鎖(とざ)して文字さえ読み難かりしが、今を去ること5,6年前、吾が軽業師かの地に至り、フトこの石碑を認め、手もてその苔を剥ぎ去れば、下より 「 かしうぜにやごへいりようち 」 の十三字露われたり。さては加州銭屋五兵衛の領地にてありしやと、いずれも一驚を喫しぬ。しかるにこの事英人の耳に入りしに、英人は直ちにことごとくその碑石を撤去せしめたりと云う。今その碑石を以って境界となすときは、その領地ほとんど タスマニヤ三分の一に亘( わた )れりと。

上記の内容は、銭屋五兵衛が日本近海で貿易していたと思っていたら、オーストラリアの土地まで保有していたとは!。オーストラリアの東南にある タスマニア島へ興行に出かけていた日本人の軽業師が、現地でコケ(苔)蒸した日本語で書かれた石碑を発見。その石碑には、「 かしうぜにやごへいりようち 」の十三文字が書いてありました。この文字を漢字に直せば、「 加州銭屋五兵衛領地 」であり、加州とは言うまでもなく加賀藩のことで、北前船で活躍した豪商・銭屋五兵衛が、タスマニアを領有していたというのです。その面積は、なんと島の三分の一に及びました。

幻の石碑

この石碑の真贋について調査した ドキュメンタリー本 『 幻の石碑 』 によれば、タスマニアに渡った軽業師のことは、現地の複数の新聞で確認がとれたそうです。しかも石碑発見の日時を、明治20年(1887年)1月12日と特定しています。タスマニア島がイギリス領であると公式に宣言されたのは、1803年に第3代総督のキングによってですが、 銭屋五兵衛が牢内で死亡したのは嘉永5年(1852年)八十才の時でした。領有権の証拠となる石碑を運び去り破棄したのは、当時タスマニア最大の会社であった、キャンベル陶器会社の社長でした。銭屋五兵衛自身が南半球のタスマニア島まで航海して来たという意味ではなく、彼の配下の者がここまで貿易に来ていたことになります。

[6:浜田藩の場合]

前述の如く江戸時代には幕府の鎖国令により各藩が私的に外国と貿易することは禁止されていましたが、石見国 ( いわみのくに、島根県 )浜田藩の回船問屋で御用商人の会津屋八右衛門は、加賀藩同様に借金に苦しむ藩財政を建て直そうとした浜田藩の首脳と共謀して地の利を生かして竹島に渡り、李王朝が支配した朝鮮と密貿易を行いました。更に、ルソン ( フィリピン ) ジャワ、スマトラ(現、インドネシア)など遠く東南アジアへまで足を伸ばしました。この場合の竹島とは、現在韓国との間で領有権紛争がある竹島ではなく、その西北にある より大きな鬱陵島 ( うつりょうとう )のことでした。

間宮林蔵

この密貿易には浜田藩の国家老岡田頼母、国年寄松井図書も関与していて、藩主で老中の松平康任も黙認を与えていたとされ、計画どおり巨大な利益を得て藩の財政状態が好転しました。しかし好事、魔多し ( こうじ まおおし、良いことにはとかく邪魔が入りやすい ) の格言の如く、1809年に間宮海峡を発見した探検家で、後に幕府の隠密に変身した間宮林蔵 ( 1775〜1844年 ) に密貿易を探知され事件が発覚しました。ちなみにオランダ人医師のシーボルトが帰国する際に、伊能忠敬が測量した日本地図のコピーを海外に持ち出そうとした シーボルト事件で、 彼を告発したのも間宮林蔵でした。写真は日本の最北端である宗谷岬に建つ林蔵の像。

天保7年(1836年)6月に大坂(阪)町奉行の手によって、家老岡田頼母の家臣で藩勘定方の橋本三兵衛と会津屋が捕らえられ、12月23日に処分が幕府より言い渡されました。国家老の岡田頼母、年寄の松井図書は切腹、橋本三兵衛と会津屋は斬罪、また藩主の康任は死罪こそ免れたものの、永蟄居を命じられ、次子の康爵に家督は許されたが、間もなく陸奥棚倉に懲罰的転封を命じられました。

その事件から十六年後のこと、金沢周辺では、幕府の隠密出没 のうわさが立つようになりました。

[7:走狗 ( そうく )煮らる]

