鎖国と朝鮮通信使
[ 1: 鎖国 ]3 代将軍徳川家光は 封建体制強化のため キリスト教の禁止を理由に、寛永 10 年 ( 1633 年 ) に奉書船 ( 注 参照 ) 以外の海外渡航 ・ 貿易を禁止し、海外に 5 年以上居留する日本人の帰国を禁じましたが、それ以後、寛永 12 年 ( 1635 年 ) には外国船の入港を長崎に限定し、寛永 16 年 ( 1639 年 ) には ポルトガル船の来航を禁止し、寛永 18 年 ( 1641 年 ) には オランダ東 インド会社の商館をそれまでの 平戸から長崎の出島に移しました。 寛永 10 年から 18 年の間に出された一連の法令を 寛永の鎖国令 と呼びますが、これを以て鎖国の開始 ( あるいは完成 ) としています。それ以後続けられた鎖国政策により、日本は 200 年以上にわたり国際的孤立状態を続けることになりました。
注:)奉書船とは ところで鎖国という言葉は元禄 3 年 ( 1690 年 ) に来日し、長崎の出島にある オランダ商館に医師として 2 年間勤務した ドイツ人の ケンペル ( 1651〜1716 年 ) が、帰国後に書いた 日本誌 の付録 第 6に記載されている論文から取ったものです。その題名とは、
現在の如く 国を鎖 ( とざ ) して、国民に国の内外を問わず外国人との 一切の通商を禁ずることが、日本帝国の国益に役立つや否やを論ずといもので、オランダ通詞 ( 通訳 ) の志筑忠雄 ( しづき ・ ただお ) が、享和元年 ( 1801 年 ) に ほん訳して、 鎖国論 と名付けて出版したのが始まりでした。それでは鎖国のあいだ中、日本は長崎の出島に商館を持つ オランダ以外の 外国との一切の通商 をせず、オランダ以外の 外国人は日本に来航しなかった のでしょうか?。実はしていたのです。 [ 2: 部分的鎖国状態 ]前述した徳川家光により布告された鎖国令 ( 1633〜1639 年 ) の遙か以前から、朝鮮の李王朝は日本人の接待 ・ 交易のために国内の 3 箇所に、 倭館 ( わかん ) と呼ばれた客館を持つ居留地 を設けましたが、1510 年には李朝による密貿易取り締まりの強化に反対して、居住していた多数の日本人が 3 箇所の貿易拠点 ( 浦、うら ) で反乱を起こしたことがあり、三浦の乱 ( さんぽのらん ) と呼ばれました。
徳川家康の時代に日朝の国交が回復してからは、延宝 6年 (1678年 )まで、釜山には長崎の出島の 25 倍も広い 10 万坪という広大な敷地を持つ倭館 ( わかん 、居留地 ) を設け、対馬藩から来た 500〜600 人 もの日本の武士、商人、陶工などが居住していました。つまり鎖国時代にもかかわらず、 朝鮮には対馬藩の外交、貿易を司る役所が置かれていましたが 、それだけでなく幕府は朝鮮との貿易を仲介していた対馬藩に、貿易に必要な資金の面でも支援していました。 ところで対馬藩と同様に独自の海外貿易を認められていた藩に、九州の薩摩藩がありましたが、沖縄の 琉球王朝は中国への朝貢国 でありながら、1609 年からは薩摩藩の支配も同時に受けるという、 二重の支配構造下 にありました。琉球から中国に貿易船を出して買い付けた物資を薩摩藩に輸出しましたが、幕府は薩摩藩に対して藩内においてのみ売買し消費するという条件をつけて琉球貿易を認めました。しかし薩摩藩はこの制限をしばしば破り、中国や琉球からの輸入品を藩外にも売りさばき収益を上げましたが、 これを薩摩の 密貿易 と呼びました。 ところで長崎においては出島町人と呼ばれていた貿易関係の豪商 25 人の出資により、寛永 11 年 ( 1634 年 ) に海岸を埋め立てて扇型の出島を完成させましたが、最初は ポルトガル人の収容に使われました。