地 図 と 地 球 儀 に つ い て
[ 1: は じ め に ]私は 3 6 年間飛行機に乗りま したが、パイロット の仕事は 出発前の飛行計画 の 段階から 地上天気図 や ジェット 気流 ( 注 参照 ) の 位置 や 風速 を知るため に 、 例えば 約 8,500 ~ 10,000 メートル の 高 度 に相当 する 300 h P a ( ヘ ク ト パ ス カ ル ) の 高 層 天 気 図 などを調 べます。図 は 高度 5200 ~ 5800 メートル 付近の大気の 状 態 を 表 す 500 h p a の 高 層 天 気 図 です。 また 晴 天 乱 気 流 ( C A T = Clear Air Turbulence )の 危 険 空 域 なども チェック しますが、飛行中は ジェ プ セ ン 社 ( J E P P E S E N ) 発行の 高 高 度 航 空 路 図 ( High Altitude Enroute Charts ) を参考 に し、 進 入 着 陸 の 際 には 計 器 進 入 図 ( Instrument Approach Chart ) などの 「 図 」 を見ながら仕事 を しま した。 右上図 は 東京 羽 田 空 港 滑 走 路 3 4 右 ( I LS・Z・ RWY 3 4 R ) へ の 計 器 進 入 図 で すが、図 の下半分は省略 して います。[ 注 : ジ ェ ッ ト 気 流 ] 大気 の 循 環 と コ リ オ リ の 力 ( Coriolis force ) により 北 半 球 の高 空では 西から東に向かい、川の流れのように強 風 が吹きますが、季節 により、 日 により その 蛇行 する 位置 や 強さ が変わります。長距離を東寄 りに 飛 ぶ 際 にはなるべく ジェット 気流 の 追 い 風 を利用 し、逆 の コース では 強 い 向 かい風 をなるべ く 避 けるように コース や 高 度 を選びます。 [ 2: 地 図 の 歴 史 ]( 2-1、地 図 の 歴 史 は、 文 字 の 歴 史 より も 古 い ) 文化人類学 の 書物 によれば、ヒ ト ( ホモ ・ サピエンス、Homo sapiens、智 慧 の あ る 人、= 新 人 ) の 祖先 は 20 万年前 ~ 15 万年前に ア フ リ カ で誕生 し、 15 万年前 ~ 10万年前に ア フ リ カ 大陸を出て世界中に広がって行きま した。その 一部が 1 万 2 千年 前 頃 に シ ベ リ ア 大陸 から当時 結 氷 していた ベ ー リ ン グ 海 峡 を 徒 歩 で 渡 り、北米大陸 に到達 しま した。 新人 たちはそこから更に 北 米 大 陸 を 南 下 す る 旅 を続け、 中 米 ・ 南 米 大 陸 の 南 端 まで 拡 散 すると共 に、一部 は ア ラ ス カ や カ ナ ダ 北 部 の 氷 雪 地 帯 ・ 北 極 圏 に居住 することになり、 先 住 民 族 の イ ヌ イ ッ ト ( I n u i t ) や エ ス キ モ ー ( E s k i m o ) と呼ばれるようになりま した。 彼らは 長年 文字 がありませんで したが、自分たちの 生活圏 を 氷上 に 図 示 し、あるいは 樹 木 に 図 形 を 刻 むなどして、獲 物 の集まる場 所 や 泉 の有る場所 など、生活に 関係 のある 場所 や モ ノ の 所 在 を 図 形 化 して、互いに情報を共有 していま した。 幕末の 北 方 探 検 家 、 松浦 武四郎 ( 1816 ~ 1888 年 ) の 報告 によっても、 ア イ ヌ の 人 々 が 地面 に 指 先 で 砂 絵 図 ( S a n d - m a p ) と呼ばれる 地 図 を書 いて いた ことなどから、 無 文 字 社 会 ( Non-literate society ) においても、 地 図 の 文 化 が 存 在 していま した 。