喜望峰から、ホーン 岬まで


[ 1 : はじめに ]

最南端

アフ リカ 大陸の最南端は喜望峰 ( Cape of Good Hope ) であると思ってはいませんか?。 だと したらそれは間違 いです。正解は右図にあるように そこから東南東へ約 150 キロメートル 離れた所にある、南 アフ リカ 共和国の 西 ケープ 州にある アガラス /アグラス 岬 ( Cape Agulhas ) が アフ リカ 大陸の最南端に位置する岬です。


[ 2 : ポルトガル の アフ リカ 西岸探検 ]

イベリア半島図

イベリア 半島の西部を占め、その東側と北側で スペイン ( 旧 カスティーリャ ・ アラゴン 連合王国 、 ナバーラ 王国 、 グラナダ 王国 ) に接 し、国の西側と南側では大西洋に接 しているのが ポルトガル です。

その面積は半島全体の 15.5 パーセント、人口比で 13.2 パーセント しかなく、ポルトガル は隣国である スペイン からの強い圧力を受けながらその歴史を発展させてきま した。

15世紀から始まった いわゆる ポルトガル の西 アフ リカ 探検は、1415 年に ポルトガル 国王 ジョアン 1 世 による 地中海 入り口 ( ジブラルタル 海峡 ) の アフリカ 側にある モロッコ の都市、セウタ ( Ceuta ) への攻略がきっかけとなりま した。

この戦闘に兄 たちと共に参加 した エン リケ 王子 ( Henrique、1394~1460 年 ) は イスラム 教徒の海賊の根拠地 セウタ で、 アフ リカ 大陸 における財宝の話や プレステ ・ ジョアン の伝説 ( 注 参照 )を耳に しましたが、 後に アフ リカ 西岸の探検航海をすることに しま した。

[ 注 : プレステ ・ ジョアン ]

伝説の国王

ポルトガル 語で プレステ ・ ジョアン ( Preste Joao )、英語で プレスター ・ ジョン ( Prester John ) とは、その当時 アジア あるいは アフリカ に存在すると考えられていた伝説上の キリスト 教国の王のことである。

十字軍 ( Crusade ) 的 思考 によれば、キリスト 教を世界に広めるためには、彼を探 し出 して手を組めばよいと考えられていた。絵図は 1493 年に描かれた プレステ ・ ジョアン の肖像。

当時の ポルトガル は隣国 カスティーリャ ( スペイン ) との争いや イスラム 教徒との戦いで悪化 した 国の財政事情を立て直すためには、地中海貿易に参加 したかったのですが、そこには 11 世紀末に始まった 十字軍 の出港地となった 北 イタリア の ベネチア と ジェノバ の繁栄があって、彼らイタリア商人による東方貿易 ( レヴァント 貿易 )での イスラム商人との取引が活発であり、ポルトガル の出る幕ではありませんで した。

つまり ポルトガル にとって残された 国の発展に通じる道 は西の大西洋に進出するか、あるいは南のアフ リカ 大陸に進出 するか しか、方法がありませんで した。 彼らが特に求めたのは ローマ 時代には単位重量当たりの価格が、金と同 じといわれた貴重品の コショウ ( 胡椒 ) などの香辛料 ( スパイス、spices ) や 象牙 ・ 金 ・ 銀 の発見のほかに、プレステ ・ ジョアン の国の捜索が目的であったと言われています。


( 2-1、海洋進出ができた理由。 )

  1. ポルトガル の地理的条件が 大西洋に面していて、アフ リカに隣接 していたこと。

  2. すでに遠距離貿易の経験を持っていたこと。

  3. 資本の調達が容易であったこと。 イタリアの ジェノヴァ( Genova ) 人が ヴェネツィア ( Venezia ) に対抗するため、ポルトガル に投資 しており、ポルトガル の首都 リスボン で活躍 していた商人の多くは ジェノヴァ 人であった。