しかし ポルトガル船の来航禁止後の寛永 18 年 ( 1641 年 )には、前述のごとく平戸にあった オランダ東 インド会社の商館を出島に移し、それ以後開国までの 218 年間、出島は唯 一 ヨーロッパに開かれた窓になりました。 長崎を拠点にした海外貿易については、オランダ商館による貿易だけでなく、中国船も年間 約 70 隻が寄港していて 唐船 ( とうせん ) 貿易 をおこないましたが、長崎市内には唐人町と呼ばれた居留地もあり、入れ替わり立ち替わり訪れた中国人船員、貿易商人の数は年間に 4 千人にも及びました。 つまり当時の日本について正確な表現をすれば、完全な鎖国状態ではなく、 部分的鎖国状態 にあったというべきでした。今回は鎖国時代にもかかわらず、朝鮮から 500 人近い大行列を組んで 何度も日本を訪れ、徳川幕府の将軍と国書の交換をした、朝鮮通信使について述べることにします。
[ 3 : 冊封 ( さくほう ) 体制に編入されると ]冊 ( さく ) とは、昔中国で皇帝が発する 勅書 ( 冊命書、任命書 ) のことですが、冊封とは皇帝がその一族、功臣、周辺諸国の君主などに 王、侯 などの爵位を授けて、これを藩国 ( 属国 ) とすることでした。本来、冊封とは中国の国内的な統治手法でしたが、これを 中華思想に基づき 対外的にも用いるようになりました。後漢 ( 25〜220 年 ) の歴史を記した後漢書 ・ 東夷伝によれば、建武中元 二年 倭奴國 奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
という記述がありますが、後漢王朝 初代皇帝の 光武帝 が、奴国からの朝賀使に冊封 ( さくほう )のしるしとして、 印綬 ( いんじゅ、位階を示す官印と それを結ぶ 組ひも ) を賜ったことが記されています。 江戸時代の天明 4 年 ( 1784 年 ) に、福岡県志賀島で発見された 漢委奴国王 ( かんの ・ わの ・ なの ・ こくおう ) と刻まれた金印が、これに該当するものとされます。 3 世紀に書かれた魏志倭人伝 ( ぎしわじんでん ) の中にも、 魏 ( ぎ )、呉 ( ご )、蜀 ( しょく )、の 三国が互いに覇権を争った 三国時代に、邪馬台国 ( やまたいこく ) の女王卑弥呼 ( ひみこ ) が、魏より 親魏倭王 という称号を刻んだ金印を与えられましたが、このことは邪馬台国が 魏の冊封体制へ編入されたことを意味します。朝鮮半島では高句麗 ( こうくり )、百済 ( くだら )、新羅 ( しらぎ ) が中国皇帝の冊封体制に編入され、唐代には新羅、渤海 ( ぼっかい ) がその藩国となりました。しかし 日本は、 6 世紀以降は中国の冊封体制から離脱しました。
14 世紀には明 ( みん ) 王朝が成立しましたが、金閣寺を建てた室町幕府の足利義満 ( 1358〜1408 年 ) は、明の第 3 代皇帝の永楽帝に朝貢使を送り、 日本国王 に冊封されましたが、室町幕府の衰退により、この関係はやがて消滅しました。
では冊封体制に編入されると、その国にはどのような影響があるのでしょうか?。
[ 4:豊臣秀吉の野望 ]