淀屋橋

大阪の人はご存じですが御堂筋 ( みどうすじ ) が土佐堀川にかかる所に、淀屋橋という名前の橋があります。名前の由来は江戸時代に自費で架橋した豪商の淀屋によるものでした。江戸前期から中期にかけて淀屋は材木商から身を興し、諸藩の蔵米の管理を務めて巨万の富み築き、大坂 ( 大阪 )の総年寄りを兼ねました。しかし町人の分を超えた振る舞いがあったとして幕府の奢侈 ( しゃし )禁止政策に触れて、1705年に五代目、辰五郎の時に闕所 ( けっしょ )処分を受けて全財産を没収され、家は断絶しましたが、 銭屋五兵衛が生まれる約七十年前の出来事でした。

全財産没収の処分を受けた海運業者が他にもいましたが、それは高田屋嘉平の一族でした。高田屋嘉平は享和元年 ( 1801年 )に淡路島で生まれ、のちに国後 ( くなしり ) 航路の発見・択捉 ( えとろふ ) 島開拓の功により、三十三才の時に幕府から「 蝦夷地常雇船頭 」に任じられ、苗字帯刀を許されました。嘉兵衛は漁場を次々開拓し、蝦夷地経営で財をなしました。交易だけにとどまらず、文化9年(1812年)に起きた ロシア船 ディアナ号艦長 ヴァーシリー・ゴローニンを日本側が捕えられた ゴローニン事件では、人質解放に尽力するなど ロシアとの交渉にも重要な役割を果たしました。彼は幕府から次には蝦夷御用船頭に任ぜられましたが、1827年に五十九才で死亡しました。

しかし彼の死から六年後の天保4年(1833年)に、高田屋を継いだ弟の金兵衛が幕府から密貿易の疑いをかけられ、全財産を没収されて高田屋は没落しました。

ところで中国 前漢の歴史家、司馬遷 ( しばせん、前145年?〜?)が書いた史記 ( 前91年頃完成、注参照 ) の中に 『 越王勾践世家 ( えつおう・こうせん・せいか )』 の項目がありますが、そこには

狡兎 ( こうと )死して、走狗 ( そうく )煮らる
猟犬

という言葉がありましたが、その意味は政治の非情さを表したものでした。( 注:参照 )

銭屋五兵衛は加賀百万石の権力者に取り入り莫大な富を得た一方で多額の上納金を納め、藩の財政立て直しに貢献しましたが、権力者が死ぬと反対派からは中傷され逮捕されて牢死しました。彼も走狗の運命 ( さだめ )である悲劇の結末を迎えた一人でした

注:)史記
中国初の歴史書である史記の構成は、帝王の伝記である本紀、年表である、臣下などの伝記である列伝、諸侯などの世襲の家柄の記録である世家 ( せいか )からなりますが、世家三十巻の中に越王勾践 ( えつおう・こうせん )の項目があり、以下の故事が書かれていました。

中国の春秋戦国時代 ( 前770〜前403年 )に越 ( えつ )という国がありましたが、呉越同舟( ごえつ・どうしゅう ) の比喩 ( ひゆ ) で知られる宿敵の 呉 ( ご )の国との戦いに勝利して、越 ( えつ ) がその地方の覇権を握りました。すると戦いに最も功績のあった臣下の范蠡 ( はんれい )は、越王勾践 ( こうせん、?〜前465年 ) のもとを去って斉 ( せい ) の国に行きました。そこで彼は越 ( えつ ) にいた友人の種 ( しょう ) に手紙を送りその中で、「 飛鳥 ( ひちょう ) 尽きて 良弓 ( りょうきゅう ) 蔵 ( おさ ) められ、狡兎死して ーーー。」

つまり「 飛ぶ鳥がいなくなると良い弓は蔵に納められてしまい、すばしこい ウサギが死ぬと、不要になった猟犬は煮て喰われてしまう 」 。種 ( しょう ) の身に危険が迫る前に、早く越 ( えつ ) を離れるように忠告しました。しかし種 ( しょう )は従わなかった為に、後に越王の勾践 ( こうせん ) に謀反 の濡れ衣を着せられて処刑されました。

[8:河北潟、干拓工事]

河北潟 ( かほくがた ) とは能登半島の付け根にあり 加賀百万石の城下町でした金沢市の北にある、周囲 27.3キロ、面積 23平方 キロメートルに及ぶ大きな湖ですが、縄文時代の中頃に形成されたといわれていて、水深は1メートル前後と浅く、最大水深は2メートルしかなく、周囲の水田は腰まで泥に沈むような湿田でした。

昭和初期の湖

その埋立、干拓の歴史は古く延宝元年(1673年)には加賀五代目藩主、前田綱紀 ( つなのり、1943〜1724年 )による 3 ヘクタールの新田開発に始まり、以降数次にわたる小規模埋立が行われた後、嘉永2年(1849年)には銭屋五兵衛が、北前船主仲間の木谷屋籐右衛門、島崎徳兵衛の三名の連署で、加賀藩の改作奉行宛てに資財を投じた河北潟埋め立ての事業認可を願い出ました。230 ヘクタールの埋立により、約五万石の米の収穫が見込まれました。写真は昭和20年頃の河北潟の航空写真を基にしたもので、赤線は湖の範囲、左は日本海に面した内灘です。