太平洋にある島 々の 三 大 区 分 に、ミ ク ロ ネ シ ア( Micronesia ) ・ メ ラ ネ シ ア( Melanesia ) ・ ポ リ ネ シ ア ( Polynesia ) がありますが、ハ ワ イ や タ ヒ チ などの 南 太 平 洋 に住 む ポ リ ネ シ ア 人 たちも、他の地域の住民同様に、長年 無 文 字 社 会 の 住 民 で した。彼らは ダ ブ ル ・ カ ヌー ( Double canoe、双 胴 大型 カ ヌー ) に乗り、太平洋の島々を時には 数 千 キ ロ ( タ ヒ チ と ハ ワ イ 間 ) の 航海を しま した。 その際に使用 したのが 先 祖 から伝わる スティック ・ チャート ( Stick chart、棒 を 編 ん で 作った 海 図 ) です。コ コ ヤ シ の 葉 柄 ( 木 の 部分 ) を 編 み 、貝 殻 を付けて、 島 や ア ト ー ル ( Atoll、環 礁 ) の位置を表 しま した。また木片で 「うねり」 の方向や 海流 の方向を表すなど していま した。 これ以外に何の 航法道具 も持たずに 、彼らは 長 距 離 の 航 海 に出かけま した。3 0 年以上 前 に ハ ワ イ の ホ ノ ル ル にある ビ シ ョ ッ プ 博 物 館 ( Bishop Museum ) で、 スティック ・ チャート の 実物を見たことがありま した。 ( 2-2、文 字 を 発 明 し た 民 族 は 少 な い ) 独 自 に 文字 を 発明 した民 族 は世界でも 少数 であり、大多数 の 民 族 は 他 の民 族 が作った文 字 ( 例 えば 古 典 ラ テ ン 語 ) を、自分たちの 使 いやすいように 変 更 ・ 改 造 して使用 してきま した。 我々 日本民族 も 同様 であり、紀元 3 世紀 頃 の 邪 馬 台 国 ( やまたいこ く ) の 時代 に中国から 漢字 が 渡 来 しま したが、日本の 言葉 を 表現するには、非常に不便 で した。 そこで 5 世紀頃には漢字の持つ 「 意 義 ( 意 味 ) にかかわらず 、もっぱらその 「 音や訓 の 部分 を 借用 し 」、日本語の 音 韻 ( お ん い ん ) を書き表すために 借 字 ( し ゃ く じ、漢 字 を 使用 ) した 万 葉 仮 名 ( ま ん よ う が な ) が 成立 しま した。 万 葉 集 に 十 首 以上の歌 が 載 っていることで 有 名 な 額 田 王 ( ぬ か た の お お き み )、7 世紀の 万 葉 歌 人 で 大 海 人 皇 子 ( お お あ ま の お う じ ) = 後 の 第 40 代、天 武 天 皇 ( 在位、673 ~ 686 年 ) の 寵 愛 を受けた 女性 の 歌 で 万 葉 仮 名 の 例を示 しますと、 茜 草 指 ( あ か ね さ す ) 武 良 前 野 ( む ら さ き の ) 逝 ( ゆ き ) 標 野 行 ( し め の ゆ き ) 野 守 者 不 見 哉 ( の も り は み ず や ) 君 之 袖 布 流 ( き み が そ で ふ る ) [ 歌 の 意 味 ] 茜 色 がさす 紫 草 の 野 を行き、 標 ( し め ) 結う 野 を行って、野 守 は見るではありませんか。 あなたが ( 私 に 向って ) 袖 を 振っておられるのを奈良時代 ( 710 ~ 794 年 ) 後 期から 平安時代 ( 794 ~ 1192 年 )初 期 になると、表 意 文 字である漢字 を 基 に 、 表 音 文 字 の 仮 名 ( かな ) 文字 ( ひ ら が な と カ タ カ ナ ) が発明され 使用されるようになりま した。 「 ひ ら が な 」 が 漢字 の 草 書 体 からできた の に対 し、「 カ タ カ ナ 」 は 漢 字 の 「 文 字 の 一 部 」 を 取 り 出 した ものである点 が 違 います。例えば 伊 の 左側から 「 イ 」 を、 江 の 右側から 「 エ 」 を取り出 したように。 ところで、紀 貫 之 ( きのつらゆき、866 ? ~ 945 年 ? 