織田信長が明智光秀により京都の本能寺で殺されると、秀吉は中国地方から直ぐに引き返し、摂津国と山城国の境に位置する山崎 ( 大阪府三島郡島本町山崎、京都府乙訓郡大山崎町 ) における合戦で、明智の軍勢を破りましたが、本能寺の変から 11 日目のことでした。その後天正 18 年 ( 1590 年 )には関東に遠征し、後北条氏の本拠地でした小田原城を 三 ヶ月にわたり包囲した末に落城させ、ようやく念願の天下統一を果たしました。 秀吉の次の狙いは国内統一を果たした延長線上に朝鮮を捉え、 仮道入明 ( かどうにゅうみん ) 、 つまり朝鮮半島を通り道にして 明 ( みん ) を征服することでした 。それを裏付ける確実な証拠が イエズス会の日本副管区長の ガスパル ・ コエリョ が ポルトガル本国へ送った報告書にあります。 秀吉の天下統一以前の 1586 年 5 月 4 日に コエリョ は神父 4 人、イルマン ( 司祭よりも下位の修道士 ) 4 人、同宿 ( 同じ師について学ぶ修道僧 ) 15 人、セミナリヨ ( 聖職者教育の予備校生 ) の少年数人、合わせて 30 人あまりを連れて大阪城で秀吉に謁見を賜りましたが、その際に秀吉が述べた言葉として
日本のことが片付けば、これは弟 [ 異父弟、 羽柴 秀長 ( はしば ひでなが ) ] に譲って自分は朝鮮と シナ ( 中国 = 当時の明 ) を征服するために海を渡り、 唐入り ( からいり ) をしようと思う。その為に 二千艘の船を造る。そこで神父たちに頼みたいのは、十分に艤装 ( ぎそう、船に色々な装置、設備を施して、航海可能な状態にすること ) した大きい帆船 二隻を調えて貰いたいことである。と述べた、とのことでした。
[ 5: 朝鮮出兵 ]秀吉は対馬の領主である宗 ( そう ) 氏を通じて、 「 李氏朝鮮 」 の国王に対し、日本への服従と明 ( みん ) 遠征の際の先導を要求しました。しかし朝鮮国王に拒否されたために、秀吉は全国の諸大名に朝鮮出兵を命じ, 遠征軍 16 万人 を編成して朝鮮に攻め入りましたが、これを文禄の役 ( 1592〜1593 年 )と呼びました。 絵図は釜山城の攻略ですが、釜山に上陸した軍勢は僅か 20 日のうちに 漢城 ( ハンソン、現 ソウル ) を陥落させ、小西行長の軍勢は平壌 ( ピョンヤン ) まで進攻しましたが、その後 李朝とは冊封関係にあった明 ( みん ) から 15 万の援軍 が来たため 、明 ・ 朝両国の連合軍に前進を阻まれました。
文禄の役 ( えき ) では、李舜臣 ( り ・ しゅんしん ) が指揮した亀甲船、 ( きっこうぶね、軍船の上部を厚い板で亀の甲のように覆ったもの ) を持つ水軍との海戦に日本の水軍が敗れ、制海権を失った結果 苦戦しました。文禄の役、慶長の役の 二度に亘って朝鮮と戦ったものの戦局は進展せず、日本軍は朝鮮南部に停滞しましたが、秀吉の病死により朝鮮からの撤退命令が出た為に 7 年にわたった戦争は終わりました。なお戦争の間に日本軍は多くの朝鮮人陶工などを捕虜にして、日本へ連行しました。
[ 6: 徳川家康の外交 ]大坂 ( 大阪 ) 夏の陣で豊臣政権を倒した徳川家康は慶長 8 年 ( 1603 年 ) に征夷大将軍となり、江戸に幕府を開き名実ともに覇権を握りました。 室町時代末期には、日朝 ・ 日明貿易の実権が各地の大名に移り、彼等に経済力を蓄えさせたと共に室町幕府の存在が薄れる結果になりましたが、その失敗を手本にした徳川幕府は、 地理的に対外貿易に有利な西日本の大名に先んじて、 朝鮮との和平交渉を積極的におこない国交を回復し 貿易を再開する ことにしました。交渉は徳川家康の委任を受けた対馬藩主の宗義智 ( そう ・ よしとし ) と朝鮮当局の間で進められましたが、徳川幕府が李氏朝鮮との国交を回復し、貿易再開を望む意向があることを伝えましたが交渉は難航しました。そこで日本側が文禄 ・ 慶長の役で捕虜にしていた朝鮮人数百人を返還するなどしたために事態が好転し、日本軍の朝鮮撤兵から 7 年後の慶長 10 年 ( 1605 年 ) に、朝鮮側がその対日不信感をあらわに示すために 探賊使 と名付けた使節団を派遣することに決め、 賊の国である日本の国情を探索し 、再侵略の意図の有無を探ることにしました。 