  4. その当時、他国が内乱に明け暮れ していたのに ポルトガル だけは内乱が起きず混乱 しない唯 一の国であり、企業家が繁栄 しうる環境があったこと。

エンリケ航海王子

エン リケ 王子は イベリア 半島の南西端に位置する サン ・ ビンセンテ 岬の近くにある サグレス ( Sagres ) に航海学校を設立 し、国内外から優秀な指導者を集め、造船 ・ 気象 ・ 最新の航法 ・ 航海術を 航海者 や 探検家たちに教えま した。写真は ポルトガル の首都 リスボン を流れる テージョ 川 の岸にある 発見の モニュメント で、大航海時代の記念碑の先頭に立つのが エンリケ 王子です。

彼自身は 一度も アフ リカ 探検航海には行きませんで したが、航海学校の卒業生たちはその後の ポルトガル の海洋進出 ・ 発展に大きな役割を果た し 大航海時代の幕開けとなりま した。


( 2-2、海の果て )

エン リケ 王子のことを エン リケ 航海王子 ( 英語で、ヘンリー 航海王子、Prince Henry the Navigator ) とも呼びますが、彼は 「 キリスト 騎士団長 」 に任命されていま した。 そのことは彼の宗教的情熱のよりどころであると共に、「 テンプル 騎士団 」 ( 日本語では 「 神殿騎士団 」 や 「 聖堂騎士団 」 などと呼ばれる ) の流れを汲む 「 キリスト 騎士団 」 からの財政的支援を受け、それが探検の資金源にもなっていま した。

世界の果て

エン リケ 王子が派遣した探検隊は、まず 1420 年に マディラ 諸島、1431 年には アゾレス 諸島に到達 しま した。大きな転換点となったのは、1434 年に 彼の従者の ジル ・ エアネス ( Gil Eanes ) が指揮する 25 トン程度の小さな船が、 13 回目の挑戦で ヨーロッパ 人として初めて、 ボジャドール 岬 を越えたことで した。

地球は平ら

その当時 ヨーロッパ の船乗りたちの間では地球は平らであり、 ボジャドール 岬 は 「 世界 ( 海 ) の果て 」 だと本気で信 じられていて、その先では 海が巨大な滝となり さらに南に行けば炎熱地獄の熱で海水が沸騰 しているため、二度と戻ることはできないなどとされま した。昔から語り継がれてきた世界の境界 ・ 海の果てであり、決 して越えてはならない場所だったので した。

ちなみに ポーランド の天文学者 コペルニクス ( 1473 ~ 1543 年 ) は地動説の 「 天球の回転について 」 を著述 し、「 神がすべてを作った 」 とする 天動説 の キリスト 教の教義に反する説を発表 しま した。 彼は 1542 年に脳卒中で倒れ、翌年に死亡 しました。

イタリア の物理学者 兼 天文学者で天体望遠鏡を作るなど した業績から、天文学の父と称された ガリレオ ・ ガリレイ( Galileo Galilei 、1564 ~ 1642 年 ) は、 地動説 を唱えま したが、ローマ ・ カトリック教会は彼を 異端審問 ( いたん しんもん、宗教裁判 ) に掛けて ガリレオ を有罪に し、すべての役職を剥奪 して監視付きの邸宅軟禁と しま した。

その際に 「 それでも地球は回っている 」 「 つぶやいた 」 のは、 エン リケ 王子の探検船が ボジャドール 岬を越えてから 二百年後のことで した。

奴隷

1441 年に エン リケ 王子 の派遣した探検船が ボジャドール 岬の更に南にある リオ ・ デ ・ オロ ( Rio de Oro、金の川 ) に到達 し、その地で初めて 原住民を捉え、奴隷として本国に連れ帰りま した。これが ヨーロッパ における 奴隷輸入の最初であり 、後に中米 ・ 南米 ・ 北米との間に発展する 黒人奴隷貿易の始まり で した 。

1445 年には アフ リカ 最西端の地である 現 ・ セネガル にある ベルデ 岬 ( Cabo Verde ) を回り、現在の ギニア 地方に到達 し、1447 年には現在の シエラレオネ に達 しま した。


( 2-3、ディアス、喜望峰に到達 )

エン リケ 王子の派遣 した船団は アフ リカ 西岸に関する様々な情報をもたら しま したが、それによって アフ リカ 大陸の南端を回れば貴重な 胡椒 ( コショウ、 Pepper ) の原産地である インド に行くことができるかも知れないという可能性が出て来ま した。