、歌 人、三十六 歌 仙 の 一人 ) による 「 男 も す な る 日 記 と い ふ も の を、女 も し て み む と て、す る な り 」 の 冒 頭 文 で有名な 土 佐 日 記 を 先 駆 ( せん く、さきがけ ) と して、藤 原 道 綱 の 母 による 蜻 蛉 ( かげろう ) 日 記 ・ 紫 式 部 日 記 などの 日 記 文 学 が 興 隆 しま したが、「 か な 文 字 」 の 使用 によ り 日 本 語 の 文 章 表 現 が 容 易 に なったからで した。注 : む ら さ き 野 「 む ら さ き 野 」は、貴 重 な 染 料 となる 紫 草 を 栽 培 して いる 野 で、天 皇 家 や 貴 人 の 所 有 地 であり、それ 故、そこは 一般人の立ち入りを 禁 止 した 標 野 ( し め の ) となっていて、管 理 人 の 野 守 が いた。 ( 2-3、漢 字 の 単 語 2 0 万 語 を、 中 国 へ 輸 出 し た 日 本 ) 漢字は古代から周辺諸国や地域に伝播 して 漢 字 文 化 圏 を形成 し、言語だけでなく 文 化 伝 播 上 からも 大きな影響を与えま した。20 世紀後半になると ベトナム ・ 南北朝鮮 では 漢字表記 をほとんど廃止 しま したが、それでも 全 世 界 の 人 口 約 7 3 億 人 ( 2016 年 ) の 内 約 1 5 億 人 が漢字を 使用 し、約 5 0 億 人 が使う ラ テ ン 系 文 字 に 次 いで、世界で 2 番目 に使用者数 が多 い文 字 です。 ところで 2 0 世紀初頭 に、日本 から中国 に 2 0 万 語 に及ぶ漢字の 単 語 ・ 専 門 用 語 が 輸 出 され、それまで 空 虚 な 中 華 思 想 ・ 四 書 五 経 の 儒 教 の 殻 に 閉 じこもっていた中国の 近代化 に 貢 献 したのを御 存 じですか、下記を御覧下さい。 ( 2-4、世 界 最 古 の 地 図 ) 現存する 世 界 最 古 の 地 図 といえば 粘 土 板 に 刻 まれた 古代 バ ビ ロ ニ ア ( B a b y l o n i a、現 ・ イラク 南部 ) の 世 界 地 図で、 紀 元 前 5 世 紀 頃 に バ ビ ロ ニ ア 人 によって作られま したが、イギリス ・ ロンドン の 大 英 博 物 館 に 展示 されています。 粘土板に 描 かれた 基本的 な 構 図 は、 中央の 円 盤、その外周を 囲 む 同 心 円 の 帯、さらにその 外側 に 一定間隔 で 並 ぶ 突起状 の 二等辺三角形 から 構成 されています。 中央の 円 盤 は 大 地 、同 心 円 の 帯 は 大 地 を とりま く 環 海 ( かんかい、大 洋 ) 。突起状 の 三角形 は 環海 の 彼方 の 仮 想 世 界 を示す と考えられています。 円 盤 の中心には 凹 ( く ぼ ) みがありますが、これは 円 盤 と 同 心 円 を 描 く 時に使用 した コンパス の 支柱針 の穴と考えられます。その両側には 上から下 へ ( 北から南へ ) 二本 の 平行線 が引かれていますが、その 上端部 には 弧状 の線で囲まれた 弓 形 の部分 があり、そこには 「 山 」 と記されています。 平行線 の 下端には 二本の線 で区切られた 横長の帯 があり、そこには 「 湿 地 」 と書かれています。「 湿 地 」 の 左上方 には 「 海 の 国 」 との 文字 があり、このあたりが メ ソ ポ タ ミ ア 平原 の 沿岸部 であることを示 しています。 つまり 二本 の 縦 の 平行線 は、 北方 の 「 山 」 から流れ出て 「 海 の 国 」 の 「 湿 地 」 に流れ込む河川、つまり向かって左側が ユー フ ラ テ ス 川 ( E u p h r a t e s )、右側が チ グ リ ス 川 ( T i g r i s ) を示すと考えられます。 バ ビ ロ ニ ア( Babylonia )とは 中東 の メ ソ ポ タ ミ ア 南部 を流れる、チ グ リ ス 川 ・ ユ ー フ ラ テ ス 川 の下流地域 の 古 名 であり、紀元前 3,000 年頃には シ ュ メ ー ル 人 ( S u m e r u ) の 都市国家 が栄 え、紀元前 2,350 年頃に ア ッ カ ド ( A k k a d ) 人が 統一国家 を建 設 しま した。 [ 3: 世 界 各 地 で 作 ら れ た 地 図 ]( 3-1、中 国 の 地 図 ) 1972 年に中国の 湖南省 長沙市 ( ち ょ う さ し ) 郊外の 馬 王 堆 ( ま お う た い ) にある紀元前 2 世紀に埋葬された 大臣 の 利 蒼 ( り そ う、紀元前 186 年 没 ) とその妻子を葬る 墳 墓 から、副 葬 品と して 貴重な工芸品 や 帛書 ( は く しょ、は く と呼ばれた 絹 布 に書かれた書 ) が出土 し、中国古代史研究 にとって 多くの重要な資料を提供 しま した。 彼の息子の 墓 から絹布に描かれた中国南部の 地形図 が出土 しま したが 図は折り 目が切れて 3 2 枚 の 断片 になっていま した。更に 地形図 は、 南 が 上、北 が 下 に なっていま した。その理由とは 中国 の 易 占 い ( えき、うらない )の 参考書である 易 教 ( え き き ょ う、注 参 照 ) 説 封 伝 の 中 に 聖 人 南 面 而 聽 天 下、嚮 明 而 治 ( 聖 人は 南 に 面 して天下 に 聴 き、明 に 向かって 治 める )と記されていたので、後に 天子 は 南 面 する 習 慣 となり、地 図 も 南 が上 に 描 く ようになりま した。 上 図で 「 南 」 の文字の上にある 黒 い部分 は 南 支 那 海 ( みなみ しなかい ) で、下方に 流れる 河川 は 揚 子 江 ( ようすこう、長 江 ともいう ) の支流 湘 江 ( しょうこう ) の 上 流 で現在の 湖 南 省 ( こなん しょう ) 南部 から 広東省 ( かんとん しょう ) にかけての 一帯が描かれていま した。 地 図 の 大きさは 96 cm 四方 で、縮 尺 17 万分 の 1 、および 19 万分 の 1 の 二枚 で した。 [ 注 : 易 教 ( え き き ょ う ) と は ] あらゆる 原 始 民 族 の 間 で 重 大 な 事 柄 を決定 する 際 には、 何 らかの方法で 「 神 意 に 問 う」 ことは、 共通する 現象 であった。神の 意 志 を 人 に 伝 え それにより 部 族 の 意 志 統 一 を 得 ようと したが、古代中国 においても 占 ( うらな ) い の 一 つである 筮 竹 ( ぜいち く、 5 0 本 の 竹製 の 棒 ) を用 いる 易 ( え き ) が行われた。 易 教 とは 周王朝 の 時代 ( 紀元前 1050 年 ? ~ 前 258 年 ) に作られた占 い の 書 であり、儒 教 の 根 本 経 典 である 四 書 五 経 ( し し ょ ご き ょ う ) のうち 最 も 重要 な 五 種 類 の 書 である 五 経 の 一つに数えられている。ちなみに 易 教 の 書物 としての 歴 史 の古さは 、古代 エ ジ プ ト ・ 古代 ギ リ シ ャ ・ 古代 ロ ー マ において使用された 一種 の 記録用紙 である パ ピ ル ス ( Papyrus ) の 文書 と肩を並べる 東洋最古 の 書物 で した。 パ ピ ル ス に描かれた エ ジ プ ト の 金 山 の 地 図 が、イ ギ リ ス の 大英博物館 に 所 蔵 されています。 [ 4 : 地 球 観 の 変 遷 ]昔 の 人は地球 を 平な 円 板 のように考えていま した。大地は周囲に海を巡 ら し、その外側を高い山々が囲 み、天球 はこの山々を支えていま した。その後 地球 が 球 形 であるとする考え方は、古代 ギ リ シ ャ に 始まりま した。 古代 ギ リ シ ャ の 哲学者 ア リ ス ト テ レ ス ( 紀元前 384 ~ 紀元前 322 年、哲学者 プ ラ ト ン の 弟 子 ) は 、紀元前 4 世紀に 気象学 の中でこう 述 べま した。地 球 が 球 体 であることは、われわれの 感 覚 によって 証 明 される。