朝鮮の釜山港から対馬に着いた探賊使 一行を対馬藩主自らが案内して上京し、京都伏見城で 二代将軍徳川秀忠に謁見し、隠居して駿府 ( すんぷ、静岡市の古名 ) にいた家康がわざわざ上京してきたので家康とも会いましたが、国交回復に賭けた家康の意欲は並々ならぬものでした。探賊使 一行は朝鮮人捕虜の 男女 1,390 人 を連れて帰国しました。 朝鮮通信使の日本への派遣は江戸時代が最初ではなく、室町時代に 3 回 ( 1428〜1443 年 )、豊臣秀吉の時代にも 2 回 ( 1590〜1596 年 ) おこなわれていましたが、通信という言葉は現代でいうところの情報伝達や、通信連絡の意味ではなく、通信使の場合は 信 に意味があり 「 通信 」 とは 「 よしみ、親しいつきあい 」 を通じる ( 結ぶ ) ことであり、互いに信頼関係を深めあうという意味でした。 引き続き国交回復を求めた日本に対して、朝鮮側が出した条件とは、あくまでも日本側から 講和をお願いする という形式であり、それに応じる形で朝鮮から使節を送るということで李朝の体面を調えようとしました。つまり具体的には、
ところが朝鮮側も対馬藩による国書偽装工作を見破っていましたがそれを荒立てずに、国交再開の条件が整ったとして、使節の派遣に踏み切りました。しかし第 1 回から第 3 回までの使節派遣を通信使とは呼ばずに、 回答兼刷還使 ( かいとう けん さっかんし )の名称を使い続けましたが、「 回答 」 というのは 日本からの国書に対する朝鮮国王の回答書を届けるという意味であり 、「 刷還 ( さっかん ) 」 とは日本に連行された自国民を尋ね調べて帰還させることで、回答刷還使とはこの 二つの役目を兼ねた使節として派遣されました。 何事にも政治の世界には 「 う ら 」 があるもので、王都 漢城 ( ソウル ) にまで日本の軍勢に攻め込まれ 国土を踏みにじられた李王朝が、撤兵から僅か 7 年しか経たない敵国の日本へ使節派遣に踏み切った ( 1605 年 ) 最大の理由は、 北方からの脅威でした 。 前門の虎、後門の狼 という諺 ( ことわざ )がありますが、 北と南の両方から攻撃される事態を避けるために、南の日本とはなるべく早く講和を結びたかったのでした。 中国東北部 ( 満州 ) にいた女真族が族長 ヌルハチ ( 1559〜1628 年 ) のもとで勢力を終結し、中国や朝鮮への圧力を強めていましたが、彼はやがて明朝を倒して 漢民族ではない清朝 ( 1616〜1912 年 ) の創始者となり、アイシンギョロ ( 愛新覚羅 ) の姓を名乗りました。
[ 8:朝鮮通信使 ( チョソン ・ トンシンサ ) への接待]幕府としては朝鮮通信使を招くことによって、諸大名に徳川将軍家の 権威を誇示し 、町人や農民に対しても新しく覇者となった将軍家に対して、 畏敬 ( いけい、心から服し敬う ) の念を起こさせる ことが目的でしたが、それと共に 3 代将軍家光により 1635 年に改定された武家諸法度 ( 寛永令 ) により新設された、大名統制策のひとつである 参勤交代制 と同様に、 沿道の諸大名に財政的支出、負担を強いることにより 、幕府の政治的安定を図るという効果も与えました。