そこで ポルトガル 国王 ジョアン 2 世は バルトロメウ ・ ディアス ( Bartolomeu Dias ) 、英語読みでは バーソロミュー ・ ディアス ( Bartholomew Diaz、1450 ~ 1500 年 ) に アフ リカ 南端を回って イ ンド への航路発見と、「 プレステ ・ ジョアン 」 の国の情報を集めることを命 じま した。

ディアスは 1486 年に アフリカ 探検の船団長に任命され、翌年 8 月に武装 した キャラベル 船 2 隻 ( 旗艦 サン ・ クリストファ ) と補給船 1 隻の 3 隻の船団で リスボン を出発 しま した。アフリカ 西岸に沿って南下 しま したが、南緯 29 度付近で嵐に遭遇 し 13 日間の漂流を余儀なくされま した。

喜望峰地図

嵐の中で陸地を見失った ディアス は東に向けて針路を取り、数日間航海を続けたものの陸地が見えないので、今度は北に針路を変えま した。すると 陸地が西側に見てきま したが 、これが アフリカ 大陸最南端の ( アガラス / アグラス 岬 ) を通過 した瞬間で 1488 年 4 月 23 日のことで した。

その後 ディアス は東進 して インド 洋へ抜けようと思いま したが、航海はすでに 八 ヶ月以上経過 しているために乗組員たちは ポルトガル へ帰ることを主張 したので、ディアス も彼らの意見を受け入れま した。

帰途に アフ リカ 大陸から南に張り出している岬を発見 して上陸 し、彼が遭遇 した荒天にちなんで 「 嵐の岬 」 ( カ ボ ・ トルメ ン トソ、Cabo Tormentoso ) と名付けて記念の石柱を立てま した。 これが以後有名になる、喜望峰の通過 ( 同年 5 月 16 日 ) で した。

国王の ジョアン 2 世は インド などの東方への道が拓かれたことを大変喜んで、「 嵐の岬 」 を  「 希望の岬 」 ( カ ボ ・ ダ ・ ボ ア ・ エスペランサ、Cabo da Boa Esperanca ) と名付けま した。 しか し現在では 喜望峰  ( Cape of Good Hope ) の名称が定着 しています。


[ 3 : バスコ ・ ダ ・ ガ マ ]

エンリケ航海王子

ポルトガル の海洋発展に大きく貢献 した独身の エンリケ 航海王子が 1460 年に 6 6 歳で死んでから 9 年後に、 ポルトガル の シーネス という町で下級貴族の子として バスコ ・ ダ ・ ガ マ ( Vasco da Gama、1469年 ~1524 年 ) が生まれま した。 エンリケ 王子の死後は甥 ( おい ) に当たる アフォンソ 5 世、さらに ジョアン 2 世が遺志を継ぎ、探検航海事業を続けま した。

子供の頃からの バスコ ・ ダ ・ ガ マ の夢は船乗りになり遠くの国や、未知の土地に行くことで した。そこで彼は エンリケ 航海王子が創設 した ポルトガル 南西部の サン ・ ビンセンテ 岬 ( Cape St Vincent ) に近い、サグレス の航海学校に入り、航海技術や天体観測器などの使用法を習いま した。

そ して 28 歳の若さで ポルトガル から アフ リカ 西南端の喜望峰を回り、 インド に行く航路を開拓する船団の司令官に選ばれま した。 一行は旗艦 サン ・ ガブリエル ( 横帆式帆船 )、ガ マ の兄で副司令官の パウロ ・ ダ ・ ガ マ ( Paulo da Gama ) の乗る サン ・ ラファエル ( 横帆式帆船 )、司令官の友人の ニコラウ ・ コエリョ の乗る ペリオ  ( 大三角帆式 カラベル 船 ) 、補給船の 4 隻から成る船団で、1497 年 7 月に首都 リスボン 近郊の港を出発 しま した。