( 4-1、中 世 の 地 図 ) 世界最初 の 地球儀は 当然のことながら 地球 の 球体説 が 提唱 された後の 紀元前 160 年頃 に 、 地中海 東部 の マロス で生まれた クラテス ( Crates of Mallus、文法学者、ストア 派 哲学者 ) によって作られたとされます。しか しこの 地球儀 は残っていないので、詳細は不明です。 中世になると ヨーロッパ では キリスト 教が すべての 学問を支配 し、世界は再び円盤とする考えに戻りま した。キリスト教の世界観を表す古地図と しては、「 T O 地 図 」( ティー、オウ 地図 ) と呼ばれる 地図 があり、これが 「 中世 ヨーロッパ 」 の教会 で多 く 使われま した。 名前の 由 来 は、丁度 ア ル フ ァ ベ ッ ト の 「 T 」 字型 に 内部 を分け、外側に 「O」 の形を組み合わせたような「 概 念 地 図 」であり、特 徴 は エ デ ン の 園 ( Garden of Eden、旧 約 聖 書 の 『 創 世 記 』 2 章 8 節 に登場する 理 想 郷 の 名 )がある方向 の 東 を 上 に して、キ リ ス ト が 処 刑 された ゴ ル ゴ ダ の 丘 ( Golgotha Hill ) がある エ ル サ レ ム を 中心 に 描 いていま した。 ( 4-2、地 球 儀 と 地 図 の 利 点 ・ 欠 点 ) 地 球 は 球 体 なので、これを 平 面 に 表 現 した 地 図 に比 べていろいろな点で利点 があります
現存する最古 の 地 球 儀 は 1492 年に ドイツ の 地理学者 ベ ハ イ ム ( Behaim )が作成 した、直径 5 1 セ ン チ の 金属製 のものです( 左図 )。 地 球 儀 に記された地図 の 内容 については 図の右側 にありますが、マルコ ポーロ ( 1254 ~ 1324 年 ) の 東 方 見 聞 録 にある 黄 金 国 日 本 ( ジ パ ン グ、Zipangu ) 島 は、カ タ イ ( Catai = キ タ イ = 契 丹 = 北部中国 ) の 東 に 描 かれていま した。 ( 4-3、コ ロ ン ブ ス 時代 の 世 界 地 図 ) イタリア の ジ ェ ノ バ 出身 の 探 検 家 で 航 海 者 ・ 奴 隷 商 人 の コ ロ ン ブ ス が 、第 1 回の 探 検 航 海 (1492 年 8 月 ~ 1493 年 3 月 ) で イ ン ド 大陸付近 (?)と思われる 未知の島 を 1492 年 10 月 12 日 に発見 し 、サ ン ・ サ ル バ ドール ( San Salvador 、聖 なる 救世主 ) と命名 しま したが、実は現在 の バ ハ マ 諸島 ( Bahama Is、フ ロ リ ダ 半島 の 南東にある ) のことで した。 しか し イタリア の 探検家 ア メ リ ゴ ・ ヴェスプッチ ( Amerigo Vespucci ) による 北米大陸発見 ( 1 4 9 7 年 ) 以前 のため、当時 の 地 球 儀 や 世 界 地 図 に 北米大陸 は 記 載 されていませんで した。 参考までに コ ロ ン ブ ス が最初の航海に使用 したと同 じ 種類 の 世界地図 を示 しますが、これは ドイツ の 地理学者 マルテルス が 1490 ~ 1491 年 に 描 いたとされる 世界地図 です。 図の左側が ヨーロッパ で、地中海とその南に続く アフリカ 大 陸 があり、大 航 海 時 代 に 活 躍 した ポルトガル の 航 海 者 バ ル ト ロ メ ウ ・ デ ィ ア ス ( Bartolomeu Dias )が 1488 年に ヨーロッパ 人と して初めて 到 達 した、アフリカ 大陸 南 端 の 喜 望 峰 や、最 南 端 の ア ガ ラ ス 岬 ( Cape Agulhas ) ら しきものがありま した。右側 は ア ジ ア で、イ ン ド 洋、中 国 大 陸 ・ 日本ら しき 島 などの 世 界 地 図 です。 ( 4-4、地 球 儀 の 日 本 へ の 到 来 ) 「 地 球 の 球 体 説 」 を 日本人 に初 めて 教えたのは、1549 年 に 鹿児島 に上陸 した スペイン 出身の イ エ ズ ス 会 宣教師、フ ラ ン シ ス コ ・ ザ ビ エ ル ( Francisco Xavier、1506~1552年 )で した。