朝鮮通信使 一行は釜山港を出てからまず対馬に立ち寄り、壱岐島、関門海峡を通り瀬戸内海の赤間関 ( 下関市 )、上関 ( 山口県南東部 )、蒲刈島 ( 広島県 )、鞆浦( 広島県福山市 )、室津 ( 兵庫県竜野市 )、兵庫津( 神戸 )、などの各地の港に入港しそこで風待ち、潮待ちをしました。瀬戸内海 第 1 級の外交都市、兵庫津では大船団を迎えるに当たって、尼崎藩をはじめ大阪町奉行所の役人たち関係者が集まりましたが、肉食を好む通信使 一行の接待用に、六甲山地では 28 回におよぶ 猪狩りがおこなわれたと記録にありました。
通信使船団の 6 隻には対馬藩の船 40 隻が随行し、尼崎藩など諸藩の 数百隻の案内・警護船に守られて大坂 ( 阪 )河口に到着しましたが、そこからは吃水の深い渡海船 6 隻から 吃水の浅い 川御座船 ( 左の絵 ) 7 隻 に乗り換えて淀川の流れを遡行し、枚方を経由して京都伏見区の 淀まで 遡りました。1 隻の 川御座船を両岸から引くのに 80 人、小舟の 30 石船で 5 人〜20 人を必要としたので、宝暦 14 年 ( 1764 年 ) の通信使 一行には、 大小合計 105 隻の船を引いた為に、延べ 1,478 人の綱引き人夫 の手により遡行しました。
淀からは陸路で江戸に向かいましたが、下表にあるように通信使 一行は 400〜500 人もの大行列を組み、付き添いの警護の侍、案内役、荷物持ちなど合計で 1,000人〜2,400 人にもなりましたが、それらの交通宿泊費、饗応 ( きょうおう ) はすべて 日本側の負担でした 。 その費用は船団の寄港地や行列通過地周辺の大名、ならびに幕府の負担により賄われましたが、通信使の来日は日朝両国の威信をかけた外交行事でもあり、その接待は幕府だけでなく、途中の各藩の大名によっても盛大に迎えられ贅沢を極めました。滞在日数は往復で 4 ヶ月以上時には 6 ヶ月も掛かりましたが、通信使 一行の訪問は同時に両国の文化交流ともなりました。 江戸中期の朱子学者でした新井白石 ( 1657〜1725 年 ) は 6 代将軍徳川家宣 ( いえのぶ )、7 代将軍家継 ( いえつぐ )に仕えて幕政を補佐しましたが、通信使の接待について 贅沢 ・ 浪費を慎み、「 対等 」 ・ 「 簡素 」 ・ 「 和親 」を骨子として 、まず待遇を簡素化し、対馬から江戸の間で宴席を 6 箇所に制限し、他の宿所では食料の提供にとどめることとし、接待には通過する各藩の藩主が出向かずともよいことにしました。接待に使用する小道具も 蒔絵の塗り膳や 陶磁器の高価なものは厳禁しました。これらの努力により 約 100 万両 ( 現在の貨幣価値で 500 億円 ) といわれた接待費用を、40 パーセント削減し、60 万両に抑えました。
[ 9:文化交流 ]朝鮮通信使の公式任務は、江戸城において最高の外交文書である互いの国書を交換することでしたが、同時に日本列島をほぼ縦断する対馬から大阪 ・ 江戸往復の旅の途中で、文化交流をしたことも、彼等が果たした重要な任務のひとつでもありました。 500 名近い通信使 一行の構成 メンバーには、一芸に秀でた多様な人物が選りすぐられていましたが、1764 年に正使として派遣された趙儼 ( チョウゲン ) は対馬で甘藷 ( さつま芋 ) の栽培を見て種芋を朝鮮に送り、江戸往復の間に栽培方法を詳しく書き留め、 朝鮮に [ さつま芋 ] の栽培をもたらしました 。 対馬では [ さつま芋 ] は救荒作物 ( 一般の作物が不良で凶作の時にも生育して収穫でき、食糧危機を救う作物 ) として孝行芋 ( こうこういも ) と呼ばれていましたが、朝鮮では訛って コダマ と呼ばれています。 彼が朝鮮通信使として日本を詳しく観察した記録の 海槎日記 ( かいさ ・ にっき ) には、同行した学術 ・ 文化 ・ 芸能 ・ 技術関係者について、 文詞に優秀な者、武芸、意訳、訳学、書画、技芸、律呂、乗馬、操船、兵書、歌唱、舞踊、将棋、囲碁、双六、船頭、楽士、占い、人相見、潜水、俳優、裁縫、彫刻、大工、鍛冶、砲手、など 一芸に秀でた人物である。と記しましたが、これは予め日本側から、