北前船で財を成した銭屋五兵衛が、八十才にもなってなぜ干拓事業に乗り出したのかは、いろいろな説がありますが、

  1. これまで銭屋の後ろ盾になり密接な関係にあった加賀藩家老の奥村栄実(ひでざね)が死亡し、それまで冷や飯を喰わされていた反対派の年寄りの長連弘( ちょう・つらひろ )が藩の実権を握ったために報復され、加賀藩公認の船であることを示した 「 お手船裁許状 」と 「 渡海免状 」( 前述 ) を返納させられたこと。

  2. 加賀藩の黙認のもとにおこなわれていた密貿易が、幕府隠密の探るところになり、銭屋一家に危険が予測されたため。

以上の理由により海運業から手を引き、私財を投じて巨大な干拓事業を始めました。湖 ( 河北潟 ) では魚介類が豊富に獲れたので、沿岸の住民の中には漁業で生計を立てていた者もいたましたが、五兵衛の強引な手法による埋め立て工事に反対が起きたのも当然のことでした。干拓工事は水の中に杭を打ち込んでそこへ土砂を流し込みましたが、その際に土砂を早く固まらせる為に石灰を投入しましたが、これが後で大きな禍の原因になりました。

  1. 嘉永5年 ( 1852年 )8月11日、沿岸の村から鮒( ふな )、うなぎ、ごり、あまさぎ ( わかさぎ ) などの魚類が大量死し、流れ出た死魚を食べた鳥類や猫も変死したとの注進あり、原因不明。

  2. 8月12日、加賀藩郡 ( こおり ) 奉行は湖で獲れた魚の食用も販売も禁止し、原因が分かるまで湖の漁業を禁止する。

  3. 8月14日、石灰を積んだ銭屋の船が通ったあと、鮒 ( ふな )、はぜ、ぐず等が多く死んだという風評が出た。

  4. 8月24日、村民が漁業禁止を無視し18日に獲った白ゴリを鮨 ( すし ) にして23日に家族・隣人と共に食べた所10人が食当たりで死亡した

  5. 8月27日、沿岸の農民に湖の死魚を肥料として使用することを禁じた。

  6. 8月29日、大野の醤油製造業者に湖の水の使用を禁止した。

結局五兵衛は湖 ( 河北潟 )に毒物を投入した容疑で嘉永5年 ( 1852年 ) 9月11日に逮捕され、11月21日に牢の中で死亡しましたが、毒殺されたという ウワサもありました。幕府の隠密が決定的証拠を掴まない内に密貿易の件を闇に葬り、加賀藩の安泰を図る為に、銭屋を抹殺する必要があり、その為に魚の大量死の機会を利用したに過ぎないとする説もありました。彼だけでなく番頭の市兵衛と三男も磔 ( はりつけ )になり、一族郎党が全て有罪とされ牢死、死罪を含めて死者は 九名に達しました。

更に家財欠所 ( 闕所 )、家名断絶が申し渡されましたが、家財欠所とは家屋敷、持船、在庫品、家財、動産、不動産全てが藩に没収される財産刑であり、前田家の担当者の試算によればその額は 十二万両になり、これに銭屋の持っていた債権などを加えると総額 二十万両 ( 現代の貨幣価値で百億円 )にのぼりましたが、これを没収したことにより加賀藩の財政悪化はひと息付きました。

しかし長崎の鳴滝塾で シーボルトから オランダ医学を学んだ、藩医の黒川良安 ( まさやす ) が当時藩に出した報告によれば、

湖の魚は石灰の毒に当たって死んだのではなく、湖水の自然腐敗( 有毒赤潮の発生 )によるもので、過去にもその例があった。真夏に獲った魚を 五日後に 「 すし 」にして食べれば、食中毒になるのは当然のことである。

とのことでした。もしこれが正しければ銭屋五兵衛は、無実の罪だったことになります。そこから五兵衛を陥れるための埋め立て工事に関する被害の風説( ウワサ )の流布など、加賀藩による陰謀説がでてきました。

その後、加賀藩内の政治権力の変遷から、銭屋の遺族が長い間待ち望んでいた家名再興の願いが、文久3年(1863年)にようやく許可されましたが、彼の死後十一年目のことでした。