旗艦サン・ガブリエル号

絵は船団司令官の ガ マ が乗る サン ・ ガブリエル ( San Gabriel ) 号ですが、帆には 「 キリスト 騎士団 」 の紋章である 赤の十字 が描かれています。ちなみに船名の ガブリエル とは、 ラファエル ( Raphael ) 、ミカエル ( Michael ) と並ぶ カトリック 教の三大天使 の名前で、古くから崇拝されていま した。

探検船団は以前のような アフリカ 西岸を視界内に見ながら航海する 沿岸航法 を採らずに、 推測航法 や 天文航法 で位置を確認 しながら船を進め、三 ヶ月後には セント ・ ヘ レナ ( Saint Helena、ケープタウン の北北西 140 K m ) 湾に投錨 しま した。


( 3-1、な ぞ の 病 気 )

その当時 ヨーロッパ から遠 く離れた 地域 に帆船 で 航海する船乗 りにとって、恐 れられて いた 「 な ぞ の 病 気 」 がありま した。 その症状とは 脱 力 や 体重減少、鈍痛 に加 え、次 のような 症状 が 見 られま した。

  1. 皮膚や粘膜、歯肉の 出血、それに 伴う 歯の 脱落、 「 歯 ぐ き 」 から 出血 し、最後は 死 に 至 る。

  2. キ ズ の 治 りを 遅 らせる

  3. 感染症 への 抵抗力の 減少

  4. 古傷が 開 くなど

患者の書いた メ モ が 残 って います。

鏡を覗 くと、俺の 歯茎 はすっかり 腐 って しまった。真っ黒な 腐 った血 が 流 れ 出て いる。太 ももは 壊疽 ( えそ、壊死 した組織が 感染 などで、性状 や 外観が 著 し く 変化 したもの ) を起 こ していて、俺は ナイフ でこの腐った肉を削り取って、どす黒い 血を無理やり流 し出す。

歯抜け

土気色 ( つちけいろ ) になった歯茎 も ナイフ で 削 り、腐った血を しぼり出す。俺は尿で 口 をすすぎ、強 くこする 。 ものを 噛 めな いので、飲み込む しか ない。この病気 で 船乗 り仲間 が 次々 と 死 んで いく 。 収納箱や戸棚の裏でいつの間にか死んでいて、発見された時は目や指は ネズミ に か じり取られてな くなって い る。・・・( 以下省略 )

バスコ ・ ダ ・ ガ マ の 船団 の 中 にもやがて 「 謎 の 病 気 に 罹 る 患 者 」 が現れま したが、治療法も分からずに寝たままになりやがて死んで行きま した。4 隻の乗組員総員 170 名の 中 で インド 航路を 開拓 して ポルトガル の リスボン に帰るまでに、 約 100 名が 死亡 しま した。死亡率 5 9 パーセント で、その中には ガ マ の兄 で 船団 副司令官の パ ウ ロ ・ ダ ・ ガ マ も含まれていま した。

ところでこの病気と食べ物の奇妙な関係に最初に気付いたのは、ガ マ が 最初 の 航海を終えて 帰国 してから 2 5 4 年 後 の こ と で 、英国海軍の 軍医 ジェームズ ・ リ ン ド ( James Lind ) で した。 1747 年に イギリス 海軍の軍艦 サリスベリー号 ( H M S Salisbury ) に乗り組み、「 な ぞ の 病 気 」 の 臨床実験を した結果を基に、1753 年に A treatise of the Scurvy という論文を発表 しま した。

その中で 「 なぞの病気 」 は 、 柑橘類 ( かんきつるい、オレンジ や レモン など ) と 新鮮な野菜 を食べることでこの病気を予防 し、 治癒 ( ちゆ、治すこと ) できると しま した。 つまり現代風にいえば、「 なぞの病気 」 の正体とは、 「 ビタミン C 」 の欠乏 がもたらす 壊血病 ( かいけつびょう ) で した。

「 ビタミン C 」 が欠乏すると 組織間 をつなぐ 「 コ ラ ー ゲ ン 」 や 「 象 牙 質 」、「 骨 の 組 織 」 の 生成 と 保持 に 障害 を 受 け、これがさらに 血管等 への 損傷 につながることが 原因 で した。 ビタミン C の不足が 3 ヶ月 近 く 続 く と 発病 します。