能文、能書、能医の人、至芸の人
を精択來道 ( よく選んで日本に連れて来て欲しい ) という要望に応えたものでした。朝鮮王朝が選び抜いた有能な官僚たちを中心に、随行員には、美しく着飾った小童 ( 小姓 )、楽隊、武官、医者、通訳、絵師、船将などが加わっていました。絵は馬上の女性に文字を揮毫 ( きごう ) してもらうところ。 その中には儒学の学者が多く含まれていましたが、行く先々で現地の諸藩の学者、あるいはその他の専門家との間の交流がおこなわれました。特に儒学に関しては日本では朝鮮を儒学先進国のとみなし儒学者に教えを求めるという態度で接し、一方李朝の儒学者も中国の儒学を正統に継承するのは自分たちであるとする、プライドを持っていました。
通信使の行列で、日本人の印象に強く残ったのは、行列の先頭を行く音楽隊の行進や船上で奏でる音楽でした。それは平均 30 人の構成でしたが、1711 年の楽隊は 2 倍近い 51 人の編成でした。
ナバルと呼ばれる ラッパ手 6 名、チャルメラに似た テビョンソ ( 太平簫 ) 6 人、ほら貝のような ラカク ( 螺角 )手 6 人、ドラ ( 銅鑼 )4 人、シンバル ( 細楽 ) 2 人、鼓打ち手 6 人、鼓手 2 人、長鼓 2 人、笛 2 人、等々で、通信使 一行の総数 500 人のうち、大坂 ( 大阪 ) に留まった船舶関係者 129 人を差し引いた 通信使 一行 371 人の 七分の一 という多人数でした。 彼等は音楽を奏しながら、見物に集まった群衆の中を勇ましく ブラスバンド のように進みましたが、通信使 一行と日本の武士や案内役、警護、荷物持ち人足、駄馬など約 1,000 人が付き従い、通過するのに数時間掛かった記録もありました。 しかも土下座して通過を待つ大名行列とは全く異なり、 庶民が楽しく見物できる大 パレードでしたので、至るところで大評判になりました。元和 2 年 ( 1617 年 ) に大坂 ( 大阪 ) で、通信使の行列を見た平戸の イギリス商館長の リチャード ・ コックスは、 通信使は皇帝 ( 将軍 ) の命令により、いたる所で 王者のように待遇され 、しかも 2〜3 の箇所では彼等の前方で、トランペットや オーボエ の吹奏がおこなわれていた。と日記に記していました。 朝鮮通信使を 朝貢使 とする見方は、既に 1617 年の第 2 回、回答兼刷還使 ( さっかんし、朝鮮通信使 )の来日頃にはあり、それは、神功皇后 ( 記紀によれば、仲哀天皇の后で新羅に出陣 ) の 三韓征伐や秀吉の朝鮮出兵と結びつきながら、一般向けの書物を通して、庶民の間に急速に広まっていったのでした。
注:)
[ 10: 通信使随員の殺害事件 ]いずれの国の歴史にも光と陰の部分がありますが、偏らずに歴史を見るためには、 その両方を見ることが必要です 。ここまでは通信使の光の部分について述べたので、これからは陰の部分を述べることにします。新潮社出版 の本、 江戸時代を 「探検」する ( 山本博文著 ) には、次の記述があります。通信使の随員の中には、日本側の丁重な待遇に慣れ、段々と 傲慢、尊大な態度 をとる者 も現れるようになりました。