河北潟

事件から百十一年後の昭和38年( 1963年 )から河北潟の干拓事業が農林水産省による国営事業として行われ、二十三年の歳月と三百億円の巨費( 総事業費 304億1千万円、そのうち 干拓費 283億2千万円、土地改良費 20億9千万円 )を投じて、約千百 ヘクタールの農地と八百 ヘクタールの淡水湖が、昭和60年(1985年)に完成しました。しかし皮肉なことに農業は既に減反政策の時代に入っていて、折角造成した干拓地の中には農地に使われずに、牧畜地などになったものもありました。

ある時 車で能登半島を観光した帰途に河北潟にも立ち寄りましたが、雑草の生い茂った水辺に立つと、百五十年前の銭屋疑獄事件のこと、巨費を投じたにもかかわらず時代の変化により方針転換せざるを得なかった干拓事業の結末を見て、なつくさや、つわものどもが夢のあとの俳句を思い出しました。衛星写真は干拓事業が終了した河北潟ですが、昭和20年の写真と比べると埋め立てられた地域が分かります。

[9:スコトン岬に想う]

スコトン岬

この名前を聞いただけで岬の場所が分かる人は、かなりの北海道通です。実は私の親類に大橋清二 ( あるいは清作? ) という人がいましたが、昭和10年代( 1935〜1944年 )に、北海道 礼文郡 礼文島、船泊( ふなどまり )村( 現、町 )、スコトン ( 須古頓 ) にある、スコトン 小学校の校長をしていました。

アイヌ 語である スコトンの語源については色々な説がありますが、その内のひとつは、 「 ス 」 と 「 コトン 」、つまり 「 ス 」 は夏の意味で、「 コトン 」は集落の 「 コタン 」 から変化したもので、「 夏の集落 」 の意味だそうです。岬から見える島は無人島の トド島。

稚内全日空ホテル

大橋校長が島を去ってから六十年以上の年月が過ぎましたが、私の息子が札幌にしばらく転勤していたこともあって北海道には十回近く旅行したものの、それまで礼文島、利尻島には行ったことがありませんでした。そこで七年前に観光を兼ねて親類が住んだことがある スコトンを訪れることに決めました。稚内港の フェリー・ターミナルのすぐ前にある全日空 ホテルに泊まり、朝一番の フェリーで礼文島、利尻島を訪れました。 ちなみに、ここの ホテルの食事は最低で、千七百円の朝食は他の ホテルでは千円以下の質、夕食に食べた五千円の焼き肉は、他所では二千円程度の代物でした。観光 シーズンである夏の 六・七・八月の僅か三ヶ月間で、一年分の儲けを得ようとする ガメツイ商魂が露骨でした

礼文島五兵衛の碑

礼文島の北西端にある スコトン岬に行く途中に江戸屋という地名の部落がありましたが、その丘の上には銭屋五兵衛貿易の地と彫られた石碑が建っていました。五兵衛は本州から北前船に米や酒、タバコなどを積荷にして礼文島まで航海し、北端の港である船泊港 ( ふなどまり )を拠点にして、加賀藩の黙認のもと鎖国の禁制を犯して ロシヤの沿海州や 樺太 ( サハリン ) に行き、ラッコの毛皮や海産物と物々交換をして礼文島に立ち寄ったといわれていました。

スコトン小

江戸屋部落を更に北西に行くと台地の上に目的の スコトン小学校が ポツンとありましたが、その周辺には数えるほどの民家しかありませんでした。それはかつて大橋清二校長がいた当時の古い建物ではなく、冬の激しい季節風や吹雪に備えて鉄筋 コンクリートに建て替えられたていました。さらにこの小学校は通学児童の減少から、既に廃校にされたことを知りました。

稚内

明治の中頃に栃木県の片田舎で生まれた彼が、その後北海道に渡り、どこで暮らしたのか知りませんが、北海道で長年僻地の小学校教育に従事した後に、離島観光など皆無の時代に、僻地の中の僻地といわれた北のはずれの礼文島に、自ら希望して赴任したのだそうです。なぜ希望したのかは今となっては誰にも分かりませんが、彼は一度しかない人生を思いのままに行動したのでした。

礼文岳

右の写真は寂しさのただよう廃校になった スコトン小学校の周辺と、後方に頂上がほんの少し見える山は標高 490 メートルの礼文岳ですが、その昔、故郷から遠く離れた北の最果ての地で、彼は何を想い毎日を暮らしたのでしょうか?。大橋校長は敗戦後に スコトンから東京の練馬区に移り住みましたが、老齢のため身体障害者となって暮らす内に石油 ストーブの火が衣服に燃え移り、波瀾万丈の生涯を閉じました。

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