ザワークラウト

この発見から 15 年後に イギリス の クック 船長がおこなった 南太平洋 へ の 探検航海 では、 ザ ワ ー ク ラ ウ ト ( Sauerkraut、「 すっぱい キ ャ ベ ツ 」 の意味 で、ドイツ における キャベツ の漬物 ) や 保存 のき く 野菜 や 果物 が 積 み 込 まれた結果、史上初 の 1 人 の 壊血病患者 も 出さずに 世界周航を 成功 させま した。

参考までに明治維新 後に誕生 した 日本海軍も陸軍も、これとは 別の種類の病気 に苦 しめられて 大勢の死者や患者を出 しま した。


( 3-2、インド の カリカット へ )

アラビア海

バスコ ・ ダ ・ ガ マ の船団は セント ・ ヘレナ を出発 し、アフリカ 東岸を壊血病などに悩まされながら北上を続けま した。その当時から イスラム 教徒による貿易が盛んな アフリカ 東岸にある モンバサ ( Mombasa 、 現 ・ ケニア 共和国 ・ 海岸州にある都市 )や マリンディ ( Malindi 、同様 ) に寄港 して、アラビア海横断を目指 して食料や水の補給をおこないま したが、イスラム 商人による 対 インド 貿易の独占体制 の崩壊に危機感を抱く イスラム 教徒により襲撃され、妨害されたり しま した。

また ポルトガル 人にとって未知の航路である インド への航海のために、 その地で イスラム 教徒の優秀な水先案内人である アフマド ・ イブン ・ マージド を雇いま した。そ して南西 モンスーン ( monsoon、卓越風 ) に乗って アラビア 海を横断 し、 1498 年 5 月 20 日に インド南西部、ケララ ( Kerala ) 州の アラビア 海に面 した港湾都市の カリカット ( Calicut ) へ到着 しま したが、 リスボン を出てから 10 ヶ月後のことで した。

ちなみに インド 原産の 綿花を 原料 とする 綿織物 の 一 種 に 「 キ ャ ラ コ 」 がありますが、日本でもかつては 「 ステテコ 」 や女性の白い 「 足 袋 」 などに使用されま した。 この名前は産地の 「 カリカット 」 に由来 しま した。


( 3-3、 一 番 乗 り で は な か っ た 、 ガ マ )

残念なことに バスコ ・ ダ ・ ガ マ は、 インド を訪れた最初の ポルトガル 人ではありませんで した。 彼に先立つこと 10 年前の 1488 年に、 国王 ジョアン 2 世が 「 プレステ ・ ジョアン 」 の国の情報を求めて派遣 した ポルトガル 人 コヴィリャン が、地中海から カイロ、アデン( Aden、アラビア 半島南端の港で、現 ・ イエメン共和国の港湾都市 ) などを経由 して インド の カリカット に到達 していま した。

コヴィリャン 自身は後に エチオピア で死亡 しま したが、彼の書いた報告書は ポルトガル にもたらされ、インド や エチオピア に関する貴重な情報源となり、後の バスコ ・ ダ ・ ガ マ による インド 航路開拓に とても役立ちま した。

ガ マ は インド で プレステ ・ ジョアン ( プレスター ・ ジョン ) は見つけられなかったものの、カリカット の王と外交交渉をおこない香辛料の見本を手に入れ、それを持って ポルトガル への帰路につきま したが、その航海も寄港地での イスラム 教徒との争いや 「 なぞの病気 」 で乗組員が次々に死んでいくなど苦労の連続で した。

その頃 ポルトガル 本国では、インド に向けて出発 した バスコ ・ ダ ・ ガ マ 率いる船団が 2 年近くも帰国せず、 行方不明になったと して 半ば諦めかけていたところへ、1499 年 7 月 10 日に船長の ニコラ ・ コエリョ ( Nicolau Coelho、1460 ~ 1504 年 ) が指揮する船が ぼろぼろな状態になって リスボン 近郊の漁港にたどり着きま した。