右は広島県 呉市の沖にある蒲刈 ( かまかり ) 島の港で饗応された、 3 汁 1 5菜 からなる 一人前の食事を再現したものですが、その豪華な食事、メユーの多さには驚かされます。 ところが通信使 一行の中には 出港の際に 前夜陸上の宿泊施設で出された 夜具を盗んで 船に積み込んだり、食事に難癖をつけて、魚なら大きいものを、野菜ならば季節外れのものを要求するというような些細なことから、予定外の行動を希望し、拒絶した随行の対馬藩の者に 唾を吐きかけたりする こともありました。前述したように朝鮮通信使 一行と日本の儒学者との間に親交があり、庶民レベルでも文化的交流があったのも、一つの歴史的事実ですが、同時に、朝鮮通信使一行の 傲慢で尊大な態度と 無礼で無法な行為 の数々を経験し、苦々しく思い、 憤りを感じていた日本人 が多かった ことも、また歴史的事実でした。
絵は 鶏を盗んで町人と喧嘩をする朝鮮通信使 と題するもので、京都大学の所蔵です。この絵について朝鮮半島を 「 こよなく愛する 」 某 A 新聞によれば、子供と戯れる場面なのだそうですが、イデオロギーによって視野が赤く見えるだけでなく、視力も鈍らせてしまい、右端にいる 棒を振り上げている者が見えないのです 。 ところで朝鮮の外交担当部署であった礼曹の典客司の記録である、 通信使謄録 の殺害事件記録によれば、
四月初六日、在大坂天宗失鏡、使伝蔵捜索之、而終不得、天宗云日本人能盗、伝蔵罵道却是朝鮮人最能為盗、相与怒罵、終至於天宗以鞭痛打伝蔵とあります。 第 11 回の朝鮮通信使が江戸からの帰途に大阪に滞在していた 1764 年 4 月 6 日のこと、通信使の随員である都訓導 ( 中級役人 ) の 崔天宗 ( さい ・ てんそう ) が船の中で鏡を紛失しました。対馬藩の通詞 ( 通訳 ) の 鈴木伝蔵 が探しましたが、鏡は見つかりませんでした。
崔 ( さい )が 「 日本人は、盗みが得意だ 」 と悪口を言ったので、日頃から通訳として朝鮮通信使一行のそばにいて、彼らによる 盗みの多さ にうんざりしていた伝蔵は、「 日本人のことをそのように言うが、朝鮮人も、 食事の際に出た食器などを持って帰っている ではないか。これをどう思うのか 」 と言い返しました。 道徳を重んじる儒教の先進国と自称し、朝鮮を代表する使節ともあろう者が、宴会で出された 料理の皿などを盗む のを接待役の武士たちは何度も目撃し、李王朝における両班 ( 注参照 ) 階級の腐敗堕落振りに、これまで呆れ果てていました。 鈴木伝蔵に痛いところを突かれた崔天宗 ( さい ・てんそう ) は、 身に食器盗みの覚えがあった せいか頭に血が上り、人々が見ている前で鈴木伝蔵を馬の ムチ で何度も打ち据えました。通訳とはいえ伝蔵も下級武士として、このまま引き下がるわけにはいきません。伝蔵はその夜、崔天宗の喉を槍で突き刺して殺害し逃亡したため、大坂 ( 大阪 ) 町奉行所から伝蔵の人相書きが触れ出されました。
後日彼は摂津の国の池田 ( 現、大阪府池田市 ) で逮捕され大坂 ( 大阪 ) に護送されましたが、殺人の罪により通信使側代表 6 人が処刑を見守る中で、打ち首にされました。 この事件に関しては、二人が通信使の船を利用した朝鮮人参の密輸事件にからんでいて、分け前のことで紛糾したのが原因とする説もあり、真相は不明です。朝鮮人参に関していえば、朝鮮国王から江戸の将軍への贈り物の筆頭としては、まず 野生の朝鮮人参 であり、初期には 100 斤 ( キン、1 キン= 600 グラム ) でしたが、後には 50 斤となり、最後の通信使の時には 33 斤になりました。野生の朝鮮人参は滋養強壮薬として日本側に非常に好まれたので、1回の訪日には 245 斤持参しましたが、当時の値段で1斤が 40両しました。10 両盗めば打ち首になった時代の話なので、朝鮮人参が如何に高価なもであったかが分かります。