このことは 天文 ( てんぶん ) 21 年 ( 1552 年 ) に 彼が イン ド から ヨーロッパ の イエズス 会 の仲間に送った 書 簡 ( 第 30 ) に記 していたので、よく知られています。 地 球 の 丸 い こ と を、 彼 ら ( 日 本 人 ) には 知 ら れ て い な か っ た。 聖 フランシスコ ・ ザビエル 書 翰 抄 ( しょかん しょう ) 下 巻 参照。日本では 1580 年 ( 天正 8 年 ) に、ポルトガル 人で イ エ ズ ズ 会 宣教師 の ル イ ス ・ フ ロ イ ス が 「 フ ォ ペ ル の 地 球 儀 」 を 織田信長 に 献上 したとされます。 その際に信長 から質問されたので、 フロイス が 日本 へ来るのに たどった ルート を地球儀を使用 して説明 しま した。その地球儀と 同型 と考えられるものが、天理大学 付属 天理図書館 に 現存 しています。 これ以外にも 九州 の キリシタン 大名 であった 大 友 宗 麟 ( そうりん ) ・ 大 村 純 忠 ( すみただ ) ・ 有 馬 晴 信 が 名 代 ( みょうだい、だいり ) と して ローマ へ 4 名の 少年 を 中心と した 天 正 遣 欧 少 年 使 節 団 ( てん しょう けんおう しょうねん しせつだん ) を派遣 しま した。 8 年後 の 1590 年 ( 天 正 18 年 ) に 彼 らが帰国 した際には、豊臣秀吉 に ヨーロッパ 製 の 地球儀 を 献上 した記録 がありま した。秀吉はこれを見ながら 朝鮮 へ の 出兵 ( 文 禄 の 役 = 1592 年、慶 長 の 役 = 1593 年 ) ひいては 中国 の 明 ( みん ) に対する 軍事行動 について、考えを巡ら したのかも知れません。 ( 4-5、大航海 がもたら した地 理 的 進 歩 ) 大航海時代における 新航路 の 発見 が、新たな 世 界 観 を広げ、その情報を盛り込んだ数多 く の 世界地図 が 製作 されま したが、フ ラ ン ド ル 人の 地 図 製 作 者 ・ 地 理 学 者 である アブラハム ・ オ ル テ リ ウ ス ( Abraham Ortelius、1527年 ~ 1598 年 ) は、近代的 地図製作 の 創始者 として知られています。 彼が編纂 した 地図帳 の 「 世界 の 舞台 」 にある 「 日 本 図 」 は、当時 ア ジ ア 地域で キ リ ス ト 教 の 布 教 や 貿 易 に 従事 していた 宣教師 や ポ ル ト ガ ル 商人による情報が基になっていま したが、彼らが活動 していなかった 日本 の 東北地方 以北 ( 現 ・ 北海道 ) については、記 載 されていませんで した。 ( 4-6、イ ン ド 人 の 宇 宙 観 ) イ ン ド 人の宇宙観を西洋で初めて紹介 したのは、16 世紀後半から イ ン ド で 布教活動を始めた イ エ ズ ス 会 の 宣教師で した。1599 年 に書かれた書簡 によれば、 ある者達 は大地 が 七 頭 の 象 に支えられ、その 象 は 亀 の上に立ち、その 亀 が何 に支えられてるかは知らないと 揶 揄 ( や ゆ ) していま した。古代 イ ン ド の 宗教的 世界観 によれば、地球 は大きな 蛇 と 亀 と、その 上 にいる 象 によって支えられていると考えられて いて、地 球 の 中 心 に は 須 弥 山 ( し ゅ み せ ん、サ ン ス ク リ ッ ト 語では Sumeru ) という 神 々 の 住む山 が 聳 え立ち、太陽 と 月 がその 周囲 をめ ぐ っていま した。 右上の 画 像 は、1822 年に ド イ ツ で出版された 「 古 代 イ ン ド 人 の 信 仰、知 識 と 芸 術 」 という 本 の 挿 絵 ですが、このような宇宙観 が描 かれた 例 と しては 最 古 のものです。 