コリョ は直ちに マヌエル 王に拝謁 ( はいえつ ) して、 バスコ ・ ダ ・ ガ マ 率いる船団が、 インドに到達 できたことを報告 し ま した。

ちなみに バスコ ・ ダ ・ ガ マの指揮する船 ( サン ・ ガブリエル 号 )は、病気で死にかけていた兄の パウロ ・ ダ ・ ガ マ を アゾレス 諸島で手当を しようと テルセイラ に針路を向けま したが、 パウロ は島に着いた翌日に死亡 したため、フランシスコ 会修道院の教会に埋葬して、数週間遅れて帰国 しま した。

この船も外板の継ぎ目が剥がれ、船底に溜まる海水を汲み出す手動の排水 ポンプ ( ビルジ ポンプ、Bilge pump ) が 「 きしむ音 」 をあげながら、何とか船が沈まないように水夫たちが懸命に排水作業を しながら帰国の航海を しま した。

前述 したようにおよそ 170 人の男たちが 4 隻の船に分乗 して リスボン を出発 しま したが、ガ マ の兄をはじめ 100 人以上が 「 ビタミン C 」 の欠乏が原因の 壊血病 に 罹って死亡 し、2 年後に生きて帰国できたのは 2 隻の船に乗った 5 5 人 だけで した。

資料によって違いがありますが、ヨーロッパ から インド 航路開拓という重要な任務は 7 3 2 日間 を要 し、船団が航行 した距離は 3 万 8 千 4 百 キロメートル に及びま した。 これは時間的にも距離的にも、ある意味 史上最長の航海で した。

  ガ マ の航海が成功 したことにより、これまで イタリア 商人、エジプト 商人 ( アラビア 人 ) などを経由 していた インド との交易を、ポルトガル 船により直接できる可能性が出てきま した。

ガ マ には 30 万 レアル の年金が下賜され、「 インド の提督 」 に任命されま した。


[ 4 : 第 2 次 イ ンド 遠 征 船 隊 ]

ガ マ の船団が帰国 し イ ンド 航路が開拓されると、マヌエル 1 世 王は更に イ ンド との 交易確保と キリスト 教布教を目的と して多数の船を イ ンド に派遣することに決めま した。

舷側砲

船隊は 大 ・ 小 の船 1 3 隻から成り 、うち 1 1 隻は王室の費用で建造され、1 隻は イタリア 商人により、他の 1 隻は ポルトガル 貴族によって建造されま したが、前回の イ ンド への航海において アフ リカ 東岸および イ ンド の カリカット における イスラム 商人による交易妨害行為を考慮 して、全ての船に 舷側砲 を搭載 して武装 しま した。

インド 遠征船隊の船長たちの中には喜望峰を発見 した バルトロウメ ・ ディアス や、インド 航路を開拓した ニコラオ ・ コエリョ などの名前もあり、乗組員の総数は約 1 千 2 百名 で した。その中には 8 名の フランシスコ 会修道士 ・ 9 名の司祭と大司祭 ・ 人質要員として 20 名の死刑囚 ・ ガ マ が前回連れ帰った 5 名の インド 人が含まれていま した。

船隊の司令官には海上における経験とは無関係に、家柄や国王との個人的関係によって ポルトガル の名家出身で 31 歳の ペ ドロ ・ アルバレス ・ カブラル  ( Pedro Alvares Cabral、1468 頃 ~ 1520 年 ) が任命されま した。

1500 年 3 月 9 日 、カブラル は 第 2 次 インド 遠征隊を率いて リスボン の港を出港 しま したが、人々はこの航海から生 じるはずの利益に大きな期待を寄せていま した。船隊は 3 月 14 日に カナリア 諸島に到着 し、3 月 22 日に ベルデ 岬諸島を通過 しました。ここで 1 隻の船が行方不明になり、捜索がおこなわれたが発見できませんで した。


( 4-1、 ブ ラ ジ ル を 発 見 )

航海経験豊かな人材を集めたはずなのに、カブラル の船隊は出発早々前述の不運に見舞われ 1 隻を失いま した。ガ マ がおこなった 1497 年 ~ 1499 年の航海で作成 された 「 東方航路図 」 に従い大西洋 大回り コース をたどる途中で船隊は嵐に遭遇 し、大きく流される途中で偶然にも陸地を発見 しまし た。1500 年 4 月 25 日に安全な停泊地を見つけて入り、ここを ポルト ・ セグーロ ( Porto Seguro 、安全な港 ) と命名 しま した。