注 : ) 両班両班 ( 朝鮮語では、やんぱん、漢語ではりゃんぱん ) とは高麗、李氏朝鮮時代の官僚組織、特権的身分階級のことであり、李朝では 官僚は東班 ( 文班 ) に、 武官は西班 ( 武班 ) の 二つの班 ( 両班 ) に分けられ、封建的土地所有をおこなって常民や、奴婢 ( ぬひ ) を支配していました。
[ 11:朝鮮通信使の終焉 ( しゅうえん ) ]徳川家康が国交回復に熱心だったのは、前述した如く、政権を取ったばかりの徳川幕府の威信を諸大名に示し、対外的にも前政権を倒し日本の覇者となった徳川幕府を、李氏朝鮮に認めさせることでした。朝鮮通信使の来歴をみれば江戸時代の 265 年間に、派遣されたのは僅か 12 回でしたが、 そのうちの半数の 6 回 が 1607 年から1655 年までの江戸時代初期の 48 年間に行われました。
[ 12 : 春秋に義戦なし ]随筆を書くに当たって いろいろな資料を読みましたが、その中には豊臣秀吉の朝鮮出兵を 大義なきものと非難し 、その残虐行為を ことさら指摘したものもありました。それならば 高麗が 元と共に日本を侵略した 元寇 ( げんこう 、1274 年文永の役、1281 年の弘安の役 ) には、どんな大義があったというのでしょうか?。 元からの朝貢要求を 日本が拒否した だけであり、同様に秀吉への服従を朝鮮が拒否したことが、朝鮮出兵の理由でした。
つまり侵略戦争は今に始まったことではなく、昔から洋の東西を問わず、 勢力を持つ者の支配に屈するか、拒否して戦争をするかという 二者択一 の覇権主義や 、軍事力に基づく権益拡大主義が世界中を支配していた ということです。 戦争には本来 大義 などあるはずがなく 、おのれの欲するものは 力ずくでも奪い取るというのがその本質であり、大義などは戦争を正当化するための たわごと に過ぎません。参考までに中国の 魯 ( ろ ) の国の思想家である 、 孟子 ( もうし、西暦前 372 年 〜 前 289 年 ) は、
春秋に義戦なしと喝破 ( かっぱ ) しましたが、 [ 春秋 ] とは春秋戦国時代を含む魯の国の 西暦 前 722 から 前 481 年 までの 240 年間を記録した紀年体歴史書のことです。これを読んだ孟子は、 天下に 義戦 ( 正義のための戦 ) や、 大義 ( 人として守るべき最高の道義 ) のある戦争などは これまで あったためしが無い 。せいぜいこの戦争より、あの戦争の方がほんの少し ましだったという程度に過ぎないと述べました。 この言葉は現代にも通用していて、太平洋戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争、中国のベトナムに懲罰を加える戦争、そして イラク戦争にも当てはまりますが、 イラク戦争の大義 の有無を云々する 一部の マスコミや、TV の コメンテーターに、二千年以上前の 孟子の言葉を聞かせてやりたいと思います。さらに付け加えると ヨーロッパの格言には、
正義は 国の数 だけ存在する。というのがありましたが、歴史認識の問題を議論する際に、中国や朝鮮半島の住人に教えるべき言葉です。 ところである在日の著書によれば、豊臣秀吉の朝鮮出兵以来 現代に到るまで、 朝鮮は常に善であり、悪いのはすべて 日本 である と書いてありましたが、 これは 良いことは全て自国 の手柄、悪いことは全て他国( 日本 ) のせい とする、 朝鮮人の 宿痾 ( しゅくあ、持病 ) 、 民族的 悪癖 ともいうべき 朝鮮人史観 そのものでした。 せめて随筆集にある下記の部分を読み、偏向した歴史認識 ( 朝鮮人史観 ) を改め、歴史を正しく評価すべきであると考えます。
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