書 籍 の 体 裁 は 取っているものの、伝 聞 や 憶 測 で書かれたように見受けられる箇所が少なからずあり、問題の 図 も、複数の伝説を 混同 している感 じ が します。 大地が平面ではなく 半 球 である点や、大 蛇 が 自分 の 尾 を 噛 んで い る 姿 は 西洋 の 様 々 な 神 話 に 登 場 する 大 蛇 ウ ロ ボ ロ ス ( Uroboros ) と 同 じ 姿 を しているので 不思議で した。 ( 4-7、坤 輿 「 こ ん よ 」 万 国 全 図 ) イ エ ズ ス 会 に所属する イ タ リ ア 人 宣教師 の マ テ オ ・ リ ッ チ ( Matteo Ricci、1552 ~ 1610 年 ) は 中国 に 駐在 し、布教活動を しながら 明 朝 ( みんちょう ) 末 期 の 1602 年 に、 北京で 漢 訳 世 界 図 の 「 坤 輿 ( こ ん よ ) 万 国 全 図 」 を刊行 しま した。 中国語で 坤 ( こん ) と は 「 大 地 」、輿 ( よ ) は 「 乗 り 物 」 の ことなので、「 坤 輿 」 ( こんよ ) とは 「 乗 り 物 と し て の 大 地 」、つまり 地 球 という 意 味 になります。中国製 の 地 図 のため、中 国 の 領 土 を 拡 大 し て 描 いて います。 この 地 図 は 南 蛮 世 界 図 屏 風 ( びょうぶ ) とならんで、 日本 における 古代以来 の 日本 ・ 唐 ( から ) ・ 天 竺 ( てん じ く、イ ン ド の 古 称 ) から 成 る 三 国 世 界 観 に 代わる 西洋的 世 界 像 を 伝 え、わが国 における 世 界 認 識 および 世 界 図 作製 に 衝 撃 的 な 影 響 を与えま した。 日本語に訳 した 同 図 の 写 し、および 改 訂 ・ 縮 小 され 日本 で 刊 行 された 世界図 の コ ピ ー は、幕末 に 至 るまで 日本で 広 く 利 用されま し た。 一方、蘭学 の 発達につれて 地球 球体説 を は じめ 新 しい 地 理 的 知 識 も 受 容 され、それにもとづく 世 界 図 も、 日本 で 刊行 されるようになりま した。 [ 5 : 日 本 に お け る 地 図 の 作 成 ]日本における 地 図 作 成 の最古の記録 は、「 日 本 書 紀 」 巻 25 の大化 2 年 ( 646 年 ) 8 月 14 日の条に 『 大 化 改 新 の 詔 』 ( みことのり ) が記されていますが、それによれば、宜 し く 國 々 の 彊 堺 ( さかい ) を 観て、或 いは 書 ( ふみに しる ) し、或いは 圖 ( かたちをか ) き、持ちて来 ( きたり ) て 示 し 奉 ( たてまつ )れ。 國 縣 ( くに ぐに ) の 名 は、来 たる時 に 定 め む。とありま した。「 圖 ( 図 ) 」 を [ か た ] 、若 し く は [ かたち ] と読 ませ、「 地 図 」 の事を意味させていますが、地 図 という言葉 が無 かったからで した。ここでは 国 単 位 の 地 誌 と 地 図 の 提出 を命 じて いま したが、これは 地 図 を天皇に 奉 じ る 命 令 ( 詔 ) と しては 初 め て のもので した。 第 40 代、天 武 天 皇 の13 年 ( 685 年 ) には、朝廷から派遣された 使 臣 らが 信 濃 ( しなの ) 国 図 を作り、これを 呈 上 ( てい じょう、差 し上げる ) した記 録 もありま した。 さらに平安初期 の 勅 撰 の 史 書 である 「 続 日 本 紀 」 ( しょ く にほんぎ、797 年 成立 ) によれば、天 平 10 年 ( 738 年 ) に 諸 国 に 命 じて 国 郡 ( くに こおり ) の 図 を作らせたという 記事 がありま した。左図 は その際に作られた 関 西 にある 摂 津 国、大 和 国、和 泉 国 の 国 郡 図 で す。 