船隊司令官の カブラル はこの島 ( 実は 南米大陸 ) を 「 サンタ ・ クルス( Santa Cruz 、聖十字架 ) 島 」 と命名 し、「 島 発見 」 の報告書を持たせて、1 隻の食料補給船を リスボン に帰 しま した。 これが トルデシリャス 条約 ( 注 参照 ) による境界線の東側にあったので、この地域は ポルトガル の支配下に入り、ポルトガル が ブラジル を植民地とする出発点になりま した。

[ 注 : トルデシリャス 条約とは ]

1494 年 6 月 7 日に スペイン と ポルトガル の間で結ばれた条約で、当時両国が盛んに船団を送り込んでいた 「 新世界 」 における紛争を解決するため、教皇 アレクサンデル 6 世の承認によって ヨーロッパ 以外の 新しく発見された領土の分割方式 を取り決めた。

トルデシャリス条約線

この条約において西 アフリカ の セネガル 沖に浮かぶ カ ボ ・ ベルデ ( Cabo Verde、緑の岬 ) 諸島の西 370 リーグ ( 約 1770 km ) の海上において、子午線に沿った線 ( 西経 46 度 37 分 ) から東側で発見された新領土が ポルトガル 領に、西側が スペイン に属することが定められた。

しかし トルデシリャス 条約では 東半球に関する規定がな く 、クローブ ( Clove、丁香 ) などの香辛料の産地 モルッカ 諸島の帰属を巡り スペイン と ポルトガル がもめたが、最終的に スペイン が 35 万 ドゥカーデ と引き換えにその権利を ポルトガル に譲渡 し、両国の植民地分界線を同諸島の東 297.5 レグア ( 約 1490 Km ) の子午線と定めた。

これが サラゴサ 条約であり、これによって東経 133 度付近が境界線となり、モルッカ 諸島の香辛料の主産地 ハルマヘラ ( Halmahera ) 島 ( 東経 128 度 ) は ポルトガル の領土になった。

カブラル の船隊は喜望峰を目指 して航海を続けま したが、5 月 23 日に激 しい嵐に襲われ、 4 隻が沈没  しま したが、その中には 1488 年に 嵐の岬 ( 喜望峰 ) を最初に発見 した バルトロウメ ・ ディアス の船も含まれていて、遭難船の生存者は 一人もいませんで した。この他にも荒天により 1 隻が 船隊から はぐれて しまい帰国 したので、以後船隊は半分以下の 6 隻 となりま した。 

カブラル の船隊が インド の カリカット の沖合に到着 したのは リスボン を出てから半年後の 9 月 11 日のことで した。カブラル は カリカット 国王との交渉で友好条約を結ぶ事に成功し、商館開設の許可と、貿易に際して ポルトガル 船に積み荷の優先権を与えることが決まりま したが、以後国王側に裏切られ敵対関係となりま した。

カブラル とその船隊は インド の コチン ( Cochin、現在では コーチ、Kochi という ) に向かい そこで コチン 王とも友好条約を結び、長年求めていた 「 コショウ 」 を積み込み、他の場所では香辛料の シナモン ( Cinnamon、肉柱、ニッキ ともいう ) を積み込みま した。

しか し帰途にも喜望峰付近で再び嵐に襲われ 1 隻を失い、1501 年 6 月 23 日に 1 年 3 ヶ月 ぶりに リスボン に帰りま した。 出発時には 1 3 隻であった船隊で したが、司令官の カブラル と共に帰国 したのは 4 隻であり、あと 1 隻は遅れて着きま した。

カブラル の インド 遠征船隊は大きな犠牲を払いま したが、今後の ポルトガル の交易活動に指針を与えると共に、ブラジル 発見により将来 ポルトガル の発展につながる大きな植民地を獲得することになり、ポルトガル の財政改善に大きく貢献することになりま した。

対 インド 交易 においては コチン 王国 と友好関係を 築き 商館を 設置 したことは、将来 ポルトガル が コチン を中心にこの地域で活躍する拠点となりま した。



since H 28、Jan. 20

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