このように して諸 国 の 地 図 ができま したが、地方では前述 した 大 化 改 新 の詔 ( みことのり ) に 基 づき、 班 田 収 授 の 法 ( は ん で ん し ゅ う じ ゅ の 法、注参照 ) が 施行 され、 公 地 公 民 制 を 実施 するためには、 民 に 授 けるべき 「 田 の 地 図 」 が必要 であり、そのための 測 量 が行われま した。 [ 注 : 班 田 収 授 と は] 「凡 ( お よ ) そ、 田 は 長 さ 三十 歩 ( ぶ、 1.8 m x 30= 5 4 メートル )、広さ 十二 歩 ( ぶ、1.8 m x 12 = 2 2 メートル ) を 一 段 ( 反 ) とな し、十 段 ( 反 ) を 一町 とせよ 」 律 令 制 下 で 一定年齢 に達 した 人 民に、一定面積 の 口 分 田 ( く ぶ ん で ん ) を与える法が成立 した。土地の 配分 は 6 年に 一 度行われ、6 歳 以上の 人民 に、良 民 男 子 は 二 反 ( 600 坪 )、女子はその 三分 の 二 ( 400 坪 ) が支給された。 朝 廷 ( 皇 室 ) が 所有 した 最 下 層 身 分 の 賤 民 ( せんみん ) を 公 奴 婢 ( く ぬ ひ ) と呼び、官 奴 婢 ( か ん ぬ ひ ) とも いったが、宮内省の 官 奴 司 ( か ん ぬ し ) の 下 で、労働 ・ 雑 務 に 従 事 した。 公 奴 婢 ( く ぬ ひ、官 有 の 奴 隷 ) は 良 民 と 同 率の 口分田 を配分された。 地方の 豪 族 が所有 した 奴 隷 を 私 奴 婢 ( し ぬ ひ ) と言い、これらは 代々 相 続 することが可能 であり、売 買 ・ 寄 進 の 対象 となった 。私 奴 婢 には、口 分 田 と して 良 民 の 三分 の 一 ( 200 坪 ) が与えられた。 口分田 の 耕作者 は 死亡 により、 口分田 を 収 公 ( しゅうこう、政府が取り上げる )された。日本の 律 令 制 下 における 奴 婢 ( ぬひ ) の 割 合 は、 全 人 口 の 10 ~ 20 パーセント 前後だったととわれている。日本 の 奴 婢 制 度 は、平安時代中期以降における 荘園の 飛 躍 的 増 大 による 律 令 制 の 崩 壊 と共に 消 滅 した。 この制度は中国において 南北朝時代 の 北 魏 ( ほ く ぎ、386 ~ 534 年 ) から 唐 代 ( 618 ~ 907 年 ) まで行われた 土地制度 の 均 田 制 を モ デ ル に して 施行 された。その当時に作られた 班 田 図 ( は んで んず、田 の 地 図 ) で現存 する 最 も 古 い ものは、天平 勝宝 3 年 ( 751 年 ) の 「 東 大 寺 領 ・ 近 江 国 ・ 水 沼 村 ・ 墾 ( こん ) 田 図 」 [ 現 ・ 滋 賀 県 犬上郡 ・ 多 賀 町 ・ 敏 満 寺 ( びまん じ ) ] という 地 籍 図 です。これは 絵 地 図 で、必ず しも 正 確 なものではありませんが、以降 の 村地図 に大きな影響を与えたといわれています。 ( 5-1、行 基 図 ) 奈良時代 ( 710 ~ 794 年 ) になると、「 行 基 図 」 ( ぎょうきず ) と呼ばれる筆で書いた 日本地図 が 作 られるようになりま した。 僧 の 行 基 ( 668 ~ 749 年 ) が、全国をまわって 架 橋 ・ 築 堤 などの 社 会 事 業 を行 い、民衆を 教化 し、行 基 菩 薩 ( ぼさつ )と 呼ばれま した。 この 行 基 図 は 正確な 測量 に基づいたものではな く、絵 地 図 の部類に属するものであり、日本列島の形や 国の形も 非常に大 ざ っ ぱ です。それでも、それぞれの 国 の位置関係が分かるだけでなく、一目で 日本のどの辺りにあるのかが分かる大変貴重な情報で、江戸時代初期まで 何 枚 も作られま した。 山 城 国 を中心、国々が 俵 を連ねたように 重 なりあって 配 列 され、日本全体 が 丸味 をおび、奥 羽 地 方 が 東 に 膨 らみ、全体が 束西 に 延 びた形 の地図で した。
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